第94話 ジョンとシーラの家


 朝日が黒一色であった海中に少しずつ色をもたらし始めた頃、たこタイプの海人族の女、リュースは八本以上ある太い蛸の脚を器用に使って泳ぎ、友人の住む洞窟を目指していた。


 やがて目的地にたどり着いた彼女は、その豊満な身体では到底通ることができないような海中洞窟の小さな入口を、にゅるりと柔らかく身体を変形させて通り抜ける。


 その内部は入口からは想像できないほど広い大きな球形であった。


 そして彼女はその一番底にうずくまる彼女の友人に声をかける。


「シーラ、ここ数日ずっと引きこもって……。ちゃんとご飯は食べてるのかい ? 」


 そう言って、彼女はここに来る途中に捕まえた30センチほどのカラフルな魚をシーラに差し出した。


「……放っといてよ…………何も口にしたくないの……」


 振り向きもせず、下半身の魚部分を器用に曲げてうずくまる人魚はせっかくの善意を無下にする。


「……どうしたってんだい。……そう言えばあんたに言い寄ってたさば男達が行方知れずになってるらしいけど……」


 その言葉にシーラは身体をピクリと震わせる。


「……あいつら…… ! そうだった……。あいつらをぶっ殺してやらないと…… ! 」


 むくりと起き上がると、ふらふらと彼女は洞窟の出入り口に向かって泳ぎ出した。


「ちょっと待ちなよ ! そんな状態で出歩いてどうすんだい !? 」


 リュースは慌てて下半身の蛸脚を何本かシーラに向けて伸ばし、絡みつかせて、押さえた。


「放して ! あいつらのせいで……ジョンが…… ! 」


「あいつらのせいで、あの人間の男と痴話喧嘩でもしたのかい ? 昨日あの男と話した時はそんな感じはしなかったけど……」


 ぴたり、とまるで時が止まったかのようにシーラの動きは止まった。


「ジョンと話した…… ? 昨日…… ? 」


「あ、ああ、どんな男か興味があったし、あんたが引きこもってる原因だろうから、あんたの縄張りの島に行ってみたんだよ」


 鬼気迫るシーラの顔に気圧けおされながらも、リュースは答えた。


「良かった…… ! 無事だったんだ…… ! 」


 へなへなと腰が抜けたように、シーラは再び座り込んだ。


 そんな彼女に寄り添うように、リュースも座った。


「一体、何があったんだい ? 」


 シーラはその問いに、ぽつりぽつりと答え始めた。


 人間の男と仲良くなりたくて、リュースに指摘されたように、母の教えに盲従することのをやめたこと。


 海中では呼吸すらできないはずの人間が、モンスターの素材を使って、それを克服してみせたこと。


 それは人間の男が海人族の自分と一緒に生きていけるかもしれないと思えて、なんだかやたら嬉しかったこと。


 珊瑚礁の海を二人でゆったりと泳いでいたら、自分の気持ちを抑えられなくなって、想いも告げぬままに二人の距離を縮めたこと。


 そこに三人のさば人魚が現れて、ジョンの背中を切り裂き、その濃密な血の臭いによって自分は鮫に変化してしまったこと。


 そこから再び人魚の姿に戻るまで、記憶がないこと。


 しかし彼女の空腹は収まっていた等々。


「……だから、てっきり私が鮫になっている間にジョンのことを……食べちゃったんだと思って……」


 シーラは俯いて、両の手でそれぞれ口とお腹を押さえながら、絞り出すように呟いた。


「安心しなよ。ピンピンしてたし、逆にあんたのことを心配してたよ。まああんたが鮫になったことは私に言わなかったけど……多分それはあの男なりの気遣いなんだろうね。そのうち会いに行ってやりなよ」


「会いに……行けないよ……」


「どうしてさ ? 」


「だって……私はジョンを食い殺そうとしたんだよ…… ? 今回はたまたま無事だったけど……。これからも何かの拍子ひょうしで鮫になっちゃうかもしれないし……そんなモンスターと紙一重の危ない女に付きまとわれても……迷惑に決まってるじゃない…… 」


 シーラは再びうずくまった。


「まったく…… ! いつもの気に入らない奴はすぐにぶっ殺してた、気の強いシーラはどこへ行ったんだい ! 」


「私のことをどんな暴力的な女だと思ってんのよ……」


「いいから行くよ ! 島に ! 」


 そう威勢よく言い放つとリュースは下半身の蛸足でシーラの片方の腕を捕らえた。


「やめてよ…… ! 合わせる顔がないわ……」


「安心しな ! あの男は今、留守にしてるから。それに……島に行って、今の島を見ればあの男のあんたへの想いもわかるさ ! 」


 リュースはシーラを引きずるようにして泳ぎ始める。


 空腹で力が出ないのか、それとも「男の自分への想いがわかる」という言葉にとらわれたのか、シーラは、さしたる抵抗もなくリュースに引っ張られていく。


「……そっちは砂浜じゃなくて、岩壁の方だけど…… ? 」


 てっきり砂浜から島の様子をうかがうのかと思っていたシーラは、砂浜から右に進むリュースに疑問を投げかけた。


「いいんだよ。こっちに入口があるから」


「入口 ? 」


 そんなものは存在しないことを島の所有者である彼女は良く知っていたが、リュースは迷いなく進む。


 やがて海面から5メートルほど隆起した黒い岩壁に辿り着くと、リュースは潜行し、腕を掴まれてる彼女もそれに引っ張られて潜る。


 すると確かに海面から5メートルほど下、岩壁には横2メートル、縦3メートル程の長方形の穴が開いていた。


(あれ ? こんな穴、無かったはず……)


