54.アリスがいなくなる

「そうだよ……アリスは前いた学校に戻るんだ」


 現役高校生であるアリスには避けては通れない問題がある。


 たとえば学期ごとのテストや出席日数だ。一週間の半分以上を早退・欠席しているアリスの出席日数はギリギリ。休みに補習を受けるなどして二年に進級できることになったが、これから益々忙しくなるらしい。


 母との約束できちんと学校を卒業するよう義務付けられたアリスは昨年までいた私立高校の芸能コースに戻ることとなった。そこで卒業を目指すのだ。


「少し前に兎ノ原さんとちょー美人のお母さんを校長室の前で見かけた子がいて噂になってたんだけど、やっぱり本当だったんだ。――淋しくなっちゃうね」


「うん……」


 かすかに声が震えてしまう。


 凪人とアリスは恋人同士だ。

 だけれど、いつでも好きなときに会えるわけではない。唯一の接点であった「学校」から離れてしまえば互いにやりくりして時間を合わせるしかない。




『――私、あなたとずっと一緒にいたい。学校とかクラスとか座席とかに縛られず繋がっていたい、結婚したいって思った』




 昨年のクリスマスイヴ、アリスからそう告げられた。

 学校という繋がりがなくなることをアリス自身も不安に思っていたのだろう。もちろん凪人も受け入れた。


 オトナになったら籍を入れよう。そう約束して心のつながりは強固になったはずなのに……。


「前にネットで調べたことあるんだけど、その学校って芸能界で活躍している高校生がいっぱいいるんだよね」


「おれも軽く耳にした程度だけど、事務所に入ったばかりの新人や芸能人の子息、梨園の子どもなんかもいるってさ。別クラスにはスポーツコースもあってオリンピック選手が数人いるって」


「やばいじゃん。そんな人たちと闘って勝てるの?」


 福沢が急に真顔になった。


「た、闘う? なんで?」


「考えてもみてよ。もンのすごいイケメンや良家の子息、あるはメダリストが兎ノ原さんを狙うかもしれないんだよ。凪人くんは勝てるの? 兎ノ原さんの心を繋ぎ止めておける?」


「だ……だけどさ、元々アリスがいた学校だぜ。そういう奴らがいるって分かった上でおれを選んでくれたわけだし」


「その油断が命取りなんだよ」


 福沢は大げさなほど首を振る。


「一度外に出たからこそ良さが分かるってこともあるでしょう。いい感じになっていた男子と再会して忘れていたトキメキを思い出し、そのまま恋の炎が燃え上がるってこともなきにしもあらず!」


「まさかそんな……」


「なきにしもあらず!」


 福沢の指摘は凪人が意図的に目をそらしていた部分を的確に突いてくる。

 なにがあっても自分を好きでいてくれるだろうという安心感――――言い換えれば怠け心だ。


 アリスの口から前の学校のことが話題に出たことはないが、数々の有名人を輩出している私立高校だ。眉目秀麗な年頃の男女が集い、色恋沙汰など日常茶飯事だったろう。もしかしたら好意を寄せる相手もいたかもしれない。


 一方の自分は子役経験があるというだけの(しかもアリスは知らない)平凡な高校生。将来性からしても天秤にかけられたら負けるのは目に見えている。


「どうしよう……」


 彼らに比べて自分は……などと絶望に打ちひしがれていると横やりが入った。


「はいはいはいお喋りはそこまで。お仕事中だってことを忘れてなぁい?」


 母――改め店長である。笑顔こそ浮かべているが片手におしぼりと水、もう片手にオーダーシートを握りしめ、ぴきぴきと眉間を震わせている。



「「す、すみません!!」」



 二人は大急ぎで持ち場に戻った。

 『しょうもない奴ら』と言わんばかりにクロ子が鳴く。このごろ益々口が悪くなってきた。



 ※



「あー……疲れた。だるい」


 風呂を終えて自室に戻ってきた凪人は立っていられないほどの疲労感に襲われた。


「もうだめだ」


 吸い寄せられるように布団にダイブする。一斉に舞い上がった埃が蛍光灯に照らされてはらはらと落ちてくるのが見えた。乱舞する綿毛はまるで雪だ。




『――幸せにする。絶対。一生』




 クリスマスイヴの夜にプロポーズし、涙ながらに頷いてくれたアリス。

 この決意はそう簡単には崩れないと思ったのに福沢にちょっと突かれただけで自信がなくなってしまう。


(声、聞きたいな)


