妓王
菩薩@太子
其の1
朝六時台前半の通勤電車の車内は、まだ乗客もそれほど乗ってなくて、通勤者たちの数よりも空席の数のほうが多いといった状況だった。これから現場へ向かうのであろう作業着を着た男たちのグループや、朝帰りのホスト、大学生とか高校生の男女、中年の酔客…などの姿が目についた。電車が止まる度にに2,3ほどが入れ替わって乗り降りしたが、水道橋駅では、漫画青年誌を小脇に挟んだ学生風の若者が一人乗り込んできただけだった。
周一は何気なく男の持つ漫画誌の表紙に目をやって、驚きに目をギョロッと目をひん剥いた。徹夜の残業開けで脳内にぼんやりとかかった靄がいっぺんに吹き飛んだ感じだった。『週刊ヤングチャンプ34号』…!間違いじゃない、34号だ!!明後日発売のはずの34号だ!!彼が先週買った33号の表紙とは明らかに異なったものである。毎週『ヤンチャプ』を買っている彼のどの記憶の引き出しにもその表紙に写っているグラビアアイドルの姿は残っていなかった。それに何といってもその表紙には34号と印刷してあるのだ!
電車がゆっくり動き出すのとほぼタイミングで、果たして学生は周一の隣の空いたスペースに腰を下ろしたのだった。肩に掛けていた白いショルダーバッグを肩から外し膝の上に乗せてその上に『ヤンチャプ』を置き、何やら思わせぶりに咳払いとすると一呼吸置いて、如何にもじらすような仕草でページを捲った。
女子高生くらいの年齢のグラビアアイドルが、白いレースの入った下着をつけて物憂げな表情をつくっていろんなポーズをとっている巻頭グラビアページが3ページに渡って続いた。周一は鬼のような横目でその34号の中身をギョロッと盗み見ていた。彼の職業柄、横尾麗奈とかいうその少女の身体各部は、3サイズはもちろんのこと首周りや手首や足首の太さ乳房や臍の色形に至るまで、瞬時に看て取れた。だが特にそのアイドルに興味があったというわけではない。むしろ彼の女性の嗜好はそんな平均的でありふれたギャルには1ミリたりともないのであった。彼の大きな期待はその先のページにあるのであった。そのことを考えると彼は下腹部に押さえることのできないほどの猛り狂うある種の快感を感じた。彼の前頭葉はその快感の上に胡座をかいた期待感と不安感との葛藤で、もみくしゃになっていた。
なぜ34号が既に出ているのだ?この学生は発売前のこの青年漫画誌をどこでどうやって手に入れたのだ?水道橋……周一は『ヤンチャプ』の発行元である集塵社が確か水道橋にあったっけなかったっけ…と思い出した。も、もしかして!!しかし一瞬素朴な疑問に戻りかけた彼の思考は、男の荒々しい動作によって掻き消された。学生が一気にページを真ん中ほどまで捲ったのだ。だが意に反してそこは綴じ込みのアンケートハガキのある場所であった。彼は少々苛つきながら、男がバッグを弄ってボールペンを出しじっくりとハガキを眺め出したのを辛抱強く耐えた。「今週号で面白かった作品ベスト3を以下の選択肢より選んで記入してください。」学生はまず『シルバーカムイ』の番号③を記入した。そして次にしばらく考えた後『湯島男子/赤崎くん』の番号⑯を記入した。最後に何番を記入するのかを考えると、周一の肩の筋肉に力が入った。周一は咄嗟に『ヤングダム』が④番であることを確認して男の出方を待った。若者が記入したのは、『国民妹!ゆなちゃん』の⑧番だった。周一は期待が裏切られたというよりも、激しい義憤に駆られた。偽善者めえええっ!!無記名のアンケートでまで、奴は何故本心を隠そうとするのだ?だがそれは無記名のアンケートではなかった。プレゼントを貰うために送り先である郵便番号、住所、氏名、TELなどを記入する必要があったのだ。その欄は「面白かったベスト3」の下にあり、若者はボールペンでそれらを次々に記入していった。住所を見て、男が降りる駅は周一が外房線に乗り換えるために下車する千葉の一つ手前、津田沼であることが推測できた。名前の欄に記された公安刑事という周一を根本的に脅かしそうな名前を見て、周一は彼がふざけて書いたか、また自分の素性を隠すために偽名を使ったか、いずれにしても本名などでは有り得ないと思った。
