月と彗星

桜庭きなこ

本編


 お願い、誰か。誰でもいいから、

 ――私を、ここから連れ出して。



 リクセール王国。広大な砂漠の中にある、小さな国。貿易商がこの地のオアシスで荷を下ろしていたことから始まった、貿易の国である。それゆえに、行き交う人々は顔つきや服装もバラバラで、旅人風情の人も多い。

 零も、その一人だ。

「おーい、零!そっちの袋こっちに持ってきてくれ!」

「あいよー」

 露店の店主に言われた通り、麻袋を担いで持っていく。ちなみに今何をしているかというと、顔見知りの店主のいる露店の荷物の積み下ろしの手伝いである。

「よっし、これで最後だ。突然呼び止めてすまんな、礼を言うよ」

「なんのなんの。休みで暇だったんで」

 零は笑って返す。時間があるのも事実だし、力仕事は嫌いじゃない。

「しかし、お前さんももうだいぶ長くここにいるよな。旅人のわりに」

「そうですね、もう半年くらいっすね」

「普通すぐ出て行っちまうもんだけどな、こんな小さな国は」

「まだ次どこ行くか決めてないんすよ」

「なるほどな、まあ宿の親父さんたちによろしく。わざわざ休みに手伝ってくれてありがとうよ」

「おうよ。じゃあ」

 店主に別れを告げて、零はある宿屋に入る。…裏口から。

「ただいま戻りましたー」

 室内に声をかけると、カウンターに立っていた男性が振り返る。この宿の経営者のクラウンである。

「おう、お帰り。早かったな」

「歩いてたら荷降ろしだなんだと次々手伝わされまして。疲れて早めに引き上げました」

 今日は休みだから、本当はもうちょっと街を散策するつもりであったのだが。

「ははは、せっかくの休みにそれは災難なこった。人気者はつらいなあ」

「ほんとですよね、みんな人遣いが荒いんだから」

「人気者のくだりは否定しろよ。しかもそんなこと言いながら実は楽しかったんだろ、どうせ」

「ばれましたか」

「さすがに半年もいればな。こんなに長く居る奴も珍しいが」

 お前さんの給料その他諸々のせいでこっちは経営きついんだよ、と嘘か本当か分からないことを付け加えられる。

「もともとウチは旅人が手っ取り早く資金を貯めて次の場所へ旅に出られるように条件良くして求人出してたのに、こんなに長く居られたらたまったもんじゃないよ」

 零は、この宿屋に住み込みで働いている。住み込みの求人は放浪している旅人向けで、時給もそれなりに良いうえで食費や居住費は経営者負担なのだ。

「その分働いてるんだからいいじゃないですか。バイトひとりきりで店番させることもザラですし」

「当たり前だ、それくらいしてもらわにゃ割に合わん」

「ひっどいなあみんな」

 そんな軽口をたたきあっていると、店の扉が開いた。

「いらっしゃい。―――って、うん?」

 怪訝な声を上げるクラウンにつられて、入口の方に目を向ける。そこに立っていたのは、

「…子供?」

 頭から布を被った、子供だった。



「えーっと、親御さんは?はぐれたの?」

 迷子かと思ったのだろうクラウンはそう訊くが、子供は何も言わずに首を振る。そもそも布を被ってさらに俯きがちなので、表情などが何ひとつとして見えないどころか、男女もわからない。しかし、身長はそこそこあるので10歳は超えているだろう、と零は分析していた。

 結局、何を聞いても身元の手がかりやどうしてここに来たかなどは分からず、クラウンはどうしたものか、と呟いて腕を組んだ。と、その時。

ぱさり、と布の落ちる音がした。現れたのは、真っ白な少女。

「ここで、匿ってもらえませんか」

 そう言った少女に、2人はいよいよ言葉を失った。



 世の中には、珍しい外見をしている者がいる。零の左右で違う青と緑の瞳もその一つであり、ユエと名乗った目の前の真っ白な少女もまた、そういう者のひとりだった。先天的に色素に異常が出る、アルビノである。

 ――そして、そういう珍しいといわれる人種は、時として異様な扱いを受けることがある。

 少女が布を被って隠していたのは、自分の“色”だけではなかった。13歳の女子としては細すぎる体躯に、無数の紫色の痣。どうして『匿ってほしい』などと言ったのか、どういう気持ちでここへ来たのかが否応なしに伝わってくるようでむしろこちらが辛かった。

