黒猫ロマリオン

飛騨またたび

黒猫と「21g」

  ●

 

 ビルの上は、思ったよりも静かで、独りになるには最適だった。

 ここから墜ちれば、俺の世界は変わるだろうか。

 これが最期の風景だと思って俯瞰したところで、重苦しい空と、降り始めた雨に濡れたアスファルトとコンクリートだけが見える、最後の最後まで、世界は無慈悲なものばかりだ。

 だけど無慈悲だからこそ、苦しまずに直ぐ楽になれるはずだ。

 無関心で、無神経で、たけど、静かでいてくれる。

 静かで、死ぬにはうってつけの日だ。

 ……こんな世界から、やっと逃げられる。 

 死にたがりの振りとかじゃくて、俺は本気でそう思っているんだ。

 死ぬほど逃げたいこの世界から、やっと逃げ出せる。 


 ……そう、思っていたのに。

 

 履きなれた靴さえ、律儀にしっかり脱ぎ捨てて、体を空に投げ捨てるその瞬間までは憶えていた。

 そこから先は、明確には思い出せない。

 でも、一つだけはっきりと分かることがある。

 ……死ねなかったんだ、俺は。

 ただ、痛みだけが残った、きっと傷は深い、雨だってまだ止んじゃいない、降り注いで、流れてくる水が体を濡らしている。

 どうして死ねなかった? なんて思わなかった。

 別に構わない、何度だって繰り返せばいいんだ。

 きっと三度目くらいには死ねるんじゃないか。

 希望なのか、それとも絶望なのか、それさえもよく分からない感情の中、痛みがもう一度意識を奪っていく。

 そんな感覚を憶えながら、また意識を失ってしまったらしかった。


 結局、自分の流した血で汚れたまま病院に運びこまれたらしい。

 服もいつの間にか上だけ着替えさせられていた。

 傍らに置かれた自分の腕時計とスニーカーで、ご丁寧に私物まで回収されていたことを知った、時刻は日付が変わって、既に深夜1時、思いのほか長い間意識を失っていたらしかった。

 頭を強く打った意識もはっきりあるし、頭も身体もまだずっと響くように鈍く痛んでいるけれど、歩けないほどじゃなかった。

 だから、また逃げ出そう、こんな世界なんか捨てて。

 俺の決心は揺るがなかった、むしろ死にぞこなったせいでより強くなっていた。

 だから、痛みを堪えて、ただひたすら階段を上った。

 俺は救われたいんだ、この階段を上った先で。

 屋上がどんな時間でも解放されていることは、昔から知っていた、市内で一番大きい病院だから、小学生になる前から何回も来ていた。

 ドアを開けると、初夏の夜風が吹き抜けて、解けかかった頭の包帯を靡かせた。

 一歩屋上へ踏み出して、そして――。

 

「……ねぇ君、夜は嫌い?」

 屋上の影の中から聞こえてきたのは、凛とした声だった。 

 空には昨日よりも円に近づいた月が浮かんで、光のない屋上をその光で照らしている。

 月明かりの下で問いかけてくる彼女は、美しかった。

 それ以外の無駄な装飾も表現もいらない、美しいその姿があった。

 こっちに振り返りながら、ほんの少しの小さな微笑を湛えた静かな表情に、全身の痛みなんか忘れるくらいに見惚れてしまった。

 本当なら、問いかけなんて無視して進んでも良かったんだろう。

 別に構わなくたって良かったんだろう。

 だけど、彼女は答えを待っていた、そんな様子が、雨に濡れたまま乾ききらない、コンクリートの地面に映し出された、揺らぐ影から伺えた。

「嫌いじゃないけど……でも、もう見たって何も感じないんだ」

「何も感じないなんて、そんなの嘘だよ……」

 影の暗がりからこっち側に歩み寄って、彼女はそう囁いた。

 目が夜に慣れたのか、ようやく彼女の細かい特徴さえ見えてくるようになった。

 緩いウェーブのかかった、雨に濡れたままの黒猫のようなセミショートの髪。

 そして、夜を浸したような瞳の黒と、華奢でどこか幽霊を思わせる白い肌が対照的。

 病院なんて辛気臭いところに似つかわしくない夏用の白いセーラー服と、黒いスカート、同じように黒い、片脚だけのサイハイソックス、そしてもう片脚には、対象的な包帯の白、シンプルな色で尚且つ清楚、なのにミステリアスだった、きっと左右が非対称だから。

 そして、喉下、ちょうど声帯の下の辺りに、真一文字で艶やかな薄紅色の傷痕を見つけた。

 他にも見える限り身体のあちこちに茨みたいな赤い切り傷の端が見えて、真っ白な包帯がそれぞれの根元を隠すように巻かれている。

 だけど、そんな数多の傷の中でも、格別に美しくて、不思議と目を惹かれるのが、喉下の薄紅色だった。

 傷痕は彼女を戒める赤い首輪のようにも見えた、首飾りではなく、あくまで首輪なんだ、小さな鈴が付いていないのも静かでいいと思う、何よりシンプルでいい。

 彼女には、その傷痕がとても似合っていた。

 本来なら忌むべきその痕は、彼女の首を飾れるほどに美しいんだ。

 故に、第一印象は黒猫だった。

 人間に飼われて欠伸をかいているようなのじゃなくて、野生に帰った姿の、凛とした、赤い首輪をつけたままの黒猫。

 そもそも野良猫が凛としてるかどうかなんて、この際どうでもいい。

「何も感じないなら、君はまだベッドで眠ったままだよ、何も感じられないっていうのは、自分がここからいなくなる、ってことだもの、現に君は私の声で足を止めてる、私なんて無視すればそのまま死ねるのに、どうして?」

 叱るみたいに、虚空に向かう俺の歩みを止めるみたいに、その白く細い左の人指し指を俺の鼻先に当てたまま、彼女はまた俺に問いかける。

「君はまだ……ここにいたいでしょ? 痛みを感じながらでも」

 初めて会うはずなのに、こんなにも彼女との距離が近い。

 でも、近いはずなのに、彼女の声はどこかそっけなさを孕んでいる。

 一見近いようで、蜃気楼のように心の距離は遠い。

 死に損なったことなんて、もうどうでも良くなっていた。

 それほどに、彼女に興味を抱いていた。

 何故だろう、とは思うけど、理由なんてきっと要らない。

「……なぁ、君はどうしてここにいる?」

 まるで狙いすましたみたいに、俺の意思を全て知っているみたいに。

 どうして君は、こんな所にいたんだよ?

「そうね、理由もなくここにいる存在はいないよね……私はね、生きてる実感が欲しくてここに来てたの」

 俺の鼻先から離した人指し指で、彼女はそのまま夜空を差す。

 真っ直ぐ伸ばされた指先に、夏の月が見えた。

「夜は眠りの時間なの、何万年も昔から遺伝子に刻まれてる、今日っていう一日の終わりでね……」

 彼女の言葉が、静かに、夜の中に彼女の世界を作っていく。

 死ぬほど逃げたかった世界だったのに、どうして君といる世界はこんなにも不思議で、俺を包みこんで、そして受け入れてくれるんだ。

「私は、その一日を生きることができたっていう実感が嬉しいの、別に余命がもう半年しかないってわけでもないけど、私は今日を過ごせることも、こうして今日が明日に変わっていくこの瞬間も、全部嬉しいの」

 天を仰いでいた瞳が俺の方に向き直って、彼女はまた俺に答えを求めた。

「ねぇ、君はどう思う?」

「……分からないよ……俺にはまだ世界の綺麗さが分からない」

 残念だけど、紛れもない本心なんだ。

「だったらこれから見つけていけばいいんじゃない? 逃げないでさ」

 そう言って、彼女は優しく微笑んだ。

「本当のことを言うとね、君が運ばれてくるときに、偶然私もそれに居合わせててさ……ねぇ、駄目じゃない」

 最初から止めようとして問いかけたわけじゃないんだろうけど、結局俺は彼女に救われてしまったらしい。

「せっかく無事に生きて戻って来たのなら、何か意味を探さなきゃ、ね? 君が生きることっていうのは、世界への抵抗なんだから」

 全て見透かしたみたいな、彼女の声が夜に響いた。

「私が言いたいことをシンプルに言うとさ、君はね……ここにいても良いんだよ、誰もダメだなんて言わない」

 ずっと、待っていた言葉だったのかもしれない。

 この世界の中に、いてもいい。

 救われたいなら、その言葉で充分だったのかもしれない。

「生きろ、ってことなのか……?」

「そう解釈してくれても、いいよ」

 何気ないことを言ったかのように、あっさりと言葉を返す。 

「……そろそろベッドに戻るべきじゃない? こんな所で見つかったらそれこそ、君はしばらく帰れなくなるかも」

 少し名残り惜しいけど、そうするしかないんだろう。

 ほんの少しだけ、日常に戻りたい気持ちが蘇っていた。

「……それじゃ、死なないようにね、死にたがりは良くないよ」

 最後に言い聞かせるようにもう一度呟いて、不思議な夜は終わりを告げた。

 

 藤原睦月、そう名乗った少女との最初の邂逅、そして、その記憶。

 今だってはっきりと覚えている、生きるための、君にもう一度会うための、優しい思い出。 

 俺を世界の中に連れ出してくれた、そんな存在。


 ……本当に、綺麗な傷だった。


  ●

 

