番外編 恭子先生編

第212話 番外編 恭子先生の初恋 1

「恭子~、新しい家庭教師の先生がいらしたわよ」


 母親の声が階下からし、パタパタと階段を上がってくる音がする。


「どうぞ、先生。後でお茶をお持ちしますね」


 母親が恭子の部屋のドアを開け、一人の男性を部屋の中に招き入れた。

 淡いピンクの小花柄の壁紙に、家具はほとんど白で統一されており、いかにも女の子の部屋という感じの部屋の勉強机の前に座っていた少女が振り返る。彼女も部屋と同様、女の子らしい白のワンピースを着て、髪はハーフアップにしてピンクのリボンでとめていた。中学生とあって、化粧はまだしていないが、健康的なピンクの頬と、赤みの強いふっくらとした唇は、年齢に合わず色気を醸し出していた。


「先生? 」

「ああ……初めまして。松田修平です」


 松田修平と名乗った男性は、スラリとスタイルがよく、サラサラの黒髪はストレートで、一見地味で真面目そうに見えたが、眼鏡や時計、バッグなど、さりげなくお洒落で品の良い物を身に付けていた。

 家庭教師をしなければ生活できない勉強だけできる苦学生という感じではなく、それなりにブルジョアの家庭で育ったお坊っちゃまのお小遣い稼ぎ……といったところだろうか?


「とりあえず、数学と理科を見てほしいということなんだけど、まずは教科書を見せてくれるかな。そうだな……今日は数学の日にしようか」


 修平は、恭子の隣に用意された椅子に座ると、恭子から学校の教科書を見せてもらい、ペラペラめくりながら言った。

 そんなに大きくない勉強机に向かって二人で座るのだから、けっこう距離が近くなる。教科書も二人で見ながらだから、頭がつきそうなくらいだ。

 幼稚園から女子校育ち、通学は徒歩の恭子にって、男性とここまで密着したことなどなかった。せめて兄弟がいれば、もう少し免疫もついていたのだろうが、箱に入れられてさらに綺麗にラッピングされて育った恭子だったから、初めてパーソナルスペースに入り込んできた異性に、特別な感情を抱いてしまってもしょうがなかったかもしれない。


 授業が終わる頃には、修平を見上げる恭子の瞳は初めての恋心に潤み、頬は上気して赤みをさらに増していた。


「修平先生、これからも末永くお願いします」


 授業終わりに、丁寧に頭を下げた恭子に、末永く……という単語に戸惑いながらも修平はニッコリ笑顔で恭子の頭に手を置いた。


「え、ああ、うん、よろしくね」


 この日から毎週二日、一時間の甘い時間(隣に座って勉強を見てもらっているだけだが)を過ごすことになった。


 ★★★


「恭子、最近なんか艶っぽくなってない? 」


 同じ中学の雅子まさこが、恭子の頬をツンツンと突っついた。


「ほら、年上の彼氏ができたからじゃない? 」


 同じく、同じ中学の美佐江みさえがニマニマ笑いながら言う。


 三人は幼稚園からの仲良しで、持ち上がり組である。

 恭子の学校は幼稚園から高校まである女子校で、いわゆるお嬢様学校と言われていた。

 高校まではだいたいエスカレーター式に上がることができ、途中から外部へ行くのはよっぽど出来の悪い生徒か、親の転勤のせいかくらいだった。また、逆に中学から受験で入ってくる生徒は若干名いるが、高校からの受付はしておらず、そのためだいたいの生徒が幼稚園小学校からの友達だ。

 学校のランク的には進学校レベルだったため、みな受験はしなくても小学校中学校から家庭教師がいたり、塾に通っている子供がほとんどだった。


彼氏じゃないもん。家庭教師の先生よ。医学部の大学院生なの」

「彼氏じゃないの? だって、いつも可愛いって言ってくれたり、頭撫でたりスキンシップだって頻繁だって言ってたじゃないの。てっきり彼氏なんだと思ったわよ」

「ウフフ、修平先生ったら純情なの。だからなかなか好きだって口に出して言ってくれないの。でも、私のこと大好きなのは態度でわかるわ。だから、まだお互いに好きだって意思表示してないだけで、彼女みたいなものよ」

