これから

上高田志郎

1

 カーテンを閉めて電気を消した教室は薄暗く、スクリーンに映っているグラフや文字はまったく理解できなかった。けれど、理解できないことからくる恐怖なんてものはまるでなかった。けだるそうに操作している教師の手の動きに合わせて赤い点がスクリーンの上を虫のように動いていた。


 外は明るい真昼の天気のはずだから、この空間だけがちょっとした別次元のような気がしているのは自分の感覚が幼いものなのかもしれない。


 自分と同じように眠っている者もいれば真面目に問題を解いている者もいた。眠っていたのはほんの数分の間のことではあるけれど、もっと時間が過ぎているような気がした。


 ぼんやりと月の表面のようなクリーム色のスクリーンを見ながら考える。


 数学の授業はもうとっくに手遅れなのだ。


 今では一応ノートと教科書を開いているものの、無駄な抵抗はしないに限る。


 ノートは新品同然で、これ一冊ですべての教科兼用にしているが、最近はまったく書いた形跡がない。


 あからさまにさぼっているのはあまりにも態度が悪すぎるので、考えているフリをしてみようかとも思うのだが、そんな器用さがあればまったく違う人生を歩んでいることだろう。


「ちょっとあんまジロジロ見ないでよ」


 声を潜めて注意されてしまった。


「あ、わりい。いやそんなつもりじゃ…」


 そう言ってから隣の席の可愛くて綺麗な栗山さんの視線が自分のノートに釘付けになっているのに気づくと、そこで初めて目が合った。


 栗山さんはまるでゴミでもみたかのように表情をひきつらせてから、何事もなかったように黒板に目を向けた。


 高校生ともなれば、これぐらいのサボりはめずらしくもないはずだが、栗山さんはまるで人生で初めてダメな人間をみたかのような表情で、こちらとはまったく関わり合いになりたくないと、黒板を書き写すスピード2割り増しの動作が物語っていた。


 先生も、授業の邪魔さえしなければ、豪快にいびきでも書かない限り、特別注意なんてしたりしない。堂々と眠ることができないのは残念だが、ひじをついてうつむいているだけで意外と簡単に眠れるものだ。


 体がどんどん重たくなって、熱くなってくる。体を動かすのがおっくうなのか動かせないのか、動かしてみようかと思うがそんなめんどくさいことをわざわざしなくてもいいじゃないかと思う。


 声が遠くに聞こえながら不思議な連想がとりとめのないスピードで展開されて、いつも、眠る直前、この連想を持ち帰らなければならないと心のかたすみでいましめているのに、次の瞬間、必ず首が切り落とされたようにバランスを崩して目覚めるのだ。

 そうして、自分はまた何も持ち帰ることができなかったのだと、少し残念な気分になるが、それもいつものことだった。今度もまた何一つ手がかりはない。


 居眠りは最高だ。これを2、3回繰り返すところでいつも授業は終わるのだ。それが自分の体内時計で、何の役にもたたないが確かなことだった。


 数学の授業は人気がある。信じられないことだが、みんな熱心に受けている。誰もが嫌いな数学を教えるのがうまいということだが、自分のレベルではもうどうしようもない。


 チャイムが鳴ってようやく一息ついた。窓側の席に座っている生徒がいっせいにカーテンを開ける音が心地いい。


 栗山さんは話しかけんなオーラ全開で後片付けをして教室を出て行くのだ。これもいつものことで。


 隣といったって、机がぴったりくっついているわけでもない。机と机のほんの少しの間には絶対に埋まらない距離がある。


 目で見える距離は問題ではないのだ。これは心の問題で、距離なんて呼ぶのも厚かましく感じられる、ほとんど異世界だ。


 いったい自分は何をしに学校へきているのか分からなくなってくる。どこへ行って何をやっても退屈なのは自分にも非があるのは分かっているが、解決のしようがない。勉強ができたらたのしいかもしれないが、とても今からその努力をする気にはなれない。そもそも高校に入学した時点で勉強は捨てたのだ。それは中学生のころ、必死に高校受験のために勉強をしていた時からの決意だった。自分は高校にさえ入学したら、もう絶対に人生で勉強することはないと。特に、数学だけは絶対にやらないと心に決めたていた。自分ははるかに意志の弱い人間であることは自覚している。世に大成した人の話ではまずなんと言っても意志の強い挿話がこれでもかと披露されるが、自分にはまったく縁のない話だ。そんな遠い人でなくとも周りの友人を見ればおない歳で心底感嘆するような意志の強さを発揮する者もいる。こちらがすっかり関心していると涼しい顔をして「お前はいったい何をそんなに関心しているんだ?」という態度で笑っているが、そんなときの自分の心はなかなかに冷え込んでいた。


 そんな自分が珍しく意志の強さを発揮しているが、勉強しない、これはずいぶん後ろ向きな理由である以上、とても誇れるものではなく、よく考えてみるとこれはどうも意志の強さとは別の話であるようだ。

