「君」を見つめて

   ●


「……ところで、疑り深い、といえばね……」

 まだ、彼の言葉は終わらないし、止まらない。

 逃げ出したいのに、逃げられない。

「新城さんは……昨日の夕方……何処にいたんだい?」

「家に……帰ってました……普通に……」

 どうか、気付かないで、信じて……。

「本当にそうだったら、それこそ、本当に良かったのにね……」

 その眼差しは、もう、いつもの淡々としたものではなかった。

「君はもう、僕を疑ってさえいない……だが、恐れているね……」 

 何してるんだ私は……逃げなきゃ。

 そんな思考と同時に、反射的に逃げようとする。

 そんな私の首を難なく片手で捕まえて、目の前の先生は話し続ける。

「……何故逃げるんだ? 分かっているんだろう? 君はもう逃げることは出来ない……おっと、叫んではいけないよ……」

「……ぁ……あ」

 革手袋をつけた真っ黒な手が、私の首をどんどん絞めていく。

 どうしようもない、諦めることしかできない。

 どうして私は……あの時、すぐに引き返さなかったんだ。

 逃げる道なんて、幾らでもあったのに。

 目の前しか見られないから……私は。

 後悔をするだけして、何一つ出来ないままなんだ……。

「これからどうなるか、ぐらいは理解しているだろうが……一つだけ君には教えなければいけないことがある……自分自身のことだ」

 そう言いながら、彼は自分自身の顔を手で覆っていく。

 自ら爪を突き立てて裂いていく、その淡々とした表情の下に。

「……俺は最初から、灰島康貴という人間ですらなかった、ということをね……」

 見知らぬ顔、見知らぬ声、見知ら眼差しがあった。

 灰島康貴の首から上は、完全に私の知らない誰かに変わり果てた。

 その顔は傷だらけなのに、どんどん本来の表情を取り戻していく。

 でも……違和感もギャップなく、まさしくそれが「本来」の姿なんだと、そう思わせるくらいに自然な姿だった。

「皮膚そのものを直接癒着させていたからね……自然に見えていただろう?」

 その「本来の顔」は、雰囲気にも声色にも似合わない、不思議な若さを持って、私を見つめている。

「灰島康貴は生き延びようとしたよ……娘の名前さえ出して、生き延びようとした……俺は、そういう見苦しいのは嫌いでね」

 その語り口は、まさしく別人で、目の前のことが真実かどうかさえも忘れそうになる。

 ……何もかも、虚構だったの?

「だが……人間の性はそうそう変化させることは難しいな、君程度の人間に露見するのなら……俺は俺に戻っても構わないということだ……」

「……何で……あんな……こと、私たちに……」

 じゃあ、なんでこの男は教師の皮なんか被って、あんな似合わないことをしていたの?

 そんな言葉を全て言い切れるはずもなく、途切れ途切れに吐き出すしかない。

「知りたかったのさ……君たちのような若者が抱える負の側面を、近くで観察したいからね……そして救ってやるんだ、俺は」

 救う……って、どういうこと。

「……君は、死に臨み……そして何を望む?」

 答えさせたいのか、少しだけ首を絞める力が緩まっていく。

 何を聞いているんだ……この男は。

 何を願いたいんだ……私は。

 死ぬ実感なんか、まだないのに。

「……そんなもの……ない、だって死ぬんでしょ……?」

「死してなお願いを抱く者さえいるというのに……君はつまらない、時間の無駄、面倒だ……死んでくれ」

 一気、容赦なく、潰すくらいの勢いで私の首は絞め上げられる。

「……嫌……だ……助け、て……」 

 死にたくない。

 やっぱり私は……死にたくない。

 諦めるなんて……嫌。

「最後に……俺の名前は冴葉統理と言う……忘れえぬ名だ……君を殺す人間のな……」 

 

「そうね……確かに忘れられない……お前を殺しても、ずっと……」

 待っていた声が、聞こえてくる。

 ……死に際の幻覚、錯覚、そういうものなんじゃないか。

 そう思えるぐらいに現実味のない。

 でも、彼女らしい言葉。

 モノクロカラーの制服の上に、紺色のパーカーを羽織った姿。

 藤原睦月が、そこに立っている。

「……ねぇ、そうでしょ統理? 4年振りね……結構、長かった」

 でも、見つけることは出来た。

 この男の嗜好は、未だに変わっていなかった。

「まだ同じことを繰り返してるなんてね……口笛まで同じ曲で……」

「今更何をしに来た……正義にでも目覚めたのか? お前が?」

 乱暴に手放されて、そのまま身体だけは解放される。 

「正義の味方は人は殺さない、でも……私はそうじゃないから、お前を殺しに来た……!」

「……殺せるか? 止められるのか? 俺を……? 言うようになったものだ……嬉しいよ」

「……縁、何してるの、もう逃げてもいいの。早く何処か……とにかく落ち着ける場所に行って、私なんて見捨てていいから、早く……」

 突き放すような、信じられないくらいに冷たい口調だった。     

 でも……辛そうな声だ。

「……私は貴女の、友達になんかなれないから……忘れて」


 逃げ出しながら、最後の、その言葉を聞いた。

 最初から、住む世界が違ったんだ。

 そう、割り切れたらどんなに幸せだろう。

 私はどうして、忘れてあげられないんだろう。

 優しすぎるんだ……睦月は、きっと。

 あんな世界で生きていけるのに……どうして。

 忘れたくない……。

 私を助けてくれたあの子を覚えているのは、私だけだから。

 あのときの厳しそうで優しい声を、覚えていなきゃいけないのは私だから。

 

 だから……忘れたくない。

  

     ●


 スーツ姿なんて、似合わないものを着て。

 冴葉統理は静かに笑っている。

 この状況を、愉しんでいるんだ、こいつは。

「分かっているじゃないか、自分がもう普通の人間ではないと……賢明な判断だよ、睦月……お前のその手は危険なんだ……ガフの扉に触れられる、その手は……」

 縁は、ちゃんと逃げられる、そう信じている。

 助けて、と言える彼女は、私とは違う。

 きっと、生き残れる。

「……どんなに姿を変えようと、お前の存在は隠せない、私のサクラメントはそう教えてくれる、素敵な手……お前を殺すためのね」

「その手は、いつかお前を殺すよ、俺ではなく、お前をな……」

 もう、あの子のことはいい。

 今必要なのは、目の前を見ること。

 目の前のこの男を、乗り越えること。 

「……死ぬなら、お前を殺してから死ぬ……」

「そんなものは、叶うことのない願望だ、諦めろ」

 一つ一つの言葉が、私の心に圧し掛かってくる。

 心の底を見透かすような、半分当たっている、ことで奥底に入り込んでくる、そんな趣味の悪い言葉たち。

 いつだって……そうだった、そうなんだ、この男は。

 私の首を傷つけて、全てを奪って、全てを与えたこの男は。

「お前の生に意味はない……ずっと繰り返してきただろう……お前が生をいつまでも諦めないだけで、ただその生を引きずっているだけなんだ……終わらせよう睦月、お前の生と、俺の過去を……」

「お前だけが、勝手に終わればいい、私をお前の運命に巻き込まないで……! 私や、他人を巻き込まないで……!」

 抜きたくなかった、こんなもの、持ちたくもなかった。

 でも……復讐に我侭は持ち込めない。

 ずっと前から持っていたんだ、私は。

「ナイフを抜くか……それ程に、俺が怖いのか?」 

 私が左手に握り締めたナイフを見て、さぞ愉しそうに統理は笑う。

 そんなにも嬉しいのか……この状況が。

「お前の喉を裂いたナイフが、今はそうしてお前の手の中にある、運命とは分からないものだな……」

「今度は、私がお前を裂く……!」

 その為だけに、ずっと持っていたんだ、こんな大嫌いなものを。

 私の血に浸ってから、一度も研がれずにいた刃は、鈍く光っている。

「その為のナイフなんだ……悪趣味なんかじゃ、ない……!」

 恐れるな、ただ目の前を見つめるんだ、私。

 それさえ続ければいい。

 それさえ、続ければ……っ。

 もう、11歳の時とも14歳の時とも違うんだ。

 ねぇ、何が怖い? 