「なぁ……なんで僕なんて助けた……?」

 目の前の光景は、いつのまにか血まみれの路地裏に変わっていた。

 ほんの何分か前に僕を囲んで殴っていた薄汚い奴らは、もう何も言わずにただ血溜りの中に倒れている。

 まるで夢みたいな、現実とはとても思えない光景。

 エアコンの室外機の音だけが、蒸し暑い路地裏に響き続ける。

 僕の体に染み込むような痛みは本物で、夢なんかじゃない。

 複雑に入り組んだ路地裏は薄暗くて、叫ぶ声なんか聞こえるはずもないのに。

 何故、目の前の男は僕の声に気付いたんだろうか。

 別に男の脇をすり抜けて、このまま逃げたって良かったんだろう、でも、僕は男に問いかけた、理由がどうしても分からなかったから。

「声が聞こえたほうに来てみたまでのことだ、別に俺はお前ごときに興味があるわけじゃあないんだ、早くここから去れ……」

 8月末には似合わない、草色のロングコートを着込んだ男は、つまらなそうに、僕には曲名の分からない口笛交じりで足元の死体を見つめている、まるで、暇潰しでもしていたかのように。

 目深に被ったフード、その闇の下から、男の眼光が覗いている、なんて鋭い眼……なんて圧倒的な現実。

 人を殺せそうな……いや、こいつはたった今人を殺したじゃないか。

 じゃあ、人を殺すことに躊躇いのない眼、なんだろうか。

 とにかく、恐ろしいようで、どこか威風堂々とした眼だ。

 近いものを見たことがあるならば、それはきっと虎やライオンの眼。

 最初から狩る側に立って生まれてきた存在の、そんな眼だ。

 僕はきっと一生をかけたって、この男に手をかけるような領域には立てないだろう、そんなことさえ思わせる、強く鋭い眼だった。

「……なぁ、あんたは何者なんだ?」

 ふと、僕は知りたくなった。

 この男がただの人間じゃないことぐらいは、もう彼の行動で分かっていた、それでも、知りたくなってしまう。

「なぁ少年、君が俺のことなんか知ってどうなるんだ? 俺は君のことを毎回こうして助けてやらなきゃいけないのかい?」

 男の声は、纏った雰囲気の割りに若々しい。なのに、老獪さや怪しさといった印象を僕の心の中に止め処なく反復させる。  

「僕はそういうことが言いたいんじゃないんだ、あんたが僕を助けてくれた理由とかそういうのはもういいんだ、僕はただあんたのことが知りたいんだ」

 固く結ばれていた男の口が少しだけ笑ったような、そんな気がした。 

「好奇心というものが君の身を滅ぼすかもしれないというのにな……」

「別に構わない、家に帰ったところで、僕には落ち着くような場所なんかないんだよ、別に何処に行ったって良いんだよ、僕は……」

 それを聞くと、男の鋭い眼が僕の体を射抜くように睨んだ。

 背筋さえ凍りついてしまいそうな、とてつもない震えが僕の全身を支配しようとしている、初めて感じる「畏れ」という感情。

「ふむ、だからこんな時間まで彷徨っているわけか、つまらない人生だなぁ少年、価値をつける意味さえない」

 心の奥底の深いところに、男の声が響いてくる。

「……俺についてくれば自分は変われる、とでも思っているのかい?」

 本心を見透かされた、そんな驚きが心の中を突き抜ける。

「確かに……そう、確かに君はここに転がってるような奴らよりは純粋だ、弱者は誰にも気付かれず消えていくことを知っているんだな? だからこそ君は変わりたいと、そう望むんだろう?」

 何ヶ月も前からこんな場所で僕は彷徨っていた。

 今初めて、僕はこの場所で安らぎを感じている、安堵している。

 目の前に立つ男の言葉には魅力があった。

 でもそれは、危険や禁断といった禁忌に等しい、黒い魅力。 

 男の声は、詐欺師とかペテン師とか宗教家とか、そういう類の奴らに近かった。

 普通なら、頷いてはいけなかったのだろう。傍に誰かがいれば、きっと僕を必死で引き止めてくれて、僕の手を引いて逃げ出すだろう。

 それでも、僕は頷いた。僕はやっぱり、どんなに本心を見透かされていたって、自分自身の願望を果たしたかった。

「あぁ……僕は変わりたいんだ、こいつらみたいな奴らから、全てを奪い去ってやりたいんだ……」

「復讐、とでも言いたいのかい?」

「そうだよ……復讐、僕は僕のために正しいことをするんだ……」

 僕は正しいことをしているんだ、その自覚があれば、きっとなんだって出来るはずだ。

「その正しさや劣等感が君を滅ぼすとしたら、君はどうする?」

 男は僕を試すように、笑みを浮かべた顔で問いかけてくる。

「僕はさ、自分が少しでも強くなれた、そういう事実があれば満足なんだよ、別に最初から後ろめたさも後悔も何もない、奪われたものを奪いかえせればさ、それで満足なんだ」

 僕が望むのは、自分が強くなれた事実だけでいい、結果は要らない。  

「……だったら、君に可能性をやるよ、要は力が欲しいんだろう?」

 その笑みは、心の底を突き抜けるような恐怖すら感じさせた。

「あぁ、そうだな、君の名前をまだ聞いていなかったね……」

 男がゆっくり歩み寄ってくる、僕の背後は行き止まりで、逃げることはもうできない。

 男が何かを手に持ち、馴染ませるように指を動かすのが、闇の中に見えて、そして。

「悪いが自分で……君自身で、名乗ってくれないか?」

 今、この小さな空間で何が起こっているんだろう。

 僕の体を硬い金属が貫いている、その感覚だけがある。

 声にならないような、今にも消えそうな声で、どうにか自分の名前を搾り出すように呟いた。

 痛みがないのに、自分の体がどこかにいくような感覚、それだけが僕の心に広がっていく、僕は何処へ行くんだろう、今ここで考えている僕の心は、いったい何処に行くんだろう。

「雪村仁人……仁人、か……」  

 まるで僕の名前が何か意味を持つかのように、彼は聞き出した僕の名前を繰り返す。

「もし君が心の奥底から目覚めることが出来たなら……俺を探して、俺の後に続けばいい、そして復讐でも何でもするんだな、君が得た可能性で、だ。 運命を超えてみせてくれ、雪村仁人……」

 諭すようにそう呟いて、踵を返して男は夜の闇へと歩き出す。

「君が追えるのなら、この冴葉統理を追ってこい」

 冴葉統理。それが男の名前らしかった。

 意識はもうほとんど残っていない、だけど僕は心のどこかで確信しているんだ。

 あの男は、きっと僕の救世主だ。

 あぁ、追わないと――。

 

  ●


 17才の秋は、いつの間にか始まっていた。

 自分自身が自分自身である、なんて、ありふれた、当たり前の、でも誰もが自覚していない、そんな自覚さえ持てないまま。

 3年前と変わらない孤独を抱えて、まだ流されるままに生きていた。

 人の叫ぶ声が聞こえて、それまでまるで無関係、って感じだった人々の波が、騒ぎの中で動き始める。

 こんな光景を見たのは、今日で何回目だろうか。

 ほんの数日前まではただの予感に近かった、でも、また当たった。

 3年前のあの日からずっと続けてきた、「未来が見える」状態。

 自分の意識では操作できない、どうしてこんなものを得たのかも分からない、だからそういう予感に近い、右目が見せた映像を成り行き任せにして見守ってきた。

 今回も、今までと全く同じなんだ、だから諦めて駆け出す。

 危険かもしれない、いや、その危険を見に行くんだ、この人混みの先に何があって、何が起こるかぐらいもう分かっている。

 だからそれを確かめにいきたい、自分の右目を信じて、真実を知りたい、それが、知ってしまう俺の義務みたいなものなんじゃないか。

 だから、何かに惹かれるみたいに人混みの中へと入っていく。

 そして、程なく辿りつくことが出来た場所。

 広がりすぎて壁にまで張り付いた、掠れた赤に埋もれている、薄暗い路地裏が見えた、俺には前から見えていたけれど。

「やっぱり、幾ら何でもやりすぎだよな……限度くらいは、さ……」

 まるで磔刑みたいに、コンクリートの壁に金属で打ち付けられた死体が、人と人の隙間から少しだけ見えた。

 別に今見えなくてもいい、全貌は既に見えていたから。

 だから分かる、あれはただ壁に打ち付けているんじゃなくて、四肢を完全に胴体から切り離した上でやっていることだって。

 隠すような暇もなく、一度人目に触れたものは更に野次馬気分でどんどん集まった人々の目に触れていく、まるで伝染するみたいに。 

 こうなると、まるで美術館の絵画みたいに高尚なものに見えてくる。

 この死体を打ち付けた張本人は、人々を平穏という名前の眠りから目覚めさせたいのかもしれない。

 そう思えるほどに、平穏とは程遠い光景。

 俺が呟いた声は、悲鳴や人々の声に紛れて消えていく。

 残念だけど、まだ人々は平穏から目覚めちゃくれない、そう思う。

 暢気に写真なんか撮ってる場合じゃないってことさえ分かってないんだからさ。

 何日も前から、こういう死体は見つかり続けているのに、ニュースでだって、繰り返し騒がれているのに。

「嫌になるよな……これから秋だってのにさ……」

 誰かが漏らす声が聞こえてくる。    

 そうなんだ、まだ秋は始まったばかりなんだ。

 きっと、こんな死体一つは序の口なんだろう。

「ほんと、嫌になるなぁ……」

 その誰かに賛同するみたいに繰り返す。

 慣れてるはずなのにな……こういうのには。

 

 

