第46話 祖母の回想

 そして最近は親方の許しを得られる為なら、破格の値段で権利を譲ってもいいと思うようになった。ニコラエスクに帰る夢って、そんなものはもう夢にすぎないもう歳を取り過ぎた。ソ連がロシアに戻りそうもない、帰りたくとも帰れない。そう言って彼は間宮海峡の彼方を眺めていた。アレクセイさんは漁場の権利は年金代わりに持っていてもいいが、老後の蓄えも充分貯まったから二人の為に使うと決めて親方と交渉したけれど、逆に二人の仲は網元から離されてしまい、長沼は遠く敷香に飛ばされてしまった。長沼は敷香に行く前にアレクセイに今までの礼を言いに行った。彼は今こそ夢を君に託すべきだと言って、由貴乃の父である網元の親方に再交渉したが親方は応じなかった。アレクセイは諦めずその後も話し合ったが、遂に彼は来年からは別の網元に漁場を任せると契約の期限を切ってきた。だが半年後の夏にソ連が樺太にやって来て、アレクセイの努力は水泡に帰した。いやそれ以上の悲劇が起こった。


このおばちゃんが語った樺太の出来事を井津治に聞かせた。

「井津治、この時の由貴乃さんの事、聴いてる?」

礼子の問い掛けに、母さんもういいだろうと墓石に語りかけてから井津治は切り出した。網元は漁場の権利を買い取る話は以前からしていたが、年金代わりと考えるアレクセイは応じなかった。それとは別に彼を頼って来る由貴乃と長沼には我が子の様に可愛がっていた。だが由貴乃の父は娘婿は製紙会社の何人かの幹部候補に目星を付けて的を絞っていた。樺太における製紙業は有力な地場産業であり、地元の有力な町長や代議士との絆も深い。この結び付きがあればいずれ漁場の権利もただ同然で手に入れる算段が出来ると踏んでいる。そんな折に二人の仲を認めれば権利を売っても良いと持ちかけたのである。親方はアレクセイと交渉しながらも地元の有力者を巻き込んで圧力を加えて手放させる二正面作戦を立ててきた。この複雑な交渉でこれ以上関係者を煩わせない為に、二人は北海道への駆け落ちの計画を立てた。この駆け落ちを後押ししたのはアレクセイで、彼は幾らかの逃走資金まで提供している。この話をあなたのお父さんに持ちかければ乗ってくれると思ったのですが「私が言い出さなければ二人は今まで通り会えたのにとんだやぶ蛇をつついてしまって申し訳ない」とアレクセイは二人に詫びた。

「いいえ父の考えが判った今ではアレクセイさんの行動は見合いの話が来る前で良かったと思います。お陰で二人の絆も深まって」

 由貴乃はこの時に、何が何でも此の人と添い遂げる決心をしたと語ってました。

この天気ですからまず父は真岡の港を見張るはずです。真冬に樺太を出るのは真岡の方が確実だった。父の仲間が真岡に居る間に二人は大泊を目指した。真岡を出る船に居ない事が分かってから大泊へ行っても手遅れになる、だから二人は欠航に成るかも知れない流氷が漂う港に賭けた。実際真冬に流氷が港を埋める南風は滅多に吹かず、稚泊(ちはく)連絡船も運行する日々が続いていた。

真岡から豊原へそして大泊港へ二人は急いだ。冬の亜庭湾に面した大泊はオホーツクからの流氷が流れて、真冬の稚泊連絡船は欠航する場合がある。だから真岡から稚内、小樽へ向かう船便を多くの客が利用する。

 その晩、由貴乃は無断で家を空けた。その日は雪模様の天気だった。だが夕方から二人の行動を阻む様に、本降りの雪が降り出し風も出てきた。北風は亜庭湾の流氷を沖へと遠ざけ稚泊連絡船は運行出来る。二人は真岡から豊原へ向かい、豊原で風向きを見て大泊港へ行った。樺太を低気圧が通り過ぎると北風に変わる。だが予報に反して低気圧の動きは遅くまだ南風だった。オホーツクからの流氷が亜庭湾に流れ込んできた。二人が港に着いた頃には湾は流氷で閉ざされてしまった。

 真岡を出た船に二人が乗船していなかった。今から大泊では間に合わないと諦めかけた所へ欠航の知らせを受けた。二人は発見されて由貴乃は真岡へ連れ戻された。網元から解雇された長沼は地元の製紙会社に雇用されるが、どう云う訳かすぐに敷香の遠方に飛ばされた。

 井津治は一息吐いた。


    *******

 礼子は井津治のここまでの話を野々宮と遺品の整理中だったおばあちゃんの話と重ね合わせた。

「由貴乃さんのお父さんが手を回したのね」

 礼子の言葉に祖母は判ったような口を利くねと笑い飛ばした。その笑いに一撃を加えるべく「どこでじいちゃんと知り合ったの?」と礼子は訊いた。

「喪主の清一さんの話では露天商で知り合い、その時に見つけた四つ葉のクローバーが切っ掛けとか・・・」と語り始めた野々宮に礼子が話を遮った。

「そんなのうそばっかり、そんなきれい事じゃなかったのよ、もう喰うか喰われるかの修羅場だった」と礼子はアッサリと否定した。

「おばあちゃんの息子さんであなたのお父さんの話ですよ」と喪主だった清一の擁護に努めるが、礼子に掛かれば真実の前には父親の尊厳などあったもんじゃなかった。

 とにかくあたしの問いに、祖母は今度は意味ありげな笑いを含ませた。どことなく今までと違うこの笑いに、ばあちゃんの青春を訊いてくれと言わんばかりの迫力があった。礼子はその迫力に押されて一方的に聞き役に回った。

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