 あの男の何を恐れる?

 私はどうして……震えている?

 歩き出せ、走り出せ。

 生き延びたいんでしょ? ねぇ、私。

「……その瞳……まだ濁っているな……鋭さも足りない」

 その場から全く動こうともせず、統理はナイフを掌で受ける。

 手袋の内側から、血が流れ始める。

「睦月、何を恐れる? ……お前は、何故最初から……」

 もう、聞きたくない。

 統理の腕を掻い潜って、右腕をその喉笛に伸ばす。 

「そうやって、その腕を、サクラメントを使おうとしない……ッ!」

 重すぎる膝蹴り、完全に鳩尾を捉えられている。 

「まだ崩れるな……そう簡単に斃れられては困るんだよ……!」

 振り払うようにナイフを抜くその左手に、一切の傷が見えない。

 じゃあ、あの血は何処から……流れて?

「お前は……俺に触れられないよ……その恐れたままの指では、どんなに時を経てもな……」

 その言葉と共に、私の頭をその左手で押さえつける。

「お前は……そこにいるんでしょ……だったら、触れられる……!」

「あぁ、確かに俺はここにしかいないさ……だが、それでどうなると言いたいんだ? お前が俺の存在に触れてどうなる? お前は中身ばかり見すぎて、肉体を軽視し過ぎるんだよ……今更お前が人間の内面に拘ったところで、人間の内面など何の価値もない、皮を被って擬態すれば、人間は外面を信じてしまうんだ……確かめただろう? 新城縁や、他の誰もが、俺を疑わなかったのだからな……。 分かれよ睦月、お前の追い求める『存在』などその程度のものだ、お前は存在が見える分、その感覚が狂っているだけなんだよ……人間を世界に繋ぎ止めているのは結局肉体なんだ……。 お前が死してなお望んだものは、価値を与える意味さえないんだよ……!」

「だから、どうしたっていうの……。 そんな言葉じゃ、私がここにいることを否定できない……! 否定してみせなさい……! 私がここにいることを……!」

「……お前が死ねば、その存在も共に消えていくだろうさ……すぐに消してやる、お前の業諸共な……」 

「私に……業なんてあるもんか……ッ」

「あるさ、原罪ではない、人間それぞれが犯した罪を継いだ……死をもってしか消せない、浮かび上がる業が……!」

「そんな言葉で……! また人を囲い込んで……! お前は!」

 そんな言葉で、私の存在は消えない。

 消えるわけ……消させるものか。

「なぁ、お前の両親は……お前に何をした? 思い出せ睦月、それが彼らの罪だ」  

「お母さんがいなくなったのはお前のせいだ……私は悪くない……っ、私は……私は何も知らない! ……何も、してない!」

 何で、泣きそうなんだ、私は。

 そんなに忘れたいの?

 でも……分かってるでしょ?

 私は悪い子だから、皆が私を嫌ってく。

 それを……認めたんじゃないの?

「ならば……何故藤原臨はお前の事を傷つけ、虐げ、現実を忘れようととした? それはお前が存在したからではないのか?」

「違う……! そんなことじゃ……!」

「生まれてこなければ……こんな痛みを知ることもなかっただろうに……。 そうだろう睦月? お前の今までの生に何があった? 思い出せよ、そして自覚しろ、それがお前の生まれ持った業だ……! お前は雪村仁人を殺め、そして何を感じた? 俺に救われたその時、己の父の死体を前に、何を感じた……?」

 存在していることへの、止め処ない歓び。

 存在している、という、誰も否定でのない実感。

 私はそれを、鳥肌が立つほどに感じていた。

 ゾクゾクする、あの『存在』している実感を。

「……お前は愉しんでいるんだ、人間を知りたいなどと言いながら、殺すことを愉しんでいる、俺と何が違うんだ? お前も持ってしまったんだよ、人の死に臨まなければ、自分の存在さえ確かめれらない性を持ってお前は生まれてしまった……それは不幸なことだろう?」 

「私は……それでも生きてる……生きてる証を求めて何がいけない? 私は何の為に生まれてきたか……それを知りたくて何がいけない!?」

「……硬く重い、石のような年月……お前が過ごし、耐えてきたのはそれに等しい、諦めろ睦月、引導は俺が渡してやる……救ってやる」

「……お前なんかに救われなくたって、私は生きてやる……!」  

「それが出来ないから、未だにお前は苦しむんだよ……それでも生き湯ようと足掻くなら、お前はもはや巨大なエゴだ」

 そんなの分かってる、でも……我侭だからエゴなんじゃない。

 私は生きようと望むから、その意志を持つから、私は自我というエゴを信じて、生きていけるんだ。

 どんなに……苦しくても。

「だったら、私はエゴでいい……自我でありたい……! 私の自我は存在を望んでるんだ……その証も! それは私の……!」

 願い、なんだ。

 死んでなお、どうやっても捨てきれない。

 だから、どんな言葉の前にも屈してはいけない。

「子供の我侭に付き合っている余裕はない……!」

「黙れ……お前ごときが……私の存在を否定するな……ッ!」 

 どうして、私は一人で立てないんだ。

 どうして……恐れているんだ。

 何で、届いてくれないんだ、私の手は……。

 こんなにも、近いのに……。

 どうして、この男の存在に届かない?

「お前も、所詮は子供か……もう価値はない、直ぐに終わらせてやる」

「お前なんかに……ッ!」

 せめて、届いて……。 

 届くはずの伸ばした左腕は、統理の冷たい手に阻まれた。

「無様だな……触れなければ使えぬ力など、この程度か」

 地についた私の膝を強引に踏みつけて、完全に動きを封じてくる。

 もう、何もできない。

「だが、危険な腕であることに変わりはない……お前の願いは危険過ぎるんだ……俺をもってしても、完全には止められない願い……」 

 私の取り落としたナイフは、もう一度統理の手に渡った。 

 動けないまま、私はその刃を見つめるしかない。

 10年前と、何が違うんだ。

 ……何一つ、変わっていないじゃないか。

 私はこのまま、また傷つくだけ。

「ここで、消しておかなければ……!」

 左腕に、あの刃が入っていく。

 私の喉に消えない傷を刻んだ、あの刃が。

 全身に走る恐怖が、逆に痛みを遠のかせていく。

「その程度で……私を潰せるなんて、思わないで……!」

 なんて強がるけど、もう……いいんだ。

 これが運命だ、って、受け入れるしかないんだ、私みたいな存在は。

 左腕が、だんだん断ち切られていく。

 きっと、私の中の確かな芯も、同時に。

「お前の願いは、これで終わる……」

 完全に、左腕の感覚が断ち切られた。

 叫ばないのも、泣かないのも、きっと最後の抵抗。

 きっと、私なりの、私らしい強がり。

 最初から、全部そうなんだ、私は。

 孤高なんて、格好つけられる存在じゃないんだ。

 孤独と孤立が違うなら、孤高だってまた違うんだ。

 だって私は……弱い自分を認められずに、必死になって隠してただけだから。

 誰にも、見えないように、見せないように。 

 それが私だって、今更痛感させらている。

 全て……この男に。

 私は、怖かったんだ。

 この男の……冷たい眼差しが。

 きっと、この男の全てが。

 ナイフの刃は眼前に迫って、

 私の命まで消そうとしている。

 放っておけば、勝手に消えていくような、私の命を。

 刃が皮膚に突き立つ感覚。

 全ての恐れを消し去るような、救ってくれそうな鋭さ。 


 そして……感じるのは、もう一つ。

 君はどうして、私のことを忘れてくれないの?