「…事情はわかった。が」

 あらかた話を聞き終えて、クラウンは言った。

「俺は、ここを経営はしているが、家は別のところに構えている。それに家族がいるから、うちに連れていくことはできない。手狭だからな」

 その言葉に、ユエの表情が暗くなる。

「そう、ですか…」

「しかし、だ。お嬢さん」

 クラウンは、人の悪い笑みを浮かべた。

 ―――やな予感がする。

 そして、自分のこういう予感は大体当たるものだということも、零は知っていた。

「この兄ちゃんは、ここの住み込みバイトだ。だからここで、こいつに世話になれ」

 クラウンは、零を指さしてそう言った。

 ……ほらね、当たった。

「えっ、いいんですか!?」

 先程とは打って変わって明るい表情で、希望に満ちた目で、彼女は零の方を向く。こんな顔をされたら、もうどうしようもないじゃないか。

「……クラウンさん、それは狡い」

「代わりに給料ちょっと上げてやるよ」

「さっき給料泥棒扱いしたのはどこの誰ですか。ていうかそういう問題じゃない」

 見つかったら捕まるの、確実に俺だろ。未成年誘拐、監禁とかって言って。まあ、誘拐したんじゃなく向こうからこっちに来たわけだし事情も事情なので、捕まっても多少の情状酌量はされると信じるが。

 しかし、この子を放っておくというのももう、自分の選択肢にはなかったわけで。

 はあ、とわざとらしくため息を吐き、零はユエの方へと歩み寄った。

「……じゃあ、これからよろしくね。えーと、ユエ、ちゃん?」

 彼女は自分より7つ下だけど、年端のいかない幼い子、という年齢でもないために、どう呼んでいいものか分からず語尾が上がった。少女は笑って答えた。

「ユエ、でいいです。よろしくお願いします」

 かくして、不思議な共同生活は、幕を開けた。



「…きったなっ」

 この宿はそれほど大きな規模ではないため、零とクラウン以外の従業員も片手に数えるほどしかおらず、また住み込みで働いているのは旅人枠、今では零だけである。だから泊まれる部屋、というのは基本的に一部屋しかない。ただ、いくらなんでも女の子を自分と同室にするわけにはいかないので、物置同然の空き部屋の鍵を貰い、部屋をあてがうことにした。……のだが。

「これはまた埃がすごいですね」

「何年放置していたのやら、って感じだなぁ」

 扉を開けてみるとまずカビ臭く、そしてものすごく埃っぽい。使っていないのだから当然と言えば当然なのだけど、これはひどい。しかし愚痴っていても何も始まらない。

「じゃあ、とっとと片付けますか」

「はい」

 目標は、日が暮れるまでに人が寝起きできる状態に持っていくこと、である。



 掃除を始めてしばらくしたころ、ユエが口を開いた。

「…零さんは」

「ん?」

 呼ばれて振り向くと、ユエは掃除の手を止めて、こちらを見ていた。

「その瞳で苦労したこととか、ないんですか」

 彼女は無表情でそう問うた。数時間前に聞いた、彼女がここに来た理由は『アルビノのこの外見を気味悪がられて、虐待を受けていたから逃げてきた』だった。零も、ユエほどすぐわかるものではないにしろ人と違う珍しい外見を持っているから、彼女はそう訊いたのだろう。どういう意図を以て訊かれているのかがわからないが。

「…俺は、とくにそういうことはなかったかなあ。珍しがられたけど、だからといってそれが俺自身を卑下される理由にはならないし、他の人と同じ、1人の個人として接してくれた」

 零の場合、それ以外の部分で苦労することが多かったからなのかもしれないが、少なくとも見た目で何か大変だったというのは思い当たらないし、それ以外のことについては今ここで言うべきことでもないので言わなかった。

「…いいなあ」

 ユエは寂しそうに笑った。今にも泣きだしそうな顔で。それだけ、今まで容姿のことで色々あったんだろう、というのは容易に想像がつく。そして誰も外見以外のところでは彼女を見ていなかっただろうことも。

「…ここには、そういうことで誰かを卑下する人はいないから、好きなだけゆっくりしていくといいよ」

 なにせ、零がここへやってきたばかりの時、クラウンも従業員のみんなも、気味悪がるどころか「何だその瞳かっこいいな!」と羨望の眼差しを向けてきたほどだ。

それからはお互い何も話さず、人が寝られるくらいにはなったかな、というところで、

「よし、じゃあこれくらいかな。今日はゆっくり休みな」

 と言って、部屋を後にした。扉が閉まりきらないうちから、彼女のすすり泣く声が聞こえた。



 アルビノは、その見た目から気味悪い、と思われるだけでなく、誰かの幸せのための道具となる場合もある。この国では聞かないが、前の前くらいにいた国のある地域では、アルビノの人間の身体の一部を持っていると幸せになれるという迷信が今でも強く信仰されていて、アルビノが襲われ、時に殺されることもある、と聞いた。実際に子供を殺された親や、腕を失くした人にも出会った。その表情はとても痛々しく、忘れることができるはずもない。それくらい印象に残っている。ユエがどこから逃げてきたかはわからないけれど、もしかしたらそんな目にも遭ったのかもしれない。

