たとえばそれは、小さじ一杯の蜂蜜。

桜庭きなこ

また二時間後にお会いしましょう


「……ん」

 不意に訪れた意識が浮上する感覚に身を委ねて、ハルは静かに目を開いた。しかし、周囲はまだ闇と静寂に包まれている。そう、まだ世界は夜の中なのだ。

「……はぁ」

 夜中に目が覚めること、最近は減っていたのに。

 そんなことを思いながら、ハルは隣で眠る温もりへと視線を向けた。

「……大丈夫、寝てる」

 聞こえてくるのは、規則正しい呼吸の音。起きる気配もなく、すやすやと眠り続けている。

 それを確認すると、ハルはそっと布団を抜け出した。



「うー、さむ」

 まだ冬と言うには早い季節だが、夜は冷える。何か羽織ればよかったと後悔しながら廊下を進み、ダイニングキッチンへつながる扉を開けた。

「電気、電気……」

 感覚を頼りにしながら電灯スイッチを探し、キッチンの灯りだけを点けた。それだけでも、ダイニングの方の壁に掛けてある時計を読むくらいはできる。針は、深夜三時を指していた。

 起床時刻まであと三時間。このまま朝を迎えると午後がしんどいが、自分が一度起きてしまうとなかなか眠れない体質であるのはいいかげんわかっているので、寝直したところで今日の午後のしんどさは変わらないだろう。朝を迎える前にこれが決定してしまうのは精神的にかなり凹む。

「……できるだけ早く寝れたらいいけど」

 ハルは冷蔵庫から牛乳を取り出すと、自分のマグカップに半分ほど注ぎ入れた。それを電子レンジで一分半。まあつまり、ホットミルクである。

 最近こそこういう夜が珍しくなったが、二年前まではこんな生活が当たり前だったので、どう対処すれば比較的早く眠りにつけるかが、自分の中である程度確立されていた。そのひとつがこのホットミルクで、身体を温めるのがいいらしく、なかなかの効果を発揮する。

 電子レンジが鳴り、ホットミルクの完成を告げる。ハルはそれを持って、キッチンの灯りにぼんやり照らされるダイニングテーブルに腰かけた。

 ひとりで暮らしていたころは、家は着替えと雨風を凌いで寝る場所だった。食事は外で済ますか、コンビニご飯やインスタントをキッチンで立ち食い。後者は食事というより餌である。だから当然、食事をするための家具を調える、なんて考えには至るはずもなく。

「人生ってほんと、何が起こるか分からないものだなぁ」

 そんな生活をしていた自分が、今はダイニングテーブルでホットミルクを飲んでいるなんて。少なくとも、あのまま一人で暮らしていたら、きっと自分は「座って飲む」という発想にも至らない。不思議だな、なんて思いながら、ちびちびとホットミルクを飲んでいると、ダイニングキッチンのドアが開いた。

「ハルさん?ここ?」

 その言葉と一緒にダイニングへやってきたのは、寝ていたはずの人だった。

「ごめんアキ、起こしちゃった?」

 眠そうに目をこすりながらやってきた彼にそう声をかけると、気にしないで、と彼が笑った。

「それよりハルさん、ほら」

 そう言って肩に掛けられたのは、ブランケットだった。

「え」

 驚いて、呆けた声がハルの口から漏れた。寒いとは思っていたが、じゃあ寝室に羽織ものを取りに戻るかといえばそうではない、そんな感じだったから。

 アキはやわらかく笑って言った。きっとハルがどう思ったのかも見透かされている。

「だってハルさん寒がりじゃん。それに、もしいらない、って言われたら自分で使えばいいかなって」

 そうだ、もうすぐ彼と過ごす三度目の冬が来る。これくらいの気温だと少し寒いと思うだろう、でもわざわざ着るものを増やしたりはしないだろう。そういうことが相手に把握される程度には一緒にいるんだと、こういうところで実感する。

「ありがとう。ありがたく使わせてもらう」

「どういたしまして」

 すると、アキは眠そうなままハルの向かいに腰かけた。

「アキ、寝ないの?」

「ハルさんが寝るときに寝るよ」

 無理をしている……わけではなさそうだが、明らかに彼は眠そうだ。

「そんなこと言って、このまま朝になって寝不足になっても責任取らないからね」

「それならそれでいいよ。ハルさんとお揃いだから」

「なにそれ」

 二人で、声を潜めて静かに笑う。

「……久しぶりだね、こういうの」

 アキが言った。深い意味はなく、ただ久しぶりだから久しぶりだね、と言っている、それだけの。

「うん」

 だから、ハルも事実だけを答えた。

「ていうか、よく私が起きたって分かったね、今日。自分でも目が覚めてびっくりしたのに、久しぶりで」

「おれもなんで起きたか分かんない。でも起きたら隣にハルさんいなかったから」

 馬鹿正直に彼が言うので、ハルは少しからかってみた。

「そこは嘘でも愛の力とか言ってみるところだよ」

「でもほんとに言ったら笑うでしょ、ハルさん。キャラじゃないって」

「うん」

「ひどいなー」

 そんな他愛のない話をしていると、ハルの口から小さな欠伸が漏れた。アキがそれに目敏く気づき、問いかける。

「布団、戻る?」

 マグカップの中は、いつの間にか空になっていた。今がちょうどいい頃合だろう。

「うん」

 頷いて、マグカップを水につけてシンクに置いた。時計の針は、あと二十分で四時、という時間を指していた。

「あと二時間ちょっとかぁ」

「二時間でも寝ないよりはマシだよ、多分」

「そうなんだけど、朝の目覚めって他の時間と比べ物にならないくらい辛い」

「ハルさんほんと朝日に弱いよね」

 寝室へ戻り、布団へ入る。二人分の体温があるので、温まるのも早かった。

「……こういう時に、一人じゃないっていいなって思うんだよね」

 ハルは、何となく思ったことを口に出してみた。

「どういうこと?」

「ひとりだとさ、せっかく身体あっためても布団が冷たくなってて、結局寒くて目が冴えるの」

「なに、じゃあおれ湯たんぽってこと?」

 その言葉とは裏腹に、アキは楽しそうである。

「そういうつもりで言ったんじゃないけど、でもそういうとこはあるかも」

「えー、否定してくれないの」

「だって実際私より体温高いでしょ」

「そうだけどさー。あ、じゃあ家事ができる湯たんぽ?」

 それは言い得て妙である。ハルは小さく吹き出した。

「……おれ、ハルさんのツボときどきわかんない」

「いいよ、分かんなくて」

 だってわかってしまったら、こんな言葉を彼から聞いて笑うことがなくなってしまうから。ハルは、こういうくだらないことで笑っていたいと願っている。そして、できればアキの隣で。

「おやすみ、付き合ってくれてありがとね」

「おやすみなさい、ハルさん」

 きっと、二時間後に始まる今日は、いい日になる。


(おわり)

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