「ねぇ高良野くん、君もあの現場にいたんでしょ? ほら、君はよく死体とかそういうのを見つけてくるじゃない」

 明くる朝のこと、ほとんど人数の揃わない静かな教室の一角で、件の藤原睦月に問い質された。

 学校の合併だなんだで、気付けば再会していた、裏でどんな力がはたらいていたかなんて、知ることもできない。

 だからまぁ、深くは考えないことにして、こうして過ごしてきた。

 俺を世界の中に連れ出してくれた、この恩人と、静かに。

 再会しても、相変わらず睦月は黒猫の写し身だった。

 教室に漂う空気になんて構わずに、こうして二人だけの世界を作り出している。

 あの夜と同じような不思議な感覚が、未だに残っている。

 息苦しさのない、孤高の振りした孤立でもない、普通の世界。 

 その彼女は、興味本位で聞いているのか、それとも他の理由があるのか。

 その表情からは読み取れなかった、固いようで、何か考え込んでいるように見えて、どこを見ているかさえ分からないポーカーフェイス。

 その表情は暗くて、物憂げで、それでいて綺麗。

 綺麗なのに、それでいて暗く、物憂げ。

 どうやら昨夜は眠れなかったらしく、目の下に薄く隈ができている。

「確かに居たけどさ……見てたところでどうこう言えるような状態じゃなかった、筆舌に尽くしがたい、って奴だよ」

「その割には、君はショックどころか、驚いてさえないように見えるんだけどなぁ、私には」

 見えていたから、それは仕方ないことなんだ。

「睦月はさ、そういう事件とかに興味あるの?」

「当たり前……っていうと変な感じだけどね、惹かれてる、っていうのかな、こういうの」

 澄ました顔と口調で、睦月はさらりと言ってのける。  

 興味がある、とはまた別のニュアンスだった、一番近いのは、恋をしている、かもしれない。

「普通じゃない事件って、やっぱり人の中身が見えてる気がするの、普段は見えていない心の裏側とか、そういうのがね」

「心の……裏側?」

 彼女らしい、心の中に踏み込んでいくタイプの言葉だった。

 俺には心に表も裏もないだろ、としか思えないけど。

「君だって、私に向ける表情と他の人に向ける表情は同じようで違うでしょ? 心の中の自分は一人だけど、隠してる感情くらいだれだってあるじゃない、それが私の見たいもの、かな」

 はた迷惑な話だと思うけど、言われてみれば、確かにあの現場はそういう、本音みたいなものに溢れていた気がする。

 人間は残酷だけど、それを器用に隠せるのも人間だ。

 だからこそ、あんなに人の体に穴を穿つような真似をしてまで、何か訴えたいものがあるのかもしれない。

 一体、何なんだろう。

「だから、詳細を教えて?」

 ほんの少し、睦月の語勢が強くなった。

「今回のは壁に杭か何かで打ち付けられてた……なんだろうな、もう何か趣味の悪い美術品を見てる気分だったよ、凄く痛々しいやつ」 

「やっぱり、余裕だったんじゃない」

 そう言ったあと、彼女は少しだけ考えるそぶりを見せて、そして。

「ただ傷つくのが見たい、見せたい……とか?」 

 彼女なりの答えはもの凄くシンプルで、それ故に恐ろしい。

「だとするとさ……本当に恐ろしいね、それ」

「だから皆、怖がってるんじゃないの? ほら、今だってこのクラスのどこかで、誰かが話をしてるじゃない」

 確かに、あまり時間もたっていないせいか、現場があまりにも近いせいか、そういう話をする声は多かった。

「こういう、平穏を破る恐怖、犯人はそれを与えたいのかもね」

 でも、それはまだ達成されてないんじゃないか、そう思う。

「どうだろうね睦月、こういう話が出来るのも、今が平穏だからじゃないのかな」

 この二人の世界だって、いつまで続くか分からないんだ。

 そんな未来が見えたわけじゃないけど、少なからずそう感じた。

 

 平穏な日常はいつもと同じように過ぎていく。

 だからきっと、誰一人としてクラスに欠けた人間がいることさえ気にかけないのかもしれない。

 雪村仁人はいつの間にかこのクラスから姿を消していた。

 時期的には、壁の映像が右目に見え始めたくらいに重なる。

 印象が薄い奴ってわけでもなかったし、むしろ俺なんかよりよっぽどうまく周囲と接しているような人物だったはずだ。

 なのに、その雪村仁人がいなくなったことを、誰も気にかけないのが不思議で仕方なかった。

 ただ自分が人一倍そういう疎外感に敏感で、そういう感覚が苦手だからかもしれないけど。

「何処で何してたら2、3週間も学校に来ないなんて真似ができるんだか……」

 こういう疑問を抱いた時、睦月なら進んで探しにでも行くか、理由を知るまでは何処か落ち着かない感じで自分の本に目を通してるはずなんだ。

 実際、今朝の話をして以降の睦月はそんな感じだった。

「知りたがりと成り行き任せじゃ、そりゃ違うよなぁ……」

 

 右目は、まだ未来を何一つ見せてくれない。 

 

  

  ●

  

 何故だか分からないけど、僕は生きていた。

 目を覚ましたのは、何日か後の暑い午後、全く同じ路地裏だった。

 傷は寝ている間に塞がっていたのか、それとも傷を負った感覚さえも僕が見た夢の一部なのか、その瞬間には分からなかった。

 当たり前の話だけど、冴葉統理はいつの間にかいなくなっていた。

どう追えばいいかも分からない、でも僕にあの男が何かしたことは確実だ。

 やりたいことをやれというのなら、僕は躊躇わず復讐をするだけだ。

 別に帰る場所なんか必要ないんだ、今の僕には。

 そう言い聞かせながら、今日で何日が経っただろう。

 復讐らしい復讐ならとっくにできているのに、街はあんなにも僕の残すものに恐怖を抱いているというのに。

 まだ、僕の心に充実感はなかった。

 

 結局のところ、何かが変わったところで、雪村仁人は雪村仁人のままだった。

 だからだろう、あいつらは以前と同じように僕を見下した目で近づいてきた、高校にさえ行けない頭脳の癖して、偉そうに。

 でも、僕はもう奪う側の人間になれたんだ。

 そう思うと、あいつらの持つものが何故か感覚で分かったし、掴むことさえ出来るような気がした、いや、掴めたんだ、僕には。

 例えばそれは視覚だったり、聴覚だったり、そういう実体のないものさえ奪えた。

 あいつらの命は紙より軽いのに、どうしてこんなにも体は重いんだろう、そう感じれば、重さだって奪えた。

 きっとこの力が、冴葉統理の言っていた「可能性」なんだろう。

 僕は、以前なんかよりもずっと、成長していた。

 

 隠れ場所を探すのは簡単だった、街の裏側に来る奴は大体世間からはいないも同然の存在として見られるからこそ、隠れ易かった。 

 現に僕はもう何人も人間をこのビルの中に連れ去っては、バラバラに解体して、殺して、どこかに置き去りにしている。

 もう、1週間くらいは経っているはずだ。

 なのに、本当に人の目に触れるまでそんなことが起きている事実にさえ気付かれなかった。

 証拠は残らないから、僕が追われる心配はない。

 それが、安心して復讐を行える何よりの理由だった。

「……おい……お前……」

 どうやら、名前さえ知らない男が目を覚ましてしまったらしい。

 薄汚れた窓からは昼ごろの太陽光が差し込んできている。   

 今この部屋にいる、連れてきた最後の一人に、別に恨みはなかった。

 ただ、不幸にも僕の復讐を目撃してしまっただけなんだ。

 だからといって放置するわけにもいかなくて、体の自由を文字通りに 「奪って」ここまで連れてきただけの、本当の犠牲者だった。

 でも、それも仕方ないことだって分かってくれるはずだ。

 僕だって、最初はそうだったんだ。

 ただ何処にも行けなかったからこんな路地裏に来てしまっただけなのに、それから憂さ晴らしの為に殴られ続けていただけなんだ。

 僕はもう奪われ続ける人生は嫌なんだ。

 だから僕だって奪う側に回ったっていいだろ。

「……僕に何か用でも?」

「もう気が済んだだろ……ここから出してくれ……どうしてだか分からない、体が動いてくれないんだよ……」

「そりゃ無理だよ、どうせあんただって話すつもりだろ? 僕がここにいることとかさ、ここで見たこととか、あることないこと全部さ」 

「当たり前だ! 目の前で何人も人が死んだ! 俺はあいつらみたいにはなりたくないんだ!」

「そりゃ僕だってそうだよ、ああなりたくなかったから、先にやり返しただけの話でさ」

「俺はこれからどうなる……? あいつらみたいにバラバラにされて殺されるのか……?」 

「あんたに恨みはないからね、命までは奪わないよ……ちゃんと外にも出してやるから……」

 何も伝えられなくした上での話なんだけどさ。

「俺は助かるのか……?」

「……運が良ければね」

 僕みたいに、誰かに助けてもらえれば、命くらいは助かるって。

「大丈夫さ、あんたは運がなかっただけだ、すぐ終わるよ……」

 刺激しないように男にそっと触れながら、体から痛覚と視覚を奪っていく、これで男は何も気付かない。

 ナイフをたった一本、腹部の脈に突き立てれば終わることなんだ。 

 深く刺さったナイフを引き抜くと、そこから血が流れ出て床を汚していく。

 臭いがきつくなる前に片付けないと、そんなことを思いながら、次は両手と両足の感覚と硬さを奪っていく、これで切り易くなった。

「なぁ……何してるんだ? 出してくれるのか……? おい」

「煩いなぁ、黙って待ってろよ……お前の命は僕が握ってるんだぞ?」

 いつ僕の能力の効果が切れるかなんて分かってないから、両足も両手もきっちり肘や膝の上で切り落としておかないと動かれてしまうじゃないか、これはいずれどうにかしなければ、誰かで計るとかして。

