「炎」/君が隣にいてほしい

  ●


 家族は暖かい、だから私は、皆が大好きだった。

 でも、皆どこか冷たくなった、私はそれが納得いかなかった。

 お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、皆どこか冷たくなった。

 暖かさがどこかにいってしまったみたいに、家族で話をするなんてことも減っていた。

 私、御堂夏楠が初めて寂しさを自覚したのはそんな頃だった。

 私の平穏はどこにいってしまったんだろう。

 あんなにも暖かい、とても幸せな平穏、大好きな平穏、きっとその時なんだ、私が初めてそれに気付いたのは。

 私が好きだったのは家族じゃなくて、きっと暖かさだってことに。

 どっちの親についていこうか、なんて決められるはずがなかった。

 どちらにせよ、私の大好きな平穏がどこかにいってしまう。

 それが、どうしようもなく怖かった、私の中の大事なものが奪われていくみたいで。

 だから、私は家族にもう一度暖かくなってもらいたかった、私自身はただただ純粋に皆を愛していたから、冷たくなってほしくはなかった。

 ……だから、私は火をつけた。

 皆の目を盗んで、使い捨ての百円ライターを手に入れていた。

 実行したのは、確かとても寒い、体の芯まで凍てつくような冬の日。

 明日には、家族がバラバラになってしまう、家族最後の日。

 灯油だってたっぷりあった、私の小さな手にはもの凄く重かったことを、私は未だに覚えている……確か、まだ私は11才。

 昔からストーブの傍は大好きだったし、誕生日のケーキの蝋燭だってとっても楽しみにしていた、それから勿論、花火だって。

 きっと私は暖かいものならなんでも大好きで大歓迎、そういう性をもって生まれてきたんだろう。

 火の色は、私の心を躍らせた、大好きな暖かさに、私は優しく包まれていた。

 目の前の光景に酔いしれているうちに、いつの間にか火は家全体に広がっていた、もちろん、窓から外に出たってそこは一面の炎の中。

 夜の闇にだんだん広がっていく炎の明かりが凄く綺麗だった。

 私はライターを持ったまま家の中に入って、まずは玄関のドアの鍵を全部閉めてあげた、そうじゃないと暖かさが逃げてしまうから。

 夏楠、なんて私を呼ぶ声が聞こえた、少し怒っているような、お父さんの声だった。 

 そういえば、私が無理言って出て行こうとするのを待ってもらったんだっけ、まぁいいや、今更そんなことはどうでもいいんだ。

 家の中も、私が振り撒いた炎でいっぱい、どこに逃げても、もう全て炎に焼かれるだけなんだ。

 例えようもないくらいに、最高の光景だった。

 凄く気持ちよかった。

 ベッドの中でする自慰なんかじゃ比べものにならないくらいの興奮と喜びが私を包んでいる。

 これが私にとっての平穏なんだ、崩れてしまうくらいならいっそ壊れてしまえばいい、永久にこの炎の中に閉じ込めてしまえばいい。

 私は家族を見捨てるほど薄情者じゃないから、こうして一緒に炎の中にいてあげる。

 大好きな家族、大好きな火、大好きな暖かさ、全部全部戻ってきた。

「……嬉しいなぁ……ねぇ、シオンもそう思うでしょ?」

 リビングに倒れたシオン、つまり私のお兄ちゃんの体は、もうほとんど動いていなかった、返事もない、何かが焦げる香りがしている、何だろう。

 だんだん家の中の騒がしさが消えていく、もうそろそろ外に出よう。

 いくら暖かくなっても、私まで死んだらつまらないし、暖かさを感じられなくなってしまう。

 早く何処かへ行かないといけないな。

 そう思って、ドアの方に振り向いたときだった。

 大好きなお母さんの姿が見えた、今になって何しに来たんだろう。

 私の左手にあるライターを見て、信じられない、そう言いたいような顔なんてしている、嫌だなぁ、分かってる癖に。 

 お母さんの手には包丁が握られていた、刃先は私に向いている。

 あぁ、遂にお母さんまでおかしくなってしまった、どうすればいいんだろう。

 お母さんの体にもかなり大きく火がついていて、何かもう地獄にいるみたいな様子で私を見ているんだ。

 こんなにも暖かくて、私の心はこれ以上ないくらいに穏やかなのに。

 お腹に何かが入ってくる感触があった、後になって物凄い痛みが私の体の中を突き抜けた。 

「ねぇ……何で邪魔するの……私は皆が大好きなのに……どうして?」

 まさか本当に刺されてしまうとは思わなかった。

 あぁ、皆壊れちゃった。

 もしかして私のせい? いや、そんなわけない。

 あんなにも平和だったのに、喧嘩ばかりして、挙句の果てに別れるなんて言い出した時点で、私の家族も平穏も、全部壊れていたんだ。

 お母さんは私を刺したと思ったら、そのまま倒れてしまった。

 背中全体に火が広がっていた、きっと幸せな夢でも見ているのかな。

「どうしよう……血が止まらないよ……」

 私のお腹からはどくどく血が出続けて、服がどんどん赤黒くなっていく、どうしてお母さんはあんなことしたんだろう、やっぱり、私のこと嫌いだったのかな。

 もう分からないのが怖い、それにどんどん眠くなっていく。

 もう、暖かさしか感じたくなかった。

 ああ、きっと死んでしまうんだ、私は。

 そう思うと、自然に涙が流れた、でも、その涙だって暖かい炎がすぐに拭ってくれた、嬉しかった。

「……暖かい……大好き」

 何回も繰り返しながら、私はいつのまにか眠ってしまった。

 

 どういうわけか、私の体は燃えていなかった、そして私は死んでもいなかった。

 いや、でも火傷ならした、左目が見えなくなるくらいの酷い火傷が私の顔には残っていた、きっと治らない。

 だけど、それさえも私には誇らしかった。

 まだ視界がフラフラしていたから、私を守るみたいに燃え残った瓦礫に手をついた。

 そうしたら、いきなりその瓦礫の端っこに小さく火が点いた、私はもう何も持っていなかったし、周りに火なんてもうなかったのに。

 今度はテーブルの欠片に触った、そうしたら、それも燃え始めた。

 寝惚けた頭では、まだよく分からなかったけど、きっとこれは神様から、優しい私へのご褒美なんだ、なんて明るく考えた。

 これでずっと私は暖かくいられる、平穏でいられる。 

 行くあてはないけれど、もう寂しくなかった。

 お母さんは私のお腹を刺した、凄く痛かった。

 お父さんは私を叱ろうとしたんだ、会ったら怒られる。

 だったらシオンを探そう、シオン君だけは優しかったし、きっとお父さんとお母さんが別れても一緒にいられたはずだ。

 一人よりも、きっと二人のほうが暖かいから、一緒にいようよ。

 探し始めると、すぐにシオンの声は聞こえてきた。

 暖かい、炎と一緒に。

 ……これでもう、寂しくない。

「ほら、行こ? シオン」

 手を繋いで、大事なライターを握って、行くあてもなく歩き出した。


 ……懐かしい、暖かい、終わらない家出の始まりを、私はまだ思い出せるんだ。

  

 

  ●

 

 結局、世の中は何一つ変わっていなかった。

 本格的な秋が訪れて、台風の季節が来ても、誰一人としていつもと変わらない日常を過ごしていた。

 雪村仁人があのあとビルの中でどうなったか、それはきっと睦月だけが知っている。 

 誰も仁人の失踪を疑問に思わなかった、そしてわざわざそのことを話題にして笑っているような無神経さもなかった。

 結局、皆はただただ無関心だった、悲しいけれど。

 でも、だからこそ世界は動きを止めずに回っている。

 世界は人間一人一人の死になんかいちいち構ってくれないまま、それを記憶の片隅に追いやって動き続けている。

 だからきっと、この街だってどんなことが起きていようと動き続けているんだ、どんな時だって。

 ここしばらく続いた台風とその前兆でだって、その流れは一切変わらなかった。

 強いていえば、睦月が朝から学校に来ない日が続いたくらいの話。

 なんとなく約半年で慣れたつもりの教室が、自分の想像以上に息苦しく感じたのは我ながら驚いた、悲しむことよりも先に。

 結局高良野浅儀の世界は、そのくらいに不確かで不安定な存在だったということらしい。

 ようやく、気の遠くなるくらいに長い雨が上がった。

 全てを台風が吹き飛ばした後の10月の空は、雲ひとつ見えない晴天だった。

 だから、しばらくぶりに寄り道をした、雨に濡れたままの加賀屋市街には、やっぱり同じような人々が溢れている。

 少しでもこの世界から目を背けるために、読みたい本を買いに。

 孤立するのは嫌なんだ、でも、孤独なら嫌いじゃなかった、昔から慣れていたから。 

 本の世界は人を近づけさせないためには好都合すぎた。

 存在の希薄な自分の世界を上書きするには丁度良すぎた。

 だから今だって、こうして頼ってしまうんだ。

 何冊も好きな本だけを買って、しばらく溜め込んだ財布の中身を程よく軽くする、この瞬間は結構楽しかった。 

 なんというか、読書するという目的以前に、本を集めるという行為そのものに喜びを感じている自分がいる。

 こういうタイプの人間をビブリオマニアとか言うらしいけど、世間でそんな名前で呼んでくれるような人間を俺は知らない。

 きっと単にそういう相手を知らないだけなんだろうけど。

 袋の重さがなんとも心地いい、こういう日だってたまには悪くない。

 ふと何かが背中にぶつかる、柔らかい布の感触。

 振り返ると、見慣れた黒いシルエットが立っていた。

 睦月は濃紺のパーカーを羽織って、グレーのハイネックシャツで首を隠した私服姿、そして自分の世界を静かに過ごしていたらしい。

 流石に学校に来ないのはやり過ぎだと思いたいけど。

 きっと何か話しかけでもするのが上手い生き方なんだろうけど、そう上手くはいかないのが現実。

 人と接するのが怖くなったのはいつからだったか、そんなことはどうでもいいんだ。

 とにかく、話を自分から振るということを忘れてしまったんだ、高良野浅儀という人間は。

 基本、受動的なコミュニケーションしかできなくなっているんだ。

 人間嫌いなんじゃない、きっと人間の心が怖い。

 その恐れを睦月にまで抱いてしまうのは何故なんだろう。

「……気付いてるなら、何か言ったら?」

 不思議な緊張から解放するような睦月の声が聞こえてきた。

「ごめん……少し考え事、色々話したいことはあるしさ」

 我ながら苦しい言い訳だっていうのは判っている、きっとこんな戸惑いくらいなら、睦月はもう気付いているはずだ。

「こういう日はついてるなぁ……ねぇ高良野くん、時間あるでしょ?」

 ない、とはどうやっても言わせないような、少し高圧的な口調がなんとも睦月らしくていい。

「意地でも巻き込むのが君だろ? だったら大人しく付き合うよ」

「君に本を選んで欲しいの、合計3000円以内、私自身の趣味であれこれ読むのはもうこの長雨でやり尽くしたし、私は君の世界が知りたいの、私の世界だけを一方的に開き続けるなんて不平等じゃない?」 