「素直に死なせてよ……ねぇ、高良野くん……」

 彼の名前を呼んだ瞬間に、銃声が響いた。

「成る程……折れないわけだ……」 

 頭を撃たれた統理の身体が、あっさりと地面に倒れていく。

 でも……その存在は全く消える気配を見せない。

「……終わってない……でも……」


 どうして私は……嬉しいんだろう。

 こんなに傷ついて……助けてさえ言えないのに。

 君に伸ばしてた腕さえ、もうないのに。

 君には、私のことなんて忘れてほしいのに。

「晴……あとはどうにかする……俺が」

 倒れた統理の姿なんか見ないで、隣にいる子の姿なんか見ないで、彼はただ私だけを見てくれる。

 その瞳は……私という今だけを見つめてくれている。

 

 だから、泣かないで、悲しまないで……君は悪くない。


    ●


「……やっと、届いたのにな……」

 どうしてこう……本当にタイミングが悪いんだ。

 見えているのに、ただ見えているだけだから。

「……ごめん、睦月」

 また、それだけしか言うことができない。

 でも……それ以外を言える資格はない。

 労いとか、そんな言葉をかけられるほど、俺は睦月に近くない。

 ……ただ、ずっと見てきただけなんだ、俺は。

「大丈夫……まだ生きてるから」

「……無理しないでいい、動かないで……包帯巻くだけでも違うから」

 横たわったままの睦月を抱き起こしながら傷を確かめる。

 睦月の左腕の残った部分は、血と貼り付き始めた衣服でぐしゃぐしゃになって、見るに耐えない惨状になっていた。

 そっと、紺色だった袖を捲くり上げながら、腕そのものをきつく縛って、どんどん流れ出る血を止めていく。

 少しずつ、目の前の敵から引き離しながら。

「……首、血が出てる……来なくても、よかったのに……」 

 俺の首筋を、まだ動かせる右手で撫でて、そのまま睦月は意識を失っていく。

「……人の心配してる場合じゃないだろ……君はさ……」

 結局またこうして、傷つくまで見ているしかできなかった。

 全て……見えていたはずなのに。

 

 気休め程度の消毒と包帯で、少しだけ状況は良くなった。

 でも、本当に気休め程度だ。

「なぁ晴、壁、透過できるか……?」

「逃げ込む気なの? ここに?」

「今のまま、下手に動くよりは……さ」

 睦月の傷が落ち着くまでは、何処かに隠れるしかない。

「ダメだよ浅儀、不安なんだ……逃げたほうが良い……、だって、僕だって知らないんだよ……この男……冴葉統理の、能力」

 睦月を壁の向こう側に隠しながら、晴は怯えた声を漏らす。

 冴葉統理。

 それが……全ての元凶なのか?

「……ハリエット……警告するのなら……もう遅いな」

 背後で、声がした。

 もう起き上がるはずのない、男の姿があった。

「……冴葉、統理……か」

「ただの人間が……手間取らせる」

 眉間から血を流しながら、冴葉統理は何食わぬ顔で静かに立っている。

 その存在そのものが、不気味だった。

 得体の知れない存在。

 正体不明の、恐るべき存在。

 その姿は、まるで……不死身の怪物。 

「なぁ晴……俺はさ、『救ってくれ』って願いに応えてくれた相手を救えない、そんな人間にはなりたくない……俺は何の力もないけど、自分のことを弱いままの人間だと思いたくないんだよ……! やっぱり、逃げるのも隠れるのも、もう終わりにする……!」

「……その身体で立ち塞がるか……退きたまえよ、もはや意味はない」

「意味は……俺が決めるよ、決めるのはお前じゃない」

 こんな傷が何だっていうんだ。

 力のある奴は、そうやって弱者を見下して……笑うだけだ。

 それでいいわけがないんだ。

 言われたまま、屈して諦めてるようじゃ、それで終わりなんだ。

「晴、撃ちつづければいい……それでいいんだ、それだけで、きっと生き残れる……」

「生き残る……僕だって、生き延びたい……」

 ……生き残るために、戦わせてくれ。

 似合わないなんて分かってる。

 それでも……睦月のためなら、戦えるはずだ。

「晴がそこまで懐くか……君は……何をした?」

 まるで悟ったように、同族を見つけたように、冴葉統理は俺を見据えてくる、琥珀色の鋭い目で。

 その眼差しを、俺は何処かで知っていた。

 あの夜の、睦月の目。

 心の中を全て見透かそうとするような、遥か遠くを見る琥珀色の目。

 どうしてこんなにも似ているんだ、この男は。

「サクラメントを……持っているんだろう? だからこそ睦月が心を許すんだ……同類だからな……」

「何なんだよ……サクラメントって、さ……」

 晴が口にしていた言葉、そしてそれは……俺にもあるという。

「君は何か、人間の常識を超えた力を持っているはずだ……気付いているんだろう……君は何を願った……? その死の刹那に……?」

「死……!?」

 どういうことなんだ……それは。

 俺は、既に死んでいたとでも言いたいのか?

「能力については自覚しているようだが……自分の死には気付いていなかった、というべきか……自殺でもしたのか、君は?」

「死んだから……何だっていうんだよ……だったらどうして……俺は生きてるんだよ……?」

「だからサクラメントなんだ、神の恩寵、奇跡なんだよ、俺たちが持っているこの力は……君も分かるだろう? この力は、俺たちの願いを曲りなりにも叶えようとする……死の間際に抱き続けた、消えない願いを……」

 俺は死んでいて……サクラメントを得て……。

 だったら、睦月はどうなる? 

 晴だって、死んであの力を手に入れたことになる。

 何より……仁人は。

「じゃあ……仁人も死んでたってことなんだよな……」

 仁人の名前を口にした途端に、統理の表情が笑みに変わる。

「彼を知っているのか……友人だったか? まぁ、消え去った者の思い出話などつまらないだけだ……今は未来の話をしよう」

 全て……この男の知識の中だった、そうなのか?

 ……睦月が傍にいないだけで、ここまで不安に駆られるなんて、思わなかった。

 なぁ睦月、君ならどう声をかけてくれる?

