09 ここで終わるはずだから
はああ、と息を吐いてトルスは肩の凝りをほぐすように両腕をぐるぐると回した。
結局、町憲兵に話をしていたのはほとんどファドックで、彼は時折、意見を求められたときに曖昧な言葉を差し挟むだけだった。
若い町憲兵と少年は、下町の若者が聞いたこともないような難しい言葉を駆使して話をしていたから、正直、トルスはかなり退屈であった。
暇つぶしに考えごとをして理解したことは、やはりファドックはいい教育を受けているようだということだった。
麺麭屋の息子と言うが、職人になるために修行中という感じはしない。
先に見せたあの足さばきと言い、「訓練」云々という話と言い、もしかしたら戦士――いや、兵士なのではないかと思った。
ただ、そうなると、よい家の使用人という予測とは話が違ってくる。
直接尋ねてもいいのだが、トルスは敢えてそれをしなかった。
と言うのも――別に、ファドックとのつき合いはここで終わるはずだからである。
「有難う、トルス。助かった」
少年は二度目の、感謝の言葉を口にした。
「ん? 俺の話が何か役に立ったのか?」
「具体的に不良連中の名前を挙げてくれただろう。火をつけるだなんて脅されたのに」
「ああ、あれね」
まずいかもと少し思ったことは確かだが、奴らにそんな度胸などあるものか、と思っている方が強い。
「別に俺とお前が話をしなくたって、あんなことやってりゃ遅かれ早かれ町憲兵に目ぇつけられる。あいつらも自覚があるからこそ、俺に釘刺したのさ。それでも、悪事の話なんてどこからでも洩れる」
トルスは肩をすくめた。
「俺がチクったって確信があって、なおかつそのことで回復しようのないとんでもない損害を受けたんでもなけりゃ、そこまでやらないよ」
脅しさ、とトルスは言った。それならいいが、とファドックは応じた。
「何にせよ、これで被害に遭う人が減るようなら、いい」
ラウセアは完全になくすことを心がけているようだったが、現実問題、それは不可能だ。ファドックは現実的であると言えたが、必ずしもラウセアが酷い夢想家というのではないだろうとトルスは思った。
(町憲兵が理想を失ったら、全部ビウェルになるだけだ)
(……そんなのはご免被りたい)
あれも「悪い町憲兵」ではないが、間違っても「いい人」ではない。かと言ってラウセアのような「いい人」ばかりの町憲兵隊も正直頼りないし、あの辺は適当な均衡が取れているのだろう、などとトルスは偉そうに考えた。
「本当に港に行くのか?」
先ほどの話を思い出して若者は問うた。少年はうなずく。
「そのつもりだ」
「
「明るいところを通るさ」
答えてファドックは笑った。ここで「子供じゃないんだから判ってる」などという子供じみた反論がこないところは――子供らしくないな、とトルスは苦笑を覚えた。
そうして彼らは東と西に分かれた。
変わった少年だったが、もう会うこともないだろうと思っていた。
別に、特に惜しいとは思わなかった。
もしかしたらあれはよい人脈であったかもしれない、などと考えるほどトルスは
彼は、一旦〈青燕〉亭に戻り、在庫を見ながらロディスと相談をして今夜に出すものを決めると足りないものを買い出しに出た。それはいつもの日常であり、いつもの忙しさに埋没すれば、日中の少し珍しい出来事など忘れてしまうところだった。
夜になってから、ふとした話を耳にしなければ。
「――ついには、死人まで出たって話だ」
そんな不穏な台詞が耳に飛び込んで、思わずトルスは振り向いた。
小さな食事処は、ロディスとトルスと、旬に数日、忙しい時間帯にだけ雇う給仕女のひとりかふたりで回ってしまう。混み合う時間帯が終われば、厨房はロディス、トルスは給仕だ。
そうして客の間を歩いていれば、たまに彼らの話が聞こえてくる。
何も聞こうというつもりがなくても、聞こえてしまうのだ。
たいていは他愛のない、天気の話であるとか仕事の愚痴であるとか女房自慢であるとか、聞いた瞬間に忘れてしまうような内容だ。たまに、どこそこの店にいい踊り娘が入った、なんて評判を聞けば、上がったあとで行ってみようかななどとも思うこともあるが、そういった役に立つ情報などは稀である。
だが、どんな話であれ、客の立場としては「聞かれている」と思えばいい気持ちがしないもの。トルスは興味があろうとなかろうと、聞こえていないふりをした。常連客がふざけた話でもしていれば割り込むことも時折あるものの、知った顔相手でも挨拶くらいで済ませることがほとんどである。
だから、見知らぬ客の噂話につい振り向いてしまったというのは、彼には珍しい経験だった。
ロディスが見ていたら怒られるだろう。〈青燕〉では客の話に聞き耳を立てるなどという悪評が立ったらことだからだ。
しかしその息子は若く、店の評判を気遣うよりもとっさに浮かんだ好奇心を消しきれなかった。
トルスは何気ない様子で、近くの卓をきれいにするふりをしながら、話の続きを聞いてみようとした。
それは見たところ、四十がらみの旅の
もともと知人なのか、たまたまどこかで行き合ったのか。ひとりで飲み食いをするのは少し寂しいからと、この店で同じ卓を取っただけかもしれない。彼らが一緒に入ってきたのかどうかトルスは覚えていなかった。
「だがそんなことになれば」
街の男は胡乱そうな声音で言った。
「もっと噂になっていてもおかしくないんじゃないか」
「それはね、考えが甘いよ。村としちゃそんな話は洩らしたくない。果実に病が出ただけじゃない、人間にまで病がはびこってるとなったら、そんな村のもんなんか誰も買わなくなる。おまんまの食い上げだ。何しろ、チェレンしか産業がないようなところなんだから」
――チェレン。
トルスはぴたりと手をとめた。
その果実の名前は、昼間に聞いたばかりだった。
真面目な顔をして難しいことを言った少年のことを思い出した。
(価格が高騰している)
(不作だとは聞かない)
ファドックが言っていたことと何か関係があるのだろうか。
トルスは不自然を承知で、卓をひたすら磨き込みながら話を聞き続けた。
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