「不平等、ねぇ……」

 まぁ確かに、依存しすぎなんじゃ、って怖くはなるけれど。  

「あのさ、何か希望とかある? 好きなジャンルとかさ、そういうの」

 睦月は人指し指を口元に当てる、「考えている」仕草のあとに。

「日本語で書かれてて作者の自分語りじゃなくって、変に嵩張らなきゃ、別に何でもいい」

 そういう返されかたが一番面倒なんだよなぁ……。

 「何でもいい」って言い回しは、言う側としては便利だけど。

「そう言われると変に迷いそうでなぁ……」

「大丈夫、別に文句なんて言わないから」

「……だったら、気楽に探してくるよ」 

 好きなものを、好きなように探させてもらおう。

 きっと下手に考えないほうがいいんだ、こういう時は。


  ●  


「とりあえずこれかな……どう?」 

 彼が選んだのは、手ごろな値段の文庫本4つ。

 一冊は分かった、ある洋画の小説版、「7つの大罪」に絡んだ殺人事件を追う、所謂サイコホラー、といっても生まれてすぐの作品だから名前だけしか私は知らないし、そういうものに小説版があることにまず驚いた。

 あと3冊は読んでみなければ分からない。

「どう? って……読む前に聞いてどうするの?」

 困った顔をされても、反応に困るのは私。

 今日の高良野くんはどこかおかしい、いつも以上に不安定。

「ねぇ、もしかして私のいない間に何かあった?」   

「何もなかったし、もし何かあったとしたら、きっと耐え切れなくてここにも来てないよ、きっと」

「だったらいいけど……また死のうとさえしなければ、ね」

「それに関してはもう心配しなくていいよ、今のところは、だけどさ」 

「その言葉、覚えておくから」

「君の記憶力で言われると、本気って感じがするよ」

「それじゃ、私会計して帰る、時間割かせたわね、ありがと」

「明日こそは学校に戻ってくれると嬉しいよ」

「全部雨が降るのがいけないの、降らなければ行く、それだけの話」 

 それじゃ、と小さく手をあげて、高良野くんは出口まで歩いていく。

 まだ、彼の世界ははっきりと見えてこない。

 私の手の中に、4冊の本がある、それは純粋な、彼の世界の一部。

 高良野くんと話をして、こうして世界を知ろうとしている。

 そんな進歩があっても、私はまだ高良野浅儀の世界には近づけない、そんなグレーの寂しさを感じた、本くらいじゃ分からないんだ、高良野くんの行動する理由や、あの不安定さの本質なんて深すぎて、私の手で直接触れなければ、きっと届かない。

 あの夜にだって、あんなにも知りたかったのに、何故か触ることができなかった。

 触ろうと思えば、きっとそれこそ簡単に彼の「存在」に触れるはずなのに。

 でも、そんな簡単なことがどうしてもできない、触れてしまうのが怖い、彼の全てを知ることのできる自分が怖い。

 私は彼の全てを知った上で、こうやって日常を過ごせるだろうか?

 そういう疑問が心の中で生まれて、迷って、結局触れないのが現実。

 雨上がりの繁華街は、未だに灰色をした雨の名残を残して、雑踏と人々を動かし続けている。 

 たった4冊のはずなのに、手元の本は天秤を傾ける錘みたいに、私の腕に重く吊り下がっている。

「やっぱり、雨は好きじゃないなぁ……嫌いだ」

 雨というよりも、水そのものを無意識の内に避けてしまっている。

 未だに水溜りなんて怖くて踏めもしないし、家でシャワーを浴びるときだって、限界まで勢いを緩めてしまうくらいに、水は嫌いだ。

 雨の色は、この世界にあるどんな水よりも哀しくて、空虚な色をしていた、ほんの少しだけ幼かった私の心は、雨をそう捉えていた。

 だから、雨の季節が私は大嫌いになった。

 条件反射とか、自己暗示とか、そういう類いで体調を崩すほど。

 だから、台風が来るような日は意地でも学校を休んでいたかった。

 いっそ死にたくなるような不快感を堪えながら、あんな残酷な世界に身を置くよりは、自分独りの世界に縋って、篭っているほうがよっぽど幸せだった。

 でも、何故だろう、こんな寂しさは初めてなんだ。

 世界から離れることなんて慣れっこのはずだった、世界から離れて孤独になるのは自分自身が選んだことだって、そう思っていた。

 いつか高良野くんは言っていた。

 世界からいつの間にか孤立するのと、自分から孤独を選ぶのは違う。

 そう、寂しげに呟いていた。

 今の私は孤独なの? それとも世界の中で孤立な存在?

 すぐに答えは出ないまま、スパイラルに陥りそうになる、雨が降るといつもこうだ、無意識に悲しくなっていく。

 目の前で延々と動き続ける人々の動きさえもスローに見え始める。

 私は一体どうしてしまったんだろう。

 どうしてこんなに、心は空虚なんだろう。

 こんなにも空だけは、嫉妬したいくらいに晴れ渡っているのに。

 

 どこかで地面に物が落ちる音と、怒声らしい声が聞こえて、私はふと我に返った、同時に世界も視界に戻ってくる、相変わらずの人混みが続いている。

 私以外はそんな変化は気にも留めず、ただただ前を向いて歩き続けている。

 人々のその淡白さは、どこか恐ろしかった。

 小煩く続いていた怒声が突然止まって、雑踏はまた元の静けさを取り戻した。

 最初はそんな風に見えた、でも現実はあまりにも私の想像のスケールを超えていた。

 嫌な匂いがした、何かが燃えているような、そんな非日常の匂い。

 私一人の気のせいだと思って通り過ぎたかったけど、果たしてそうはいかなかった。 

 私の視界に、炎の橙色が鋭く飛び込んできた。

 何かが燃えていることは理解できる、でも何が燃えているの?

 こんな人混みの中で燃えるものって何なの?

 答えはシンプルで、限りなく残酷だった。

 こんな人ばかりの殺風景な場所で燃えるのは、当然人間だけだった。

 ガソリンとかそういう物の匂いは一切しなかった。

 人間の体に誰かが火を点けた、というよりは、むしろ勝手に人間から炎が上がったように思えた。

 人体自然発火。難しくいうとなんだったか。

「あぁ……もう……」

 そんなことはどうでもいい、そんなことを考えている場合なんかじゃない、私はあの理由を知らなければいけない。

 もう既に男の上半身のほとんどが炎に包まれている、人の流れはそんな光景を知ってか知らずか動き続けて、私の行く手を阻んでくる。

「間に合って……」

 肉体が一片でも「ここにいる」のなら、私の手はその「存在」を掴める、でも、今更間に合うだろうか?

 肉体は燃えているというより、もはや炎そのものに変わっていっているようにさえ見える。駄目だ、燃え尽きていく。 

 まるで最初からそこにはいなかったみたいに、その肉体は完全に燃え尽きてしまった、もう「ここにはいない」、悲しいけれどそれが現実。

 でも、ほんの一瞬だけ、「そこにいた」存在には触ることが出来た。

「……ただの炎じゃない……人が燃えるなんて……消えていくなんて」

 自分自身の感覚で、それだけは理解できた。

 最後にこの人が感じたもの、向けられた感情の本質。

 それは、あまりにも強い人間の悪意、強い怒りだった。   

 あの怒声の後に、ここで何が起きたのか、何故炎が生まれたのか。

 悪意を向けた人間はまだこの近くにいるはずなのに、探そうとしたってもう分からない、燃えてしまえば、「ここにいた」証さえ残らない。

 私の知識欲が、私の中の「私」が囁いている。

「知りたいなぁ……この炎の意味、世界の中身……」 

 まだ私は、「当たり前」の世界には立てていないらしい。

 でも、それも私らしくていいじゃない。

 そう開き直ることにした、それが私なら、それは確かな私だから。

 

  ●

 世の中っていうのは好都合なもので、私が起こした最初の火事のことさえ何も語られずに、私はこうして御堂夏楠として平穏を生きることができている。

 左目の傷は髪の毛を伸ばせば隠せたし、白い革の手袋をつければうっかり何かに火を点けるようなこともなかった。

 そういう容姿については全部火傷を見せれば説明がついた。

 皆とは少しだけ距離が出来てたけど、シオンがいるから私は寂しくなんかなかった。

 そのまま無事に中学も高校も切り抜けて、大学にだって入れた。

 この5年以上の歳月の中で何一つ、私の平穏は根本では乱されていない、本当に素敵な平穏。

 確かに、平穏を揺るがすような人間関係のトラブルだとか、そういうものは生まれてしまう。

 でも、そんな小さな問題なんて私が触るだけで全て終わる。

 だから、結局私は平穏だった。

 