「浅儀君……雪村仁人は確かに失敗したが……君はどうなんだ? 見たところ、壊れてはいないじゃないか……君のサクラメントは」

「何が言いたい……!」

「睦月の身体をやる、だから俺の元に来ないか? 晴の自由も、君の自由も保障しよう、目立ちすぎなければ、の話だが……」

 今更、取引のつもりなのか……この男は。

 何を余裕で……。

「そんな言葉で……騙そうったって……!」

「残念だ……もう少し素直であればいいのにな……! 君は!」

 睦月の血に染まったナイフが、目の前に迫ってくる。

「交渉決裂だからって、それが大人のやり方なのか……!」

「俺も大人だからな……! それぐらいはするさ」

 避ける俺の動きを見ながら、更に統理は追撃してくる。

 その動きは、もはや獣に近かった。

「……無理しすぎだって……!」

 晴の銃撃が、その真っ黒な足を撃ち抜いた。

「……自分が不慣れだって分かってるなら……僕を頼ってくれてもいいでしょ……そんな混乱した頭じゃ何もできないよ……」   

 そのまま晴の手は俺の身体を引っ張って、壁の中に向こうへ押し込もうとする。

「……だからさ、あとは僕に任せてほしい、浅儀にはこんなこと似合わないよ、それに……睦月の傍にいてあげて、浅儀にはそれができるでしょ……」

 

 傍にいることができるのは、俺だけ。

 その言葉に、少しだけ救われたような感覚があった。

「睦月の傍にさ……いていいんだな、俺……」

「そういうこと、僕が……僕の過去を終わらせるから、浅儀はそこで未来を見てればいいよ、それが……役目だ」


 そう言って、また向きなおす晴は、見た目以上に大人びて見えた。

 睦月だけじゃなく……できることなら君も救ってやりたい。


「でも……今は睦月だよな……」

 睦月は魘されながら、救いを求めるように手を伸ばしている。

 触れることを恐れないでいいんだ、今は。

「……高良野……くん……?」

 うわ言のように呟いて、睦月は右手で俺の袖を握る。

「大丈夫……連れ出すから……」

 

 ……君を、ここから連れ出したい。

 あの時の君と違って、俺はあんなに格好良くないけれど。 

 君が、名前を呼んでくれるのなら……。

 

    ●

 

「贖罪のつもりか……俺を見捨ててまで、お前は自分の罪と向きあうとでも? なぁ、ハリエット?」

「違う……僕は立ち上がらないといけないんだ、誰かの傍で、自分の意思なんかないまま消えてくなんて嫌なんだ、だから貴方とは、ここで別れる、出会ったんだから……別れたって何もおかしくないはずでしょ」    

 僕は、後悔してなんかいないんだ。

 今ここで、彼と対峙していることを、僕は後悔していないんだ。

 

 生まれて直ぐの事、彼と出会うまでの日々を、僕はまだ確かに思い出すことができる。

 

 何も知らない、そう思われながら、少しずつ自分のことだけを理解していた頃の、小さな僕のことを。 

 僕はただ、遺伝子の証明のためだけに生まれてきた。

 皆が僕を見る目で、少しずつ気付かされた。

 だから父親の顔も名前も知らないし、母胎っていう概念も曖昧。

 だからだろう、それは上手くいかなかった。

 セキツイとかいう所に損傷があって、そのせいで僕の足は上手く動かないし、動かせない。

 だから僕は、幾つになろうと自分の足で立つということを、知らなかった。

 きっと、それで満足していたんだ、僕は。

 立てないと分かったら、それで立つことを止めた。

 そんな僕を見て、あの女はなんて言ったっけ、どうでもいいことか。

 とにかくあの女……ボクの母親は僕を認めなかった。

 アメリカのフロリダ、ケープ・カナベラルとかいう、地図を見なきゃそこにいた実感もない場所、そこで僕は生まれて、その病院でずっと過ごした。

 だから、病室から見る景色が僕の景色で、僕の世界だった。

 自由なんてなかった、僕は立てないから。

 世界を知るためには、2本の脚でしっかりと世界を踏むことが必要なんだ、って諦めていた。

 そんな僕を見て、ますますあの女は失望していた。

 ただ実績が欲しくて生んだだけの親、母親になる気なんてなかったんだ、あいつは。

 髪の色も、目の色も、住んでる世界だって違う。

 そんな親とそんな子供が、親子になれるはずはないんだ。

 そんなの、分かっていた。

 クリスマスプレゼントも、カードもくれない親だったから。

 

 でも、殺されるまでは信じていたんだ。

 どんなに繋がりがなくても、親は親で、子は子だって思ってた。

 まだ10才になるかならないかくらいの頃。

 あの女は僕の首をタオルで絞めて、そのまま殺した。

 どうして自分が死んだことが分かるのかは、今でも分からないけど。

 とにかく、僕の肉体は一度死んで、今こうしてサクラメントなんてものを身に着けて、蘇生している。

 だから僕はこうして、今ここにいる。

 でも、蘇った後の世界は自由でも何でもなかった。

 僕は自由になりたい、いつもそう願っていたのに。

 僕は確かに自由になった。

 あの女は僕のことを怖がって、避けるようになった。

 でも、それは自由のふりをした束縛。

 何だって選べるのに、何を選んで良いのか分からないし、何より動くこともできない。

 僕が欲しかった自由が、こんなにも寂しいものだなんて、認めたくはなかった。

「ねぇ統理、僕と初めて会ったときのことってさ……覚えてる?」

 キィキィと車椅子が軋む音だけが聞こえている。

 冷たい秋の風は音もなく僕たちの身体に吹き付けては去っていく。

 目の前には、あんなにも憧れた男が立っている。

 僕は、彼の傍にいたかった。

 冴葉統理は、確かに名前の響きに違わずに救世主だったから。

 それは、初めて出会ったときから一切変わらない、彼の印象。

「……それは、お前が自分自身の母親を殺めたときのことか?」

 冬なのに空気は暖かい、それがフロリダの冬。

 そんな、季節感のない奇妙な季節の、ある日のこと。

 ある日なんて隠す必要もない、3年前の、12月24日のこと。

 ボクは自分から、自分の病室に母親を呼び出した。

 来てくれるという、確信はしていた。

 だってその日は、僕の誕生日だっただから。

 ボク自身、看護師に教えてもらって初めて知った、誕生日。

 どうして前日を祝うのか知らないけれど、申し訳程度にカードを書いた、愛なんて、僕には分からなかった。

 率直に言えば、僕は母親を試した。

 受け取ってくれれば、それで良かったんだ。

 受け取ってくれれば……それで、良かったのに。

「うん、そうだよ統理……僕が娘であることを捨てた日、っていうのかな……なんていうか、自由になった日だったよね……」

 

 結論から言うと、僕は結局母親を殺した、統理の言ったように。

 あいつは僕の渡したカードを、中身も見ないでつまらなそうに投げ捨てた。

 今日が何の日か知ってる? って、僕は聞いた。

「クリスマスに何を願おうと、ハリエットの脚は治らない」 

 それが、答えだった。

 そんなの……僕だって分かっていたんだ。

 自由が欲しいって、僕はずっと願っていた。

 でも神様は僕の脚を治してはくれなかった。

 神様が僕にくれたのは、ただ「透き通る」だけの力。

 このまま世界の中に溶けて、僕に消えてっていうの?

