階段

くろかわ

階段

 上り坂の下から朝の寒空を見上げれば、電信柱から繁茂する電線が空に階段を掛けていた。一段一段、色が違う。明るいオレンジから次第に薄まり、白から青へ、藍から群青へと夜が遠ざかっていく。顎を伸ばして真上を向けば、星が寂しく光っている。

 冬風に首を縮める。ネックウォーマーを鼻元まで被り、一息ついた。

 わん、と足元から呼ばれる。どうやらここの縄張り主張は終わったようだ。

(すぐ消しちゃうんだけどねー)

 手に持ったペットボトルから水をかけ、電信柱を洗う。汚した張本人(張本犬?)は我関せず、飼い主を待って上目遣い。匂いを消されても気にしていないのか、それとも本能を満たせればそれでいいのか。よくわからない。文句を言われたことも、抗議の眼差しを浴びせられたこともない。なんとなく、気になる。

「お前は毎日何のためにおしっこかけてんだー」

 顔を掴み、わしわしと撫で回すと何となく嬉しそうな表情を作る。

(やっぱりMっぽいなこいつ)

 我が犬ながらちょっと変なやつだ。飼い主に似るというのは嘘だろう。

「よし、いくかー」

「わん!」

 毎日通る散歩道を再び歩き出す。


「あっ」

 後ろから声。聞き慣れた明るく快活な、小鳥の歌声のような。

「おはようございますー! おはよ、まめくん」

 坂の途中で振り返る。パンプスがアスファルトを叩くリズム。

「おはようございます。まめ、おすわり」

「きゃー! かわいい……イッヌ……もふもふ……」

 毎朝の儀式。いつもの風景。

「寒いですねぇ」

 犬を撫で続ける彼女になんとなく声をかける。日常の延長。

「そうそう、空気が綺麗なんですよ……ってそうだ。こっちこっちー」

 ゆっくりと立ち上がって、

「かもん! まめくん!」

 スーツ姿にもかかわらず、軽快に上り坂を走る。嬉しそうな一吠えでまめは答え、勿論自分は引っ張られる。

(まぁ、楽しそうだからいいか)

 二人と一匹、赤に染まっていく空を目指して走る。登る。息を切らして、頂点へ。

「どうしたんですか、急に」

 今更になって聞いてみる。

「へへへー」

 荒い息と少し乱れた髪で笑いかけられ、思わず

「これをね、見たかったの!」

 街を照らす生まれたての太陽と、白い大気の層。上天へと薄らぐ夜。消えゆく儚い星。階段はどこにも無い。ここは空の一番上。

「綺麗、ですね」

「ちょっと頑張った甲斐があったでしょー!」

 にこりと、陽光のように。

「朝は何もしなくても来るけど、ちょっと走れば綺麗なものが見られるんだよう」

 尻尾を振る飼い犬の頭を優しく撫でる。

「明日も、見に来ます?」

 ちょっとだけ、走ってみよう。そんな気になった。

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階段 くろかわ @krkw

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