第7話 通夜3

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 失敗を恐れるな大胆になれ、それが祖父の口癖だった。実践したのは伯父の次男の方で、実に慎重すぎて実行力が乏しい父はあらゆるチャンスを逃した。だから会社の経営を祖父は次男に任せて父に引導を渡した。この席を借りてその鬱憤も晴らしているつもりなのでしょう。礼子は野々宮に父をこのように語った。

 伯父もそんな父を見透かして笑って見ていた。この場に居る親族も同じ思いで見ている。酒に呑まれて暴走する喪主は終に酩酊して途中からは耳を傾ける者もなく、完全に酔いつぶれた時点で彼は弟夫婦に担がれてこの場を去った。

 佐伯と娘三人が残った。あたしたちも引き上げないと片付けられないわねと優子が腰を浮かしかけると「今日はおじい様のお通夜ですから仏さんの前で夜通し呑んでもよろしいでっせ。朝になればホールのもんが片付けますから」と言いながら桐山は「ところで雅美さんのご主人はまだ海の上なんですね」と振った。

「もう神戸に着いた頃かしら?」

「何でも北米航路で神戸とシアトルを往復してるそうとかお聞きしましたが」

「こっちからは種類が決まってますけど向こうで積むのは色々だから当然シアトルでの滞在期間の方が長くなるんです」

「だからシアトルで住む方が一緒に居る日が長いからって雅美は旦那さんに誘われてるの、でもあんたはイヤに返事を渋ってるのね」優子が言った。

「お姉さん何が言いたいの!」

「おじいさんも亡くなったことだし、これで渋る理由も無くなったからそろそろね」

「そろそろ何なの!」

「そんなに突っかかることはないでしょう」

「まあ雅美さんの考えもあるんでしょう」佐伯が言った。

「あなたはどうして雅美の肩を持つの。はっきり言ったらどうなの。おじいさんが国外逃亡した者には遺産はやらんと公言してるからでしょう」

「人さんの前で言わんでも」佐伯が言った。

「あらこのふたりなら心配してないわ。そうでしょう桐山さんに野々宮さん」優子が言った。

「それゃーもうご心配なく。それよりおじいさんはえらい外国嫌いなんですね。それでも一部とは云えロシアに寄航するクルーズ船によく乗られましたね」

「あれは自己満足なのよ『だまし討ちしゃがってざまーみろ』なんて帰ってから言ってましたから、とにかく町を出ると舗装されてない道ばかりだから振動と埃がすごくて舗装されていても路肩に排水路が作られてないからやはり乾くと埃が舞ってるって言ってましてそれでざまーみろってことなの」

「国が広いからサハリンにまで手が廻らないだけですよあれほど資源がある国ですから」

「樺太です。おじいちゃんが棺から飛び出してきますよ」

「喪主のお父さんの話だとその樺太からよく脱出できましねえ」

「おじいちゃん漁船で嵐の夜を狙って脱出したと言ってました。浜頓別って云う所へ漂着したって。そこでお世話になった家がこの人、佐伯さんの家だったの、でもこの人まだ生まれていませんからそれどころかお父さんもまだ生まれてないん昔ですから、でこの人が大きくなって京大志望で家へ下宿さして。たった一人でこんな遠いところへ来てるんだから寂しがらないように相手してあげなさいってよく言われた。そのうちにおじいちゃんの義侠心と云うかあの時のことが忘れられないのでしょう。暫く独身だったからこれはいけないとあたしとの仲を半ば強引に勧めたの」

「それほどでも無かったように思うんですがねえ」

「あなたはもう家を出てアパート暮らしだから気が付かないだけです。それにおじいちゃんは表立ってあなたに説得したことはないでしょう。でも今から振り返れば裏を知れば思い当たる節があるはずだわ。それにあなただって口には出さないけれど財産も脳裏に掠めたでしょうね、その辺りはおじいちゃんは幽かに匂わせたはずよ」

「それはない!」

「嘘おっしゃい! おじいちゃんはあれでいてお妾さんと同じようにトコトン面倒を看る人だと見抜いていたんでしょう。おじいちゃんは昔の事はお父さんよりあたしたちによく聴かせてくれました」

 お妾さんは自分の好みだったけど佐伯は恩人だった。

「九死に一生を得た人ですから北海道に漂着した時にはかなり衰弱してましたからねぇ、それに殆ど民家の無いところで小さい船に積んだ食料は全て流されてオールもなく着の身着のままで丸一日、朦朧とする意識の中で見つけた一軒家でしたからね。資産家になっても恩人の佐伯さんには終始頭を下げていた。それをあの人は子供心に『この人よりお父さんの方が偉いんだ。だから何でも訊いてくれる』と田舎暮らしに愛想を尽かした此の人は大学進学を口実に飛んできた人ですから」

「そうなると永倉さんもいっときは一緒に生活してたんですか?」桐山が訊いた。

「そうですが、その前に言っときますが田舎暮らしが嫌いでなく向学心の為に最高の学問を有するこの大学を選んだんですよ。・・・ぼくが大学生の時、彼は中学生だったんですよ。だからおじいさんから時たま家庭教師みたいなもんを頼まれましたよ。なかなか物分かりのいい子でしたよ、何しろお互いが居候でしたからねおじいちゃんの機嫌を損ねることだけは避けたかったんでしょうね」

「あなたは人のことだとぺらぺら喋るのね。勉強を教えたなんて嘘ばっかり。だいたいあなたは井津治の部屋でいつも昼寝をしていたそうですね。大学も一浪して入って」

「満を持して予備校で学んだだけですよ」

佐伯は妻の訳ありな言葉にムッとした。

「まあお二人共、棺の中でおじいちゃん笑ってますよ」

桐山が言った。

「少し棺が揺れた」と無表情で礼子は棺を指した。

 ウッと息を詰めて雅美が棺と礼子を見る。桐山と野々宮も見た。

「礼子は小さい時から真剣な顔しておかしな事を時々云うのよ」と優子が二人に弁明したが、礼子の真剣な仕草は自然で、そこに演技も拡張も偽りも感じられなかった。

 此処に居る大半の人々が昨夜から緊張の糸が続いて余り寝ていなかった。この一件でその糸が音も無く切れると、さすがにみんな疲れたのか散々に控え室に引き上げた。

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