「……13とはいえ、まだ子供の女の子なのになぁ」

 掃除を終えて、まだ宿屋にいたクラウンにユエの様子を伝えると、眉間に皺を寄せてそう零した。

「あの子の家が分かれば殴り込みに行くんだけどなー、教えてくれなかったからな」

 思いもよらぬところからばれて連れ戻されることを恐れてか、ユエは家のことについては頑なに話そうとしなかった。

「そんなこと言って、相手が貴族クラスの家だったら殴り込みに行く前に不法侵入で捕まりますよ。ああいうところの警備は強面揃いですし」

 零が冷静に突っ込みを入れると、クラウンは細けえなあ、とぼやいた。

「んなこたぁ分かってる。ていうか普通の家でも捕まるわ。胸糞悪い話だってだけだ」

「まあそれには同意しますけど」

 彼女がどんな思いでここまで来たか、それは彼女にしかわからないけれど、少なくとも並大抵の覚悟ではなかったんだろうな、ということだけは分かる。否応なしに目立つ外見で、追手から隠れて遠くへ。なかなか至難の業である。

「…ま、とりあえず聞き耳は立てておくことにしますよ。今の俺は誘拐犯同然ですしね。プラスして監禁」

「お前さんは皮肉が上手いなあ」

「クラウンさん、それ何にも褒めてないです」

「そりゃあ褒めてないからな。感心しただけさ、さすがだなあ、と」

「うーん、やっぱり褒めてない」



 それから3日もしないうちに、ユエの捜索願を街で見かけるようになった。人員も相当割いているらしく、少し使いっ走りで買い出しに出ただけで5人程にこの少女を知らないか、と声をかけられた。何食わぬ顔で嘘を吐くのも白を切るのも、いつか使うかもしれないから、と幼い頃から仕込まれてきたのでやり過ごすことに問題はなかったのだが、使いどころを激しく間違えている気がしてならなくてひどく疲れた。ただ、おかげで大体の事情は掴めた。

 彼女の名前は、ユエ・アナスタシア。このリクセール王国においてアナスタシア家は地位も財力もある有力貴族で、彼女はその家の娘であるということ。ただし前妻の子供であり、後妻と現当主の間には男児がいること、その男児の見た目は普通であること。そこまで分かれば、なぜあんな傷を負っていたのかも納得せざるを得ない。いつの時代もそういうことはこじれると難しいものだ。

 しかしながら、ここまで家のことが詳しく噂として出回っているにも関わらず、ユエが虐待を受けているらしい、という噂話はどこからも出てこなかった。零の個人的な考えでは本人の証言もあることだし間違いなく親がやっているとは思うけれども、確証がなければただの妄想である。家を出た後で誰かに何かされた、こっちはやっていない、と開き直られてしまえばどうにもならない。

 どうしたものか、と考えながら、買い出しを終えて宿に戻ると、クラウンが「お帰り」と言って片手をあげて出迎えてくれた。

「どうしたんすか、出迎えなんて珍しい」

「さっき、うちにもあの子の捜索隊が来たぞ。ご丁寧にビラまで置いてった」

 クラウンの告げた事実に、零は真顔になった。

「嗅ぎ付けるの、早すぎやしませんか。ていうか、アナスタシア家ってここからずいぶん遠くになかったですっけ」

 零の記憶では、この宿屋のある町からアナスタシア家は馬でも使わない限り一日で移動できる距離ではなく、こんな砂漠の国なので移動手段に馬はめったに使わない。せいぜいが駱駝であり、走らせることなどよほどのことがない限りしない(じゃあユエがどうやってここまで逃げてきたかというと、行商の荷車に偶然遭遇したので荷台にお邪魔させていただいたらしい)。

「それだけ向こうは必死なんだろう。あれほどの傷を負わせて放置しておきながらこんなに必死になって探しているってのも訳が分からんが、金持ちの世界は外聞なんかもありそうだしな」

 クラウンは冷静に言った。

「まあ、知らぬ存ぜぬを吐き通しておいたが、これからどうなることやらってところだ」

「……そうですね。ところで、あの子はこのこと」

「伝えていない。が、勘づいているかもな」

 見た目も目立つし、匿うと言っている以上、零達がOKを出すまでたとえ建物内であっても無暗に出歩くなと言ってあるけれど、彼女は自分の家の規模も把握しているだろうから、そろそろ追手がここまで来ていると分かっていてもおかしくはない。出会ってまだ三日で、言葉を交わすのも食事時くらいしかないが、彼女が聡い子で、これが初めての脱走ではないことはわかっていた。