「でも、医学部の大学院生なら、少なくとも二十四は越えてるよね? 凄い年の差じゃない? 」

「そう? 私はそんなに気にならないけど」


 恭子は自分が大人っぽく見えると自負していたし、そう見えるように精一杯大人っぽく振る舞ってもいた。そんな背伸びしまくりの恭子を見て、修平は年の離れた妹がおしゃまなこと言ってると微笑ましく思っていたし、過度のスキンシップも小さな子供にするような気持ちでしかなかった。


 お互いに意思の疎通に欠いていたが、修平は恭子の為にお給料以上に面倒を見たし、恭子は修平を辞めさせない為に数学と理科だけは手を抜くことなく真剣に勉強し、半年がたった学期末試験では見事学年で一番になった。……算数と理科だけであるが。


 そろそろ家庭教師の時間以外も会ったりしたいと思っていたが、修平も大学院生四年で忙しい時期になってきたと聞き、修平が大学院を卒業し、自分も高校生になり晴れて結婚できる年齢になったら、きっと修平から告白してくれるもの! と信じて疑わなかった。

 そんなある日、修平が大事な話しがあると言ってきた。


「あのね、大事な話しがあるんだよ」

「はい……」


 恭子はわずかにうつむいて、思っていたのより少し早いけど、自分を好きな気持ちが我慢ができなくなったのね! と、告白されることを疑わずに頬を染めた。


「あのね、恭子ちゃん、家庭教師をやって一年がたったんだけどさ、こんな中途半端な時期に申し訳ないんだけど、今月いっぱいで家庭教師を辞めさせてもらいたいんだよ。お母さんには伝えてあったから、もう聞いているかな? 」


 恭子は、ポカーンとして修平を見つめた。告白だとばかり思っていたのに、修平は鼻をすすりあげながら恭子にお別れを告げたのだから。


「……なんで? 」

「卒論が忙しくなりすぎて。一応、お母さんにも去年それまでってお約束で家庭教師引き受けたんだ。だから……。ほら、恭子ちゃん高校受験はないし、君の成績なら家庭教師もいらないくらいだとは思うけど、もし必要なら後輩も紹介できるよ」


 咳払いしながら、修平は残酷なことを告げる。


「他の人なんて嫌だわ! 私は修平先生がいいの! 」

「ありがとう。君は本当に可愛い僕の生徒だよ。……ごめんな。ちょっと両立できそうにないんだ」


 グズグズと泣く恭子の肩をそっと抱き寄せ、頭を撫でてくれた。


「私……、修平先生が好き」

「……」

「本当に大好き」

「ありがとう、嬉しいよ。でも……婚約者がいるんだ。卒業したら結婚するつもりなんだ」

「そんなの嫌! だって、修平先生いつも私のこと可愛いって言ってくれてたじゃない。あれは嘘だったの? 」

「嘘なもんか、恭子ちゃんは本当に可愛いと思うよ」


 涙で潤んだ瞳で見上げると、修平は戸惑ったようだったが優しく微笑んでくれた。

 肩を抱く修平の手が熱く、顔も少し火照っているようだった。実は修平は遅い夏風邪をこじらせており、この時に39度の熱があった。

 そんなことに気がつかない恭子は、自分を見つめる潤んで熱い視線に、てっきり婚約者と自分の間で揺れているせいだと思い込んだ。


「修平先生……」

「……」


 自分を選んで! という意味をこめて意思の強い視線を修平に向けると、修平は一瞬目を閉じてよろめいたように恭子に顔を寄せてきた。恭子の肩をつかんでいた手が弛み、自然と下に下がってきて、恭子の尻に触れた。もちろん、修平は熱の為に朦朧とし、倒れそうになっただけで、恭子の身体に触れようとか、キスをしようなどと思った訳ではなかった。


「……嫌! 」


 唇が触れるかというくらい修平の顔が近づき、修平の体重を身体に感じた恭子は、羞恥心と初めてであるとという恐怖心でいっぱいになり、ふらつく修平の身体を強く突き飛ばしてしまった。

 修平は尻もちをつき、肩で激しく息をしていた。

 ほぼ気絶寸前だったのだが、その息の荒らさが男性が興奮したせいだと勘違いした恭子は、部屋から飛びだし、どうしたのか?! と叫ぶ母親を無視して家を飛び出した。

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