 感覚がなくなっている以上、もうこの男に何をしても痛みを訴えることはないし、きっと何一つ気がつかない。

「これでいい、これであんたは自由だよ……」

 手足の切断、視覚と痛覚の喪失、駄目だ、まだこの男は煩いんだろうなぁ。

「もう僕はお前のことは考えないことにするよ、そのほうが気が楽だ」

 応える声は聞こえなかった。

 声と聴覚を奪ったから、それも当然だった。

 これなら、どこかに放置すれば勝手に死んでくれるだろう。

「命を奪わないことは約束したよ……『僕』が命を奪わないことはね」

 お前の命を奪うのは僕じゃない、きっと時間か運命だ。

「……さて、あと何人残ってたっけな……僕は全員から取り戻さなきゃいけないよな……」

 

 僕は復讐を果たさないといけない、それが僕のやりたいことで、そして今やるべきことだ。

 僕のしていることには芯があるし、理由だってあるんだ。

 きっと冴葉統理は僕のことを認めてくれるだろうし、僕のことを見捨てた奴らだって僕のやったことに対して恐怖を抱いてくれるはずだ。

 ただ自分は無関係って顔して奪われていく僕を見て見ぬふりをして避けていった奴らだ、僕がそうやって奪われいるのをいいことにそれに便乗して僕から尊厳を奪っていった奴らだ。

 だからこそ気付かせなきゃいけないんだ、僕が、僕自身の行いで。

 世の中に絶対の平穏なんてないし、それと同じように絶対に奪う側に立てない人間なんかいないんだ。

 僕は成長している、そのことを理解させてやりたい。

 僕は正しいことをしているんだ、そうだよな、冴葉統理……。

 

  ●   

 

 もう、夜風は冷たく変わり始めていた。

 ついこの間までは暑さで私を苦しめた癖に、夜は私以上に気紛れだ。

 昨日は眠れなかった、というよりは今週に入ってからだ。

 この加賀屋市を震わせている連続殺人、その中身が気になって仕方ない。

 高良野くんが事件に出会ってくれたのは、彼には悪いけど幸運かもしれなかった。

 今回で何人目だったっけ、そう思えるくらいに、加賀屋市内ではどんどん死体が増えていっている、いや、元々あったものが見つかっているだけなのかもしれない。

 誰も気がつかなかった人の死が、この事件を経てやっと現実に戻ってきている、そんな感覚がある。

 でもやっぱり、どこか不思議な、冷たさの中に温さをもった冷めかけの微温湯みたいな違和感もあった。

 ほとんどの人間が、こういう人の死を現実として捉えていないんだ。

 じゃあ私はどうなんだと聞かれたら、やっぱりただ「惹かれてる」としかいうことができないんだ。

 私の良心が痛むことはないし、善なんてよく分からないことの為に行動するような義理もない。

 私はただ、この事件の中の異常を知りたいだけだ。

 そこにある剥き出しの感情を見てみたいんだ。

 それがプラスでもマイナスでもいい、私にとって他人を知ることこそが世界の中で幸せになる手段なんだ。

 だから、私はこうして生温い夜の中にいる。  

 お気に入りの濃紺のパーカーを羽織って、制服からスカートだけ借り受けて。

 月の光と街灯が、深夜の静寂と共にビル街を包んでいる。

 すれ違う人影もない、その静寂はなんとも心地いい、私だけの世界にいるようで。

 夜の街を歩くのは、半分習慣みたいなもの。

 私を縛るもの、圧し掛かるもの、そんな重さもきつさも、夜の中にはない、自由なんだ。

 昔から、ずっと繰り返してきたんだ、私は。

 家に居場所を求めたくないから、こうして夜の中に逃げ出した。

 今だって、本質は変わらない。

 何処でもない場所にしか、私の居場所はない。

 当てもなくただ歩きだしただけだから、何かが見つかる当ては少なかった、けれど、薄暗い路地裏の中を探し続ければきっと見つかる、そんな気がしていた。

 まだ、夜は長いから。

 高良野くんが見たらしき現場は、もう黄色いテープで平穏な現実から仕切られていた、でも、人目についてしまえばその事件はもう現実の中にあるんだ。

 そんな戒めは、今更したところで無意味のはずなのに。

 まだ世界の中にいない現場、それを探さなければ、真実には辿りつけない。

 それ以外の現場に誰かが来ても、それは確実に本人ではないんだ。

 異常者というのは、傍から見てもほとんど他人と変わらないんだ。

 そういう人間ほど、元々は信じられないくらいに普遍的な殻をもっているんだ。

 正直な話、聞く手段ならある。

 でも、私には話を聞ける人間を探す手段がなかったし、もとよりそれは危険すぎた。

 だから何度も同じような場所に辿りついては無価値なものを見つけている。

 よくもこんなに繰り返せる、なんて悪趣味、残っている血痕だけでそう判断できる。 

 高良野くんが「凄く痛々しい美術品」に準えるのもまぁ分からないわけじゃなかった。

 でも、どこかで私は似たような感覚を覚えたことがあるんだ。

 例えば、私の首の傷とか、そういうものだ。

 でも何故だろう、少し前に高良野くんは、私の傷を綺麗だと言ってくれたのに。

 でも、彼にとってもこういう殺人現場の血痕や残された死体そのものは、ただ「痛々しい」だけなの?

 何処に差があるのだろうか、一度落ち着いて考えて見ると、少しだけ分かるものがある、そんな気がした。

 あまりにも上手く出来すぎている、そう思える。

 何かを伝えたい、そんなメッセージ性は伝わってくる。

 なのに、そのメッセージそのものが、まるで他の誰かの模倣に過ぎない、そんな気がするんだ。

 どこかで感じたことがある、その感覚は私の疑問を更に深めていく。

「……やっぱり、知りたい」

 誰に向けてでもなく呟いた、その声は路地裏の殺風景な壁に少しだけ反響して、夜の中へと消えていく。

 虱潰しなんかよりもよっぽど有効な選択肢は残っているんだ。 

 まずは網を張ろう、「存在を知る」網を。

 別に地図とかそういうのが頭の中にあるってわけじゃない、でも他人が存在している事実は消せないし、その位置なら感覚で分かる。

 きっと下手な電子機器よりも正確な、私の力。 

 私に誰かが与えた「ここにいる」を知る力。

 最初からこれを使えばもう少し楽だったろうけど、自分の惹かれたものなんだ、自分自身の足で探して、自分自身の目で見て、自分の感覚で確かめて、そうして実感を得てから自分の力で真実を見つけたかった。

 だから、今、使わせてもらうんだ。

 こんな夜にこんな路地裏にいる人間なんて私と、あとほんの少しぐらいなんだ。

 だから、それを探せばいい。

「えっと、どれから当たろうかな……」

 私が思っているよりも、この夜は深くて広大だ。

 


  まだ夜は続いている、吹き込む隙間風はどこか冷たい。

 ようやく見つけた一つの場所に私はいる、確かに、そこはまだ現実の中にはいなかった。

 黄色いテープもなかった、つまりここを知っているのは、私と犯人だけのはずなんだ。

 目の前に広がっている光景を私は信じても良いのか、それが分からない。

 高良野くんだって同じような光景を見ているし、さっきだって似たような血染めの光景を幾つも見てきた。

 でもここには死体がある、だからここにはまだ黄色いテープがない。

 違う点といったら、本当にそのくらいなんだ。

 私は、私を信じるべきなんだろう。

 さっき私はこれを死体だと思った。

 でも私がここに来たのはここに誰かがいるからで、事実目の前に誰かがいる感覚を得ている。

 死体なら「ここにはいない」はずなんだ、私は死体の位置までは探せない、じゃあこの死体は生きている?

 目の前にあるのは、ただ四肢を失って目を閉じ、口を噤んだままの限りなく生者に近い死者、あるいは限りなく死者に近い生者?

 まるでこの事件の記念品みたいな、まさしく悪趣味な美術品にも似たその肉体は、ただ何も言わずに転がっている。

 分からない、知りたい、知るのが怖い? いや、恐怖はない。

 今私の心にあるのは、ただ真実に近づきたい意志とその意思だ。

「……凄く嫌な感じだ……でも知りたい……悪いけど」

 誰に聞かせるわけでもなく呟いて、恐る恐る私は目の前の肉体の額に手を伸ばす。

 「存在」とはつまり、自己が自己である証であり、経験だ。

 私たちの肉体なんて元をたどれば全く同じ物質で、その形が個人で違っているだけの話だ。

 だったら、私たちを区別しているものとは?