「……ゴメンね、ちょっと色々あって中々時間が取れなくてさぁ……。ねぇねぇ、時間ある? ちょっと愚痴を聞いてほしいんだけど……いいかなぁ?」

 仄暗い路地裏に私の声は響いている、返ってくる声が無くてもいい、ただ暖かければそれで満足、誰にも邪魔されたくない、私だけの時間。

 隣では、道端の縁石に座り込む「彼」がただ静かに燃えているだけ。

 今ここに、シオンは確かにいる。

 炎の中で、触れることなんて出来ないけど。

「また我慢できなかったんだ、ついイライラして、相手に触って燃やすの……ついやっちゃう、危ないって分かってるのにね……あぁ、大丈夫だよ、君に怒ってるわけじゃないからね……」

 今日の昼ごろの、今思えばどうでもいい、つまらない話。

 大通りの人混みの中で、私は自転車を避けた、そこまではよかった。

 その結果がいけなかった。

 目の前を歩いてきたおじさんに肩が当たった、そして私の持っていた鞄は道路の水溜りに落ちて、足に撥ねた水はお気に入りのズボンを濡らした、冷たくて嫌な気分が全身に広がった。

 私はただ避けただけなんだ、なのにおじさんはぶつかった私を図々しく非難した。

 やれ道を歩く邪魔だ、とか、謝りもしないのかお前は、とか。

 びしょびしょに濡れた鞄、私の足、まだ聞こえる怒声、もの凄く嫌な気分、私に手袋を外させるには充分すぎる、恥という感情、許せないという怒り。

「私ね、平穏でいたいんだよ、街中で恥ずかしい思いとか出来ないんだよ、だって平穏じゃないもん、シオンもそう思ってくれるでしょ?」

 だから、そっと燃やしてあげた。

 触るついでに、叫び声を上げられないように、しっかり首を絞めて。 

「ねぇ、私は何も悪くないよね? そうだよね?」

 あんなにも苦しそうな顔をしていた「彼」はもう動かない、ただ私の言葉に暖かさを返してくれる、答えはそれだけで充分だった。

「うん、そうそう、私は何も悪くない、そうだよね、勝手に怒ったあの人がいけないのよね」

 私の行動は誰にも咎められない、私は咎人にはならないまま、こうして平穏の中で暮らし続けるんだ。

「でもさ、馬鹿みたいだよねぇ……自分が偉い、みたいな顔して偉そうに人を叱りつけてさぁ……ほんと何様のつもり、って感じだよ……」

 つまらない小さなプライドの為に、他所の他人に難癖つけて、ささやかな平穏を破って何が満足なんだ、私には分からない。

 確かに、誰だって街中で肩をぶつけない生き方がしたいのは分かる。

 私だってそんなことでほんの少しのイライラを抱えるのは嫌だ。

 でも、そういうイライラを我慢できずに舌打ちなんかする奴はもっと嫌だ、燃やしてしまいたいくらいに。

 だから燃やした、間違ったことはしていない、私は正しい。

「まぁ、それで少しは落ち着いたんだけどね、その後私はそれ以上にマズっちゃったわけなんだ……」

 人混みの中に少しずつ広がる暖かさに少し心地よさを、振り返りながら感じていた時に、私は気付いてしまった。

 あのおじさんに近づいていく人がいる。

 人間が燃えている状況が、明らかに異常だって、そう理解できている人がいる。 

 私が触れたことが分かることは絶対にない、だとしても1%でも知られてしまう可能性があるとしたら、凄く怖い。

 不安は絶対的なストレスとして私の心の中に釣り針みたいに引っかかりつづける、なんて鬱陶しい。

「どうしようかなぁ……見られちゃったかもなぁ……」

 具体的に姿は思い出せない、だけど服装くらいは覚えていた。

 紺色のパーカー、チェック模様のグレーっぽいスカート、高校生くらいの女の子、その子だけがあの人に近づいて、そして辺りを見回していた、不思議がる様子、あるいは、訝しがる様子で。

 人混みに溶け込みそうなくらいの暗い色は、逆に鮮烈に記憶にこびり付いている。

「ねぇ、どうしよう……燃やしちゃおうかなぁ、ねぇ?」

 私は不安を抱えたまま寝るなんて面倒なことはしたくない。

 毎日の生活の中に不安なんて無粋なものを持ち込みたくない。

 持ち込むべきなのは、この暖かさと平穏だけでいい、それ以外は何もいらない、それがたとえ家族だろうと、何だろうと。

「うんうんうんうん、そうだよね、やっぱり燃やさなきゃね、それが私のやり方なんだもんね……」    

 あの子は一体どんな平穏の中にいるんだろう?

 あの子は一体どんな顔をして綺麗に燃えるのか、私自身の目で確かめてみたいとさえ思う。

「それじゃ、燃やす準備をしなきゃあね……」

 まだ顔が分からない、まだどんな名前かも分からない。

 でも、燃やして平穏を得たい、っていう確かな衝動だけがどんどん湧いてくる。 

「私、もう行かなきゃいけないの、それじゃあね…、あぁ、うん、また話そうよ、君といるとすっごく楽しい、静かな君ってすっごくかっこいいよ……最高」

 全て話し終わると同時に「彼」の体は完全に灰に変わって、くずおれる、あぁ、次の体を探さないといけないなぁ、その手間がめんどくさい。

 別に私は肉体関係とかそういうのは欲しくない、むしろ恋愛ならプラトニックな感じが理想形。

 だからこうして話をするだけでも最高に幸せなんだ。

 コートのポケットの中を弄って、百円ライターがまだあるかを確認する、プラスチックの柔らかな感触が気持ちいい。 

「それじゃ、またねシオン……」

 そこにはもう「彼」がいた名残しかない、ほとんどタバコの灰にしか見えないくらいに、それは小さいけど。

 暖かさは充分に得られたし、久しぶりに心の中のイライラを吐き出すこともできた、凄くいい気分。 

「さて、と……危ないなぁ、見られてないかなぁ……」

 路地裏を出るまでは上手くいった、私を見た会社員らしき男の人は少しだけビックリしていた。

 念のため燃えてもらおうかなぁ、ここにいたことはバレたくないし。   

「あのぉ……すいません、道に迷ってしまって……時間あります?」

 そっと、くたびれ気味なのにどこか頼もしそうな、彼の肩に触れた。 

  

  ●

 

 結局のところ、僅か数日間の睦月の不在で生まれた、よく分からないぎこちなさは、一晩経っても俺から抜けきらなかった。

 こういう時に睦月に何を話していいのか分からないし、どう話しかければいいかさえも分からない。

 俺の世界と睦月の世界の境界線には決定的で、そしてきっと致命的なズレが生まれてしまった。

 このままにしておくわけにはいかない、でも俺はどうすればいい?

 そんな事をついつい考えながら、いつも以上に憂鬱な帰り道を、睦月の後ろで歩いている。 

「……ねぇ、もう少しこっち近づいたら?」

 どこか心配そうな声で睦月は声をかけてくる。   

「久しぶりに学校に来てみたら、君はなんか落ち着かない様子だし、空は今にも雨が降りそうな感じだしさ……やっぱり何かおかしくなってるのかもね、皆がどこか、少しずつ」

 そんな言葉と共に、睦月はグレーに変わりつつある空を仰ぎ見る。

「6時ごろから雨が降る、って言ってたよ、あくまでテレビの予報だけど」

「雨か……濡れるよね……やっぱり」

「そんなに言うなら、折り畳み傘でも持ってればいいのに……」

 実際、睦月が傘を用意しているところを見たことはなかった。

「それは駄目なの」

 きっぱりと、拘りの強そうな声色で睦月は返答する。  

「どうして? 濡れたくないんだろ?」

「濡れるのは嫌だけど、雨に負けるのはもっと嫌なの、傘を持ち歩くってことは、雨に屈してしまうこととイコールなの、私の中ではね」 

「だからって無理して雨に当たる必要はさぁ……いつか風邪でもひきそうで、見てる側からすると心配なんだよ……うん」

「雨の中で傘も差さずに踊っている人間がいてもいい、それが自由だって、昔何処かで聞いたわ、確かに傘を差すことは当たり前かもしれないけど、それはきっちりした規則とか義務じゃないもの、心配してくれるのは嬉しいけど、傘を差さない選択っていうのも、君には理解してもらいたいなぁ、君は人一倍仲間外れとかに敏感な癖して、そういう時だけ『当たり前』に逃げるのってさぁ、なんか卑怯じゃない?」

