06 席はまだ空いてるようですが

 久しぶりの顔に、トルスは笑みを浮かべた。

 顔自体は、つい数日前に見たばかりだ。

 だが、この〈青燕〉亭でナティカの顔を見るのは久しぶりだった。

「おう、きたな」

「ええ、きたわよ」

 少女も笑って、トルスに手を振った。

「お店で、最近行った美味しい食事処なんてことが話題になってね。〈青燕〉の名前が出たのよ。何だか嬉しくなって、きちゃった」

「へえ? そりゃ有難いね」

 トルスは正直に言った。

「宣伝、しといてくれ。出前はやれないけどな、昼なら短時間で簡単なもん提供するからって」

 〈青燕〉は、毎日満席というようなこともなく、最も客の多い時間帯でも、最大で四、五組が重なる程度だ。たいていは一、二組の常連客と、ふらりと入ってくる一見いちげんが上手く循環する。正直に言えば昼間に屋台を開いて出せるものは薄利多売で、夜の客が増えてくれた方が利益には繋がるのだけれど、わざわざ〈青燕〉の飯を食ってみたいと思ってもらうためには、まず気軽な昼飯からだ。

「今日もお昼は、忙しかった?」

「まあな」

 それは夕刻の飯時前、大方の仕込みも終わって客を待つだけの静寂しじまの時間だった。そろそろ一番手の客がやってきてもおかしくないが、まだでもおかしくない、そんなところである。

「ん?」

 そこでトルスは気づいた。

「お前、もう仕事終わったのか? あの店、わりと遅くまでやってんだろ? あ、早番とかそういうやつ」

「今日は、何だか重要な会議があるとかで、早じまい」

 ナティカは肩をすくめた。

「女はみーんな、帰されちゃった。聞いてよ、トルス」

 少女は不満そうに口を尖らせた。

「あたしと同じ年に入ったカートは、その『重要な会議』に呼ばれたのよ。あいつ、上には愛想いいけどさっ、実際の仕事では全然使えない奴なのに、男だってだけで将来有望とか思われてんのかしら。むかつくったらないわ」

「まあ、でも女は、結婚したら辞めちまうことが多いだろ。仕方ねえんじゃねえ」

「そういう考えが賃金の差を生むのよ。辞めるとは限らないし、辞めるまではおんなじ仕事してる訳じゃない。なのにどうして、男女で給金が違う訳?」

「そりゃ……体力の差とか」

 〈青燕〉に入っている手伝いは女だが、もし男だったら、ロディスはもう少し給金をはずむのではないかと思う。ただし、その代わり、とことん、倒れる寸前までこき使う。たぶん、割に合わない。

 若者は自分なりの観点からそういったことを口にしたが、ナティカはいまひとつ納得しないようだった。確かに仕事内容が全く同じであるなら、気に入らない話だろう。

「今日はその愚痴を言いにきたのか?」

「あっ、違う違う」

 少女は両手をぶんぶんと振った。

「純粋にご飯、食べにきたのよう」

「よし」

 トルスはにっと笑った。

「何にする? 今日はいい麦魚が入ってるが」

「じゃ、それ!」

「了解。ロディスっ、定食一丁!」

「おうよ。……お、何だ、ナティカじゃねえか」

「はあい、ロディス。久しぶり」

 少女は友人の父親にひらひらと手を振った。

「元気だったか? ちっともにこないで、まともな飯、食ってんのか」

 トルスの父は息子と同じようなことを危惧した。

中心街区クェントル付近だと、ここみたいにいい店はなかなかないわね」

 ナティカのそれは世辞や追従ではなく、本音である。そうだろうそうだろうと、ロディスは大げさなほどうなずいた。

 ロディスとナティカはそれから少しの間お喋りをしたが、次の客がやってくれば調理人テイリーは厨房に戻らざるを得なかった。

 第一、ナティカからも注文がきているのだ。ロディスは仕事をするべきであったが、それはトルスも同様だった。若者は友人を客の位置に戻し、給仕の仕事に戻る。

 まだ忙しくない内はちょくちょくナティカともほかの客とも話をするが、少しすると、それも難しくなる。しばらく彼は友人を放っていたので、少女の席に相客が増えたことになかなか気づかなかった。

 ふとした折りに目をとめたトルスは、ぎくりとする。

(何だ?)