 たとえば、ここに来るまでの手段の話。彼女は行商についてきたと言ったが、この国は貿易の国であるから、行商の引く車など腐るほどみかける。しかし、それはほとんど国外へ出ていくものである。もし国を越える荷車に乗ってしまえば、関所で必ず荷物の検閲を受けるので、人が乗っていたらまさに大問題ですぐに連れ戻されてしまう。彼女はそれを知っていて、わざわざ数の少ない国内移動しかしない行商の車を探して飛び乗ったということになるが、箱入りのお嬢様であろう彼女が初めて外に出てどうしてそんなところまで考えつく。

「……いつまで、匿ってやれるかな」

 ともかく、ここも向こうの標的にされている以上、何か案を講じなければ。このまま何もしないでいてもいずれ見つかるだろうし、それでこのまま彼女が家に連れ戻されることになっても、きっと何も変わらない。彼女はまた同じことを繰り返すだけだ。



 それから約一か月が経った。捜索は相変わらず続いているが、やはりアナスタシア家から遠いせいかそう何度も聞き込みに来られることはなかった。そのため比較的平穏に過ごしていたが、先方はついに痺れをきらしたらしく、軽い家宅捜索のようなものが始まったと顔見知りの店主に聞かされた。

「勝手に家に上がられるなんて、たまったもんじゃねえよなあ。だいたい、ここはあっこからずいぶん距離があるからそんな子が来るはずないだろって話だ」

 ……うん、ごめんうちにいるよその子。なんて当然ながら言えないので、零は笑ってごまかした。

 そんなことがあって数日後の朝、例によってお遣いで買い出しをさせられていた零が宿屋に戻ると、なにやら騒がしくなっていた。

 おろおろしている同僚のひとりを捕まえて何があったか聞いてみると、

「あの子が、いなくなった!」

 ――――頭を鈍器で殴られたような衝撃が、零を襲った。



 ユエの使っていた部屋に入ると、テーブル代わりにしていた木箱の上に、手紙が置いてあった。

『そろそろ潮時だと判断しました。ここの皆さんは、こんな私でも気味悪がることもなく身柄を引き渡すこともなく、私がここにいることを許してくれました。この恩は一生忘れません。

 私が見つかることでそんな皆さんに迷惑をかけるわけにはいきませんので、何の挨拶もなしに去るのは心苦しいですがここを去ります。

今まで、本当にありがとうございました』

 どうして。それが手紙を読んで零が最初に思ったことだった。

 確かにずっと部屋、出られても建物内しか歩けない生活をさせていたけれど、こんな手紙を遺すくらいだから、少なくともここでの生活が嫌ではなかったはずだ。なのに、迷惑になってはいけないから、と彼女は自分が犠牲となり、傷つくと分かっていながらここを出た。

 ……彼女の境遇をどうにかしようと、零が色々と準備をしていたことも知らずに。

 手紙を手に部屋に立ち尽くしていると、クラウンが入ってきた。

「……とりあえず近場を探したが、見つからなかった。代わりに、捜索隊が周りに礼を言って回っているのを見かけた。おそらく、ここを出てすぐに見つかったんだろう」

「……」

 零は何も言わなかった。クラウンは続けた。

「それで、今しがたこれが届いた。朝一番で届けてくれたらしい」

 差し出したのは、封蝋できっちり封をされた封書だった。

「郵便屋にびっくりされたよ。あのヴェストファール家の紋の入った手紙が何だってこんな辺鄙な土地の小さな宿屋に届くんだって」

「……それは、すみません」

「気にすんな。それより、親父さんはなんて」

 言われて、封蝋を切って中身を確認すると、紐に繋がれた金属片のようなものと、折りたたまれた手紙が入っていた。そこには

『面白いから許す。まあ好きにやれ』

 とだけ書かれていた。

「……まったく、あの人らしい」

 呆れてそうぼやく。しかし、実はものすごくほっとしていた。クラウンにも手紙の文面を見せると、

「なんつーか、懐の深い御仁なんだな。さすがお前さんを流離いの旅に出しているだけあるというかなんというか」

と言った。そして、「あ、不敬罪とかにはしないでくれよ。オフレコで」と付け加える。

「心配しなくてもそんな事しませんよ、雇ってくれて屋根までくれた恩人に向かって」

 笑ってそう言えば、クラウンも笑って、「そうか、そりゃ安心だ」と言った。この一連のやり取りがこの場を和ませるためのものだということは、すぐにわかった。さすが、客商売をしているだけある。こういうところは敵わない。