「おい、また爆睡してたな。だいじょぶかお前」

「ん。まぁ、しょうがないさ。起きてても分からんものは分からんよここまでくると」

「だけど、また赤点だろう? 今度はさすがにやばいんじゃないのか? 赤点というより、お前の場合れーてんじゃねーか。さすがに中間、期末と続けてれーてんじゃいくらゆるいうちの学校でも出るとこ出るんじゃねーか?」

「そうだなぁ…」

 自分はそれきり何を言っていいか正直分からなかった。だからがんばるとは言えないし、そもそもがんばるつもりがはなからない。しかしそれではせっかく心配してくれているのに相手の気持ちを損なってしまうようでもある。こんなことをこちらが気にするのも彼がめちゃくちゃいい奴だからに他ならない。


「ちっとは教えてやろうか…?」


 それは言った当人ですら言葉の最後を引き取るころにはどうやらほんとに難しいらしい気がしてきて後悔しているようだった。それには理由があって、前の中間テストの時にはせめてなんとか赤点だけはとらないようにということで放課後つきっきりで教えてくれたのだが、その結果、とにかく自分が高校の数学を理解するレベルにないということがはっきりすることとなった。「いったいどうやって合格したんだ?」と訊かれたので正直に話すしかなかったのだが、その答えは信じてもらえなかったらしい。合格ラインの平均点を数学を頼りにしないで達成することだった。自己採点では数学が22点は取れていたから望外の結果だったのだ。

「もう、無駄な抵抗はしないよ」

「それじゃ、またれーてんか」

「こればっかりはどうしようもない。なんといってもまだ一年だから、さすがに公立で留年はさせんだろ。出席だってしっかりしてるし、素行だって悪くないよ。単純に数学だけができないというだけだからなー。いざとなったら補修でも奉仕活動でも土下座でもなんでもするさ、数学を勉強することに比べたらどんな奉仕活動だって軽いもんだよ。だいたい俺の入試での点数だって向こうも知ってるだろう。合格させたのはあっちなんだから」

「馬鹿。馬鹿なことを言ってんじゃないよ。とにかく白紙はまずいから努力のあとを残すようにしろ。やったけどできませんという態度でないとあっちだって頭にくるんだから、それだけでもだいぶ違う。ちゃんとアピっておけ」

「そのやったけどできませんという態度すら無理だよ、まさか九九書いて消すわけにはいかんだろうしなー。」

「お前なぁ…」

 やっさんはそう言ったきり愛想のよい苦笑いを浮かべた。男でこれほどまでに愛嬌があるというのがやっさんの人気を確かなものにしていた。彼がどれだけどぎついことを言ったにしても、この、まるで昭和の白黒フィルムに出てきそうな、苦労もいとわない、素朴な労働者風の善意の塊のような、すべての人をほっと一息つかすことのできる笑顔というのは現代においてほとんど奇跡といっていい。例えは悪いが、極めて善良な犬のような顔をしている。だから周りの人は常にやっさんとの触れ合いを楽しみにしているのだ。


「そういうやっさんだって数学は危ないんでしょ?」

「そうなんだよ。俺もギリギリだ。赤点とったら坊主だからさ」

「もともとそんなに髪の毛ないじゃないか。最近はおしゃれ坊主なんかもはやってるんだろ? いいじゃん坊主で。涼しいよきっと」

「簡単に言うなよ。自主的な坊主と赤点の坊主は訳が違うだろ。だいたい俺が坊主にして似合うと思う?」

 やっさんはそう言って自分の頭をなでた。昨今の高校生にしては信じられないぐらい色気のない髪型である。自分も人のことは言えないが、やっさんの頭を見てると自分の髪もそれほど悪くないと思えてくるぐらいだった。

「いや、ここは思い切って坊主もありかもよ。やっさん」

「ほんとか? 確かに俺の髪はひどいからなー。一回坊主にしたら髪の毛もうまれかわるかもしれんよ。たしかバヤスも同じこと言ってた。あいつ小学校まで天然の茶色の髪でサラサラだったんだって。それが一回バリカン使ったらもうダメよ。二度とその頃の髪質には戻らなかったらしいぜ。バヤスの言うことだからあてにはなんねーか」

「その話しょっちゅう聞くな。じゃ、やっさんは今度バリカン使ったら、もっとひどくなる可能性もあるんだ…」

「もっとってのはどういうことだもっとってのは」


 やっさんは用事があるらしく笑いながら教室の外へ出て行った。彼の所属する部活は赤点を取ると罰としてバリカンで坊主になるという、現代においてなかなか凄まじい罰則ではあったが、それは一つの青春のイベントといったところなので、体罰がどーたらというのは無関係であることは、当事者達の笑顔を見るだけでもよく分かる。試験の後、廊下などで坊主になった生徒を何人かみたことがあったが、その罰を潔く受け入れることで彼らはまたそれなりの立場と話のネタになったことだろう。そもそも髪なんぞはすぐ生えてくるので、考えてみると別に罰でもなんでもないような気がしてくる。

 何か話のネタがあるとういのはいいことなのだと思う。このままでいくと、自分の高校生活は果たしてどうなってしまうのか。赤点ばかり取っていたという思い出はちょっと冴えない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る