 でも、そんなの嫌だった。

 限りなく透明に近い、僕という自分。

 身体と車椅子を透明にして、こっそり抜け出しても、誰も騒がない。 

 僕の存在を心の底から認めてくれるのは、世界の中では母親だけなのに。  

 なのに、あいつは僕の微かな家族愛さえも否定した。

「誕生日……覚えてないの?」

 震える声で、そう聞いた。

 忙しくて、忘れていた。

 あいつらしい答えだった。

 頭脳とか遺伝子とか、そんなカタチのないものに拘って、だからあんたの娘は、こんなカタチで生まれたんだ。

「だったら……いいんだ、でもね……カードは受け取ってよ……ちゃんと中身を見て?」 

 そう言えば、形だけでもあれを開いてくれる。

 希望は形になった、文字通り、形にだけ。

「ハッピークリスマス、ママ」

 それが、最後に交わした言葉。

 カードにも同じことを書いたから、聞こえなくても分かったはずだ。

 言葉と同時に、重いトリガーを引いた。

 予め警備員から盗み取っていた、チーフなんとかっていうリボルバー式の拳銃、僕が今握っているこの銃。

 僕のサクラメントで透明になったその銃弾は、カードごと母親を貫いた。

 ただ、結果だけが残った。

 過程は、誰にも見えない。

 銃声は部屋から響いた、だから沢山の人が珍しく僕の部屋に来た。

 でも、誰一人あいつを見つけられなかった。

 その身体はもう、硬い床の更に下に埋まっていたから。

 それが、初めて隠した死体だった。


「……ねぇ統理? どうして僕がサクラメントを持ってる、って知ってたの?」

 ずっと前から、知りたかったことだ。

 きっともう聞けなくなる。

 だからこそ、今聞いておかなきゃいけないことだ。

 統理に銃を向けながら、問いかけた。 

「……死亡して、その後自動的に蘇生した人物がこの世界に何人いると思う? 特に現代では稀だ……そして君がいたのは医療施設だからな、探し易かったんだ、もしかしたら覚醒しているのでは、その程度の予想しか、出会うまでしていなかったさ、だが君は当たりだった、それだけだ……君は良く従ってくれたよ……」

「じゃあ……僕は気紛れで助けられたの?」

「救ってやりたかったのは本当だ……だからこそ悲しみさえ感じているよ……晴、後悔はないのか?」

 銃弾で貫かれながらも、彼は僕を諭すように問うてくる。

 まるで……僕を手放したくないかのように。

 統理はまだ……立ち続けている。

「後悔も何もね……何が正しくて何が間違いなのか、まだ分からない、いつか後悔するかもしれない……でも今は浅儀の傍にいたい、ねぇ統理、誰かの傍にいなきゃ、存在を実感できない人間って……いるんだよ、ボクだって、きっとそうなんだ……」

 あの日、夜は静かに来て、血に濡れさえもしなかった僕は、ただ何も考えずベッドの上で座っていた。

 僕は今度こそ、生き方の選び方も知らないままで、自由の中に放り出されてしまっていたんだ。

 歩けないはずのボクが。

 部屋の中の面会者の気配に気付いたのは、入ってきてから何分も経ってから。

「おじさん……誰?」

「別に、俺が誰だっていいじゃないか、君は……他の人間にはないものを持っているし、そして知っている……その若さで孤独を知るのは悲しいことだ……」    

 皺だらけの草色のコートを着た、おじさん、と呼ぶには何処か若すぎるような男。

 でも、もう何十年も生きてきたような、荘厳な雰囲気を持っている。

 そして、その鋭い目は、悲しみに満ちていた。

 でも、私を見るその目は、哀れみじゃなかった。

「……僕に用があるの?」

「君の蘇生した肉体と、その能力にな……君を救ってやりにきたんだ」

「救う……何で? 僕なんか救って誰が褒めてくれるの?」

 どうしてそんなことをするのか、本当に理解できなかった。

「君は世界の中で生きたいんだろう? 俺が君を外に出してやる、生き方を教えてやる……」

 僕は、彼の言葉を心の底から信じた。

 僕を患者でも失敗作でもない、一人の人間、ハリエットとして見てくれる人に初めて出会ったから。

 その彼に、置いていかれたくなかったから。

 誰も僕を知らない場所に、連れて行って欲しかったから。

 だから、僕は冴葉統理という男に従って、3年くらいの期間を一緒に過ごした。

 短かかったけど、僕が僕として生きることができた3年間。

「僕はね……確かに悪いことはしたと思ってる、でも幸せだったのは嘘じゃない、でもね、僕は浅儀とか睦月を正しいと思ってしまったんだ、もう一緒にはいられない、僕は気付いたんだよ……」 

 冴葉統理にはあって、あの二人にはないもの。

「人間は誰かが傍にいなきゃ存在を実感できないんだ、だったらボクは人間なんだよ統理、僕は浅儀や睦月と同じなんだ、人間になりたいんだよ、だからね、僕は貴方にはなれない……悪いけど」 

 僕は貴方となら何処へだっていけて、どんなことだって出来る、そう思っていた。

 でも、世界はそうじゃないらしい。

 思ったほど簡単に、人間は人間を辞められない。

 いくらサクラメントに目覚めても、人間は人間なんだ。

 むしろこんな身体になって初めて、人間になりたがってさえいる。

 人は誰かの傍にいなきゃ、人にはなれない。

 ……だからあの日の僕は、あんなにも空虚だったんだ。

「僕は貴方と一緒にいたかった……でも、それも終わりだ……ありがとう、僕を連れ出してくれたのは、感謝してる……!」

 僕は貴方の、娘になりたかった。

 叶わない願いだって、分かってるけど……それでも。

「……それがお前の選択なら、無理には止めないさ……だがね」

 統理のその声は、夜な夜な遊びまわって、ただ何もせず過ごしている若い人たちを始末するときの、冷たい声になっていた。

 ボクにはそんな声、一度も向けたことなんてなかったのに。

「お前を救わないといけないんだよ、その銃を下ろして、大人しく運命を受け入れろ……その方が人間らしく死ねるぞ……ハリエット」

「……今更、その名前で呼ばないでよ……僕は晴だ……!」

 他の何処にもいない、瀬尾晴だ。

 だから、この一発で倒れてくれ。

 もう、統理が誰かを救わなくてもいいようにするんだ、僕が。

 でも、さっきから銃弾は統理の身体をどんどん撃ち抜いている、なのに、倒れさえしないのは何故?

「ねぇ統理……貴方のサクラメントって何なの……?」

「お前にも、睦月にも、見せたことはなかったね……今起きている現実を否定しないほうがいい……ありのままを受け入れろ」

 統理の持つナイフは、金属同士がぶつかりあう音をたてて、そして空を切る。

「……立てるのか、いつからだ?」

 車椅子のフレームに大きな傷をつけて、それでも私の体は無傷で生き残る。

「分からない、でも……立とうと思えば立てたのかも」

 それまで諦めていたボクの脚を、無理やりにでも動かしているものは何?