「卑怯……なのか」

「私としては、君のそういう逃げ癖はどうにかしてもらいたいのです、なんて」

 どこか冗談めかした言葉と共に、睦月の口元が緩んで微笑を作る。

 緩んだ口元から小さく覗いた八重歯と、普段のクールな表情とのギャップが可愛らしい。

 そういう一面は、睦月の数少ない人間らしさ。

 やっぱり、君だって人間じゃないか、って言いたくなるくらいに微笑ましい、普段は見せない穏やかな表情。

「でもね、君のそういう『逃げる勇気』っていうのは私にはないから、ちょっとだけ羨ましいんだ」

 そんな言葉を聞くなんて、思ってもみなかった。

「私は、目の前の『嫌い』にひたすら歯向かうことしかできないから」 

 だから、君が羨ましい。

 言い聞かせるように付け加えた睦月の言葉は、寂しげな響きを残して、人混みの立てる靴音に溶けていく。

 結局、俺はまだ「当たり前」の世界に踏みとどまって、睦月の世界の中には馴染めていないらしい。

 何故だろう、人間嫌いだって、自分でもそう思っているはずなんだ。

 人に嫌われたりするのは慣れているはずだって、そう思っていた。

 でも、睦月の世界から離れたくない、そう思ってしまう自分がいる。

 俺の世界って、いったい何処にあるんだろう。

 そんな疑問を浮かべる俺を知ってか知らずか、睦月は人混みの中を起用にすり抜けて先に進んでしまう。

 トラブルにぶつからないように辺りを見ながら歩いていると、突然足元に何かがぶつかる感触があった。

 何か踏んでいたら面倒だ、なんて思いながら足元に目を向けると。

「……あ、ごめんなさい……」 

 地面に蹲るようにして何かを探している、そんな様子の女性がいた。

 前髪の左側だけを極端に伸ばした、崩れ気味の髪型が目立っている、隠れていない右目は今にも泣き出しそうな、悲しげと焦りの入り混じった表情。  

 どう対応していいのか分からないし、まず睦月を見失いたくはない。

「……もうぶつかりませんから……すっごく嫌ですよねぇ……私もですよ……あぁ、どこ行ったんだろうなぁ……」

 独り言なのか俺に向けての言葉なのか、その境界線があまりにも不確かな、そんな言い回し。

 何を落としたのかは分からないし、どうしてこんなに取り乱しているのかも分からない。

「……何を落としたんです?」

 ただ単純に、見ていられなかった、善意とか見返りなんていらない。

 こういうところでトラブルを抱えそうな人を見殺しにしたくはなかった。

「……落とした、ってわけじゃなくて……何処かに行った、っていうのかなぁ……とにかく、いつの間にか失くなってて……」

 もしかして、質問と答えが噛みあっていないのか……? これ。

 どうすればいいんだ、こういう時には。

「えっと……睦月……」 

 睦月に助けを求めようとして、彼女の姿を探した。

 遠くにはいない、そう気付いて近くに視線を戻した、その時に。

 蹲る女性の背中に、睦月の手が軽く触れた。

「……これ?」

 その手には、紫色に透き通ったプラスチック製のライターが握られていた。

「この近くに落ちてたのはこれぐらいしかなかったから、とりあえず」

「あぁ、いた……」

 女性の表情が安心に満ちたものに変わった、どうやら、睦月の拾ったそれが正解らしかった。

「もう……見失わない、から……」

 どこか引っかかる言葉を残して、足早に去っていく背中を見た、その時だった。

 右目にまた、未来が映りはじめた。

 何かが燃えながら道路に落下する、そして、すぐ傍には空を見つめる睦月、雨を怖れる仕草も同じ、でも、まだ雨は降っていない。

 俺の視点で空を見上げることは、何故か叶わない。

 何でまた、こんな時に、こんな所で……?

「……ねぇ、大丈夫? あの人がどうかした?」

 睦月の声で我に返る。

「……大丈夫、心配しなくていいよ……」

 まるで睦月と二人、ここだけ時間が止まっているかのように、人混みは変わらず動き続けている。

「……睦月、とりあえず空には気をつけてほしいよ……うん」

「雨のこと? 別に大丈夫、それこそ心配しなくていいって……」

 ごめん睦月、俺はこんな形でしか、君に伝えることができない。

 俺はこんな形でしか、君の傍にいられない。

 それなのに、君に傷ついてほしくない、なんて言ってるんだ、心の中では。

  

  ●

 

 結局、高良野くんとは駅の入り口で別れた。

 私は徒歩で登校できないこともない距離だけど、彼の家は私の家より少しだけ、加賀屋の中心街からは離れていたから。

 少しだけ、背中が寂しくなるのを感じた。

 高良野くんにあえて人体発火のことを言わなかったのには私なりの理由がある。

 きっと心配してくれているはずだ、嬉しいけど、何処か悲しい。

 私がいなくなったら、彼はやっぱりあのいつもの場所、私の右斜め前のあの席で、私を待ちつづけてくれるんだろうか?

 きっと彼ならそうするだろう、だから伝えなかった。

 私を止めなかったことを後悔してほしくないんだ、高良野くんには。

 運命だった、そう思ってくれればそれでいいんだ。

 私という存在がいたこと、それを思い出して悲しむ存在がいてくれるのは嬉しいけど、なるだけ少ないほうがいい。

 「ここにいた」証がほしい、という願い。

 残された人間に悲しんでほしくない、という矛盾。

 空の色は、私の心に圧し掛かるようなダークグレー。

 もう世界は動き出しているのだろうか。

 またどこかで、人が燃えていくのだろうか。

 まだ私は誰にも触れることが出来ていない。

 このまま逃がしてはいけない、正義とか人道とかそういう綺麗な感情じゃない、もっと我侭で独善的な私の好奇心がそれを求めている。

 世界には3つの仕切りがあるんだ。

 「私の世界」と「私以外の世界」、そしてそれを包む私にも触れない深く遠い「世界」、それを隔てる3つの壁が。

 私は他人の世界に触れたい、そうじゃないと自分の持つ疑問を解決できない、きっとこの欲求だって立派な悪意だ、それは分かってる。

 「私の世界」の思考には限界がある。

 「私の世界」は既に私の考えに染まってしまって、一つの視点でしか世界を見ることができない。

 でも、他人の世界はそうじゃない、全く違う。

 だから知りたい。

 自分と他人、という概念を理解した瞬間。

 それが私の「知りたい」の始まりだった。

 この世界は何かが作り出した巨大な劇場だと、私はそう喩えた。

 私達はその中で動き続ける、有限の歌劇の登場人物。

 自分自身の意思に従って動き続けることで、少しでも自分という世界を表現しようとするんだ、私達は。

 だけど大体は平凡なままその限界に辿り着いて、そのまま世界から消えていく。

 だから誰だって、自分自身の「存在」を残したいと感じるし、自分の「存在」だけは確かだと、そう信じているんだ。

 私が世界の全てを疑う時、世界を疑い続ける私は確かにそこにいる。

 私の世界は私自身の存在なんだ、だから独りきりでも私は寂しくないんだ。 

 でも、今はもう違った、この秋は今までと変わってしまった。

 今、私の隣には彼がいない、私の隣には君がいない、私の隣には、高良野浅儀という存在がいない。

 だから孤独を感じるの?

 孤独が私の「当たり前」だったのに、もう私は孤独じゃないから?

 あの夜に、彼の世界が限りなく私の世界と溶け合った。

 そこから、私の世界は揺らぎ始めた。

 何故だろう、こんなにも空っぽな私なんだ。

 君に心配させたくないのは何故?

 君と離れてしまうのが怖いのは何故?

 孤独は怖くないなんて、私の強がりだったの?

 人間になる、っていうのは、弱くなることなのかもしれない。


 もう、埒があかなかった。

 考えれば考えるだけやりきれない感情が湧き上がって、振り払いたくなって、どうしようもなくなる。

 たった一度の邂逅、たった一度の再会、たった数日のすれ違い、たった数日の日常。

 私の中に生まれた、この感情は何?

 思考の渦に戸惑って、私は少し立ち止まった。

 でも、そんな疑問はすぐに吹き飛ぶことになった。

 いや、正確には吹き飛ばされて、それ以上の疑問によって強引に上書きされることになった。

 私の目の前に墜ちてきたそれは、人の形を模していた。

 いや、模していてほしかった、まだ世界には絶望していないんだ、私は、だから信じたかった、でも、現実はやっぱり理想にはなれない。

 あぁ、またなのね、なんて諦めたくなるくらいに残酷な空間。

 落ちて砕けるまでの一瞬の回廊、そこでの思考にはもう触れない。

 また、人が燃えた。

 墜ちてきたのは空、いや、堕とされたこのマンションの屋上から。

 まだ雨は降らない、それでも空は鉛色、だから見たくもなくって、目を背ける、本当に嫌な色。

 「そこにいる」のは誰なの? 

 体の奥底を突き抜けるような、針の落ちる音のような悪寒。

 その悪寒は階段を下りて、私を自力で始末しようとしている。

 自分から姿を現す「異常」ほど探し易いものはない。

 さぁ、始めようじゃない。

 私の心の「知りたい」を刺激した存在にもうすぐ会える。

 でも、今すぐに対峙してしまうわけにはいかない。

 焦ってはいけない、じっくりと状況を作らないといけない。

 確か予報では5時に雨が降るって言っていた。

 それまでに状況を組み上げるんだ、私。

 今はまだ4時半なんだ、今ここであの火に触れてはいけない。

 あぁ、あと少しで「あいつ」は階段を下りてくる。

 私はこの存在を知っている、いや、ついさっき知ったばかりなんだ。

 長い栗色がかった前髪で顔を隠して、赤いコートを纏った姿。

 ライターを探していた、あの女。

 同じ「存在」が、そこにいる。

 この世に同じ「存在」を持った人間は絶対にいない、だから分かる。

 もっと早く気がつけばよかった。

 もっと早く、触っていればよかった。

 

 私自身が彼女を釣る餌になる。

 私の好奇心が彼女をおびき寄せてくれる。

 だったら、距離を保って歩き続ければいい、アキレスと亀のパラドックスみたいに、その時間が来るまで、ずっと。

 

 頭の中に浮かべるのは、ギターの弦を爪弾く高い音、その残響。

 私の世界を作る、あの音楽。

 逃避行にはうってつけの、私の存在へと届く「響き」。

 動きだすのは夜じゃなくって、きっと冷たい雨。

  

  ● 

 

 あの子の顔も、名前も、行動も、私は全て掴んだ。

 でも燃やせなかった、私は状況に負けてしまった。

 あの時あの子を燃やしていたら、きっと私は大勢の人に見られてしまっていた。

 まさかシオンが何処かに行ってしまうなんて想像もしていなかった。

 コートのポケットに穴が空いてる、って伝えたいのなら、変なことしないで教えてくれれば良かったのに。

 とにかく、チャンスを逃してしまった以上、次で終わりにしたかった、私は昨日の夜2時間しか寝ていないんだ。

 俯瞰しながら何か物を燃やして、そして落とせば、きっとあの子だって死ぬはずだ。

 一緒にいたあの温厚そうな男の子には悪いけど、あの子は私の本質を知ってしまったか、気付いてしまった。

 だから、我慢してね?