 私はその答えを感覚で理解しているんだ。

 それは個人の記憶であり、個人の経験であり、個人が辿ってきた運命の流れ。

 それこそが「個別」であり、それこそが「他の誰でもない自分」を生み出して、世界の中に自分を留めている「存在」なんだ。

 皆はそれを知っていて、当たり前のことだと思ってる、あまりにも当たり前すぎて、世界の中からそれを見つけることができないだけで。

 でも、私の能力ならその「存在」にだって触れられる。

 私にとって「存在」していることは「当たり前」なんかじゃない。

 そこにある「存在」が五感で感じられるのなら、触ることだって不可能じゃなかった。

 だから私は今こうして、この肉体の「存在」そのものに触れている。

 全ての感情が、心の声が、どうしてここにいるかが、全て私の脳裏に流れ込んできて、そして……。

「あんた……誰なんだ? 顔が見えない、でも触られてるってことはあんたはそこにいるのか?」

 頭の中に響くみたいに、声が聞こえてきた、この肉体は男だった、よく見れば、ほんの少しだけ肉体の首から上が反応している、あぁ、つまりこの人は生きていたんだ、こんなに血を流しても、まだ。

「……そう、私はここにいる、今貴方に触っている、分からないかもしれないけど、私は今貴方そのものに触ってる、だから私の声が聞こえるでしょ? 聞こえるなら、頷いて、目を開けて」

 また手元で一回、首から上が動いて、瞼が開いていく。

 聞こえているらしかった、でも、開いた彼の瞳は酷く虚ろだ。

「手足の感覚がないんだ……ここは何処なのかも分からない……」

「……誰にこの傷を?」

「分からない、名前も知らないような奴で……」

「顔ぐらいは見てるでしょ? お願い、思い出して、私は貴方をどうにかできるかもしれない、だから今は私の言葉に従って……」

 あと少しなんだ、もう少しで手が届く。

 その手がかりを掴むために、頑張って貰わないといけないんだ。

「君なんかにできるのか? 声を聞く限りじゃあ、どう見たって若い女の子じゃないか……自分でも聞こえるのが不思議なんだ……夢でも見てるのかな……おかしいのかな、俺」

「私の手が貴方に触れてるのは分かるでしょ?」

 また一つ頷いた、意識がはっきりしているんだ。

「これは夢でも貴方の見てる幻覚でもないの、時間がないの、思い出せることは全部、嘘偽りなく話してもらえない……?」

「思い出せるのは……」

 思い出せるのは、確かな痛みと、混乱する感覚だけ。

 その感触は不透明ながら、私の脳裏にも映像で伝わってくる。

 夜の薄暗い路地裏、そしてここと同じような血染めの壁と路面。

 この人を強い力で殴ったのは男、大体私と同年代……?

「……口封じなんだろうけど……貴方がこんな傷を負ってる原因、思い当たる?」

「俺は怪我してるのか……そりゃそうだよなぁ……あいつに首から下を全部もってかれたような気分だけがしたんだ……」

 また何か見え始めた、こんどの風景はまだ明るかった。

 昼ごろの太陽光が見えて、彼の霞んだ視界の中にナイフを持った男の姿が見える。

 男は何か呟きながら、この人の方へと向かってくる、その時に。

「……知ってる……私はこいつを知ってる……」

 雪村仁人、私の知る限りの、その姿がはっきりと見えた。

 名前と顔程度しか知らないクラスメイトが、こんな凶行に及んでいる姿が見えて、そのままぷっつりと途絶えた。

 懐かしさのようなデジャヴさえ感じる、酷い嫌悪感があった。

「なぁあんた、そいつの名前……分かるのか?」

「……雪村仁人っていうの、私は彼の顔と名前くらいしか知らない」

「それで充分だ」 

 男の意識の中にある黒いものが、どんどん広がっていくのが分かる。

「俺は自分を殺した奴の名前さえ知れずにこのまま死んでくのは嫌だったんだ……、その雪村ってやつが奪ったんだな……? 俺の足も、腕も、声も目も耳も鼻も全部か……!? なぁ、あんたは俺を救ってくれるんだよな?」

「……そう、きっとそう」

「だったら俺を殺してくれ、助けてくれ……」

「……それが、貴方にとっての救いだって言うのなら……そうする」

 多分、きっと私にはそれしか出来ないだろうから。

 だから、輪郭だけの真っ白な、彼の「存在」を肉体から引きずり出して、ゆっくりと首に手をかけて、花のように手折っていく。

 あぁ、なんて脆いんだろう。

 でも、これが人の「存在」なんだ。

 こうして少しでも傷つければ、何処か遠くへと消えてしまうモノ。

 二度目だからか……もう嫌悪感はなかった。

 でも……その「慣れていく感覚」が恐ろしい。

「……ねぇ、これで良かったの……?」

 これで良い、とでも言いたいように頷いたままの姿で、彼の存在はどこかへ溶けていった。

 

 これで良いわけ、ないのに。

 

 こんな死だけは、認めたくなかった。

 でも、私はこんな姿になってまで生きたいというわけでもない。

 ただ意識と自我を持っているだけの動かない肉体になったら、私はきっとこの二つの意識の狭間で苦しむんだろう、本当に嫌な気分。

 私はせめて人間でありたい、人間らしく生きて、人間らしく死にたいんだ、だからこんな死の形は絶対に望まない。

 雪村仁人を許さないという気持ちはなかった。

 許す許さないという決定権は私にはない、私に彼は裁けない。

 私はただ知りたいだけなんだ。

 そうまでして奪う側に回りたいと願う、彼の内側だ。

 気がかりなことは一つだけだ。

 男の手足を奪うくらいなら誰だって出来る、きっと私だって出来る。

 でも、雪村仁人はここにいた男から視覚や聴覚、そして声まで奪っていた。

 男の体には腹部と切断部位以外の目立った傷はなかった。

 それ以外に奪う方法があるのなら……それは一つ。

「彼も一度死んで……それから蘇ったの? サクラメントを得て?」

 こう変な事情が絡むと、また色々分からなくなってくる。   

 ほんの少し寂しさを感じて、少しだけ頼りたくなった。

 携帯電話を持ってきていてよかった、アドレスも電話番号も聞いておいて本当によかった。

 だから君を頼らせてほしい、君の視点でこの夜を見てほしいんだ。

 君の内側だって私は知りたいから、少しでも君に近づきたい。

 銀色の携帯電話は、この夜によく映えた。

 コール音は静かな夜だからこそ、こうして響いている。

 ぷつり、という小さな音の後に続いて、声が聞こえてきた。

「……睦月、どうしたのさ? もしかして、また眠れないとか?」

 この夜に負けないくらいに、静かな、それでいて全て知っているような、そんな声だった、時刻は11時50分、眠そうなそぶりさえない。

「ある意味では眠れないかな……ねぇ高良野くん、時間ある?」

「あるよ、心配しなくていい、君の知りたがる癖はよく分かってるからさ、何か見つけて、それでまた余計に疑問が増えて、頭の中が混乱してる……とか?」

 自信なさげな声とは裏腹に、その見解は的中している、意外とダイレクトに当ててくる。

「別に信じてくれなくてもいいけどね、君が出くわした死体も、他の猟奇殺人も、全部雪村仁人が関わってるどころか実行犯、その事実を知ってしまったわけなの」

「……あぁ、そういうことなのか……嫌な予感っていうかさ、何か違和感みたいなものはあったんだよな……」

 驚いた、というよりは、まるで悪夢が現実になった、それに近い言い回しで、彼は応える。

「それで……俺は君の為に何が出来るんだろうね」

 君のそういう謙虚さというか、いい自信のなさは嫌いじゃない。

「ただ、君の考えをくれるだけでいいの、君の視点でこの夜を見てくれば、それでいいの」

「……だったらひとつ、警告っていうかアドバイスだね……」

 何かを知っているような声色で、そのまま言葉は続いていく。 

「そのまま前を向いて、君の歩幅で三歩だけ歩いたら振り向くんだ、今すぐに、いい?」

 最後の最後だけ、語勢が強い、戸惑っている暇はない。

 とにかく、歩けば答えが見えるんだ。

 だから、まず一歩。

 何故だろう、いつの間にか音が消えているように感じる。

 二歩。

 電話を切った覚えはない……? 

 三歩。

 躊躇うな、振り向け、ここは黄泉比良坂じゃないんだ。

「……そう、そういうことなのね……」

 そう呟いたつもりの声さえ、携帯電話を落としたその音さえ、世界に届かず消えていく。

 目の前には、ナイフを持った雪村仁人が、驚いたような顔で立ち尽くしている、まるで時間が止まったみたいな静寂だけがこの場を包んでいる、高良野くんは気付いてくれているだろうか。

 音をこの場所から「奪えば」、確かに足音では気付かれない。

 能力による探知を切っていたのが不味かった。

 本当の異常者は、日常や平穏に溶け込んで、ほとんど見えないのは分かっているのに、いや、きっと分かったつもりになっていただけなんだろう、私の場合。

 でも何故だろう、どうして高良野くんは、このことに気付いていたんだろう。

「……わざわざ姿を現したってことは……殺し合う覚悟があるってことでしょ……ねぇ」

 声はまだ戻らないし、同じように彼の声も足音も、何もかもが私には聞こえない。

 彼は何かヤバいものを見てしまったような表情だけを私に向けている。

 再び伸ばした彼の腕が私の右肩に触れた、その瞬間――。

  

 ――世界はそのまま暗転、完全に何も見えなくなった。

 視覚を「奪われた」らしい、それくらいは理解できるのが不思議。

 さっき記憶の中でみた体験とほとんど変わらないのがなんとも気持ち悪い。

 どうすればいい? そんな疑問が頭の中に生まれていく。

 確かに誰だって奇襲の寸前に振り向かれて、そのまま殴られれば驚くだろう、逃げたくもなるはずだ。

 雪村仁人の存在が少しずつ遠くなっていく、彼はここから更に奥へと逃げようとしている、あぁ、駄目だ、見失ってしまう……。

 この無音の空間はどこまで続いているんだろうか、声も出ないようなものだし、聴覚だってないに等しい。

 方向が掴めない上に、私は無機物の位置まで完璧に探れるわけじゃない、闇雲に歩けば自分の位置を見失うだけだ。

 このままじゃ、雪村仁人が望むままじゃないか、彼はきっとここで私を世界から消そうとしている。

 この隙を突いて殺せばよかったのに、という思いさえ湧いてくる。

 でも彼にはそれが出来なかった、つまり、きっとあいつに私は殺せない。

 だから考えるんだ、ここから脱出できればチャンスはある。

 ……高良野くんは気付いているだろうか?