裏面の巻頭グラビア、センターグラビア、巻末グラビアのアンケートでは、やつがいい加減に答えているのは明らかで、いずれも十段階評価の2にすばやく○をつけていた。学生は同様に特別読み切り、新人読み切りについてのアンケートでも同様に「面白くない」に素早く○をつけた後、最後のプレゼントの賞品記号を書く欄のところでしばらくちょっと考えた後、商品券一万円分の記号Dをもったいぶって記入した。
若者がやっと作品を読み始めた頃には電車は既に津田沼の3つ手間の市川駅を通過しており、周一は気が気ではなかった。彼は最初の漫画『名古屋喰種』を、わざとのようにゆっくりと読んでいるのだった。『ヤングダム』は概ね2番目か3番目に置かれることに通常なっているので、津田沼に到着する前にたどり着く可能性はあった。それにしてももうゆっくりすぎる…。イライラして周一の呼吸は次第に荒くなった。電車が西船橋、船橋を過ぎても学生はまだ『名古屋喰種』を読み終わっていなかった。次第に津田沼駅が近づいてきた。見当からして『名古屋喰種』は後2~3ページ残っていた。彼の脳内が絶望感で満たされてきた刹那、学生は残りのページを急いでパラパラパラと捲って『ヤンチャプ』を閉じて出し抜けにバタバタとドアの方へ歩いていった。周一は思わず「おうっ!!」と叫んだ。学生は不審なそうな目で彼を返り見た。
一瞬だけだが、彼は『ヤングダム』の最初の1コマの絵を目撃していたのだ!素早いパラパラ捲りの中で、彼の目は最も見たかった33号の『ヤングダム』の最終コマの続きをしっかりと死ぬほど捉えていた。網膜にその描写が鮮明に焼き付いており、他の何物もその領域に入り込むことはできなかった。見開き2ページにわたるその描写は、何と仏御前の首が胴から離れて飛んでいくところを描いたものであった!それは実に、現時点で彼がこの世で最も驚愕すべき現実であった。彼にとってはたとえ漫画という架空のことを描いたものではあっても、漫画として、絵として現に存在しているという意味でそれは狂ったように確固たる現実だった。それは現実以上の現実といえた。だが…これが現実か?もしや間違いではないか?それこそが期待にまさに一致する最高の1コマであるはずが、一方であまりにあり得ない展開だと心の奥底の脳内防御本能みたいなものが現実の漫画的世俗的常識の空気を敏感に感じ取って諦めていたものであったからなのである。
何故なら『ヤンチャプ』34号の直前まで『ヤングダム』で展開されていたストーリーは、仏御前と妓王との大一騎打ちだったからである!!完全完璧超然女子・仏御前VSどことなき危うき美形・妓王。まず「完璧超然女子」という言葉からメジャー漫画を読み慣れた読者の想像する女性のタイプは概ね一致する。漫画とはキャラの持つ記号性に依存した表現媒体だからである。読者は登場キャラのヴィジュアルから、キャラの性格はもちろん作品内でのポジションやらランク、役割などを我武者羅に連想する。作者のほうも読者の脳内イメージを裏切らないようなポジション、役割などをお決まりのルールとして与える。これは映画やドラマなど視覚依存性の高い他の表現媒体でもそのままスライド式に当てはまる。もちろん意外性を狙って意図的に視覚イメージに反した性格、役割などが登場人物に付与される場合だってあることはある。ある程度のブレはある!しかしそんなブレだってあくまでも予定調和内想定内の枠内での僅かなブレである。ブレにだってそれなりにまずそれなりのルールがあるのである。さて完璧女子は、「完璧」と「女子」という言葉の結合から連想されるごとく、勿論100点満点の美人で知的で気高く揺るぎなく隙がない無敵の女子なのである!!この点に於いて、ほとんどの漫画読者の描く女子像は、ほぼ等しいヴィジュアルイメージに集積されることであろう…。そしてこの作者の描いたヴィジュアルもまさにその通りなのであった!!
