第27話 祖父の初恋4

 澄んだ青空とそれを映した湖面が、戦のない日々と共にどこまでも広がっている。祖父の過去の話には繕い切れない矛盾が漂っていた。この流れを受け継ぐにはどうすればいいか、重い課題を井津治は背負ってしまった。

「由貴乃さんを見つけた時におじいちゃんは心境を語ることはなかったのでしょうか?」

 礼子の素朴な疑問は誰もが持ったに違いなかった。

 これも母からの伝え聞きなんだ。それは殆どの遺体が損傷が激しいのに由貴乃はまるで眠っているように横たわっていた。浮上した潜水艦は砲撃で停止した泰東丸に接近して避難民で溢れる甲板に船が沈むまで容赦なく機銃掃射を加えた。それなのに彼女の遺体は一発の銃弾も受けていなかった。事実多数の遺体は銃弾で手足がもがれ内臓は飛び出し肉片は飛び散っていた。

「彼女のお父さんはどうなったんです?」

 野々宮の問いに永倉はいい気はしないながらも礼子の手前答えた。

「年配の男性の遺体もあったけどどれも損傷がひどくて見分けられなかった。生存していれば一番に娘さんの遺体を引き取るはずです」

 彼女は永久の別れを告げるためだけに、姿を留めていたんだとおじさんは云っていた。遺体は火葬されて近くの寺に埋葬されたが、一部を持ち帰っておじさんは密かに母と一緒に納骨した。井津治は終わりの方は語りのトーンが落ちていた。

「それが例の菩提寺ですか。よく奥さんが認めましたね」

 野々宮は井津治をさけて誰とはなく言った。

「祖母は別に自分のお墓を作るからって云う条件なの」と礼子は一呼吸おいて言った。

 その当時は幾ら稼いでも物価は鰻登りで上がるから追いつかない。そこへいくと貴金属や米ドルは不変の価値があるから打ち出の小槌のように稼げた。祖母は進駐軍の兵士を使って米ドルでGHQから品物を買ってそれを日本人に売りさばく。貴金属も高値で飛ぶように売れた。戦後の混乱のなかでアレクセイの資産はたちまち何倍もオオバケした。その資金で今の会社の基礎を作ったのよ、と礼子は祖母から聴いた五十年前の話を伝えた。此の話を井津治が補足した。

「何もない時代だったから面白いほど儲かったとおじさんは言っていた。その当時は本当は由貴乃さんと落ち合えば金なんてどうでもいいと思っていた。そのどうでもいいのが最後に残ったから未練なく、惜しみなく使った結果が幸いして、更に資産を何倍も上乗せ出来たけど、これで良かったのかとおじさんは自問していた。それほど失ったものが大きすぎた。世間から見ればおじさんの得たものは人も羨むほどの富だったが、彼に云わせれば満たされぬ空白の日々が埋まらない限り意味のない人生だったと。しかし世間に言わせれば富を得て成功したから言える、一種ののろけ話に過ぎないと嫉妬の眼差しを浴びている。果たしてそうだろうか、野々宮さんも礼子さんもおじさんの人生をそう云い切れるだろうか。二人も理想の女性に巡り会えたのが幸運だった。とすれば二人ともその短すぎる年月は残酷すぎないだろうか、いっそ出会えなければとも思える。でもひと月でも離婚する人もいる。それって上辺だけを認め合い欠点に目をつむった報いで、短所に愛情を注ぐ過程にこそ信頼が醸造され、その絆ほど尊い。が、巡り会うのは稀なのに、おじさんは二度までも巡り会った。これが最後まで添え遂げれば世界一の幸せ者だったのに、余りにも短すぎた。知らなければ良かったと思える程で、しかも二度も打ちのめされたのだ。これじゃあ本当の愛を知らないほうがまだましだ。恋の苦楽は添い遂げなければ意味がない。まるでスタートダッシュで出遅れて、そのまま人生を終えるようなものだ。寄り道しないでそのまま駆け抜けた奴が勝者になれるなんて・・・」

「でもそれってこころは貧しいんじゃないの」礼子が言った。  

「人生で恋は寄り道って云うけど富と名誉を得るのが人生の目的ならおじさんは勝者だから死後まで気を揉む必要はないんじゃない」ちらっと永倉を横目に野々宮は語る。

「野々宮さんってそれ本気で言ってるの? だとすれば悲しい」

礼子の言葉に一瞬、動揺したが悲しみは満ちてないし瞳はイタズラっぽく笑ってる。

「熱烈な恋ほど幕切れはあっけないものなんだ。それは意地と意地のぶつかり合いでどっちかが身を崩した時に幕は下りる。小さな程々の恋を積み上げてゆくのが好い」

「意味ありげだけど、野々宮さんそんな恋をなさったの」

 礼子は隅に置けないと人だと言いたげな眼差しで問うてくる。永倉も不意に野々宮に目を向ける。

「いや別に。これはよくある事例、一般論に過ぎない」と口調は変わらないが表情は微妙に動揺していた。

「そんな恋って余りない様な気がするんですけど、まあそう云うことにしときましょ」と礼子はあっさり引っ込めたのが気に入らない永倉は「単なる仕事の延長線上にいる男が馴れ馴れしくおじさんの話に口出しするな」と彼にとっては父親以上の存在らしいが、その人を今はどう弔っていいのか迷っていた。その生き方を軽々しく決め付けるのが我慢できない。だから俺はこの男には話したくなかったと不満をぶっつけてきた。

「井津冶、それってあたしに対する当て付けでしょう。あなたにはおじいちゃんの大切なものが目に見えてないのよ」

「ああ分からないね。母さん以外にいったいおじさんの大切なものって何なのだ!」

「知代子さんも大事だけど」

「じゃあその由貴乃さんっちゅう人なのか?」

「どっちともないんじゃない」

 またこの男が口を挟むと永倉は睨んだ。

「ふたりを足して二で割ったようなこの場合共通点が多い二人だから微妙な差になる、それは歴史、生きた時代の違いだろうね、戦前と戦後の」

「あんた解かったような口を利くけど当事者でない第三者のあんたが云うとムカツクんだだから分かったような口を利かんでくれ」

「井津冶! なんて云う言い草なのもうこの人は第三者じゃないのよ」

「じゃおじさんの葬儀を扱った当事者でいいんだろう」

「井津冶、どうしてあなたとはいつもケンカをしなければならないの。じゃあ今日はもう帰るわそれでいいのね」

 黙っている永倉に礼子は立ち上がって「野々宮さん送って下さい」と永倉を注視する彼に催促した。野々宮は直ぐに反応しないでまだ永倉を見ている。いいわ電車で帰ると礼子が歩き出すと慌てて野々宮が一度振り返りながら後を追った。ふたりを乗せた車は暮れかかる山越えの道を走った。

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