「まあともかくこれで準備は整ったってことか。いつ出るんだ?」

「明日ですかね。今日は今までのお礼含めてきっちり働かせていただきますよ」

「そりゃありがたい。仕事終わったら壮行会でも開いてやろうか?」

「なんで俺に聞くんですかそれ、普通サプライズでやるものですよ。まあ、ありがとうございますと言っておきますけど」



「――――あんたって子は!」

 広い部屋に、怒号が響く。それから、人が人を殴る音。

 殴っているのは、30代くらいの綺麗な衣装を身に纏う女性。その見かけからは想像のつかない行動であり、殴られている真っ白な少女は、反抗する様子を見せない。周りにいる臣下もそれを止めずにただそこに突っ立っている。止めたくても止めるだけの立場がないからだ。

「いったいどれだけ、この家の名前を穢せば気が済むの!?いったいどこで何をしてたの!?」

 女性は怒鳴り、また拳を振り下ろす。それでも少女は、ユエは頑なに口を閉ざしていた。女性はそれが気に入らないらしく、余計に激昂した。

 行方不明となっていたユエがこの家に連れ戻されて2日が経ったが、ずっとこんな調子が続いていた。いつもは怒号も暴力も数時間で終わるけれど、1か月も家を出たのはこれが初めてだったから、ここまでされてもまだ向こうの気はおさまらないようだった。

「奥様、どうかそのあたりにいたしませんか。ユエお嬢様も反省しているでしょう」

 なんとか臣下の一人が止めようと進言したが、「お黙り!」の一言で封じられた。

 ユエに向かって怒鳴り散らしているこの女性は、アナスタシア家現当主の妻で、ユエの継母である。自分の本当の両親、つまり先代当主とその妻であった人はユエが幼い頃に病で死んだ。そのあとのゴタゴタに乗じて当主の座を奪い取ったのが後の現当主と妻になる父の弟夫婦である。

 しかし、本来ならばユエが当主の座を継ぐべき立場であり、いくら幼いからといえ、後継者であるユエを蔑ろにして当主になっては、それが悪い噂を招いて家の評判を落としかねない。弟夫婦は見栄っ張りで、そういった外聞をとても気にする人たちだったから、それだけは避けようと嫌々ユエを引き取った。しかしその見た目ゆえに、ずっとこういう扱いを受けて今に至る。

 こんな扱いを受けて、食事も蔑ろにされて、よくここまで死ななかった、と自分でも思う。ちなみに事実と街で聞ける噂話とは少し状況が違っているのだが、そんな些事はどうでもよかった。ついでに言うと、ユエはもう、この家の行く末もどうでもよかった。

 どうしてお互いに嫌いなのに、こんな扱いを受けるのに、私はこの家にいなきゃならない?どうして彼らは私を棄ててくれないの?私がいなくなったって、彼らは微塵も困らない。だって彼らにも子供はいる。それも男の子の。会わせてくれるはずもないので会ったことはないけど、跡継ぎだっているじゃない。どうして私をここまでしても縛り付けるの?そんなに外聞が大事なの?だったらもう、こんな家、没落しちゃえばいいのに。

「聞いてるの!?」

 継母がそう怒鳴る。聞いてるだけ無駄なのだから聞いているはずもない。だから、何も言わなかった。すると今度は舌打ちと、脚が上がる気配がした。ユエは、おおこれは蹴られるぞ、久しぶりだなここまでされるのは、となぜか他人事のように思いながら身構えた。もう痛覚はすっかり麻痺しているので、せめて吹っ飛ばされないようにするためである。

 そして、継母の脚が振り下ろされそうになった、その時。

「そこまで!」

 という声が、けたたましい音とともに、この部屋に飛び込んできた。



 大きな音の正体は、声の主が部屋の扉を蹴飛ばしたことによるものであり、その声の主はユエには見覚えのある男性だった。

 ……零さんが、どうしてここに。

 継母は、突然の部外者の来訪に狼狽えながらもすぐに「捕らえなさい!」と臣下に命じた。しかし、この部屋にいる者たちは非戦闘要員なので、あっさり零に倒された。そして、零はユエ達の目の前まで歩を進める。

「な、何なのあなたは!どうやってここにっ…」

 継母が声を荒らげる。しかし、零はそれに構わず屈んでいるユエに手を差し伸べてこう言った。

「迎えに来たよ、一緒に帰ろう」


 ずっと、願っていたことがある。この世界から、アナスタシア家という檻から、自分を誰かが連れ出してくれることを。だって、どれだけ自力で逃げようとしても、捕まってしまうから。この檻から出られるなら、顔も知らない誰かに攫われてもいいと思った。その先で人身売買にかけられようと見世物にされてもいいと思っていた。お金を払って手に入れようとしてくる人間は、こういう暴力を振るうことはないと知っていたから。それで失うものはあっても、今よりマシになるならなんだってよかった。