 シーラの疑問をよそに、リュースは迷うことなくその穴に入っていく。


 穴と同じ大きさの通路がしばらく続いて、急に開けた場所に出た。


 海水の満たされたその空間の床や壁は綺麗な平面で、それが自然のものではなく、人工のものであることがわかる。


 シーラが上を見上げると5メートルほど上に海面があり、そこからふんだんに陽光が降り注いでいた。


「まずはこっちよ」


 やっとシーラの腕を放したリュースは真っすぐに進む。


 そこは壁にこしらえられたスペースで、そこに二人が入ると当然天井があり、水面からは角度的に見えない場所だった。


「ここはプライベートルームなんだってさ。いつでも水面から見られるのも嫌だろうからって」


 そう説明して、次にリュースは水面へと浮上する。


 シーラはわけもわからずほうけたように彼女を追った。


 明るい水面に顔を出すと、そこにもさらに広い空間があった。


 位置的にここは岩壁の中であるのに、不思議と明るい。


 それはいくつものガラスが嵌め込まれた天窓によるものだった。


 そしてリュースは港の埠頭ふとうを思わせる水面から20センチばかり飛び出した直線的な壁に設けられている1.5メートルほどの幅の水路を進む。


 その先は水の満たされた直径3メートルほどの円形のスペースで、深さは50センチほど、その真ん中には水面から少しだけ飛び出した石製の円形テーブルが備え付けてある。


「……ここはリビングで、一緒に食事をしたり、しゃべったりするところなんだってさ」


 リュースが円形スペースの淵に背をあずけながら、言った。


 浅いプールのようなその場所の先にはさらに床が広がり、作業台やら、椅子の形をした岩やらがある。


「この先は人間用のスペースで、あの男は普段そこで生活するって」


 リュースが太い蛸足の一本で指し示して言ったところで、シーラはようやく我に返った。


「ちょ、ちょっと ! なんで私の島がこんな劇的にリフォームされてんのよ !? それにさっきからプライベートルームだの、リビングだの、一体何の話よ !? 」


 慌てて詰め寄るシーラに、リュースはからかうような眼差まなざしでこたえた。


「本当にわからないのかい ? 」


「……いや、その……多分だけど……これは……この家は……ジョンが海人族の女と……私と……一緒に居たいっていう想いの……あらわれなんじゃないかなって……思う……」


 先ほどとは違う理由で俯いて、蛸でもないのに真っ赤になって、消え入りそうな声で、シーラは言った。


「ちゃんとわかってるじゃないか ! 」


 リュースは心底楽しそうに、カラカラと笑い続けて言う。


「あの男は隠してるけど、とんでもない女好きだよ。ある意味、極めてるよ ! あいつはシーラが海人族だとか、興奮して鮫になっちまうとか、そんなのはどうでもいいことなんだろうよ ! あいつにとってあんたは、ただの美人な『女』なのさ ! だから本来は一緒に生きていけない海人族のあんたと生活するためにこんな家まで創っちまった!」


 シーラはようやく顔を上げる。


「ねえ……」


 その瞳は、今までとは違った力強さと意志をたたえていた。


「ジョンは今どこにいるの ? 留守にしてるって言ってたけど……」


「ああ、なんでももっとこの家を快適にするための素材を入手しに行くって……飛んでいったよ」


「飛んで…… ? 空を ? どうやって !? 」


 シーラは思ってもいない返答に目を丸くする。


 リュースはそんなシーラを面白そうに見つめながら、続けた。


「私もあんなのを初めて見たよ。なんて説明したらいいか……。頭の上で棒みたいなのを回転させて、飛んで行ったんだよ」


 片手を自分の頭の上でくるくると回転させるリュース。


「……もう今日は驚きすぎて疲れちゃったわ」


 シーラは大きな溜息を吐いた。


「おや ? いつ帰ってくるかもわからないのに、寂しがらないのかい ? 」


 リュースの少しだけ意地悪な言葉に、シーラは苦笑しながら顔を横に振る。


「いいの。帰ってくる場所は……ここだって……私とジョンの家だって、わかってるから ! 」




 バラバラバラ ! とやかましい音と共に空気を切り裂くプロペラ。


 それは男の背負うランドセルのような四角い木製の箱から伸びた木製シャフトの先、男の頭上で高速回転していた。


「やっぱり海上よりも空中だな……。水の抵抗はどうしても速度を落とすからな」


 数十メートルほど下の高速で過ぎゆく海面を見ながら、男はひとちた。


 再度前を見ると、島から見た時は豆粒ほどであった陸地が随分と大きくなっている。


「あれは……大陸じゃないな……大きな島が幾つも並んでる……。目的の魔石があればいいんだが……」


 大丈夫、とでもいうように口元の知能を持つアイテムインテリジェンスである付け髭が片方の端でペシペシと男の頬を叩いた。


 しかしその励ましに反するように、不穏な臭いがしてきた。


 実際に。


「……なんか焦げ臭いぞ……やっぱり材料がないとはいえ、木でつくったのは失敗だったか…… ? 」


 高速で回転するシャフトの摩擦熱がとうとう限界を迎え、男が背負う駆動部分は盛大に発火する。


「ぐおっ !? 」


 燃える上がるプロペラ。


 男は慌てて背負った箱から魔石を取り外し、両肩の革ベルトのバックルを外して、数十メートル下の海面にダイブした。


 この高度から落ちれば、たとえ水面とはいえ、衝突の衝撃はコンクリートに落ちるのと大差ない。


 高々と水しぶきを上げて、海面とキスをする男。


 そして数分後。


「危なかった……。『創着そうちゃく』で竜人ドラゴニュートの鎧をまとわなきゃ、飛び降り自殺か焼身自殺かわからない死体が出来上がるところだったぞ……」


 なんとか砂浜にたどり着いた男の姿があった。


 こうして、男は次なる生活の場へと降り立ったのだ。


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