第9話 井津治の一人通夜善
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井津治は通夜の宴席が始まる前に勝手に天王町のホールを抜け出たした。白川通りから東天王町の交差点を曲がり、丸太町通りを西に向かって歩いた。同じ歩数と間隔で男も歩き続けていた。井津治は東天王町のバス停に丁度着いた三条河原町行きのバスに飛び乗った。
先ほど見たおじさんの安らかな顔が頭に残っていた。やり残した事が有るはずなのにどうしてあんなに穏やかなんだろう。それに引き替え俺に向かって眉間を寄せる礼子は一体何なんだ。何が気に入らないんだ。それがおじさんを偲ぶ通夜膳を彼が無言で欠席する切っ掛けだった。とにかく今日は木屋町辺りで思い切り酒を浴びてやれと、自棄ぎみに通りを行く雑踏の群れに鋭い視線を投げ付けていた。此の時、後ろから不意に肩を叩かれた。昨日の男がいつの間にか後の席に座っていた。この男もあのホールに居たのか?
「焼香の帰りか、なぜ残らなかったんだ良い話が聞けたかもしれないのに」
きっとホールのどこかで見ていたに違いない。
「籍のない俺には関係ない」
井津治は突っぱねた。
「遺言がなければなあ。だがあれ程大切に育ててくれた長沼のおっさんが何も残さないはずがないだろう」
何処まで知っているのか男は不気味な笑いを浮かべた。
「何が言いたいんだ」
「あのじいさんが忘れ形見のお前に何にも残さないって云う手はないだろう」
男は回りくどく更に念を押してくる。
「母さんとはとうの昔に死別しているから俺にそこまでする訳がないだろう」
男は今度は意味ありげな太々しい笑いに変わった。
「嘘つけ、今まで相当な情けを掛けてもらっているじゃねぇか」
「あの人は平等に分け隔てなく見てるだけでそこまで考えている訳ないだろう!」
根っから否定する者に何を言っても無駄だか感情のままに言った。
「それはどうかなぁもう十年以上もあそこの娘達同様に面倒見てるって話じゃないか尋常じゃねえぞ」
「尋常じゃないのはあんたの方だ、とっくに縁が切れたるのに急に現れるんだからなあ。最初は面食らって入れたが今度からは門前払いだかなぁ、そのつもりでいるがいい」
「そう迷惑そうに言われてもお前は籍は抜けても俺の血は抜けないってことを忘れるなぁ」
男は捨てぜりふを残してバスを降りた。
別れてからもあの男はご機嫌伺いにたまにやって来た。だが母が亡くなってからはプッツリと途絶えた。十年以上も音信のなかったあいつが今朝、姿を見せた。おそらくおじさんの重病説を嗅ぎ付げたのだろう。その辺りから俺の身辺を見張っていたに違いない。余程困っているのだろう、しかしさっきのあの余裕の笑いは何だ! 薄気味悪い。
井津治は河原町でバスを降りて三条木屋町を下がった。
さっきの礼子もそうだ。側のあの馴れ馴れしい男は何だ。葬式を取り繕うならそれらしく威厳を持ってやれ。やたら礼子に取り入ってやがる。次第に高ぶる感情に苛立つと騒ぎたくなった。すっかり闇が彼を包んでいた。闇の綻びの様に灯る赤提灯に似た明かりが現世を繋ぐように灯っていた。彼はひとつの灯明に吸い込まれた。木屋町で一件の居酒屋に飛び込んだ。そこで酒とつまみを注文して、ひとりおじさんの通夜膳を挙げた。
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