 そんなことは実際には起きるはずもないことだというのも、とうの昔に理解していた。なぜならユエは世間から見たら有力貴族の娘だから。何を好き好んでリスクを負ってまで貴族の娘を誘拐しようというのか。

 だけど、今、目の前にあるのは、ここから連れ出してくれる人の手である。突然押しかけて匿ってくれと言ったのに受け入れてくれて、この見た目を忌避することもなく、外に出られないユエを気遣って外のいろんなことを教えてくれたその人の。

「え、これ、夢…?」

 疲れのあまり都合のいい幻覚でも見ているのかと思って思わずそう呟くと、零は苦笑して「現実だよ」と言った。そして、帰ろう。ともう一度言う。

 ユエは迷わず手を重ねた。…ちゃんと触れた。夢じゃない。

 手を取ると、零は優しく微笑んだ。

「よし、契約成立。立てる?」

 零がゆっくり引き上げてくれるのに合わせて立ちあがる。散々殴られて身体中がだるいけれど、立って歩くことくらいならまだできそうな、そんな感じだった。

すると、ユエが立ち上がったちょうどそのとき、部屋にまた新たな怒号が飛び込んできた。

「誰だ貴様は!何をしている!」

 おそらくこの騒動に気づいてやってきたのだろう。声の主が入ってくるのに合わせて、臣下たちが旦那様、と呟いた。やってきたのは父の弟、つまり現当主である。零に臣下の呟きが聞こえていたのかは分からないが、そのことを教えようと思って見上げると、「分かってる」とユエにだけ聞こえるような小声で言った。そして、零はユエの手を取ったまま当主の方へ身体を向けてこう言った。

「ちょうどいい、アナスタシア家当主。話がある」

 その様は凛としていて、気迫があった。いったい、零は何者なんだろう、とユエは思った。

 当主もその妻もその迫力に一瞬気圧された様子だったが、すぐにまた高圧的な態度に戻り、「無礼な」と吐き捨てた。

「どこの馬の骨か知らないが、この私に向かってそんな口を利いて、ただで済むと思うなよ」

 あくまで自分が優位、この中で一番上位、そんな口振りだった。たしかにそうかもしれない、と思った時、零が口角をあげてニヤリと笑った。

「……その台詞、そっくりそのまま返してやるよ」

 ……彼がものすごく楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。

「何?」

 ピクリと眉を動かして当主が言った。零はその人の悪そうな笑顔のままでこう続けた。

「じゃあ改めて名乗ろうか。俺の名前はレイ・ヴェストファール…ここまで言えば、貴殿にはわかるだろう?」

 零が名乗った途端、当主は血の気が引いたように顔を青くした。

「…ヴェストファール!?じゃあ、まさか」

「そう、そのまさか。ラインムート王国はヴェストファール王家の、第3王子」

 零はどこからか短剣を取り出し、掲げて見せた。そこには確かにラインムート王国の紋が入っていた。王国の紋が入った物というのは、基本的に王族の者しか所持を許されない。つまりその短剣は零が王子だということを証明せざるを得ないものだった。ちなみに彼の口にしたラインムート王国というのは、このリクセールよりも大きな国で、そんな国の王族と小国の貴族の当主では、どちらが無礼かなど自明の理である。

「ど、どうかご無礼をお許しください!」

 先程までとは打って変わって、当主は今にも零に土下座でもするのでは、という勢いで頭を下げて嘆願する。もちろん継母も一緒に。その変わり身の早さにはわが叔父と叔母ながらも浅ましいな、と思った。

「知らん」

 零はそんな嘆願をあっさり切り捨てる。しかしながらそのあと

「それより、一つ取引をしようじゃないか。応じるというのなら今までのことは不問に付す」

 と零が条件を提示した。すると、

「わ、私めにできることであればなんなりと!」

 と、当主は間髪入れずに返事をした。その光景を見ながら、ユエは当主の必死さに気持ち悪さで反吐が出そうだった。人のことはさんざんいたぶっておいて、自分の保身には余念がないその態度が。

「俺の要求はふたつ。ユエの身柄をヴェストファールへ引き渡すこと、今後一切の接触、干渉をしないこと。以上」

「あの、娘をですか。それだけでいいのなら喜んでその話、承りましょう」

 当主はあっさり承諾した。

「……決まりだな」

 零は眉間に皺を寄せて言った。こうもあっさり姪を他人に引き渡してしまうことに憤りを覚えたのだろう。けれどこの人たちはユエが厄介で仕方なかったのだから、厄介払いができるとあればこうなるものだ、とユエは思った。むしろ、お互いやっと離れることができるから、嬉しくすらあった。自分も大概、薄情なのかもしれない。