 手探りで携帯電話を探すと、まだ足下に落としたままだった。

 まだ終わってはいないんだ、私はここで誰にも知られず死んでいくなんて嫌なんだ。

 何も見えない以上メールはできないだろうし、声が届かない以上電話だって繋がらないようなものだ。

 それでも、私は可能性に縋りたかった。

 私も確かに異常者ではあるんだ、でも、弱さを言い訳にして逃げたくはないんだ、こんな現実からだってそうだ。

 繋がっているかどうかも分からない、それでも呟いてみたかった。

「……高良野くん、聞こえてる?」

 声は届くかどうか分からなかった、でも、その瞬間に私は誰かの存在を感じた。

 手を触れれば、そのまま掴んで、私の体を立たせてくれる、気のせいではなかったし、しっかり現実だった。 

 私はこの手を知っている、この小さな「存在」なら分かっていた。

 その手に引かれて、ようやく世界に音が戻ってくる、音の消える範囲の外に出ることが出来たらしかった。

「大丈夫……聞こえてるよ」

 よく知っている高良野浅儀の声が、すぐ隣で聞こえる。

「……大事な時に間に合わなかった、ごめん」

 そうか……君も、この夜の中にいたんだ。

 きっとあの夜みたいな、少し不安定な線の細い、頼りないのに、頼りたいときに頼らせてくれる、そんな頼もしい、優しいシルエットで。


  ●

 

 間に合って良かった、でも、こんな大事な時に君を見失った。

 そんな二つの思いが心の中に渦巻いている。

「俺にはさ、このくらいしか出来ないからね……」

 本当にこれくらいしか出来ないんだ、ただ君を追いかけることしかできないんだ。

 睦月は、こんな時にだってその静かな表情を崩していなかった。

 濃紺のパーカーを羽織ったその下は分からない、スカートに至っては制服のまま、まさかそれでこんな所にいるとは思ってもみなかった、見えてはいたけれど。

「私が電話した時、何処にいたの?」

「たしか、もう家にはいなかった、心配だったんだ、殺人事件を追ってる自覚が少ないみたいだからね」

「別にいいでしょ……きっと助かってるもの」

 そうなんだ、どんな道を辿ろうと、君はきっと助かるんだ。

 右目には仁人を追う姿が見えている、だからそうだって理解できる。

「でも……ありがと」

 小さく礼を呟く睦月の姿は本当に美しい、夜によく映えている。でもどこか脆さを感じる。

 壊れかけのまま、何百年も人の目を引き付け続けるゴシック建築のステンドグラスみたいな、そんな脆さ。

「雪村仁人が逃げた位置とか……そういうの、分からない? 私は今あいつのせいで何も見えなくなってるの」

 仁人に何があったかまでは俺に見せてくれないのが右目だった。

 我ながら都合の悪い力だとは思っている、自分でさえ制御しきれていない、啓示みたいな力。

 それでも期待されているらしいのが、嬉しいような、悲しいような。

「大丈夫、心配しなくていい、見えるはず……もうすぐ」

 逃げる仁人の姿が、だんだん一つの建物に近づいていく。

 自分でも、何故だか不思議だった。

 ついこの間までは、写真をいろんな視点で見てるような、そんな感覚でしか見ることの出来なかった未来が、映像で見えるようになってきている。

 結局俺はこうして、仁人の本質を知ってしまった。

 俺は別にあいつを心の底から信用していたわけでもないし、別にあいつと親友ってわけでもない。

 だけど、身近にいた人間がああして人を傷つけている現実には、たとえようのない恐怖を感じた。

 人間は自分の想像以上に残酷だ、なんて分かっているつもりだ。

 何があったら、人間はこんなにも残酷になれるんだろうか。 

「ねぇ、もしかするとさ、君はただの死にたがりじゃなかったのかもね、なんか今の君を見てると、なんとなくそう思う」

「……自分じゃ分からないんだ、未だにね」

「どうしてこうなってるか、とか、どうして突然電話が切れたか、なんてことも気にしないし、不思議がらない、きっと君は、私とは違った何かが見えてる、本当に、君の視点っていうのを持っているのかもね」

 ほとんど外れていないようで、まだ確証がない、そんな口ぶりだ。

 いつか、君にはこの目のことは話したいとは思っている。

「……見えた、この路地裏の奥、入り組んだ道の向こう側に捨てられた雑居ビルがある、下に小さなゲームセンターが入ってた所、君だって知ってるはずだ、一つだけ看板も何もない、寂れてるやつ」

 心当たりがあったのか、睦月の眉が小さく動いて、そのポーカーフェイスに動きを作る。

「睦月、位置は分かるとして……何も見えないまま行くのか?」

「大丈夫、聴覚があるもの、五感のうち四つがあれば人間なんとでもなるわ」 

「あぁ、別に君まで律儀に路地裏を行く必要はないよ、表通りから行けば、普通に先回りできるような道だからね、かなり真っ直ぐだから」

「……そ、じゃあ私はもう行くから、帰ってくれても構わないわ、心配しなくていいから」

「なぁ睦月……君は仁人を止められるのか?」

 それが、何よりも心配だった、最悪、殺されるかもしれないか。

「止める……? ねぇ、止めるっていうのはつまり、殺す気なのか、ってこと?」

 振り向かずに睦月は逆に問いかけてくる、現実を突きつけるみたいにして、限りなく残酷に。

 あぁ、もう手遅れなんだ、全ては動き出してしまった。

 少しでも希望を持ったのが間違いなのかもしれない、きっと俺はまだこの夜の世界には入れない。

「悪いけど、止めるためには殺すしかないわ、本当にそれしか手段はないもの、残念だけどね、ああいう快楽殺人者を『止める』手はないの」

 全てを悟ったような、悲しげな声だった。

「殺し合いをしているんだもの……私だって覚悟くらいしてるつもり」

「だったら……君に任せる、俺にはきっと何もできないからさ」 

「……それじゃあ、ね」 

 確かに、君なら一人でだって歩いていけるんだろう。

 でも、なのにどこか危なっかしいから、少しだけ心配だ。

 そんな俺の心配は届いていないようで、睦月は目が見えていないとはとても思えないような確かな足取りで、夜の街へと消えていく。

 君ならきっと大丈夫だとは思ってる。

 でも、この目がいつ何を見せるか分からない。  

  

 右目の世界でも、きっとまだ君は深い夜の中にいるんだ。

  

  ● 

 

 薄暗い路地裏の光景が僕の走るスピードにあわせてどんどん過ぎ去っていく。

 本当は表から逃げたかった、でもそんな事をすれば、きっとそのまま追いつかれてしまう、だからこうして迷路みたいな道を逃げている。

 僕は藤原睦月という女を見くびりすぎていた。

 誰かと話している隙を狙ったはずだった。

 なのに奴は平然と振り返った、僕がナイフを取り出したその瞬間に。

 何より恐ろしかったのは、あの女の眼差しだった。

 振り返って僕を睨んだあの目は、僕を殺すことを躊躇していない目つきだった。

 あの時もしもあの女がナイフなんて持っていたら、きっと僕は死んでいたはずだ。

 でももう大丈夫だ、あの一角の中なら、いくら叫んだってあの女の声は誰にも届かないし、誰の声だろうとあの女には届かないんだ、それにしばらくは何一つ見えないようにしてやったんだ。

 別にあの場を離れても、全てが見えないまま何処かで死ぬはずだ。 

 だから大丈夫だ、あの女は冴葉統理とは違うんだ。

 いくら同じような目つきで僕を睨みつけたところで、こうして追ってくることしか出来ないような奴なんだ。

「僕は生き残るんだろ……そうだよな、そうじゃなきゃおかしい……」

 冴葉統理のいうように、この世界が本当に運命というものの力で動いているのなら。

 その運命は絶対に僕の味方をしてくれているんだ。

 だから今日まで僕の行いだけが明るみに出て、僕自身は誰にも捕まることなくこうして動けているんだ。

 そうじゃなきゃ、僕を追ってくる足音が一切しない理由がないじゃないか。

 僕は運命に打ち勝って、それを乗り越えるんだ。

 冴葉統理に追いつく、今の僕になら、きっとそれが出来るんだ。

 今の僕なら、きっとあの男にだって追いつくことぐらい出来るんだ。

 僕の内側は間違いなく成長しているんだ。

「……やっと……見えた……」

 ようやくビルに戻ることが出来た、その安心感が広がってくる。

 もうこれで、僕のことを探るような奴はいないし、僕の能力を知ったまま生きている奴もそれを伝えることが出来ないんだ。

 僕の意思はこれからも世界に現れ続けるんだ。

 ゲームセンターの中は寂れて埃に塗れているのがどうも息苦しい。

 でも、そんなことはもう気にならない。

 僕はもう正体を暴かれることなんて恐れなくたって良いんだ。

「こうして消していけばいいだけの話だもんな……僕は自分自身の運命に勝った……」

 ドアの向こう側、つい数日前までは連れてきた奴らのせいで過ごしにくかった部屋さえ、今は血の臭いなんて気にならないくらいに快適に感じている。

「僕は……奪う側に立てている……」

 ふと、誰かが見ている、そんな悪寒に近い感覚があった。

 ここには誰もいない、そのはずなんだ。

 誰かが入ることも出来ないんだ、本当に誰一人、僕以外いるはずはない、死体だって全て捨ててきた。

 視線の方向に向かってほんの少し移動すると、僕の足が床にあった何かに触れた。

 足下のそれは少し硬く、僕が剥がして捨てていたカーテンが被さっているらしかった。 

 サイズはほぼ人間と変わらない、何かが置かれている。

 寝かせているわけではなく、人が蹲ったくらいのサイズで盛り上がっている。

 そう言えば、僕はこのビルを出ていくときにしっかりとドアを閉めたはずだった。

 なのに、それは完全に開け放たれていたじゃないか。

 風のせいだと思って見過ごしていた、でもこの部屋の窓は一切空いていないじゃないか。

 それにこんなものは部屋にあったか?