 きっとそれは、人間になりたい意思。

 自分の両足で世界に立って、ボクはボクでありたい。

 ボクはもう、世界に立つことを諦めない。

 諦めたくない。

「ほら、浅儀はボクに立つ勇気をくれる……僕はずっと、あの女の言葉が怖くて立てなかった、貴方に出会っても立つ勇気だけは貰えなかった……だから信じるんだ、僕が欲しい自由は貴方の下で存在しつづけるだけの、籠の中の鳥みたいな自由じゃないんだ……僕は今ここに立っている……! その『立つ』実感が欲しいんだよ!」

 これが、ボクの選んだ世界だ。

「ならば……その脚でお前はあと何発撃てる? 2発か? 3発か? その抵抗を続けてみろ、生きている実感が欲しいんだろ……」

「……ボクは……死なない! 僕には誰も触れない!」

 だからこそ、こんなにも自由なんだ。

 全身に圧し掛かるような、一発の衝撃。

 片膝はもうほとんど地面につきそうになっている。

 でも、足はまだ地面を離れていない。

「その攻撃がお前の油断だよ……! 絶対的な防御故の油断だ……!」

 銃を握るボクの腕はまだ世界にある、それを辿れば……もし辿られたら。  

「……ボクを殺しても……何の意味もないのにね……」

 ほんの一瞬でも立てたのなら……それでいいかな。

 浅儀にも……会えたし。

 諦めのせいか、力がどんどん抜けていく。

 銃はもう、必要ないかな……。

「……止まった……!?」

 歪んだ車椅子のフレームが、目の前で刃を止めている。

 ついさっきまでは、そんなもの見えなかったのに。

 いつの間にか……僕が触れていた?

 これも、浅儀の力なの?

「――ねぇ、意味がないなんて言わないで……そんなの、私が言わせない……!」

 ボクの頭の上で、真っ白な右腕が、統理の背中の空間を掴んでいる。

「お前の存在は、はっきりしすぎるのよ……直に掴めば止まるわ……直に……」

 今にも途切れそうな声で。

 今にも、折れてしまいそうな腕を伸ばして。

 藤原睦月は、僕の後ろに立っていた。

 浅儀に、その身体を支えられながら。

 僕の腕は、いつの間にか壁に触れていた。

 縋るように、指を這わせて。

「片腕だけで……その傷で動けるのか……お前は」

「今のお前のようにね……!」

 これが……統理の言っていた、危険な腕?

「高良野くん……銃を……!」

 私が取り落とした銃を拾って、浅儀はそのまま銃口を向ける。

 ただ一度だけ、乾いた銃声が暗闇を湛えた校舎裏に響いた。  

 浅儀の目は、私に驚いていた頃の、ただの人間の目なんかじゃなかった。

 案外……頼もしいんじゃないか。

 統理は倒れて、また動きを止めた、でも……きっと生きている。

 僕の身体は、まだ凍りついたように震えている。

「……良く頑張ったよ……格好良かった、高良野くん……」 

 力なく虚空を掴む手を離して、そのままムツキも同じように地面に倒れ伏した。 

 満身創痍っていうのは、きっとこういうことを言いたいんだ。

「……終わって……ないんだよね?」

 僕の背中を貫くような悪寒は、まだ続いている。

「終わってないよ……でも、今ならもう、逃げてもよくなった……」

 浅儀の声も、戻ってきた。

 でも、無傷なのは僕だけだ。

 皆……傷ついてしまった。

「睦月は連れて帰れる……晴は、これからどうする?」

 ボクはこれから、何処に行けば良いんだろう。

 ようやく月は空を上りきって、この静かな夜を飾り始めた。 

「まだ分からないから……まずは探してみるよ、僕は何処にでもいけるから……」

 

 今ボクに出来ることは、きっとそれだけだ。

 泣きたいけど、ボクに涙を流す権利はない。

 ボクは初めて、今ここを包む夜を、恐ろしいと感じた。


「ねぇ浅儀……今は一人にして……、いつか会いにいくからさ。僕だって色々、背負ってたんだ、でも……今はなんか、慣れないんだよ、軽すぎてさ……」


   ● 

 

 霞む視界の中に、よく知っている天井が見えた。

 窓からの月明かりがあっても、部屋の中は仄暗い。

 明かりを点けようと伸ばした左腕の、その先には包帯以外何もない。

「あ……そっか……」

 ただ傷ついて、そして傷つけただけだった。  

 11月、深夜1時の空気が肌を刺す、その冷たい痛み。

 その痛みが与える存在の実感を、掻き消したくなる。

 でも、どうやったって掻き消せない。

「……まず私……どうしてあのまま帰れてるんだ……?」

 どうして、と言ったところで、答えは明白だった。

「高良野くん……だよね、絶対そうだ」

 包帯だけやけに丁寧に、しっかり巻きつけて、汚れた服には一切手をつけないで寝かせるなんて、そんな臆病なことをするのは間違いなく彼だ。

 胸元のファスナーに触れないなんてところは、相変わらずなんだ。

 よく知る彼の「存在」は、この近くにはない。

 傷に触れないようにして、左袖の千切れたパーカーを脱いでいく。

 今日は……伯母さんは帰ってこない日だから、私以外にはこの家には誰もいない。

 ……傍にいて、ほしいのに。  

 無意識のうちにそう呟いて、気付いてしまう。

 まるで代わりを求めるみたいに、ほんの少しだけ暖かいパーカーを抱きしめている私がいるんだ、ここには。

「私……弱くなった……」

 でも……もう、弱い私ではいられないんだ。

 高良野くんには傍にいてほしい、だけど、弱くはなれない。

 だからこそ……彼にはさよならを言わなくちゃいけない。

 もうこれ以上、高良野くんを傷つけたくないんだ、私は。

 だから、そう決めた。

 私は孤独じゃなきゃ、世界を傷つけてしまうから。

 また、誰かの世界を壊してしまうから。

 傷つくのは、私だけでいいんだ。

 悪いのは私だから……。

 誰も、悪くないんだから……。

「電話して……出てくれるかな……」

 ぎこちなく、片手で携帯電話を動かしてみる。

 ……声が聞きたいんだ、君の声が聞きたい。

 君を見失ったから、私は傷ついてしまった。

 君には、隣にいて欲しい。

 そう思ってた癖に、私は君を使って、自分の我が侭を叶えようとしたんだ。

 だから……こんなにも傷ついたんだ、私は。

「……睦月、起きたんだ……良かった」

 ぷつり、という小さな音の後、嬉しそうな声が、スピーカーから聞こえてくる。

「……今、何処にいるの?」

「帰り道、時間がかかりそうだよ……この傷じゃ、電車もバスも使えないしさ……」

 その口ぶりから察すると、まだそんなに距離は離れていないらしい。

「……痛むの?」

「君ほどじゃないさ……大丈夫」

「……なら、いいけど……」

「けど……?」

「怖く、なかった……? 痛いんでしょ?」

「怖くはなかった……君がいたから」

 ……そんなこと、言わないで……。

 忘れてほしいのに、忘れたいのに。

 ……忘れられなくなるんだ、君のこと。

 だから……無理やりでも忘れてほしいんだ。

 君には、悲しんでほしくない。

 自分が消えれば良い、なんて思ってしまう君だから、悲しんでほしくない。

「……ねぇ高良野くん、悪いけど……会えないかも」

「分かってる、耐えてみるよ……自分自身、このままじゃ駄目だと思ってるしさ」

「……違うの……もう会ってほしくない……君は私のことなんか忘れて、何もかも忘れて、普通の日常を生きてよ……君は普通の人間だから……君は、生きていけるから……!」

 そうすれば、私が消えるだけなんだ。

 私がいた証が欲しいのは、私だけなんだ。

 私は、ここにいた。

 そう思って、消えられるのならそれでいい。

 怖いんだ……喪うのは、怖い。

「……悪いけど、普通の人間にはもう戻れないよ……」

 悲しそうな、戸惑っているような、消えそうな声。

 ……そんな声で、そんなこと言わないで。

 その声の更に後ろでは、踏み切りの警報音が微かに聞こえてくる。

「知ってるんだ……俺も、君も……皆死んでた、ってこと……睦月、もう戻れないんだ……あの日から、俺は」

 彼は、知ってしまったんだ。

 知ってしまった……サクラメントのこと。

 私の身に何が起きているかは知らなくても、私が死んでたことをしっている。

 そして、自分も死んでたことに、気付いてしまったんだ。

 だから……傷ついてもいいっていうの?