 絶対に当たる、そんな思いで人を屋上から投げ捨てた。

 思ったより人間の体は軽かった。

 きっと、それだけ無価値な人間だったんだろう、屋上に入る私を邪魔したあの人は。

 でも、あの子はまるで分かっていたみたいに立ち止まった。

 もう、狂ったみたいに笑うしかなかった、また失敗した。

 私の方を、心臓を狙うみたいな目で睨みつけてくるなんて、本当に危険な子、赤い首輪みたいな傷痕が喉下についてる、危ない子。

 あの子は野放しにしちゃいけない、あのまま放っておいたら、きっと私のことを突き止めて絶望を突きつけにくるんだ、

「ほんと、笑っちゃうぐらいおかしいなぁ……当たるって信じたんだけどなぁ……シオン、私の間違いって何かなぁ? 今失敗したのって私が悪いのかなぁ?」

 悪くないよ、と声が聞こえる、やっぱりそうだ。

 私の思った以上に、長い階段を駆け下りるのは疲れた。

 今も少し息が荒い、でも、疲れてはいない。

 私の精神状態はあの頃に戻りつつある。

 お父さんとお母さんに離婚してほしくなかったから、家族を暖かくしてあげた、あの日の寒い夜に。

 最高に興奮しているんだ、こんなにも燃やしがいのある存在なんてなかなかいない。

「逃がさないよ……ムツキちゃん……だっけ?」

 もう少し私がマンションから出るのが遅かったら、危うく見失うところだった。

 繁華街から住宅街に抜けていく人混みの向こうにあの子の姿が小さく見える、今日は紺のパーカーを着ていない。

 走ってしまってはきっと気付かれてしまう、あの子はそういう子だって、本能で分かる、私のDNAが警告している。

 あの子はきっと何かを持っている、私の炎と同じような何か。

 確信があるわけじゃない、でもきっとそうだ。

 そうじゃなきゃ、私のことを探すような最初の行動が理解できない。

「あの子……気付いてない振りでもしてるの? それとも偶然2回も発火を目撃して不運だなぁなんて思ってるだけなの? どうなのかなぁ?」

 ねぇ、シオン。

 問いかけてみたいけど、ここでライターは取り出せないし、落として何処かにいってしまったら、また探さなきゃいけない。

「あぁ……もう、邪魔だなぁ……」

 目の前の人々に対してどんどん怒りが募っていく。

 ただ自分の平穏があればいいや、」って顔をして、私の平穏を脅かす手助けをしている。

 その自覚さえない表情が幾つも幾つも並んでいる。

 燃やしてやりたい、皆燃やして、スッキリさせなきゃ。

 前を行く誰かの鞄が私の肩に当たった、私と違って誰かを避けた様子もない、そのまま流れの中で過ぎ去っていく。

 イライラが爆発しそうなくらいに私の頭の中で渦巻いている。

 最高に興奮しているけど、同時に同じくらいイライラしている。

 それをどうにか抑えたくて、堪えたくて、手袋ごしに爪を噛む。

「シオン……ねぇ、もう我慢したくないよ……」

 昔、シオンだけが玩具を買ってもらったことがあった。

 私も玩具が欲しかった、だから買ってほしいって、お母さんに何度もお願いした、でもお母さんは買ってくれなかった。

 シオンのはご褒美、夏楠も何かいいことをしたら玩具を買ってあげるから、なんて言われて、私はしぶしぶ引き下がった。

 だけど、買ってもらえなかったモヤモヤはどうしようもなかった。

 だから、こっそり縫いぐるみの熊を燃やした。

 これで新しい玩具を買って貰えるんだって、そう信じた。

 私は必死で涙声を作って、お母さんもそれに根負けした。

 今だって同じなんだ、あの時とほとんど変わらない。

 私の欲求はだけが満たされない、私の平穏だけが満たされない。

 だったら、いっそ燃やしてしまえばいいんだ。

 皆、熊の縫いぐるみと同じなんだ。

 別に一人や二人燃えたところで、代わりくらい幾らでもいるんだ。

「もう……いいよねシオン、私も欲しいもん、平穏。皆ばっかりずるいよ、私も欲しいよ……」

 手袋の指先を咥えて、なるべく燃やさないように手を引き抜く。

 冷たくなってきた空気に素肌が触れて、少しくすぐったい。

「ちょっと退いてねぇ? 邪魔だから」

 目の前のお兄さんを軽く押しながら前に進む、もちろんお兄さんは燃えてしまうけど、もう私は何も知らない、燃えてしまえ。

「ごめんね、退いて……邪魔だから」

 更に子供の頭に手を置いて、なるべく優しい声で退いてもらう。

 君に恨みはないけど、ただ目の前でノロノロ歩かれるのが嫌なの。

 手を繋いでいるはずのその子のお母さんは、我が子が燃えるのに気がつかない。

 あぁ、所詮その程度のものなんだ、親子の愛情なんてものは。

 まだ道は開かない、どうしよう、もうほとんどあの子が見えない。

「あぁー、もう……いい、皆嫌い」

 もはや誰もよかった、道を開けてくれればそれでよかった。

 何の権利があってお前達は私を邪魔するの?

 皆自分の欲求ぐらい持ってるんでしょ?

 綺麗になりたい、たくさんお金が欲しい、自分の望む将来が欲しい。

 そう思って、皆生きてるんでしょ?

 それなら、なんで私だけ邪魔されなきゃいけないの?

 私はただ平穏が欲しいだけなんだ、でも暖かくなきゃ平穏を感じられないんだ。

 シオンだって私を抱きしめてはくれないんだ、あんなに優しいのに。

 だから暖かさが必要なんだ、私には。

 少し他人と違うからって馬鹿にして、邪魔をして……。

 そういう所が私のイライラを止められなくするんだ。

 ようやく、悲鳴が上がった。

 私のイライラに比例するみたいに炎は強くなっていく、もう今なら触れたモノは一瞬で灰になってもおかしくない。

 そうなる前に、気付いてあげたっていいじゃない、可哀想な人。

 でも、周りのお前達は今更になってそれに気付いた、もう遅い。

 自分は平穏だからそれでいいや? ふざけるな。

 お前達の平穏なんか、燃えてしまえ。

 悲鳴のおかげで、ようやく道が開かれ始める。

 野次馬がしたいのか、戻ろうとする人もいた、もっとも、私の手に触ってしまったから、叶わない願いなんだけど。

 もう、これで私の邪魔をする人はいない。

 もう、立ち止まっていられない。

 あの子の姿がようやくはっきりした。

 悲鳴に向かって振り向いたムツキちゃんと、目があった気がした。

 あとは向かうだけだ、今なら少しぐらい早足になっても怪しまれないはず、だって悲鳴が聞こえたら逃げたくなるもん、私なら。

 さぁ、終わりにしよう、こんなにも長く時間がかかってしまった。

 ほんの少し歩調を早めると、すぐにセーラー服の背中が見えた。

「捕まえた……っ」

 感情の高ぶりがもう止まらないし、止められない。

 背中の白は点いた炎に蝕まれて、消えていく。

 人混みの中から引こうとすると、息を飲む小さな声が聞こえた。

 その時に、また気付いた。

 この子の髪はストレートの黒じゃないか。

 違う、この子はムツキなんて名前じゃないし、顔も違う。

 背丈も雰囲気さえも違った、どうしてミスるんだ、私。

 三度目の正直は、結局二度あることは三度ある、に負けてしまった。

 探さなきゃ、どこにいるんだ、もう目の前の子に用はないのに、私の手に纏わりつかないで……。

 強引に振りほどくと、灰を散らしてその子の体は崩れていった。

 ムツキちゃんの姿は、いつの間にか人ごみから外れようとしていた。

 向かう方向は、加賀屋の中でも大きな住宅街、確か川があった。

 家に帰ろうとしているの? 暢気な顔して?

「どうしよう……ますます許せないよぉ……」

 そうだよねぇ、シオン。

 人混みを抜けたから、ようやくライターが取り出せた。

 シオンの声も、同意しているらしかった。

 あぁ……早くあの子を追いかけなくっちゃね。

 ライターの炎は、私の足取りに合わせて揺らめいてくれた。

 

 何分も追いかけて、どんどん人が減っていった。

 皆、自分の平穏に帰っていくんだ、羨ましい。

 ムツキちゃんの姿が、工事途中らしい橋の途中で止まった。

 たしか名前は温海橋、そういうありふれた名前のはず。

 川の流れはグレーの空を映していたし、風景も同じくらいにグレー。

 モノクロームの彼女だけが、風景の中で孤立していた。

 歩き疲れたのか、それとも他の理由なのか分からない。

 でも、もうチャンスはない、今が最後だ。

 早足で歩く私の靴が、橋と道路の境目にかかった時だった。

「そろそろね……いい頃合いだわ。ピンク・フロイドの『エコーズ』、アルバム『おせっかい』のラスト、23分27秒ジャスト……やっと捕まえたわ」

 身体ごと振り返った彼女が何を言いたいのか、私には意味が分からなかった、何かを聞いている様子なんてなかった。

 両手で枠を作って、そのまま腕を私に向けて伸ばす、何かを風景から切り取って確かめている、そんな仕草。

 瞑ったままの右目が、ウインクみたいな可憐ささえ感じさせるのに、

その場の空気は凍ったみたいに動かない。 

 捕まえた? 追っているのは私で、追われているのは貴女なんじゃないの?

