ゲシュタルト崩壊の小宇宙 <美しいということ>

バーバラ・C

第1話 ラブレター

 今日は、小学3年生の木下順がレッスンに来る日だ。

 美久は、フッと頬が緩むのを感じながらピアノのレッスン室に使っている応接室の大きな窓から庭に目をやった。


 地方都市の閑静な住宅街にある一軒家に父親と妹で生まれた時から住んでる。


 その庭は玄関前の駐車スペースの横にあるさほども広くはないものではあるけれど、幼い頃には夏が来ればビニールプールを出してもらい水浴びをしていた。


 庭には美久が生まれた時に植えた桜の木と2才下の妹、愛里が生まれた時に植えられた桃の木が結構な大きさに育っていた。


 そこで庭の手入れをしている父親が美久の気配にこちらを向き、手をあげ微笑んだ。


 微笑みを返しながら父親が家にいると平和な気持ちになると美久は思った。


 小学4年生の時に母親が癌で他界した。

 その後、父親は男手一つで美久と妹の愛里を育ててくれた。


 母親は難しい性格だったこともあり亡くなった時にホッとしてしまったことは誰にも言えない秘密だった。


 父親は今日は日曜出勤の代休だったのだが父親が家にいるだけで家族全員が休みの日という錯覚が起きてしまい心が穏やかになるのだ。


 大学在学中からピアノ教室を始めて5年程経ち、生徒も15人程いる。一日に3人程が火曜日から金曜日の夕方と、土曜日の午前中に美久にピアノを習いにやって来る。


 今日は、先週のレッスンの終わりに美久にラブレターをくれた小学3年生の木下順くんが来る、そう思うと少し照れ臭いような気持ちで頬が緩むのだった。


 ポケモンの封筒と便箋のラブレターには、小学生が使う2Bの鉛筆で

『みく先生へ。ぼくがおとなになったらけっこんしてください。先生が大すきです。本気です。ぼくは、好きな人のことは、かわいがります。今度返事ください。』と小学生らしい字体で力強く丁寧に書いてあった。


 美久は、そのラブレターに対して誠実な返事を書き便箋とお揃いの花柄の封筒に入れた。

 正直、生まれて初めてのラブレターだったので嬉しかったし、木下順君は大人になったらモテそうな感じのかなり可愛らしい顔立ちをしていたので余計にテンションが上がっていた。


 「順くんは、おませさんだなぁ。ふふっ、和樹に似てる。」

と恋人の和樹を思い出しながら返事にはきちんと年齢が違い過ぎることの説明を書き、やんわりとお断りの言葉と来世での出会いに望みを託そうという希望の言葉と、順君と一緒にピアノを頑張りたいと書いた。


 順君は9才で、美久は26才。18才違いでは、早くに子どもを産んだお母さんと子どもである。


 年上の女性に向かって可愛がります、と書く辺りが子どもらしくて微笑ましい。


 きっと妹を可愛がっている時の温かい気持ちを表現したいのだろうと美久は思った。


 木下順くんはそこまでピアノに熱心な子ではなかった。練習もあまりせずにレッスンに来るので一緒に練習をするだけでレッスン時間は終わってしまう。


 生徒の中には毎日母親と1時間以上練習する子もいて、そういった子は順くんと同じ小学3年生でも難しい曲を弾いていて、美久でさえ目を見張るような指の動きを見せる。


 例えば、有名な「エリーゼのために」や「小犬のワルツ」などは当たり前に弾きこなすのだった。


 そういった生徒は中学生になる頃には美久の手に負えない程に上手くなってしまうのだろうと思っていた。

そうなれば、レベルの高い曲のレッスンが可能な知り合いの先生にお願いするつもりでいる。


 順くんはバスティンピアノ教本の2巻に入ったところで、なかなか進まないでいた。

 一緒に使っているバイエルピアノ教本も60番辺りから混乱していた。

 初級の最初の辺りである。


 順くんの家の楽器がキーボードなので

「先生のピアノみたいにしっかり押さえて弾けないからおうちのピアノは弾きたくない。」

といつも言っている。

 音感もリズム感もいいとは言えない子だったが、美久はせめて家で練習して来てくれたら変わるのにと願い、いつも順に向かって


「家で練習して来たらどんなご褒美を準備しようかな?」と言って頑張らせようとしていた。


 そんなことを言ってもほとんど練習をして来ないのだが、今日は違うんじゃないか?と期待していた。


 ラブレターでプロポーズをするくらいに自分を好きなら良い返事を期待して練習して来てくれるかもしれない。


 そんなことを思っていたら順くんに似ている自分の結婚相手のことを考え始めていた。


 美久の恋人、近藤和樹は中学校教諭になっていた。


 和樹は本当はピアノ教師になり後進の指導に当たるのが夢だったが、それでは食べていけない。


 幼馴染みだった2人はずっと同じピアノ教室に通っていて、子どもの頃に結婚の約束をしていた。


 和樹は美久と結婚するために就職することを選んだ。


 美久のために就職を選んでくれたことが申し訳なくて自分も楽器店に就職するつもりでいたが、和樹が自分のしたかったことを受け継いで欲しいと言ったのだった。


 いつも側で和樹自身もピアノに関わって居られるようにと。


 正直、ホッとしたのは事実だけど、自分だけがピアノの練習を続けられる環境にいることを重くも感じている。


 中学校教諭は思ったより忙しく、和樹が仕事が終わって帰るのは22時になる。


 そして食事をしてシャワーをして寝ると

朝は7時には家を出るという生活をしていた。

 土日も吹奏楽クラブの活動のために学校へ行き指導する。どうかすれば、吹奏楽コンクールの引率をする時もありバスに乗り遅れた子たちを連れて行くために車まで提供して運転手にもなっていると言っていた。


 2人でチャレンジするはずだった連弾でのピアノコンクールも練習する時間がないので諦めるしかなかった。


 しかし、落ち込んでいるのは美久だけのようだった。


 和樹は順応性が高く、すんなりと中学校教諭として馴染んでおり、やり甲斐を感じているようだった。

 はっきりと聞いたことはないけれど、たまに会う時、目を輝かせて勤務先の中学校での出来事を話す姿は、自分の仕事に誇りを持っていると感じられる。


 「こんにちはー!お邪魔しまーす!」

順の元気な声が玄関から聞こえた。


美久は少しだけ緊張して

「はーい!どうぞー!」

と明るい声で答えた。

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