23

 まだ走ったことのない道を走っていても普段自分が使っている道と大差なく、ずっと昔から知っているような気さえしてくるし、おそらくたった一度しか走らなくても、二度と忘れはしないだろう。あるいは関東ならどこでもこんなものかもしれなかった。


「すげぇ田舎だな」


「だろ? 最悪だよ」ゴメスの笑いには怒りも呆れもこもっていなかった。


「俺んとこと同じ、ほとんど変わらんよ。ゴメスってずっとここ?」


「違う、俺、東京人だぜ」


「引っ越し?」


「そう。八王子から来た。八王子しってるだろ? 全然都会だから」


「行ったことないからなー」


「今度行こうぜ、電車乗ったらすぐだよ」


「行ってみるかー」


「お前、全然行く気ないだろ! ふざけんなよ」


「だって行って何がある? ほんとに楽しいのか?」


「昔の俺んちがある。父ちゃんとかはそこに住んだまま。俺とオカンだけこっちに来たんだ。越境で。うちの学校なら珍しくないだろ?」


 ここ、ここ、とゴメスに言われて停車した家は古き良き時代の日本家屋の大邸宅である。


「おい、松だぜ!」何百年生きていると言われても疑えないほどの立派な松が二つの角のように家の正面を守っている。緑のかわいらしい大小様々な雲が右に左にたゆたっていた。


「この木邪魔なんだよ、うぜーし、今度切るからお前も手伝え」


「え、ここお前んち? 謝りにいくんじゃなかったのか? なんでお前んち来てんだよ!」


「俺んちじゃねーよ。借家だよ借家」


「だったら勝手にこんな立派な松切ったら殺されるぞおめ、何考えてんだよ。こんなデカい家で贅沢にもほどがあるぜ。どんだけ金持ちなんだおめーよ。だいたいなんでお前んち来てんだよ! カンチョーした子に謝るために自転車こいだんだぞ!」


「立派とかしらねーし。空き家なんだからたいしたことねーよ。この家一か月借りる金と都内のワンルームなら都内のワンルームの方が高いぜきっと」


「そんなことはしらん…」


 ゴメスは借家とは言いながらも生家のように家の中に入って行った。「何してんだ、早くこいよ」そう言われても自分の人格の基本は遠慮である。「親いないの?」「いないない。早く入れよ」他人の家、それも初めてでなおかつこれだけ立派な家とくれば遠慮するなというのが無理ではあるが、賃貸だと思うと多少気が楽になった。これだけ立派な家にお邪魔するのは人生初でこの先もそうあるものではない。足取りは自然と軽やかになった。


 一階の和室は眼の覚めるような吹き抜けである。柱も鴨居も敷居も外からの自然光が川の流れのように行き届いて光り輝いていた。


「ゴメス、すげえぞこの部屋! 奇跡に近いぜ! これ昨日建てたって言われても信じるぞ。ピカピカじゃねーか!」


「何興奮してんだよ、普通だろこんなの」ゴメスは照れるでもなく謙遜するでもなくまったく興味がないようだった。自分ならここに住んだら死ぬまで毎日感動して暮らせそうなところだ。ゴメスは気を使ってくれたのか毎日そうしてるのかしらないが縁側に腰をかけた。なぜ家に帰ってきたのか問い詰めるのはいったん置いて自分もゴメスの隣へ行って腰かけた。縁側の床の木目は夢のような美しさでほとんど菓子の滑らかさに近い。


「ゴメス、これじゃ京都だぜ、京都超えてるで」あまりの興奮にふざけて言ったが、目の前の庭園は通常の人が一生努力しても手に入れることができないものだった。


「お前変な奴だな。さすが0点取るだけのことはあるよ。」


「謝り行く?」自分はこの家に来てなにか全てがどうでもよくなってきた。この感動にどっぷりつかっていたいのだ。


「ぶっちゃけ、俺もめんどくさくなってきた。別にいかなくてもいいよな。女の家いくとかダサすぎんだろ。なんで謝んなきゃいけないの?」


「ちょっと帰ってきてるの? 学校は?」その声は何枚か隔てていながらもしっかり耳に届いた。


「なんか食うものある?」ゴメスの返事は返事になっていなかった。自分は実際跳ね上がった。


「親いるじゃん!」


「いたな」


「いないって言ったじゃねーか!」


「しょうがねーだろいるんだから」ゴメスは笑っているが事態は深刻である。自分はまたしても道を踏み外していることを自覚した。いくつになっても他人の家の他人の親というものは本能的に身構えるもので、ファーストコンタクトならなおさらだ。今の今までアウェイの緊張感を楽しんでいたのだが、一気に具合が悪くなってくるから不思議である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る