 最近買ったばかりのスマホを取り出した。

 連絡をくれるのはいつもアリスからで、通話でもメールでも、いつも凪人から「そろそろ」と打ち切ってしまう。


 たまにはこちらから連絡しよう。



『明日の終業式が終わったら少しだけ話せないか? ちょっとでいいから』



 回りくどいと思いつつこんな文章しか書けなかった。


 送信。


 しばらく待ってみたが既読はつかない。


 もう一言二言入れようか。でもしつこいと思われたらイヤだ。

 そんなことを考えているうちに目蓋が重くなり、意識をさらわれるように寝落ちしてしまった。





 ―――そのころアリスは。


「がーん! また画面消えた!!」


 仕事先である離島のホテルの一室でスマホと格闘していた。


「なんでぇ、隅から隅までちゃんとキレイに拭いたじゃない。お願いだから頑張ってよ」


 不安定なスマホに一喜一憂していると部屋の扉がノックされた。布団の上に座っていたアリスは「いま手が空きません」とだけ告げて引き続きスマホをいじる。


 少しして合い鍵で入ってきたのは柴山だった。


「入るぞ。……なんだまだやってたのか。電波のいいところ探していて海の中にすっ転んだって? バカだな。歩きスマホは危険ってポスター見なかったのか? どこぞのモデルがイメージガールだったはずだけどな」


 アリスはムッとしたように振り返る。


「失礼ですね、自分が映っているものはちゃんと確認してますよ。『スマホより私を見てよ』ってAliceが悲しげな表情でカメラを見つめているんですよね。あれは最高だと思いますよ。でも今回は仕方ないじゃないですか、ここ電波状態すっごく悪いんだから」


「当然だろう。『携帯の電波すら届かないリゾートで楽園のような生活を送る』がコンセプトのホテルなんだぜ。一部屋ウン万円するのに今回はCM撮影のためだから宿泊料はタダ。部屋の冷蔵庫のビールは飲み放題。こんな最高な仕事あるか?」


「でもだからってよりによって終業式の直前に予定入れなくてもいいじゃないですか、柴山さんのバカ」


 機嫌が悪いのも余裕がないのも全てはスケジュールミスによるものだった。


 仕事は大事だ。しかしアリスにとっては凪人がいるあの教室も大事なわけで。


 本当は転校なんてしたくない。

 あの空間にいたい。

 けれども母との約束もある。


 さんざん悩みあぐねた結果が、今回の転校なのだ。


「日程を勘違いしていたのは謝っただろ、明日の始発で向こうに戻って終業式に顔出せるよう手配してやったじゃないか」


 柴山が苦労して調整してくれたことを知っているアリスは、少しだけ態度を軟化させた。


「……すみません、いまちょっと気が立ってて。月のアレで」


「あぁアレな」


 と分かったように頷く。


「まぁ撮影で不機嫌な顔するくらいならオレにぶつければいい。歓迎するぜ」


 アリスはくすりと笑う。

 柴山のこういうところが嫌いになれない。


 会社側の人間でありながらもアリスに寄り添って支えてくれる。時には無理をしてでも。

 二人の付き合いはそろそろ四年目に入ろうとしていた。


「もしかしたら凪人くんからラブメール来ているかもしれないのにってちょっぴり期待してて。スマホを水没させちゃうなんて運が悪いですよね、私」


 何度目かになる電源スイッチを入れるが反応はない。


 彼の声が聴きたい。

 優しい声で名前を呼んでほしい。


 彼に触れたい。

 少し大きな手にぎゅっと指を絡ませたい。


 会いたい。


「なんならホテルの電話借りて掛けてみればいいじゃないか。通話料くらい肩代わりしてやるぞ」


「でもお店の仕事で疲れているかも知れないし」


「よく分かんねぇな、付き合っているんだから遠慮なんかいらないだろ。ホレ」


 ベッド脇の受話器を差し出してくる。アリスは渋々受け取って凪人の携帯番号を入れた。番号は当たり前のように記憶している。


 トゥルル……と呼び出し音が鳴り響く。


 心臓が早くなる。

 早く出て欲しいような、もっと焦らして欲しいような。


「……出ない、です。寝ちゃったのかな。それとも登録外の番号だから警戒されてる?」


 辛抱強く待ってみたが二十コール待ったところで諦めて受話器を置いた。

 すかさず柴山がフォローに入る。


「そう落ち込むな。どうせ明日には会えるんだし。――お、スマホ復活したぞ」


 アリスのかわりにいじっていた柴山の手の中でスマホが光を取り戻し、見慣れた画面が現れた。新着メールの表示がある。


「凪人くん!?」


 無我夢中でスマホを奪い返し、ゆっくりとメッセージをクリックする。

 差出人は凪人。メッセージの受信は一時間前。


(向こうからメールなんてどうしたんだろう。すごく重要な話?)


 どきどきが止まらない。

 もうワンクリックで内容が見られる。――という次の瞬間スマホが消灯した。


 力尽きたのだ。


「……ぐあああああッッ!!!」


 断末魔にも似た絶叫がホテル中にとどろいた。


 柴山はため息をつく。


「仮にもモデルなんだから……もういいや」

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