「君は私なんかいなくても……生きていけるでしょ……私なんかいなくても、君は自分の存在を感じられる……! 私じゃなくてもいいんだよ……」

「俺の存在なんか、自分でも分からないんだよ……自分が自分じゃないんだ、自分が自分だ、っていう、当たり前の実感が持てないんだ、だから、消えてもいい、なんて思った。 でもさ……覚えてるだろ? 君はその俺に、ここにいてもいい、って言ってくれた、世界なんて分からないっていう俺に、世界にいてもいいって、あの時に言ってくれた、それが嬉しかったからさ……今だって生きてるんだ、救われてるんだよ、だから助けるんだ、君が生きていけるように、救ってくれ、に応えてくれた相手を救えないのは、悔しいから……! 悔しいんだよ……自分は何もできない、って見せ付けられるのは……嫌なんだよ……!」

「だからって、君まで傷つく必要はないでしょ……! 馬鹿……! 死にたがりは良くないって……!」

「死にたがってるのはさ……今は君のほうに見えるよ……」

 ……やめて……駄目なんだ。

 そうやって私に……こんな私に、手を差し伸べないで。

 もう、嫌なんだ……傷つけたくないんだ。

 私なんか誰も知らなければ……それで、幸せなんだ。

「……死にたがってなんか……ないよ……私は、ただ……」

 君を傷つけたくない。

 その言葉が、どうしても言えない。

 それさえ言えれば、傍にいてくれるのに。  

 また、私は強がってるんだ。

 分かってるけど……でも。

「……君の傍にいさせてほしいんだよ、君じゃなきゃ駄目なんだ、俺のことを分かろうとしてくれたのは……君だけだから、君がいいんだ、あの時声をかけてくれた、君が好きなんだよ……だからさ、死にたがらないでさ……駄目なんだろ? そういうの」

「今更……あんなこと持ち出して……卑怯だよ、そんなの……」

 私の言葉に、私は何も返せない。

「それは……君の願い?」

「……そうだね、睦月の傍にいられれば、それでいいんだ、一緒に傷ついていけるのはさ、俺と君だけなんだよ……どっちが傷つくか、なんて怖がらなくていい、一緒に傷つけばいい……一つの傷を二つに分ければいいんだ……」

「君は……それでいいの……?」

「君の傍で死ねるなら、それで幸せだからね……」

 傷つけばいい、だなんて……。

 ……傷つくことを怖がらないヤマアラシなんて、ルール違反も甚だしいのに。

 でも……そういうのも、きっと自由なんだ。

 傷つくことなんて怖がらないヤマアラシ、真っ白なカラス、背中から地面に降りていく猫、そういう、「当たり前」から外れた、私たちみたいな存在が、いてもいいんだ。

 私は……自分でそんなことを言っていたの?

「幸せ……なんだ」

「君が人間になりたい、って望むなら、一緒に人間になっていけばいいんだよ、また見たいんだ……君の世界を。君が自分の好きなものを語るときの声、好きだからさ……」

「……ねぇ高良野くん、傍にいてくれる?」

「君が望むなら……資格がないとか、いてもいいのか、なんて聞かないよ、それでいいんだ、って言ってくれてるんだから……」

 どうして……気がつかないんだろう。

 強がって……突っ撥ねて、いつだって。

 そうなんだ……いつだって。

 こんなにも……近かったのに。

「……そこにいたんだ……君は」

 君の存在が、こんなに近かったなんて……。

「……見えたから……戻ってきただけだよ……こういう使い方が正しいんだ、本当なら……きっとね」

「今……行くから……待ってて」

 そこにいて……離れないで。  

 そう言い切って、そっと電話を切る。

 

 あのドアの向こうに、君はいるんだから、直接、声が聞きたい。 


    ●

 

 戻ってきて……良かった。

 傷だらけの身体は痛むけど、そんなことはもういいんだ。

「……入ってきて」

 そう言いながら、そう言う癖に、睦月は自分でドアを開けて、俺を家の中へと引き込んでいく。

「……もう、会えない気でいたのに……狡いよ、君は……」

「……一人じゃ不器用だけどさ……君となら生きていけるんだ、俺は」

「……そんなの、私だって同じだよ……独りじゃ……駄目になるんだ、私は……弱いから」

「弱くはないよ……優しいだけなんだ、睦月はさ……」

 優しいから、君は死のうとする俺を止めてくれたんだ。   

「……君に救われて、俺は後悔なんかしてない……あの時死ねばよかった、なんて思ったことはないんだ……」

 別に、そんなことは気に病まなくても良かったんだ、誰だって。

 救われているんだから、生き延びて……そして。

「……私は……このままでいいの……? 悪い子なのに……? 自分が強がるから、君を道連れにしてるのに……?」

「最後まで傍にいるから……悲しいこと言わないでくれ、道連れじゃないんだ、お互い、生かしあうだけだよ……もう二度と、死なないようにさ……」

 君が君でいる限り、じゃないんだ、もう。

「君が君じゃなくなっても、君だったのなら、俺はずっと君の傍にいる……君の孤高が好きだったけど、君が本当は孤独だったんなら、壊れないように傍にいるだけだ……何も変わらない」

「だったら……私を見て?」

 右手だけで、睦月は俺を抱き寄せる。

 冷たい景色のまま変わらない、短い廊下の中で、睦月だけが暖かい。

 もう、狼狽えて逃げようとなんかしない。

 それじゃ、いつまでも理解できないんだ。

「私……素直じゃないけど、強がりだけど……真っ黒だけど……君の傍にいたい、っていうのは……本音だから……」

 睦月は、今にも泣き出しそうな声で、言葉を搾り出していく。

「私ね、怖いんだ……私は人間になりたいのに……あいつはどんどん人間から離れてく、私は人間らしく生きたいのに、それを拒むあいつはどんどん人じゃなくなって、私を力ずくで止めようとするんだ……怖いんだ、あいつを超えたとして……私は人間でいられるの? ……それが分からなくて、怖くて……」

 俺の肩を掴む右手の力が、だんだん強まっていく。

 離さないなんて言われなくても、離れないのに、もう。

「……助けて……浅儀、傍にいて……?」 

 それを頼みたいのは、俺のほうだっていうのに……。

「……うん」

 やっと、名前で呼んでもらえた。

 それだけでも、嬉しいのに。

「睦月の傍から……逃げたりしないよ、俺は」

 

 もう、見ているだけ、で終わりたくないんだ。

 壊れてしまった君を、一人にしたまま逃げたりしない。

 

 それが……俺の役目だから。 


 俺はただ未来を見るんじゃない。

 君と一緒に……君の未来を見ていくんだ。

 

 二人なら……弱くはないんだから。  


「浅儀……しばらく、帰らないでね……?」

「分かってるよ……俺も一緒にいたいから」 

 

 睦月を奪われたくない。

 

 ……いつの間にか。そう思っていたなんて。 


 今更、それに気付くなんて……。

  


    ●

  

