神の左手
わたしはうっすらと目を開けた。ランプを持つ左手が震えている。
どうしよう、このままじゃゴーシェが多勢に無勢だ……
黙って見ているしかないオルランダだが、賊は傭兵風で明らかに場馴れしている。
ゴーシェといえば刀身の黒く染まったあの剣を持って入るのだが、どう見ても戦闘訓練なんて積んできたとは思えない。
年老いた養父に学問を習ってきたと言ってたではないか。
しかも二対一の不利な戦闘。
このままでは本当に賊の言った通り、
しかし自分にできることなんて、何一つとして無かった。
おまけに賊はゴーシェを殺したら、私で楽しむなんておぞましいことも口にしていた。
絶対にお断りだ。
この事態を打破する方法は何だろうか?
どうすれば私は力になることができる?
見ているうちに賊の一人がゴーシェを捕まえてしまった。
後ろから羽交い絞めだ。
先ほどゴーシェに蹴りを食らった賊が彼の鳩尾を殴っている
もうやめて!
そう言いたいが恐怖で私は声が出ないのだ。
ゴーシェはごぼりと鮮血を吐いた。
「……て」
私はやっとのことで声を出す。
賊がこっちを見る。
「……やめてぇ、お願いだから」
私は懇願する。
「オイオイ姉ちゃんがなんか言ってるぜ」
「悲鳴だったら後でたっぷり出させてやるから、ちょっくら黙ってな」
賊はへらへらと笑った。
「……やめろ」
「ん? だから黙って……」
「止めろっつってんだろ! この薄汚い傭兵風情がゴーシェに構うんじゃねえよ!!」
こんなにも誰かが憎くて、殺してやりたいと思ったのはがらくたの都でもそうない事だった。
むしろ初めての経験だったかも知れない。
その刹那、オルランダの持っていたランプの焔が揺れた。
一番驚いていたのはゴーシェだったかもしれない。
自分を羽交い絞めにして
近接しているゴーシェにはなんの熱も感じられなかったが、二人の賊は声にならない声を上げ、あっという間に生きたままの姿の、真っ黒な炭になってしまった。
「何が起こった!?」
ランプ片手にオルランダはへなへなと冷たい床にへたり込んだ
「わからない……」
「賊が発火して炭になったぞ、オルランダ!」
口元の血を拭い、少しだけ服に着いた『賊だったそれ』を掃ったゴーシェは何か考え込んでるようだったが、オルランダの手を引くとボージェスの蔵書の方へ連れて行った。
そして一冊の本を手に取るとゴーシェはああでもない、こうでもないと独り言を言い始めたが、文盲のオルランダには全く意味が解らない。
そしてやっと何か解決した表情でゴーシェは話し始めた。
「オレはボージェスから様々なことを習ってきたが、それには失われた神々に属することも含まれていた、都ではどう言われているか知らないが失われた知識、神の両手に関することだ」
「神の両手……」
オルランダは勿論初めて聞く言葉だったが、ゴーシェが以降説明してくれた。
「オレがボージェスから習ったのは神の右手、即ち神学と哲学だ、これは都では失われた学問。――そして存在のみが示唆されていたのが神の左手……解るか?」
オルランダはまじまじと己の手を見遣った。
「魔法だよ、
「私が……魔法を、使った?」
「その場にある熱量を使用して対象を攻撃した、訓練すれば兵団をも殲滅できるという。ただお前にそんな力があると知ればもう今まで通りのただの流民では済まされない」
「どういうこと?」
「王の座を狙う諸侯や騎士団がお前を欲して戦いを始めるだろう、まず間違いなくな」
「いやよ! さっきのは偶然だわ、私は神の左手なんかじゃない!」
「解っている、お前はただの何もできないオルランダだ。オレの庇護にいろ」
「………………」
本当だろうか? ゴーシェもまた王の座を狙う一翼なのではないだろうか? そんな疑念がこの話を聞いた後ではひどく頭の中を駆け巡った。
「安心しろ、オレの目的はただ一つ。ボージェスの仇を取ることだ」
そう言うとゴーシェは彼の頸から懐剣を引き抜いてやり、ボージェスの亡骸を彼の寝台に横たえた。
開いたままの眼は濁って盲いていたが、ゴーシェはそれをそっと閉じた。
しばし彼は養父の傍らにいた。
彼の胸に去来する者は何であろう? 十数年この若者は養父以外の人間を見ずに育ったのだから。
ひょっとしたら彼は泣いていたのかもしれないが、それをオルランダに悟られることは無かった。
遂に彼は言葉を吐く、
「オレは無力だ――賊が入ってきて養父を殺し、オレ自身を狙っても抵抗すらままならない。オレは剣士でない、この立派な剣はお飾りさ、ただの学士なのだから。たとい太古の文献が読めたとて、それが何になろう? 女一人守れやしないじゃないか」
そしてゴーシェは立ち上がった。
「だからオレはオレにできる方法で仇討ちをする、学士の仇討ちだ」
そう言うとある分厚い本を書棚から取り出しオルランダに渡した。
「何この本、魔法の教習の本? 文字は読めないけれど?」
「莫迦、これは子供向けの識字の本だ。お前には字を覚えてもらわなくては困る。毎日一文字づつ覚えろ」
「そんな無茶な……」
「お前が字を覚えるかは死活問題だ、これはお願いじゃない命令だ。オルランダ」
字を覚えろって私の記憶が正しければ私はもう16歳。学習は終わっている年齢だ。
「それと隣の部屋に来い、まともな服を用意してやる」
ゴーシェは振り向いてニヤリと笑った。
「なんですって!?」
「そんな裸も同然の格好だからさっきの賊にからかわれるんだ、オレが少しはまともな服を用意してやる」
こればかりは一も二もなくオルランダは同意せずにいられなかった。部屋に立ち入ると隣室は散らかり放題だったが、先に入ったゴーシェが少し片づけると、二人が何とか足を踏み入れる場所は確保できた。
「汚いわね、誰の部屋? 散らかり放題じゃない」
「オレの部屋だ文句あるか」
そう、此処はゴーシェの部屋だった。
服がはみ出た箪笥の中からゴーシェが子供のころに来ていた服を引っ張り出した。
しかも旅装束だ。これは有り難い。
「ボージェスの部屋に行ってるから着替えてろ、それとその髪の毛も何とか隠せ、目立って仕方がない」
そう言ってゴーシェは出て行った。
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