(どうして――)

 おかしな男が妹分に絡んでいるのでは、とトルスは営業用の笑みを消してその卓に向かった。

「ご注文、はっ」

 どん、と卓を叩いて男を睨むと、相手は瞬きをした。

「おいおい。忙しくても接客業が笑顔を忘れちゃいかんぜ」

「再度のご来店、誠にどうも。ですがお客さん、席はまだ空いてるようですがね」

 それは昨夜に旅の商人と話をしていた男だった。トルスは胡乱な視線を隠すことなく、若い男を見る。

 〈青燕〉が満席になることなど、祭りか何かの夜くらいだ。実際、探さなくても空席はある。だと言うのに何故わざわざナティカの席に?

「待ち合わせてた訳じゃないが、知り合いの顔見たら、同席したっておかしくなかろ」

「知り合い、だあ?」

「あのねトルス。こっちはエルファラス商会の配達人バイリーンで、ヴァンタンっての」

「改めてよろしく、トルス君エル・トルス

 ヴァンタンはにっと笑ってトルスに手を差し出した。

「店の? じゃ、〈青燕〉が話題に出たってのは」

 男の手を握り返してから、トルスはナティカを見た。

そうそうアレイス。このヴァンタンよ、ここを褒めてたの」

「ここの飯は俺の好みに合致してね。できれば持ち帰りにしたかったが、そういうことはやってないとか」

「時間空いたらやってあげてよ、トルス。ヴァンタンの奥さん妊娠中で、彼、早く帰りたいんだって」

「なら帰れよ」

 トルスはもっともなことを言った。愛妻家だと言うのならば、こんなところで時間を使わずに、どこかの屋台で何か買って帰ればいいではないか。妻を放っておき、若い少女と席を同じくしながら何をたわけたことをと思ったのである。

「お客にそういうこと、言う?」

 ナティカは笑った。

「てかヴァンタン、あたしを探してたんですって」

「何で」

 ますます、妻を気遣っているとは思えなくなる。トルスの表情は渋くなった。

「俺が最後の配達から帰ったら、店はもう閉まってた。会議だとか言う話で、配達人にゃ関係なさそうだが、そんな話は聞いてなかったから少し驚いてな。誰かに詳しく訊いてみようと思ったところ、〈青燕〉とナティカのことを思い出したって訳だ」

 今日行くって言ってたからな、とヴァンタン。

「成程」

 トルスはうなずいた。それを信じるなら、ヴァンタンは誰かしら店の働き手を探していた訳で、何もナティカを追いかけてきたのではないということだ。

「でもあたしも知らないわ。いきなりの話で。内容については、明日カートから聞き出すつもりだけど」

「そうか。それじゃあ帰るかなあ」

 ヴァンタンは茶色い頭をかいた。

「飯は」

「今日は何か買ってって家で食うよ。近い内にふたりでくるから、そんときにまた食わせてくれ」

「何だ」

 好みに合致したなど、やはり世辞か。それとも、人に飯をおごったりトルスに小遣いを寄越したせいでいまは金がないのをごまかしているのかもしれないが、注文がなかったことにトルスは少し拍子抜けした。

「時にトルス」

 立ち上がりながら、ヴァンタンは彼を呼んだ。

「女の子のひとり歩きは危ない。ナティカのことは、送ってやれよ」

「別に平気よ。危ない思いしたことなんかないし」

 少女はひらひらと手を振ったが、ヴァンタンは首を振った。

「いいや。女性はいつでも気をつけなくちゃならない」

「奥さんが妊娠中だからって、世の中の女全部に転ぶ心配しなくていいのよ」

 呆れたようにナティカはいい、トルスはぷっと吹き出した。ヴァンタンは傷ついた顔をする。

「まあ、いささか、節介が増してるかもしれんがね」

「奥方だけにしとけよ」

 トルスはにやにやと言った。なるべくそうする、とヴァンタンは応じたが、それでも送れよと念を押した。

「警戒しといて損ってことはないんだ。女の子なんだからな」

 おかしなのに路地裏へ引き込まれでもすれば大ごとだと言うのだろう。アーレイドの治安はよく、ひとりで夜道を歩いていてもそうそう盗賊ガーラに刃をつきつけられることはなかったが、「滅多にないから」と油断するなと言う訳だ。女であれば、財布以外にも心配しなくてはならないことがある、と。

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