「忘れるなんて……無理に決まってる……」

 あんなにも、現実すぎるのに。

 ただ強いショックだけを遺して、全て消えてしまった。

 赤い痕跡と、ドヴォルザークの旋律だけを私の記憶に残して、全て。

 その痕跡、どちらかが流した血の痕のせいで、日常はほんの少し綻んだ。

 あるはずの授業は、全て中止。

 学校に着くなり、生活指導の先生にそう言われた。

 校舎裏にあった血痕が見つかって云々、と名前も知らない、後輩らしい誰かが説明してくれた。

 今日一日だけ、晴れて私は自由の身だ。

 でも、心の中に自由はない。

 だからずっと、こうして制服のまま、睦月とほんの少しだけ過ごした公園で、私らしくもなく、考え続けている。

 いつの間にか、辿り着いてしまったから、仕方がない。

「……どうしろっていうの……睦月……」 

 今の私なんかに、何が出来るんだ。

 忘れて、と何度も彼女は言った。

 何度も、まるで自分に言い聞かせるみたいに。

 忘れたいのは、いったいどっちなんだろう。

 そんな疑問が今更になって浮かんでくる。

「私……最後まで見届けるべきだったの……?」

 分からないし、一生かかっても答えは出ない。

 何も望まない私を助けて、そのまま何処かへ行ってしまった。

 死んでいなければ、別にいいんじゃない。

 ……と思ってしまう自分が悔しい。

 でも、私はそれしか出来ない。

 ただこうして、結果を見ることしか出来ない。

 現に……何も出来なかった。

 何もできないのに……私だけがまだ日常を、何も知らないふりをして生きている。

「それでいいわけ……ないって」

 ふと呟いて、そして気配を感じた。 

 さっきまで誰もいなかった落ち葉だらけの道を、がさがさと音を立てながら通り過ぎていこうとする音、それに続く、こつん、という音。  

 そして、だんだん増えていく靴型の痕と、それに寄りそう円形の痕。

「誰か……そこにいるの?」

 いればいい、くらいの気持ちで独り言のように呟いた。 

 なのに。

「っ……嘘、見えてる? ……っていうか……顔見知りじゃん……」

 落ち葉が舞い散る中に、あの車椅子の子がいつの間にか立っている。

 立っているんだ、自分の脚で、松葉杖を使ってはいるけど。 

「僕のこと、覚えてる……? っていうか名前も知らないか」 

「何しに来たの……? 監視?」

 肉体的にはあんなにも不完全な相手を、私はまだ疑っている。

 素直になれないんじゃない。

 私はきっと「普通じゃない」が怖いんだ。

「あぁ……怖がってるなら……ごめんなさい」

 謝られても、どうしようもない。

 何より、受け入れるふりをして心の何処かで恐れている私のほうがよっぽど性質が悪い。

「……あの時、なんで私に向かって忠告したの……冴葉統理のことは知ってたんでしょ? どうして?」

 それだけが、気がかりだった。

 あの男は本気で私を殺そうとしていた。

 でも、この子はそうじゃない。

 私を、真実から逃がそうとさえしていた。

 そんな、甘さを感じたんだ。

「……好きで人を殺すような人じゃないんだよ、ボクは」

 私のほうに、初めて彼女が歩み寄った。

「なるべく死ぬ人数は少ないほうがやっぱり精神的には楽なんだよ、お姉さん、きっと……罪の意識っていう錘の数が少なくなるから」

 語る彼女の目は、冴葉統理や睦月と同じように、悲しげな落ち着きを秘めていた。

 まだ大人になりきれない顔立ちには似合わない、深すぎる青い瞳。

 この子にも、罪の意識は圧し掛かっていたんだ、ずっと。

「だからね、僕は償うことにした、今の僕はもう、冴葉統理とは無関係な、ただ少し常識が通じないだけの、満足に歩けもしない弱者なんだ」

「弱者だなんて言わないで……きっと貴女は強いよ……だって自分であの男から逃げてきたんでしょ? 私は、誰かに縋ってしまったから」

 でも、彼女は黙って首を横に振った。

「結局僕もね、誰かに頼るしかなかった、そうじゃなきゃ、自分の罪にも気付けないんだ……ねぇ、僕は一つ気付いたことがあるんだ」

 話を聞いてくれるのが嬉しいのか、彼女の声は少しずつ明るさを取り戻していく。

 私も、嬉しかった。

 答えなきゃいけない、続けなきゃいけない、そんな形だけの「友情」なんていう嘘に縛られた会話じゃない。

 だからかな。

「誰かに頼っちゃいけないなんて、そんなの本当に一握りの強者が偉そうに言ってるだけなんじゃないかな、誰かに頼らなきゃ自分が何処にいるかも見えないのが僕達なのに、どうして独りになろうとするのかな、皆そうだよ、誰かに頼るのは格好悪い、なんて言っても、本当にピンチだ、って時は誰かに頼らなきゃどうしても生きられないのが僕達人間なんだ、だから人間は、誰かが隣にいたほうが幸せなんだ、って」

 誰かが傍にいる、なんて、本当に当たり前のこと。

 でも、きっとこの子にとっては当たり前なんかじゃなかったんだ。

 だから、こんな分かりきっていることをいうんだ。

 でも、そんなこと分かっているのに独りになろうとして、独りにさせようとして、どうやったって分かり合えないのが私達だ。

「だからさ、お姉さんは日常を生きてればいいんだ、幸せで終わるためにね、悩まなくてもいいんだよ、だって最初から、見てる世界が違うんだもんね……」

 この子は、きっと優しい子になれるはずなんだ。

 本当なら、なっていてもおかしくない子なのに。

「お姉さんは、今は人間のままでいてよ、無理に私達のことを分かろうとしないでさ、それがきっと、睦月の幸せになるんだから……」

 そう言い終わると、ゆっくり踵を反して、去ろうとする。

「……僕はそれを最後に伝えにきた、これは僕の本心、誰の指示でもなんでもないんだ、じゃあねお姉さん、会えてよかった」

 ゆっくり歩んで、ゆっくり何処かへ行こうとする。

 見ていて心配になるくらいに不安定な足どりで。

「……ねぇ! 名前、なんていうの?」

 それだけ、知りたかった。

 この子には、また会える気がするから。

 きっと、今直ぐには、この街を出て行かない。

 そんなことが出来るほど、この子は強かじゃない。

 失礼かもしれないけど、何故かそう思う。

 今のまま、私を一人にしてほしくないから、そんなことを思ってしまうのかもしれない。

「……瀬尾晴、って言うんだ……空にルーツがある名前、誰かの傍でしか青い色を持てない、空みたいな名前だよ……」

 彼女が指差す11月の空はよく晴れて、そして高い。

 まるでこの世界を、遠くから壊さないように見ているみたいに。

 それはまるで、何もできない私達。

 何もできないのに……それが悔しくない。

「何か、スッキリした、ありがと……!」

 そう言い終わる頃には、晴の姿は世界に吸い込まれるように消えていた。

 

 私は、逃げていればよかった。

 でも、あの逃げてしまったら、きっと何も知らない、本当に何もできない、いつの間にか死んでいく人間のままだった。

 そう思うと、不安が少しだけ軽くなる。

「……まだ、届けばいいな……」

 晴にまた会えるのなら、睦月にだって、また会いたい。

 

 私は私で、やっぱり待っているんだ、あの言葉通り、友達を。

「いつか……ね」

 

 ……もう、帰ったほうがいいのかな、帰れるうちに。

 

   ●

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