「じゃあ行こうか、外に車を待たせてる。歩ける?」

 零はユエに向かってそう告げる。

「あ、はい、何とか」

 そう答えて歩き出す。しかし、その様子を見てなぜかしかめっ面をして、いきなりユエを横抱きに抱きかかえた。

「ひぁっ!?」

 突然のことに驚いてよくわからない悲鳴を上げてしまうと、零は呆れたようにため息をついてこう続けた。

「大丈夫じゃない時は大丈夫じゃないって言いなさい。逃げるときにでも捻挫したんだろうけど、歩き方がおかしい」

「…気づきませんでした、なんかもう痛みを感じなくなってるから」

 本当に気づかなかったのでそう言うと、零は苦笑してこう言った。

「一晩寝たらたぶん痛みで起き上がれないだろうね、今の君」

 ユエは抱えられたまま、アナスタシア家を出る。門前にはさっき言っていた通り馬車が待ち構えていた。こうやって、ちゃんと玄関から出たのなんて、いつ振りだろう。

「今から、どこに行くんですか」

 馬車の座席に降ろされて、向かいに零が座る。零が進行方向に背を向ける形だ。そこで一つ、違和感を覚えた。

 ……あれ。どうして私が上座に。

「とりあえず、クラウンさんのところに帰る。その傷やらなんやらの治療をしなきゃいけないから。……お願いします」

 その一声で馬車は動き出した。

「……えっと、レイ、さん?」

「どした?」

「この位置関係、逆では…?というか、なんとお呼びすれば…」

 だって零は王子様じゃないか。馬車に乗ったのなんて両親が生きてる頃が最後だからずいぶん前の話だけど、座席の上座と下座はさすがにわかる。それに彼はさっきレイと名乗った。つまり本当の名前はレイで、零ではない。

「いいんだよ、ユエの方が色々優先だから。それより、変に畏まらないでいいし、今までと同じように接してくれた方が嬉しい」

「……はい」

 なんか、うまい事丸められている気がしないでもないな、と思いながら頷く。

「……零さんは」

「うん?」

「どうして、国を出て働いていたんですか?」

 大国の王子で、生活にはなにも困らない身分のはずだし、あの国は国民に王族がとても好かれているらしいと聞いたことがある。それなら、国で生活していてもそんなに息苦しくはないように思う。

「ひとことで言えば、俺のわがまま。第3王子だから王位継承権も低いし、上の兄たちがとても優秀なおかげで俺に回ってくる執務も簡単なものが多くて暇だったから、ちょっと流離いの旅に出てみたいなと思うようになって」

 もともと王位継承レースに噛むつもりも全くなかったし、と零は続ける。

「だから一応王様には『近隣国の視察』っていう名目と、王族だってことがばれない身分証を用意してもらって5年ほど前から適当にそのへんの国をふらついてる。その国で働いてお金貯めて、次の行先と資金の準備ができたら移動する、という感じでね」

 零は自分の首から紐に繋がった何かを外してユエに見せた。紐についていたのは小さな金属板で、“零“という名前と『ラインムート王国騎士団所属 視察員』という文字が刻まれていた。たしかに王族とはわからないし、でも嘘にはならないであろうラインである。

「……でもなんで、わざわざ自分で働いて? 視察、という名目があっても、普通、資金は国が出すものじゃ……」

「これは俺のわがままだから、金も自分で工面するって自分で言ったんだ。だから、なるべく国民の目線になって視察するため、つって仕事を紹介してもらってた」

「変わった人」

 思ったことを素直に言えば、零は笑った。

「よく言われる。まあうちの家族もみんな変だけどね、ユエもそのうち会うことになるけど」

「えっ、なんで……!?」

 どうして私がそんな王族の皆様と会うことになるんだ。今の話のどこからそういう流れになった。

「実はユエを連れ出すためにこういうものを作ってもらってまして」

 そう言うと零はポケットから何かを取り出した。それは先程見せてもらった身分証にそっくりで、ユエの名前とさっきの肩書の横に『補佐』と付け加えられた文字列が刻まれている。

「で、うちの国ではこういう物を作るには戸籍を持っている必要があってね」

「戸籍?」

「そう、戸籍。どこに住んでいて、家族は誰で、自分は今何歳ですって公式に証明できるもの。リクセールはあまりに人の移動が激しいから、いちいち作ってたら役所がパンクするっていうんでほんの一部の人しか持ってないと思うけど、ユエは持ってたんじゃないかな。だからそのうち、うちの城に届くと思うよ。あのおっさんにも、そういうものがあったら即刻送れって言ってきたし」

