三、アリーチェの涙
およそ一年前。
ある晩夏の夕方、陽が沈んで涼しくなってきた頃、私はママとユキさん、ユキさんのご主人の四人で、街路で立ち話をしていた。
ユキさんのご主人はパティシエで、街でも名の知れた人だ。
でもユキさん自身については彼の奥さんで、お菓子屋さんで売り子をしている程度の認識しかなかった。
彼女はいつもニコニコと笑顔ではあるが言葉少なく、印象が薄かったのだ。
「アリーチェ、大きくなったね」
私を小さい頃から知っているユキさんのご主人、フランチェスコが楽しそうに声をかけてくれた。
「もう十三歳なの? じゃあ、来年は高校だね。どこの学校に行きたいとか、もう決めた?」
ユキさんの話では、日本とイタリアでは学校制度が違い、高校は16歳くらいかららしい。
興味深いので色々質問したかったけど、ユキさんがあまり質問の意味がわからないようなので諦めた。
「まあ、世界には教育のシステムすら違う国もたくさんあるってことね」
ママが話をまとめる。
私のママは花屋を経営していて、結婚式などのパーティでケーキ台やテーブルを飾って欲しいという注文が時々入ってくる。
そんなとき、ママは結婚式のケーキを作るフランチェスコさんと仕事をすることになる。
ケーキの段数、人数、ケーキの色など、それらに見合う花の色や大きさを確認したり、することはたくさんあるのだ。
その日も道で行きあったついでに、立ったまま軽い打ち合わせをしていた。
「ちょっとバーにでもいってコーヒーでも飲みながら話さない?」
ママがそう言った時。
ぐらっと、地面が揺れた。
ママと私は喉も破れんばかりに叫んだ。
「きゃーっ!」
フランチェスコさんはとっさにユキさんの手を取ろうとし、ユキさんは
「地震!」
と叫んだ。
同時に、周囲で物が倒れる音、ガラスが割れる音、人々の叫び声……。
恐怖で体が動かない。
こんな大きな地震、人生で初めて!
電燈が消え、平衡感覚もおかしくなり、足元から地面がなくなった……?
と思うとすぐ息苦しさを感じ、私は気を失ってしまったようだった。
そして、気がつくとここにいた。
眩しい太陽を背にしたユキさんが、地面に横たわった私の頭を膝に乗せ、心配そうに見つめている。
あれ? お日さま?
夜じゃなかった? どういうこと?
「大丈夫、アリーチェ? どこか痛い?」
ゆっくり体を起こしてみる。
「……大丈夫みたい」
周囲を見回すと、壊れかけた田舎家と、広い荒れた農地らしき原っぱに、十数人の人たちがいた。
皆埃にまみれ、放心状態だった。
怪我をしている人もいるようだ。
私自身も埃だらけで、髪もごわごわだったが、それよりも周囲に他に見知った顔がないことに気がついた。
「……ママは……?」
恐る恐る問いかけると、ユキさんはため息をついて、私の汚れた髪を優しく撫でた。
「わからないの。何がどうなっているのか」
「わからない?」
私のおうむ返しの問いに答えることなく、ユキさんはまたため息をつき目を瞑った。
「でもユキさん、ユキさん、わからない——わからないって、なに? どういうこと!?」
それからの事は、パニックになりあまりよく覚えていない。
ユキさんは泣き叫ぶ私の肩を、そっと抱いていてくれた。
ユキさん自身、パニックに陥っていてもおかしくないのに……ユキさんは、冷静な人だった。
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