 この下には何があるんだ……? 冴葉統理が来て、別の死体でも置いていったとでもいうのか?

 また、何かが僕を見ている、すぐ近くで、全て見透かすように。

「……!?」

 それは、暗闇の中でもはっきりと見えた。

 布地と闇の隙間から、誰かの目が僕を見ているんだ、琥珀色の目。

 この目には心当たりがあった、ついさっき、僕を睨んだあの目だ、でも、もう見えていないはずなんだ。

「そんな筈ないじゃないか……僕は完全にあいつをあそこに置き去りに出来たんだ……そんなわけ……そんな……」

 遂に、暗闇の中で何かが動いた。

「……夢だったら……それでよかった?」  

 伸ばしてくる黒い腕の先、真っ白で幽霊みたいな手が来るのはどうにか避けられた、でも思考がまだ追いつかない、どういうことなんだ。

 僕は勝ったはずなんだ、そのはずなのにどうして、藤原睦月がここにいるんだ……真っ黒なフードなんか被って!?

 逃げなきゃ僕はきっと死ぬ……!

 どうしてこういう時に冴葉統理はここに来てくれないんだ……

 

  ●

 

「ねぇ、もう逃げ場なんてないんじゃない?」

 雪村仁人は荒れた部屋をさらに荒らしながら逃げていく。

 いつの間にか視覚が戻っている。

 今度こそ逃がさない、今度こそ、彼の中身を引きずり出す。

「何処へ行くの……? 階段を上って、何処へ?」

 街に逃げれば、あるいは助かるかもしれないのに。

 硬い非常階段の一段一段を踏みしめるように後を追いかける。

 焦る必要はない、別にもう彼を逃がすようなことはない。

 夜の空気がだんだん凍てつくように張り詰めて、心地いいサイレントが続いている、屋上に、やっと追い詰めた。 

 雪村仁人は逃げることを諦めたのか、もう逃げる様子さえなかった。

「ここまで来たってことは……お前は僕をどうやっても逃がさないわけなんだろ……そっちが向かってくるんなら僕だってお前を本気で殺すだけだ……僕はお前を殺せるからな……」

 持っているナイフをそのままこっちに向けて、まるで自分に言い聞かせるみたいに私に声を浴びせてくる、でも、大した問題じゃない。

「何かあればすぐナイフ? 悪趣味ね、お前のそういう往生際の悪さは好きじゃないの、鬱陶しくて」

 そもそもそんなに私を殺せると言うのなら、あの時怖がらずに私をカーテンの上から突き刺せば全て終わったんだ。

 二度も私を殺すチャンスを逃がしておいて、なんて馬鹿馬鹿しい。

「そう……なら試してみる?」

 別にナイフなんて悪趣味なものは要らない、そもそも勿体無い。

「私は、何もなくたってお前をこうして追えるもの」

 別に後から手を突っ込んで聞けばいいけど、今聞いておきたいことが一つだけ残っていた。

「お前はどうして奪う側に回ろうとするの? どうしてそんな事のために生きようとするの? 私には理解できない、だから教えてもらいにきた、答えてもらいにきた、もちろん、お前の中にあるお前自身にね」

 我慢ならない、そんな様子で雪村仁人が私を睨んでいる、今にも壊れそうな視線が私に向いている。

「お前にとってはその程度のことかもしれないけどな……僕にとってはそれが最後の希望だからだ! 僕からプライドを奪っていった奴らに思い知らせてやらなきゃいけないんだ! 世の中に永遠に続く上下があって堪るかよ! 僕だって頂点に立ちたいんだ! そう思って何が悪いんだよ!」

 驚くほどの剣幕で私に向かって声を張るが、そんな言葉は虚しく夜に消えていくだけで、私の心には憐れみしか生まれてこない、でも慈悲なんてものはないし、彼には必要ない。

「だったら、今ここでお前を頂点から引きずり下ろしてあげるわ、永遠の頂点なんてないんだって分かってるんでしょ? 覚悟くらいはあるんでしょ?」

 私には別に彼を裁く権利はない、義務でもない、それでも、彼を心の玉座から引きずり下ろすことぐらいはできるはずだ。

「お前は僕に何をする気なんだ……! お前のその目で……!?」

「別に血で汚れた曰くつきの玉座なんていらないわ、ただお前の内側を見せてもらうだけよ……」

 ようやく夜が完璧に動き出す、私の望んだ答えは目の前にいる、だからもうフードを上げて、視界いっぱいの夜を受け止める。

「……こうなったら……僕がお前を超えればいいんだ……!」

 うわ言のように漏らした声と同時に、彼は身体ごと私にぶつかりにくる。

 背中から鉄格子らしい手すりに叩きつけられる、背中にそのまま食い込むような痛みの中で、まだ私は立てていた。

 膝を完全に押さえこまれている、脱出はできそうにない。

「僕はこんな運命を認めるもんか……! 僕にだけこんなことがあるのを運命だっていうのかよ……!」

 私は、運命という言葉を、彼が全て知っているかのように使うのが、どうしても許せなかった。  

「お前なんかが……お前なんかが知ったように私に向かって運命なんて偉そうに言わないでよ……!」 

「黙れよ、僕は成長しているんだぜ? お前だって殺せるんだよ!」

 その瞬間、両足を何かに持っていかれたような感覚が私を襲った。 

「お前はこれでもう満足に歩けやしない! もう何も避けられない!」

 本当に、触れるだけで何かを奪えてしまうのは厄介だ。

 でも、まだこいつは何か思い違いをしている、私はただ足を失っただけなんだ、大したことじゃない。

「……まだ私はここにいるけど、それで勝ったつもりなの?」

「だったら今すぐ殺してやる……! ここで死ねよ! 生き残るのは僕なんだよッ……!」

 彼の右手に握られたナイフが私の喉下を捉えようとする、でも。

「……残念ね、私はもうお前を殺したんだけど……?」

 そんな無粋で不躾なものを振り下ろすよりも、私の掌が彼の顎を捉えるほうが断然速かった。

「だから言ってるじゃない、そんな悪趣味なものはいらない、って」

 ナイフなんて、いらないんだ。

 こんなつまらない奴に……使ってやる必要なんかない。

 私の左手は、完全に彼の「存在」を掴んでいる。

 そのまま軽く身体を押すと、何の抵抗もしないまま私の身体は解放されていく。

「21g……もう一度だけ言ってあげるわ、21gよ」

 私が掴んでいるものは、その程度の重さしか持っていない。

 それはいつか何処かで誰かが量った、魂の重さ。

「人を殺すなら、たったそれだけ奪えば充分なの……」

 そのまま完全に彼の肉体から「存在」を引きずり出していく、こんな人間でも、その存在は真っ白で、やっぱり軽かった。

「……ほらね、殺せるでしょ?」

 奪われていた両足の感覚がだんだん戻ってくる、地に足のついた感覚が。私に「ここにいる」実感をくれる。

 「存在」に指を通して引き抜けば、あっさり首元に風穴が空く。

 でも、そのまま消してやるほど私は優しくはないんだ、悪い子だし。

「お前は……人間なんかじゃ……こんな……」

 彼の「存在」が漏らす、嘘も偽りもない罵声が聞こえてくる。

「そう……だから私は人間になりたい、お前と違って逃げずにね」

 「存在」に傷がついている以上、このまま朝が来るまでには彼の意識はどこかへいってしまうだろう。

 ただ何もできず消えていく感覚、私はそれだけを残してあげた。

 たった21g、それがだんだん消えていく、そんな空虚な感覚。

 もう、それが終われば彼に興味なんかない、別にどうでもいい。

「結局お前も、ただの人間ね……」


 記憶を読んだ私だからこそ、言えることがある。

 雪村仁人は、本当にただの平凡な人間だった。

 どこにでもいる、という言葉が相応しい、平凡な人間。

 毛嫌いされるわけでも、人気者になるわけでもない、それが平凡。

 彼は確かに不幸ではあった、親には見離されているし、本当に友人って言えるような人間もいなかった、だから……奪われつづけた。

 そういう面を知った以上は、同情くらいはしてあげたい。

 でも、やっぱり、私は彼の苦しみを分かってあげることなんかできなかっただろう。

 不幸だっていうのなら、幸せになろうと足掻けばいいんだ、どんなに苦しくったって、他人にまで不幸を押し付ける気にはなれないんだ。

 不幸だということを他人を傷つける免罪符にしてはいけなかったし、何よりそんなことを教え込んだ男をこんなに信奉する必要はないんだ。

 運命、なんて言い回しの時点で気付けばよかった。

 こんな能力に気付いた時点で察していればよかった。

「よりによって、何で冴葉統理なのよ……何で、あの男……」

 どこかで死んで、そのまま目覚めて能力を得たなら、それで構わないんだ、咎めるようなことじゃない、きっと高良野くんだってそういうタイプだ。

 でも、雪村仁人はそうじゃなかった。

 冴葉統理によって無理やり道を外された、ただの人間なんだ。

 彼は別に人間のままでいたって良かったんだ、それなのに。

「どうしてそうまでして人間をやめたがるの……? 馬鹿みたい」

 せっかく人間だったのに、人間らしく生きていけたのに。

 理由を聞いたって、まだ私には理解しきれない。

 世界は、まだ私には広すぎるのかもしれない。

 いつか冴葉統理の中身に、直に聞いてみるべきなのかもしれない。

 

「やっぱり私は、人間らしくなりたい……人間に、なりたい……」

 知りたいことは知ることが出来た、でもそれ以上に、真実は残酷だった。

 今更になって、ようやく眠気が回ってきた。

 せめて家まではもってほしい、私はまだ、ここにいたいんだ。

 

  ●

 

 目が醒めても、もう屋上には僕以外の誰もいなかった、本当に静かで、どんなに声を出しても答える声なんてきっとない。

 2度目の死がこんなにも早いなんて思ってはいなかった、僕の体はまだここにある、でも、今ここにいる「僕」はこれから何処に行ってしまうんだ? 