「いつの間に」

「あの家出るときその辺の人に書状渡してきた。走り書きの書き置きみたいなもんだけど、さすがに無下にはしないでしょ。伝わってなければこっちから請求するまでだしね」

「仕事がお早い……」

「仮にも王子だから、そういうことをさっさと詰めるのは性分でして」

 まあそんなわけだから、と零は言った。

「その戸籍を作るのにいったんユエを連れて帰らなきゃならないから、その時に会うと思う」

 でも、とユエは反駁する。

「それでも王族の皆様に私なんかが目通りできないと思うんですが、普通」

「うちの兄貴どもがユエに会わせろってうるさいらしいからいいのよそこは。気にしないで」

「なんでまた」

「俺がこういうことをするのが初めてだから、相手が気になってるんじゃない?」

 いやあ大変だったよ準備するのは、と零は笑う。

「……どうして、そこまで」

 この準備が一朝一夕には終わらないことはこういうシステムに疎いユエでもすぐわかる。申請して審査して、許可を取ってやっと身分証が手に入るのではないのか。それを他国の会ったばかりの人間に、正規の手続きを無視して行うなど。よほど大変だっただろうということは想像に難くない。そう思って訊いてみると、零はこう言った。

「君を、外の世界に連れ出してみたいと思ったからだよ」

「外、の、世界?」

「ユエは家でのこととかを詳しくは話してくれなかったけど、きっとこの子は外の世界のことをまだほとんど知らないんだろうなって思ったんだ。だから、いろんなものを見せてやりたいと思った。あんな家の柵から解き放って。まあでも本人の意思とかなんとかがあるから、準備が整ってから言おうと思ってたのに突然いなくなるもんだから、焦ったよ」

「うっ」

 黙っていなくなったことを刺されて、ユエは苦い気持ちになった。

「あとはまあ、決定打だったのが実は初日で。俺に訊いたでしょ、見た目のことで」

 零は自分の瞳を指さして言った。確かにそれを訊いた覚えがある。苦労することはなかったのか、と。

「それ聞いてね、世界にはそんなこと気にしない人間もたくさんいるんだってこと、実感してもらいたくなったんだ。クラウンさんやあそこの皆だけじゃなく、もっとたくさんいるんだってことを。もちろんそうじゃない人もいることにはいるけど、案外捨てたもんじゃないんだってことを知ってほしくて」

「……それを、零さんは旅をして知ったから?」

「そうかもなあ。……さて、ここからは提案ですが」

「提案?」

「これから先、ユエはどうしたい?」

 どうしたい、とは。あの身分証に書かれた通り補佐として生きていくのではないのかと訊ねると、ちょっと違う、と返された。

「肩書きはあくまで肩書きだから、それこそ戸籍作りに行った時に変更だってできるわけよ。あれはまあ、急拵えで作ってもらったようなものだし。だから、ユエが俺の流離いの旅に興味ないって言うなら、いろんな方面に調整してどこかでの安定した暮らしをあげることもできる。旅に行きたいっていうのなら連れていくけど、本人の意思を無視して身の振り方を決めてしまうのは俺の性分に合わない。自分が好き勝手やらせていただいてるからね」

 それに、と零は付け加えた。

「女の子が旅をするって、大変だから。国によっては、女性は常に男性より下に見られたりするし、よそ者だからってあんまり好意的に接してくれない人もいる。加えて貧乏暮らしになるから、おしゃれさせてあげることもできないと思う。せっかく今からがおしゃれの年頃なのに」

 だから、本当にユエの好きにしていいんだよ、これからのことは。零はそう言って窓の外の流れる景色に目をやった。

「私が、どうしたいか……」

「そう。考えたこともなかったかもしれないけど、まあ時間はあるからゆっくり悩めばいいと思うよ」

 零は気遣うようにそう言った。しかし、ユエはもうこの時点で迷ってなどいなかった。

 さっきの補足は、そういう境遇になってもいいのなら同行してもいいと、きっとそう言っている。……私は、私の望むことは。

「……旅に、ついていきたいです」

 ユエがそう言うと、零は視線を戻してユエの眼をまっすぐ見据えた。

だって、今までの方が散々ひどい扱いを受けていたし、何より。

「零さんがいてくれるなら、それだけで大丈夫です、私は」

 たったひとりでも、自分のことを受け入れてくれる人がいるならそれでいい。私は、零さんともっと一緒にいてみたい。

 そう言うと、零は驚いたように目を見開いてから、穏やかに笑った。

「じゃ、決定ということで。改めてよろしくね、ユエさん」

「はい、よろしくお願いします」

 2人の間を爽やかな風が吹き抜ける。2人の新しい旅の始まりを後押しするようなやわらかい風だった。


おしまい。

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