第140話 ソフィアの天蓋の中
日中の喧噪は太陽が落ちるとともに消えて、ベースキャンプには昨晩のように
その中にふっと新たな明かりが灯った。
ルチアナの大きな天蓋の隣に一つ。
中から薄く丈夫な布ごしに漏れる光とそこに映る人影を見やり、ソフィアは木の枝から音も無く飛び下りた。
そしては昨日まではこの場に無かった
直径 2 メートルほどの円形の中、地面の固さから身体を守るために敷いたこの亜熱帯の気候に不釣り合いな厚手の毛布の上にシャリシャリとした麻の布をかぶせた上に男が
「おかえり……ていうのも何か変だな。この
そう言うとコウはケラケラと笑う。
それは彼女がよく見たことのある酒が入った時の彼の笑い方だ。
「いや、おかえりでいいさ。そう言ってくれれば私は『ただいま』と言えるからね」
そう言ってソフィアはするりと彼の隣に座る。
そして無機質なガラスの瞳に、男を映す。
「
そう言いながらコウは腰のウエストバッグ型のアイテムボックスからグラスを 2 つと酒瓶を 1 つ、取り出す。
「昼の悪魔祓いで一瓶使い切っちまったからな……。これが最後だ……」
慎重に古びた酒瓶を傾けると、琥珀色にまで熟成されたワインが静かに注がれる。
チン、と澄んだ音が狭い天蓋に響いた。
「……祝杯だね」
「そうだな。悪魔に勝った勝利の祝杯だ ! 」
コウは大げさにグラスを掲げ、一気に空ける。
それはどこか無理をしているようだった。
「それもあるけど……記憶が戻ったんだろ ? めでたいじゃないか」
ソフィアはグラスを持ったまま、静かに言った。
「まあ……な。良かったと言えば良かったんだが……あの場は記憶が戻らなければ
「何か嫌なことでも思い出したのかい ? 」
「そうだな……」
上を向いてゆっくりと息を吐き出し、コウは再び中空を見つめて言葉を続ける。
記憶を取り戻した時のポケット、エイプリルもこんな気分だったのか、と詮無き事を思いながら。
「……俺は今は十月の女神の御使いだが……その前は四月の女神の御使いで……百年戦争の『代理人』だったんだ」
「……そんな !? まさか…… !? 人間がどうして !? 四月の女神様ってのは妖精を眷属としてるんだろ !? 」
驚いたソフィアが肩までの長さの髪を揺らした。
「まあ色々あってな。そもそも俺はこの世界の人間じゃない。地球という所から転移してきたんだ。先に地球に転移してた四月の女神の分霊がこの世界に戻るのに巻き込まれてな。その縁というか……元の世界に戻るために『代理人』を引き受けたんだ。最初はな……」
「あんた転移者だったのかい !? 確かに黒髪黒目は転移者に多いって言うけど……。それだけ『錬金術師』のスキルを使いこなしてたから、そうとは思わなかったよ」
「……厳密に言えば俺の能力は『錬金術師』のスキルじゃないんだが……まあいい、ともかく俺は四月の女神の『代理人』として『百年戦争』に勝って……ミシュリティーを主神の座から引きずり下ろした。そこまでは良かったんだ……」
コウは眉間に皺をよせながら、続けた。
「他種族があまりいないこの群島にいる人間はピンとこないかもしれないが、大陸の人間の他種族に対する扱いは酷いもんだった。
「でも……あんたはそうならないようにしようとしたんだろ ? 」
「……どうしてそう思う ? 」
「一緒に暮らしてりゃあわかるよ。あんたは基本的に甘い人間だ。時に敵に苛烈になるけど、それは味方への甘さの裏返しさ。そんなあんたが人間族全体を虐げるわけがないだろ ? 」
「甘い……か。そうさ。その通りだ。だから味方に……人間が四月の女神の御使いであることを良しとしない妖精に裏切られる可能性に気づいていながら……対処できなかったんだ」
「裏切り……ね。でも悪魔すら退けるあんたを倒すなんて……一体何者なんだい ? 」
「……
「そんな……どうせあんたは仲間を攻撃できなかったんだろ ? よく生き延びたもんだね」
「まあな。背負ってた剣にとっておきが仕込んであったからな。だけど……自業自得だったのかもしれない。俺は……与えられた力で増長して……あの
コウは一度溜息を吐くと、もう一度グラスにワインを注ぐ。
「それに……一年間生死を共にした妖精達も……誰一人として『洗脳』に抗うことはできなかった。きっと……俺はあいつらとまだ本物の絆を
コウはどこか遠くを、けして戻れない遠い場所を眺めるような目で天蓋の幕を見つめた。
そんな彼を見て、ソフィアは再び昼のように胸を締め付けられる。
男がその見つめる先へ、どこか遠くへ行ってしまうようで。
「……どうしたんだい。らしくないね。いつもの楽観的なあんたはどこへ行ったんだい ? 」
そうさせないためだったのか、それとも、今まで
「な、なにを…… !? 」
コウは酒によってほんのりと赤くなっていた頬をさらに紅潮させた。
「ふふ、何を恥ずかしがってんだい ? この身体はあんたが作ったんだ。さんざん製作途中に触れてただろう ? 」
彼の右腕を抱き寄せながら、どこか意地悪にソフィアが囁いた。
「それは……あの時はただの
コウは何か悪事がバレた子どものようにそっぽを向く。
その右腕に当たる柔らかな感触は
記憶を取り戻す前の彼なら、違う反応をしていたかもしれない。
だが今の彼はどこか臆病になっていた。
「へえ ? 私のことを……
「
「そう……じゃあこの身体に……
「ち、ちがう ! それは……ソフィアがこれから生きていく間に……好きな相手が……想いを通わせる相手が出来た時に……愛し合えるように……そのために……」
慌ててコウは否定するが、ソフィアにはそれが本心とは思えなかった。
そしてそんな意気地なしで格好の悪い男がたまらなく愛おしかった。
「そう……そんな気遣いをしてもらってたんだね。それなら……ありがたくそのために使わせてもらうよ……」
ゆっくりとソフィアの右手がコウを振り向かせ、酒と気温と恥ずかしさのせいで熱くなっている男と体温のない女の天蓋の布に映る影が重なっていった。
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