彷徨う回廊

織恵馨

序章 いまここで……

 月の光が煌々こうこうと輝いている。

 夜明け前からずっと泣いていた空も、夕方には泣き止み今はその美しい顔をのぞかせている。そのせいか空気は澄みきり、雨で濡れたアスファルトは月を反射させる合わせ鏡になっていた。


 黒川桐絵くろかわきりえはそんな月にも雨上がりの夜空にも似合ってしまう、艶美えんびな品性を備えていた。

 桐絵はフェンスによりかかりながら、タバコを吹かしフェンスの外にひろがる街全体を懐かしむように眺めている。

 八月の湿ったぬるい風を全身で受けながらゆっくりと煙を吐き出す。初めて吸うタバコも最初こそ煙の匂いに戸惑い、舌がしびれるようなその味に圧倒された。慣れれば煙が肺に充満して高揚感を与えてくれるものと知って、大きく息を吸い込むようになった。

 桐絵には大きながあった。それを成し遂げるためにはどうしてもタバコが必要だった。いやタバコではない、勇気が必要だったのだ。


 やがて最後の一本目に手を伸ばそうとした瞬間、腕時計のアラームがなった。

 女性の手首に合うようにバンドは一回り小さく、金色の装飾がなされたものでった。

 甲高い警告音はあまり好きになれず、数回しか使ったことのないアラームであったがこの時ばかりはあってよかったと心底思った。

 桐絵はフェンスの外に出て大きく深呼吸をする。地上、四十八階のビル風に体をさらわれそうになりながらも姿勢を保つ。


 これからすること。これから起ること。ゆっくりと考えながら最後の一本、残ったタバコにに火をつける。自分の体中に煙が行き渡る想像をする。血液が心臓から押し出され動脈を通り静脈をたどって心臓に戻ってくる。

 そんな想像をしていると、火がタバコを半分ほど喰らい尽くしていた。タバコの火はかすかな煙を上げているが、口から離し足元に立てる。


 自分は情熱のない人間だと思っていた。だから何もなすことはできないと考えていた。しかし桐絵の考えは全く違っていた。

「何かのためではなく、誰かのためにか……」そう呟くとゆっくりと身を投げ出し、外の自由落下に身を任せる。


 いまここで……自分の死には意味があると信じているから。





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