「ねぇ、放火魔さん? いや、殺人鬼ね?」

 彼女は両手をその空気に馴染ませるようにわきわきと動かして。

 まるで身元を確認するみたいに、私に向かって問いかけてくる。

 殺人鬼なんて、ここにはいないはずなのに。

「それ……もしかして私のこと?」

 他にはだれもいないから、仕方なく応える。 

「他に誰がいるの? 私はお前以外を求めていないの、私は貴女のことが知りたい、お前の中身が見たい、お前の存在する理由が知りたいの」

 女の子にしては少し低めの、透き通るような声だった。

 でも、その響きは異常さを覚えるほどに冷たかった。

 私よりも背の高い彼女の瞳は、見下すように私を見据えている。

 琥珀色の、冷たい眼差し。

「ねぇ、お前はどうしてここにいるの?」

 答えの見えないその問いは、あまりにも残酷な宣戦布告だった。

 

  ●


「ここにいる理由なんて私には分からない、でもね、一つだけ言えることならあるのよね……ねぇムツキちゃん、私の事が知りたいの?」

 目の前の殺人鬼は何一つ動じた様子も見せず、逆に問いかけてきた。

「私の名前は御堂夏楠、20才、住んでる場所は加賀屋市千鳥区の学生用集合住宅、職業はまだないの、大学生だからね、アルバイトは慣れてないしさ……。恋人はいないけど、大事な人ならいつも一緒にいるの。ライターは好きだけど煙草は吸わないし、可燃物は好きだけどお酒は飲まない。下手に健康を害したくないもん、毎日夜11時には寝て朝7時には起きるようにしてる、夜更かしなんかしないの、生活リズムっていうのがそう出来てるのよ、子供の頃からね。好きなものは毎日寝る前のホットココアと赤色、まぁ暖かさを感じるもの全般かなぁ……他に知りたいことある? 変な質問以外なら何でも答えるよ? 1+1は何? とかじゃないやつね……」

 畳み掛けるように自らの情報を教え続けても、私の欲しい情報は一切入ってこない、何が言いたいんだ、この御堂夏楠という女は。

「……質問なし? じゃあいいわ、もういいのね?」

 何かの感触を確かめるように御堂夏楠は左手を私とおなじようにわきわきと動かし、そして。

「私の平穏の邪魔をする貴女を、今ここで燃やさせてもらう」

「平穏? いい目標ね、尊敬してもいいくらいの。じゃあいいわ、一生平穏なんて感じられないようにしてあげる……」

 別にあいつの生活環境とかじゃない、私に出来ることでやるんだ。

「……お前の存在の方をね」

「へぇ……怖がらないのね、今まで燃やしてきた子たちと全然違う」

 彼女はおもむろにコートのポケットからライターを取り出して、いきなり点火した。

 まるで、今すぐには私を殺す気がないみたいに。

「ねぇシオン、どうしようか……こんなに面白い子をそのままあっさり燃やすのってさ、かなり勿体ないよねぇー……」

 言葉の合間に一人でうなずきながら、ただライターの火に向けて話しかけている、なんなの、この女。

「何? って聞きたそうな顔してるから、教えてあげる、私の隣に立ってるのがシオン、私の大切な人、私の平穏……」

 何もない空間に向かって、彼女はただ話し続けているのに。

 そこには、何一つ存在してなんかいないのに。

 得体の知れない悪寒が私の全身に走る。

「うん、分かった……なるべく綺麗に燃やそうね……」

 そう言ってライターをしまって、再び私の方を向きなおる。

 その眼差しは、飼い主を待ち焦がれる忠犬に似た頑なさを湛えて、私のことを見据えている。

 あのライターは何だか分からないけれど、それ以上にこの女の頭の中が分からない。

 でも恐れはない、ますます触れてみたくなるだけ。

「私はねぇ、手で触れるだけで何だって燃やせるの、人だろうと、犬だろうと、本だろうと何だろうと、結構日常では不便なのよ……うっかり何か燃やしちゃったらヤバいじゃない、だけどね、平穏を得るには一番なの、すぐに暖かくなれるからね。私は今までシオンのために35人、私のイライラを発散するために57人、うっかりで12人燃やした、でも殺人なんてしたことはないのよ? だって殺そうと思って燃やしたことはないもん、もし死んだのなら、それはその人の運が悪かったのね、だから私は殺人鬼じゃないの、OK?」

 言い終わるとほぼ同時に、私の喉下に衝撃が来た。

 熱と苦痛が同時に、しかも彼女は私に触れてもいない。

 右手で傷を抑えながら足下を確かめる、そこには。

「そうそう……あんまりやらないけど、私、こういうことも出来るのよねぇ……何だって燃やせるなら、金属だって燃やせるの……」

 足下には、既に半分が燃え落ちた100円玉が落ちていた。

「……炎の弾丸、ってやつ、どう? 痛かった? 痛いよね? 綺麗な傷痕があるもんねぇ……すっごく狙い易いよ、ねぇねぇ、早く立ち直って? 私、貴女のもってる力が見たいのよ……ねぇ、早くしてよぉ」

 なんて余裕なの、本当に驚きしか出てこない。

 済ました顔なんかしてるけど、この女は本当に私を焼き殺す、脅しなんかじゃなく、本当に。

 どうするか、なんてのは後から考える、躊躇うな、反撃は早いほうがいい。

「……そんなに見たいなら……見せてあげる……!」

 お前の中身と引き換えに……、だけど。

 ただ、残酷なことに、それは叶わなかった。

 私の掌打は彼女の手袋をつけた右手に押し上げられるようにして弾かれて、逆に彼女の左手が私に触れようとする。

 間一髪それを避けても、次の行動に移れない、どうする私?

「……実は結構身体出来てるでしょ……? それを隠して……」

「うん、だってシオンに身体をあげるには男を組み伏せなきゃいけないしさ……あと健康にもいいのよね、おっと危ない、あんまり触らないでね? まだ貴女が何を出来るか……分かってないんだからさぁ……!」

