勝利の女神は微笑むか

第1話

「じゃ、また明日な」


 放課後。どたどたとみんなが帰っていき、荷物がまとまらない僕は教室に取り残されそうになった。そんな中、釈迦如来像のごとく手のひらを一瞬こちらに向けて颯爽と帰っていく者がひとり。そのサインは施無畏印に見えるのだが、これはお別れのあいさつのときに使う。ここ最近、なぜかこれが流行ってるんだ。


「じゃ。――あ、イワシ。しあさっての放課後って空いてる?」


 僕は、去り行こうとする青いぼろぼろのランドセルを背負った釈迦如来像を引き留める。いや、釈迦如来像じゃない。僕の親友、岩清水いわしみずれいだ。


「しあさって? 空いてるけど」


「遊ぼうぜ」


「おー。お前さえよければ。いいのか?」


 彼は、声に出さずに口だけを動かして、音数にして3文字のとある単語を言った。それは一部の人には“受験”だと明確に読み取れることだろう。


「まぁな。たまには息抜きも必要だし」


 僕は条件反射で一瞬顔をしかめてしまったが、すぐにそう言い訳をした。そうせざるを得なかった。イワシも、教室に残っている数名のクラスメートに聞かれぬよう、僕に配慮して口に出さなかったのだろうし。


「そかそか。じゃあ俺、そろそろ時間が」


「あ、わりい。じゃ」


 イワシはサッカー部のキャプテンだ。誰よりも先に校庭に行って、アップを始めたいのだろう。引き留めてしまったことを申し訳なくは思わないかな。親しき中にも礼儀ありとは言えど、やっぱイワシはイワシだから。


「おうっ」


 野球部みたいに元気な彼の声を聞いて、僕も帰路へ着くことにした。




 ぼすっ。


 自室で勉強を始めてしばらくして。カーテン越しに聞こえてきた、やわらかく平和な音。おそらく、カーテンの向こうの住人がベッドに身を投げたとかだろう。


 ばしっ。ぼふっ。


 これは、隣人が足でベッドをけってる音。ご機嫌だなあいつ。


 カチッ。


 これは僕が立てた音。シャーペンを机に押しつけて芯をしまったんだ。“うるせぇよ10秒以内におとなしくしろ”って意味。通じてるかどうかはわからないけどね。


 10、9――。


 ぱふべしばしぼふぱふべしばしぼふ――。


 ――5、4――。


 こいつは小さいときからそうだ。嬉しいことがあるとすぐベッドでバタ足してほこりを立てるんだ。


「わーあーあーあ!」


 ――2、1。どんまい小春。


「あーあーあーあーさっきからなんなんだよ!」


 心の中で0、と言うと同時に僕はいらついた声で言った。直後に堪忍袋の緒が切れる、というか堪忍部屋の床が抜けたのでカーテンをしゃっと横にひっぱる。


「よっ、日和。勉強はかどってる?」


 そこにいたのは、ひきつった笑顔の我が妹と右手をあげさせられたテディベア。


「あぁ、小春のおかげではかどってるよ」


 予想通り、子ども部屋に険悪な雰囲気が漂う。先に口を開いたのは向こうだった。


「今日ね、怜くんとお昼休みにお話ししたん――」


「それはよかったな。あいつも忙しいんだから――」


「忙しいって言ったって、怜くんは日和と違って受験しないで――」


「お前みたいなやつにかまってる暇はないってこ――」


「でも怜くんの方から話しかけてきてくれたん――」


「もうイワシのこと好きなら告っちゃえよ!」


 今、僕たちは同じことを考えているだろう。


 ――人の話を最後まで聞け!




 どちらが先に手を出したのかはわからなかった。なぐったりけったりなんでもありの兄妹げんか。ほこりが舞うのも気にせずに、お互いを攻撃しまくった。


「ご飯よー」


 そして、のんびりとしたお母さんの声が、停戦の合図となった。正直、2つ歳下の妹の攻撃なんてたかがしれている。痛くもかゆくもなかったから、僕もある程度は力を抜いて攻撃していた。ただ――。


「こうやって妹とけんかするとかいう言い訳を作って勉強から逃げてるんでしょ!」


 小春が吐いた捨て台詞は、僕の心にクリティカルヒットしてしまった。




 僕、梶谷かじたに日和ひよりは“受験”や“落ちる”といった音数にしてたった3文字の言葉を毛嫌いする小学6年生。中学受験をするため、小学生にして受験生だ。そんな人は全国にあまりいなそうだが意外とたくさんいるということにもとまどっていたり、過去問が想像以上に難しいことにいらだちを感じていたりする。


 そして、梶谷かじたに小春こはるという妹や、岩清水いわしみずれいという親友の存在が、僕の中のなにかをいい意味でも悪い意味でも揺るがしている。常に。

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