では「どことなき危うき美形」ならばどうか?美形ではなくどことなき危うき美形ならば?単にほんの言葉のイメージから言うならば、美しいが、まあどことなくか弱そうな女子の姿が、圧倒的多数の読者に想起されることだろう。だが実際には作者の描いた直接的視覚効果…、つまり直接目で見た妓王の顔や姿形のほうが、圧倒的に言葉のイメージを上回って読者に訴えかける。つまり完璧女子と違ってどことなき危うき美形には、それこそ取り得る無数のバリエーションがあって、この妓王とは実にその中の一つがヴィジュアライズされたものなのである。つまり『ヤングダム』の妓王は美しいがどことなくか弱そうな華奢で脆い女子なのではなく、まあ小柄とまではいかなくともむしろ少年っぽいほっそりしたヴィジュアルを連想させる、まさにそうしたキャラなのだ!!この点が重要なのであって、少なくともメジャー漫画に於いて周一の知る限り、見聞する限り、少年ぽい女子キャラが女性そのものの強さを100%持つ典型的的美人キャラよりも強く描かれた試しはただの一度だってないのである!!
(仏御前の首が飛んだ…)
(妓王が勝負に勝ったのか、そ、そんなバカな!?)
(仏御前の首が飛んだ…)
(妓王が勝負に勝ったのか、そ、そんなバカな!?)
周一はいまなお網膜の裏に残るその残像を虚ろに想起しながら、下腹部を大蛇のように猛り狂わす快感と、ある種の達成感のようなものと…、そして激しい混乱とにもう支離滅裂に引っかき回されていた。そうなのである…男同士の勝負ならばこの種の ストーリー展開はもううんざりするくらいありふれているのだった。華奢なイケメンが無敵の雰囲気に満ちたいかつい絶対王者を倒す展開は、もういくらでもある。しかしである。しかし女同士の対決に於いてはその展開は何と!よーく見てみるとまず皆無であろう…よーく見るとだ。つまりよーーーーーく見れば少年漫画の主人公として代表的なイケメン快男児をそのまま女性にスライドしてもう妓王的な風貌になるはずに違いないのに、女同士の勝負に於いてはまず、妓王的なるものが仏御前的なるものを凌駕することは、これはもう絶対にないのであるっ!!ひとつ有名漫画を例にとって仮定してみるならば、あの有名な『鉄腕アトム』のアトムがあのままもし女子であったならば、同じ10万馬力であってもあのように大活躍することは絶対なく、仏御前的に無敵に強大な敵をやつける力などとても持たない、せいぜい中途半端な強さの準レギュラーで終わってしまうだろう。それほどまでに漫画に於けるこのルール(?)は物理法則をすら上回る絶対的な物語支配力を持つのである。ちなみに妓王のヴィジュアルは、まあアトムというより天馬トビオに近いものであるが。そしてアトムはトビオをモデルに造られにもかかわらず、アトムとトビオのほんの1ミクロンくらいのちょっとしたニュアンスの差は彼にとって天と地の差ほどにも重要なものであったのだ。(無論周一はアトムよりもトビオまんせ~♡であった)
(仏御前の首が飛んだ…)
(妓王が勝負に勝ったのか、そ、そんなバカな!?)
(仏御前の首が飛んだ…)
(妓王が勝負に勝ったのか、そ、そんなバカな!?)
ふと周一は内ポケットからスマホを取り出して時間を確認した。(うんうん、今日は残業開けの休日で、時間はたっぷりある…。次の千葉駅で下車したら、Uターンして上り列車に乗り学生が乗り込んできた水道橋に行ってて確かめてみよう。で何を確かめる?そ、そうだ、水道橋には『ヤングチャンプ』の発行元集塵社や印刷を行っている経堂印刷の本社があったっけ!!しかも水道橋の駅売店やコンビニってのはそこから一番近く、日本全国のどこよりもまず真っ先に店頭に『ヤンチャプ』が並べられるはずである!そうだっ、もう調べることは山ほどあるぞ!!)
電車が千葉駅に到着すると、周一は早足でホームに降り既に反対側に停車している上り列車に乗り換えようとしたが、途中ふと駅売店が目にとまり一列車見送ってでも確かめておこうと売店に寄って『ヤンチャプ』34号を物色したのであるがやはり見つからずそこにあったのは33号で念のため今朝届いたらしい漫画週刊誌の束も調べてみたが、やはりそこにあったのは『ヤングクイーン』や『娯楽オクトパス』などのクズ漫画誌ばかりで、想定通り単に一電車見送っただけの徒労に終わったのであった。
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