 彼女の左足は疾かった、右腕ごしに、身体の芯まで振動がビリビリ伝わるほどに。

 お互いに、分かっているんだ。

 先に相手に触れたほうが、確実に生き残る。

 生き残ったほうが、また人間のふりをして、自分の欲求を抑えて世界に戻る、そしてまた欲求を発散する日常に戻る。

 自分の世界が壊れるか、生き残るか。

 本当に綱渡りなんだ、私達の世界は。

 しかし生き残っても、結局私達は人間にはなれない、壊れたままだ。

「ねぇどうする? 諦める? それとも続ける?」

 どうしてこんなに楽しげなんだ……この女は。

 生まれつきの異常なんじゃないのか、そうとしか思えないくらいに適応してくるし、適応している。 

 でも、そんなこと触れれば関係ない。

「往生際だけは悪いのよ……私」

 左手を恐れることはない、おかしくなったわけじゃない、理由だってちゃんとある。

「腕さえ掴めば……お前だってただの人間と同じでしょ?」

 左から仕掛ければ、左で対抗するのが道理。

 私の動きに少し遅れて突き出された左腕を、私の右手が掴む。

 そして、「存在」はだんだんこの世界の中に引きずられてくる。

 でも腕なんかじゃ駄目だ、もっと深くもっと芯に近い所じゃなきゃ。

 そうじゃなきゃ、この抵抗する強い力は、動きは止まらない。

「駄目駄目駄目駄目ぇ、分かってないなぁ……私の手はね、こういうことだって出来ちゃうの……!」

 彼女の右手袋が、自らの生み出す炎で燃えていた。

「別に自分を燃やすことなんか怖くないもの……暖かいし」

 炎を湛えた右手は、悪意と共に私の左肩に圧し掛かる。

 服が焦げる感覚、熱、苦痛、その全てが私の本能を刺激する。

 なんて、危険な手なんだ。

 私の手は、存在に触れて、そして引きずり出す、その二つの動きで初めて完成する手だ。

 御堂夏楠の左手はそうじゃない。

 ただ「触れる」それだけで炎が点る、まるでファイアスターター。

「左手が少し痺れてる……どういうこと? まぁいいや、左側は、こうすれば見やすいし、燃やせば私の勝ちだもんね」

 彼女は躊躇せず己の長い前髪をかき上げて、その向こう側を世界に晒した。

 それは、深い火傷。私の傷と同じように、どうやっても消せない傷。

「……狙いやすいもの……持ってるじゃない、凄く分かり易い……そんな目をしていたのね……」

 あの目は私に似ている、殺すことを躊躇しない目、でも少しだけ違う。

 模写されたルネサンス絵画みたいな、そんな違和感がある。

 あの目は確かに真っ直ぐで曇りのない、綺麗なガラスの目だ。

 ただ、そこに映し出されるのは自分の世界、ただそれだけ。

 確かな芯を持ちすぎて、自分しか見えなくなってしまった哀しい目。

「……綺麗な肌ががんがん燃えてるのに、気にしないのね、ほんと偉いなぁ……痛いはずなのに痛いって言わないんだもん、貴女」

 左肩の炎は服を伝って、左腕に向かい始めている、消している暇はないし、消す方法も今はない。

「だからね、もう終わらせてあげる、その痛み……」

 私の呼吸がどんどん荒くなっていくのが分かる。

 でも、苦しさはなかった。

 これがサクラメント、懐かしさに似た感覚が蘇ってくる。

 雪村仁人を相手にした時とは違うんだ、私は今「死」の目の前に立っている。

 だからこそ、面白い。 

 私は今、「ここにいる」。

 だから何も恐れなくていいんだ、私は確かに存在しているから。

「終わらせるって言うのなら……やってみろ……っ!」

 お互いの距離はあまりにも近すぎる。

 決着をつけるチャンスは、もうここしかない。

 私の身体は燃えてもいいんだ、だからこそ、絶対的な隙を狙う。

「……うん、やってあげる、それで終わらせようよ?」

 彼女の真っ白な左手が、私の首筋に、強く触れた。

 私の左足が燃えていく、熱の感覚、そして首が締まっていく、そのまま死へ堕ちていくはずの私。

 ただ……これでやっと掴めた。

 まるでクロスカウンターのように、互いの腕が交錯する。

「綺麗な足なのに……可哀想……」

「……やっと捕まえた……お前の……存在……!」

 掠れそうな声を絞り出した、その瞬間。

 私と彼女の間を、一筋の雫が貫いた。

 雨の色は、やっぱり哀しかった。 

 悲しすぎて、世界の全てが色褪せて見える。

 どんどん強くなるその勢いが、私の全身を冷まして、今にも切れそうな意識を覚ましていく。

「……冷たいよ……嫌ぁ……」

 彼女の声は、突然の驚きと悲しみに染まっている。

 私達の目の前の現実は、炎の前ではあまりにも強すぎた。

「私の……勝ち……か……」

 結局、生き残ってしまったのは、私だった。

 どんなに触れられ続けても、もう炎は点らなかった。

 雨が降るなんて最初から分かっていた、だから逃げるふりなんかし続けて、その可能性に賭けた。

 なのに、こんなにも心が苦しい、痛い。

 でも、確かに私はここにいるんだ、ここにしかいられないんだ。

 力なく離した左手を強引に振りほどいて、私は少しずつ、彼女の確かな「存在」を雨の中に引きずり出す。

 火傷はまるで罅割れみたいに、私の左手を受け入れた。

 気が狂いそうな程に私達に降り注ぐ、絶望的な水の感覚。

 それは、圧倒的なまでの意識の目覚め、心の苦痛。

 真っ白な首を爪で引き裂いて、私も「存在」を力なく手離す。

 もう、終わりにしたかった、こんなことにもう意味はない。

 「立つ」という支えを失った御堂夏楠の身体は欄干が外された間隙を越えて、彼女自身の「存在」と一緒に橋から落ちていく。

 ただ、平穏が欲しい。

 そんな人間的な願いを抱いた彼女は、その拠り所を掻き消されてしまった。

 願いだけなら、そんなこと誰だって抱いている。

 当たり前だったはずなのに、どこかで道を外した、私と同じ異常者。

 その世界は確かだった、でも、強すぎた。

 だから、結局自分の世界の中で抑えることが出来なくなった。

 きっと私の「知りたい」も、ああなってしまうかもしれない。

 それほどにありふれていた、歪んだ願い。

 世界の壊れた彼女は、ただ静かに「世界」に還るだけの「存在」。

 もう誰にもその落下は止められない、私にだって。

 彼女はもう、どこにも帰れない。

 夏楠……カナン、なんて……言霊。

 土砂降りを続ける雨だって、同じように止まらなかった。  

 何も遮ってくれるものはない。


 ただただ冷たい、残酷で冷酷な水が私に降り注ぐ。

 いつの間にか、膝をついていた、子供みたいに泣いていた。

 私の足を、溜まり始めた雨水が濡らしていく、冷たい感覚。

 雨の音、風の音、圧倒的な世界の叫びが私を包んでいく。

「……うぅぅぅぅ……ぁぁぁ……」

 言葉にさえならない涙声だけを、痛む喉から必死に搾り出して、ただ私は「そこにいた」。

 

 冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、ただでさえ消えそうな指先の感覚が消えていく、凍りつくような痛みだけを覚えている。

 記憶の奥底から浮かび上がる、消したくても消せない心の傷跡。

 何一つ纏わない、素肌を晒した私をあの男が嘲笑うように見ている。

「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ」

 私はいらない子じゃない、悪い子じゃない、ずっと叫び続けていた、冷たい冬の日。

 その叫びは誰にも届かなくて、私は孤独だった。

 消したいはずの記憶を無理やり呼び起こすような、冷たい雨。

 肌蹴た肩の火傷に雨の雫は染みわたって、全てを掻き消して逃げ出したい、私の意識を痛みによって強引に目覚めさせる。

 喉の、身体の奥底から込み上げてくるどろりとした嫌悪感に、私の弱りきった理性は耐えられない。

 一瞬の理性喪失があるのなら、迎えるものは欝なの?

 出来ることなら、こんな記憶も血反吐ごと吐き出したかった。

 あんなにも鮮明に他人の記憶は犯せるのに。

 私自身の記憶は引きずり出すことさえ叶わない。

 こんなちっぽけな私の存在ごと、どこかへ消してしまったって構わない。

「うぅ……嫌だ……こんなの……高良野くん……」

 名前を呼んでから、気付かされた。

 君が隣にいなきゃ、私は駄目なんだ、私は、まだ弱いままなんだ。

 でも、その「弱い」が嫌じゃないのは何故なの? 


 あぁ、君が隣にいてほしい。

 なのに……私は強がるだけだ。

 

  ●

  

 目を覚ました場所は、泥だらけの川の中だった。

 辛うじて立ち上がることはできた、私の身体は無事だった。

 結局、あの子の力の正体は分からなかった。

 ただ、何かに引っ張られる強烈な感覚と、首筋の痺れがあった。

 ただそれだけだった、傷ついてもいなかった。

 なのに、今その首筋は触れても何も感じない、まるで最初から神経なんてなかったみたいに、ぽっかりと穴が空いているみたいに。

 その穴が全身にだんだん増えていくような感触が身体を蝕んでいる。

 顔を伝って首元に落ちる雫さえも、触れた感覚を残さない。

 既にずぶ濡れの身体を、更に濡らすみたいに、雨は容赦なく降り注いでくる。

 このままじゃ、立って歩くことさえままならなくなるの? 

 そんな不安が何処からともなく湧き上がってきた。

「シオン……どこ……? 冷たいよ……寒いよぉ……」

 据え付けられた梯子を掴んで、どうにかもと来た道に這い上がる。  

 逃げ出したいのに、何処にも逃げ出せない、拷問のような冷たさだけを、私の心は感じている。

 助けてほしいのに、シオンは何も言ってくれない。

 まるで私を……違う、そんなわけない。

 シオンが、私を見捨てるはずなんて、ない。

 雨に濡れて、泥だらけの私を見ても、街行く人達は顔色一つ変えずに過ぎ去っていく、何も見ていない、とでもいいたいような顔で。

 もしも火が点るのなら、直ぐにでも燃やしてやりたかった。

 でも、そんなことを考えている暇なんかなかった。

 何より、もう火は点けられなくなっていた、全部雨のせいだ。

 身体に打ち付ける水の感触が怖くて、その感情に押しつぶされそうになる。

 もう、終わりにしたいのに、終われない。

「助けて……シオン……」

 呟く声さえ、雨の音に消されていった。 


 彷徨うように歩き続けて、やっと、雨のない場所に辿り着いた。

 錆びだらけのトタン屋根が、雨にうたれてずっと音をたてている。

 その頃には、もう右手の感覚まで無くなっていた。

 寒さのせいじゃない、それだけしか分からない。

 これがあの子の力? 

 あの子は一体何に触れたの?

 あの、冷たい雨が降った瞬間に。

「どうすればいいの……どうしようもないの……? ねぇ、ねぇシオン……答えてよぉ……返事してよぉ……」

 何度ライターを点そうとしても、カリカリと石の擦れる音がするだけで、もう火は点かなかった。

「何で……どうして……!? 嫌だよ……やだぁ……」

 もう、私独りなのかもしれない。

 誰も気付いてくれない、私がいることは分かっているはずなのに。

 まるで幽霊になった気分、もう足の感覚もほとんどない。

 立っていられなくなって、そのまま路面に寝転ぶように倒れた。

 まるで、マッチ売りの少女みたいだった。

 私はあの物語が好きだった、眠れない夜にはお母さんに読んでもらっていたのを覚えている。

 どんなに寒くても、どんなに寂しくても、最後はハッピーエンド。

 でも、現実は残酷だった。

 ただ、寒くて寂しくて辛くて哀しくて、それしか感じられない。

 助けてほしいのに、誰にも助けてもらえない。

 ただ、どこかに消えてしまいそうな自分がいる。

 そんな現実に、もう耐えられなかった。

 雨の中に溶けていくよりは、まだ炎の中に消えるほうが幸せで、何よりもまず、私らしかった。

 そっと、手袋を外して火傷を撫でる。

 私の綻びは炎として現れて、私自身の身体を焼いてくれる。

 もう、身体は何も感じられない、きっと自分が燃え尽きるその瞬間までも。

 あの子の言った通り……なのかな。

「運が悪かったのは、私……?」

 もう、どうしようもなかった。

 指先の感覚が完全に消えて、ライターが掌から離れていく。

「駄目ぇ……シオン……行かないで……! シオン……シオン……!」

 ……どうして、来てくれないの?

 こんなにも暖かい炎なのに、どうしてこんなにも寂しいの?

 どうして心は冷たいままなの?

 私が好きだったものって、いったい何?

 私が好きなものは……暖かさじゃなかったの?

 暖かいのは、家族がいたから?

 私が好きだったのは……家族なの?

 じゃあ、家族は何処? お母さんは? お父さんは? シオンは?


 ――お前が燃やしたんだ、お前が。

 

 誰のものでもない冷たい声が、私の耳元で聞こえた気がして、背筋が凍った。

「嫌だよぉ……寂しいよぉ……! シオン……助けてよ……行っちゃ駄目なの……私は……夏楠はここにいるよ……ねぇ! お願い……!」

 必死に、手を伸ばした。 

 あと少しなのに、この指が動けば、届くのに……。

「……う……ぅあ……ぁぁぁ……手……繋いでぇ……」

 涙しか出てこない、もう誰も戻ってこない、もう何も戻らない。

 何もかも、燃やしたのは私だった。   

 私の心は、雨に溶けていく。

 身体だけが取り残されて、炎の中に消えていくんだ、きっと。

「私は……ただ平穏が欲しかっただけなのに……だけ……なのに……」

 私が欲しいのは、それだけなのに……。

「…………寒いよぉ……こっち……来て……よぉ……、ここにいてよ……、寂しいよぉ……夏楠は……夏楠はぁ……」


  ● 


 右目の世界で、睦月は独りきりのまま泣いていた。

 その肩は肌蹴て、真っ赤な火傷が見えている。

 もう、ただ見ているわけにはいかなかった。

 傍観者でいるのは、もう辞めなきゃいけなかった。

 タイミングが悪いのか、傘は安っぽいビニール製の1本しかなかった、でも、自分が濡れる帰り道なんてどうでもよかった。

 何もできないと割り切った自分を悔やんでもどうしようもないから、行動するしかなかった。

 雨は空の色を確かめさせてはくれない。

 雨は全てを流す、今日のことだって、いずれは同じように、記憶の波に流されていく。

 だからこそ、忘れたくない。

 俺はやっぱり何もできないけど、だからといって睦月を見捨ててしまうような奴にはなりたくない。

「ようやくなんだよ……ようやく話せるようになったのにな……」   

 俺にとっては、あまりにも大きな進歩だった。

 その進歩をくれたのは、紛れもなく睦月自身。

 貸しとか借りなんていうつまらない言葉じゃない。

 睦月の傍でしか、きっと生きられないのが高良野浅儀なんだ。

 なのに、まだ同じ失敗を繰り返している。

 大事な時なんだって、分かっていたんだろ?