 僕は、どこにいけば良いんだろうか。

 手や指はまだ動く、感覚は残っている、なのにどんどん僕の体は崩れていくみたいに、足の先からだんだん体の感覚が消えていく。

 あいつの言ったように、本当に僕は奪われていくんだ、こうして少しずつ。

「……目が醒めたかい、少年?」

 懐かしい声が僕を呼んだ、まるであの時みたいに。

 霞んだ視界の端に、草色のロングコートが映りこんでいる。

「遅いじゃないか……今更になって僕を助けにきたのか、冴葉統理?」

 ほんの少し首を上げると、彼の姿がようやく見えた。

「お前が散々に逃げまわってくれたからな、探し出すのに時間がかかった」

「……結局、間に合わなかったじゃないか……」

「俺は最初から、いつだってお前を助けられる人間じゃないと、そう君に言っただろう、忘れたのか?」

「それでも……! あんたは僕に期待したんだろう? せめて……!」

 この男は、本当に僕の救世主なんだろうか?

 今更になってそんな疑問が浮かんでくる。

「あぁ、期待したとおりに、お前は能力を得て確かに蘇った、君はナザレのイエスに等しい奇跡を成し遂げた……! だがお前の運命の絶頂という奴はそこまでだったな」

 冴葉は、まるで僕の苦しみを全て知ったような口調で、僕に対して説教じみた言葉を投げかけてくる、何故だよ。

 なぁ、僕はあんたに何かしたのか? 僕はただ自分のやりたいようにしただけじゃないか、あんたが言ったようにな……!

「お前は能力の使い方を誤った……、能力とはサクラメント、つまりは天からの祝福であり恩寵なんだ、まるでそれが台無しじゃないか……お前自身はそう思わなかったのか?」

 何の権利があって、お前は僕の力の矛先を決め付けてるんだよ。

「……お前も、結局はあいつらと同じじゃないか……僕に偉そうな態度を向けるだけで……」

「何を言い返すと思えば、その程度か……本当にお前はその程度の人間だったな、雪村仁人、それでは睦月から逃げるのも頷けるよ」

「何が言いたいんだ……! 僕を馬鹿にして……! 僕は信じていたのに……あんたの、こと……!」

「お前の能力は何だって奪えるんだ、命も、記憶も、果ては抽象的な存在さえも思いのままだ、そんなに君自身の痛みを伝えたいというのなら、最初から街中で大量殺戮でもしていたほうがよっぽどお前の目的に相応しい世界が見えたはずだ……それを己のちっぽけな支配欲を満足させるためだけに用いるから、結局お前の存在は世界から消えるんだよ……」

 彼は見下すように、その鋭い視線を僕に突き刺すように向けてくる。

「お前の存在がこの数週で世間に知られたかい? 君の痛みは自然に世界に現れたかい? いや、残念ながらそうではないよ……お前の欲望はただの憧れだ、獅子や虎は生まれたその時から捕食者であり続ける、誰に願うわけでも、憧れるわけでもないんだ、レイヨウはどうあっても獅子にはなれない、お前の願いは最初から果たせないんだ、本当の捕食者の前に立ってしまってはな……」

「お前は僕のやったことが無意味だって、そう言いたいのか!?」

「それ以外にどう聞こえるんだ……? 君1人消えたところで何の関心さえ持たない世界が、たかが人が2、3人消え失せた程度で動じるとでも? 思い違いも甚だしいな、雪村仁人……! 君は君自身の運命を理解するべきだ、その名によって生まれた因果をな……」 

「僕の名前が何だっていうんだよ……? 意味なんて……そんなもの」

「仁人、つまりnicht 、それはnotと同義であり、つまり君の名前は君自身の自己を否定しているんだ、そうではない、とな……理解したかい? 君の存在に最初から意味はないんだよ、君の存在はまさしく最初から最後までnichtのまま、変わることなどないんだ……だから救ってやりに来た、苦しみを得る前にな」

「黙れよ……! お前は何の権利があって僕を否定できるんだ……僕の生きた結果はこの世界にあるじゃないか……この力だってそうだ! お前がいうように何だって奪える!」

 届いてくれ! 今の僕ならきっと届くんだ……!

「冴葉……! 僕はお前だって殺せるんだ……僕はあんたになりたかっただけなのに……! そうやって僕を否定するな……!」

「睦月に何を言われたか、そしてあの力に何を学んだか、お前はそれさえ忘れたのか……」

 指はかからなかった、僕はまるで道端の小石や塵屑みたいに蹴り飛ばされていた、フェンスにぶつかったはずなのに何の痛みも感じないのが怖い……あぁ、怖い、冷たいあの目が僕を見ている……嫌だ、僕はまだ生きていたい……!

「体が残ったまま思考する自分が消えていく、そんな最期は君には辛いだろう? だから俺が救ってやる……怖がることはない、懺悔さえも要らないよ……お前自身が望んだように、お前は俺によって救われる」

 あぁ、僕はもう助からない、ここで死ぬんだ。

「僕にな……最初っから後悔は……」

 そうだ、これでいいんだ、僕が生きていたことは変わらないんだ。

 ……僕は生きていたんだ、こんな腐った世界の中でだって。

「そうか……ならば、なるべく苦しまないようにしてやる、君のサクラメントに敬意を示してな……」

 冴葉統理の足音が近づいてくる、これが僕の終わりなのか? 

「やめろ……! 止まれよ! 嫌だ……僕は……ッ!」

 


「これで二人目……。後悔は消せても、死への恐怖はどうやっても消せない……か、お前らしかったよ。時に『死』とは何をもって、一体何処の誰が決めるんだろうな……なぁ、少年?」

 

  ●

 

 気付けば、あれからもう一夜が明けていた。 

 睦月みたいに言うのなら、夜はもう終わってしまった、幕は下りた。

 睦月のことは心配だった、だけどあのまま追いかけてもきっと俺なんて足手纏いになるだけだ、何一つ出来ることはない。

 仁人があの後どうなったかは俺も分からない、神様と睦月だけが知っているはずだ、多分。

「いつもより早いのね……へぇ、君もサリンジャーなんて読むんだ」

 顔を上げると、ジンジャーエールのペットボトルを手の中で遊ばせたまま、本の表紙を覗き込む睦月がいた。

 ……別にいいじゃないか、人が何読んでたって。

「君にまた会えてよかった、なんて言ってみたり」

 冗談めかして言ってみるけど、紛れもなく本心。

「……なんか高良野くんらしくないな、そういうの」

 こうして君の世界の中にいられるだけでも構わないんだ、俺はそれでいい、君の世界を見ていたい。

 睦月はあえて右目のことには触れてくれないらしい、彼女なりの気遣いかもしれない。

「ねぇ高良野くん、もしもの話なんだけどね……」

 ふと、何か思いついたように話を切り出してくる、なんだろうか。

「いつか私が何かの拍子で人間じゃなくなって、例えば吸血鬼か何かになったとしたら……君はどうする?」

「また変なこと考えたな……君らしくないじゃないか」

「うん、らしくないかな」

 さて、どう答えるべきか、なんて考える必要はない。

「もし本当にそうなるとしたらさ……君に噛まれてそのまま同類になるかな、別に君自身がどうにかなって、別の意識がいつか芽生えるってわけでもないんだろ? 君が君でいる限り、俺は君と一緒にいるし、どんな存在になっても構わない、それが藤原睦月なら、そういうことでいいんだよ、俺はね」

「そう……だったら私自身、本当にそうなっても君の傍にいるんじゃないかな、きっとね」

 睦月は口元だけの笑顔でそう、寂しげに呟いた。

 静かな朝は戻ってきたようで、きっとまだ戻ってきてはいない。

 右目が見せてくれたってわけじゃないけど、きっとそうなんだ。

 結局、あんな死体だって、仁人のことだって、いずれ皆忘れていくんじゃないだろうか。

 だからこそ、こういう生温い「当たり前」が怖いのかもしれない。

 睦月はまだ「当たり前」からはぐれたままの世界の中にいる。

 

 確かに、睦月の傷跡を美しいとは感じたんだ。

 でも、俺は君に壊れてほしいわけじゃないんだ。

 睦月、どうか君が「当たり前」の外側で壊れませんように。

 なんて祈りは、届くんだろうか、きっと右目でも、そこまでは分からない。


 俺は睦月のことを、まだ何も知らないから。

 だから……祈ることしか出来ない。

  

  ●

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