 そうなのに、俺には見えるのに。

 また、間に合わなかった。

 逃げる勇気、って何だよ、そんなの言い訳じゃないか……。

 

 そんな自分への戒めのように、ただ歩き続けた。

 灰色一色の世界は、どこかで見たような嫌気を与えてきた。

 そんな世界の中から、やっと睦月を見つけた。

 睦月は傷ついた制服と不揃いな靴下を雨に晒して、歩いていた。

 傘なんか何処かへ放り投げて駆け出したいけど、そんなことをする権利はない。

 睦月は真っ赤に擦れた目でこっちを見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。

 その姿は哀しかったけれど、そんなことを労う権利もない。

「……あ……睦月、ごめん」

 それだけしか言葉が見つからないのも、それしか言葉をかけられないのも、当然の報いだった。

「……来てくれたんだ……」

 よかった、と消え入りそうな声が続く。

「……傘ぐらい持ったら、って言ったじゃないか……」

 睦月は差し出した傘を素直に受け取って、一度だけ俺の手元を見た。

「君が濡れるのに……いいの?」

「傘を差すのも差さないのも自由だ、って君も言ってたし、一人だけ濡れないままなんて卑怯だ、その程度のことから逃げるのは嫌なんだ」 

「……だったら、借りてく……」

 睦月はもう、一人で前を歩かなかった。

 ほとんど離れずに、俺を傘の端に入れながら、ずっと隣を歩き続けている。

 自分の足が、道路に生まれた水面に小さな波紋を生んでいくのを、ただ俯いて見つめながら。

「高良野くん、ちょっといい?」

 ほんの少しだけ背の高い、睦月の姿が近くにある。

 こんな距離にいても良いんだろうか、俺は。

「……何?」

「……私の家まで、一緒に来てくれない?」

 今なら、どんな願いだって聞き入れられる。

 それが償いだというのなら、それに従うまで。

「君がそうして欲しいなら……断る理由はないし、断れないんだ」 


 案内された睦月の家を、本当に家と呼ぶべきなのか分からなかった。

 確かにマンションの一室ではあるけど、俺にとってそれは「家」の範疇だから、そういうことが言いたいわけではない。

 ほとんど一人で暮らしているらしいっていうのは、前から知っていたけど、実際には見たことはなかった。

 靴が何足かあるっていうことは誰かと生活しているはずなのに、その現実感のない雰囲気が、この玄関から部屋までずっと広がっている。

「……遠慮しないでいいよ、早く入って」

 短い玄関には、睦月の濡れた足がつけた、小さな跡が残っている。

「良かったら、雨宿りとか……そういうの、してかない?」

 平然と、恥ずかしくないのか? ってくらいの台詞をぶつけてくる。

 っていうか、雨宿りじゃない、そういうの、って何なんだ。

 あぁ、きっと今の睦月が、本当に何も飾らない「藤原睦月」なんだ。

「そうだね……あんまり濡れちゃいないけど、君が心配だし、そうするよ、何かして欲しいことがあるのなら、手伝いだってする」

 睦月はほんの少しだけ考えるような表情の後に。

「じゃあ、火傷の薬……塗って欲しいな……」

 少しだけ恥じらいを含んだ声は、やっぱり人間らしさに満ちていた。 

「ちょっと待ってね……髪の毛だけでも拭くから」 


 ソファーに身を預けて、気だるそうに横たわった睦月の喉下は、自分の想像以上に柔らかかった。 

 薄紅色の傷痕は、少しだけ肌から浮き上がって、その存在を主張してくる。

 隣に浅く座って、その傷を薬を塗った指で丁寧になぞる。

 頚動脈の拍動が直に伝わるほど距離は近いのに、睦月は動じたような様子さえ見せない。

 なんとなく背徳的だけど、これしか方法がないから仕方がない。

「ねぇ、痕とか……残るのかな……?」

 睦月の声が喉を震わせるのが、直に伝わってくる。 

 しおらしくなりつつある睦月の声は、普段からは想像もできないくらいに心の中の不安さを含んでいるように感じた。

「大丈夫、ほとんど皮膚が赤くなってるだけで、変に抉れたりとかしてないからね……普通に治るよ、きっと」

 とはいっても、流石に痛みはあるようで、撫でる度に睦月の身体が小さく反応しているのが、傷の痛々しさを際立たせていた。

 ただ、睦月が本当に心配してることが痕じゃないのも分かっている。 

「それにさ、傷が残ったからって、俺は君の傍からはいなくならないよ、前に言ったじゃないか、君が君であるのなら、それでいいって、俺は君が傷ついたって、それを嫌がったりしない、それが睦月なんだ、って受け入れる、それでいいかな?」

「なんか、変なこと言わせちゃってるみたいね……」

 本当に恥ずかしいのは自分の言葉なんかじゃなくて、この状況だ、ってことは、睦月には黙っておきたい。

「ありがと、もう大丈夫、あとは自分で出来るから……」

 生殺しそのものの状況からやっと解き放たれたと思った。

 でもというか、なんというか、ほんの少しだけ目を離した隙に睦月は俺の予想外の行動に出ていた。

「……え、どうかした?」

 きょとんとした顔をしていることは分かる、でも首から下は見ないほうがいいのかもしれない。

 なるべく狭めた視界の端には、床に脱ぎ捨てられたセーラー服の上部分が小さく見えている。

 肩どころか、きっと今の睦月は真っ白な腹部まで見えてしまっている。はずで、そんなものを俺なんかが凝視していいわけがないわけで。

「終わるまでさ……その、出てても……いいかな……?」 

「また、逃げようとしてる」

 あの夜に聞いたような、心の内側を透かすような声。

「駄目、逃げないで、こういう時は……逃げちゃ駄目」

 睦月の眼差しはまだ弱々しい、でも、その琥珀色の瞳はいつも以上に鋭さを増している。

 俺の気持ちを分かってやってるんじゃないか、そんな疑問さえ浮かぶほどに、その行動の理由が良い意味で怖かった。

「逃げないで、私を見て? これがありのままの私だから」

 逃げる勇気、っていうのは、本当に使いどころがよく分からない。


 睦月の身体というか、藤原睦月という存在を一言で表現するならやっぱりそれは「美しい」だと思う。

 そう、再認識させられるけど、悪くない。

 淡々と、まるで俺なんか最初からいないかのように薬を塗りこんでいく睦月の姿を、ただ見つめていた。

 というより、ただ俺は見惚れていた。

 うっすらと筋の浮かぶ腹部に、臍を斜めに貫くように引かれた薄紅色の罅は、育ちつつある薔薇の枝に似ていた。

 睦月の表情やその佇まいからは一切の「恥」という感情が抜け落ちているように見える。

 自分の下着姿を異性に見せつけるより、首の傷を撫でられることのほうが恥ずかしい、そういう捻くれた感じが実に睦月らしかった。

 さっき、睦月の首を撫でることを背徳的だと、そう思った。

 確かに背徳的ではあるんだ、おおよそ「善い」ことではないから。

 本当に表現するのなら、それはあまりにも耽美的。

 そこに存在していることそのものが、「美しい」ということなのかもしれない、そんな思いさえ抱かせた。

 俺の主観と贔屓目が満載なことは認める。

 でも、本当にそうとしか言えないほどに、睦月は綺麗だった。

 

 やっと、現実に帰れた気分、それだけが心の中にある。

 ひょっとすると、俺は明日にでも死ぬんじゃないだろうか?

 とか思っていると、右目が本当に見せてきそうなので、中断。

「……見て、って言っといってなんなんだけどさ……」

 濡れた服の代わりに、いつものパーカーを羽織って、きっちり服を着なおした睦月は、申し訳無さそうに声を漏らしはじめた。

「……うー、今更になってすっごく恥ずかしくなってきた、お願い、あれ全部忘れて」 

 強がる声のわりにこっちを見ていないのは、睦月自身のささやかな抵抗なのかもしれない。 

 本人がいうように、本当に「ありのまま」の睦月がここにいる。

「雨……止んだね」

 暗くなり終えた空と窓に残る水滴を見つめて、睦月は呟く。

 窓の反射を使って俺の方を見ているらしく、映った瞳だけが俺の方向を向いていた。  

「そろそろ帰る?」

「家には何も連絡入れてないからね、名残惜しいけど、そうする……いや、名残惜しいってのは変か」

 そう言うと、睦月は何か思い出したような表情で、部屋の本棚を探り始める。

 そして、本にしては薄い何かを手にして戻ってきた。

「これ、本のお礼、しばらく借りてていいから」

 手渡されたものは、紙製ジャケットに入った3つのCD、見た感じ洋楽らしかった。

 ジャケットだけを見ても、タイトルもグループ名も書いていない。

 片方が燃えている、握手をする二人組。

 一匹の牛と広がる草原。

 仄暗い水面に映った、何かの影。

「全部同じグループなの、ピンク・フロイドっていう……凄く寂しげな音楽を作ってた、誰かがいない哀しみを知ってる人たちの音楽……」

 どこか嬉しそうな表情が浮かんでいる睦月を、俺は初めて見ている。

 自分の「好き」を語る睦月を、やっと見ることができている。

「これが私の世界、私の好きなもの、君の本と同じ、世界の一部……」

 しっかり受け取って、また「当たり前」の世界に帰る。

「君とこういう話もしてみたかったんだ、スプラッタな話でも、変に哲学的な話でもなくて、本当に普通な、なんでもない話」

 玄関で見送る睦月の言葉を、きっと忘れない。

「そっか……これが平穏なんだ……こんなに、簡単なのに……」

 その言葉は、睦月がまだ壊れていない、確かな証。


 でも、壊れてないからそれでいい、わけじゃないんだ、もう。

 睦月を守る……助ける、なんて、出来るだろうか、俺に。


   ●

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