51.「好きだッッ」
水着に薄いパーカーをまとっただけのアリスが目の前に佇んでいた。
「アリス……」
じり、っと一歩踏み出す。
言いたいことはたくさんあったはずなのに、いざ目の前にするとなにも言葉が浮かんでこない。
「アリス、その、この前は」
「来ないでッ」
アリスが後ずさりした。その顔はまたしても歪んでいる。
「どうしたんだよ、おれのこと分からないのか?」
もう一歩踏み出す。しかしアリスは首を振りながら二歩も後ずさりする。
「来ないで、いや、近づかないでッ」
まるで変質者扱いだ。周りが何事かと視線を向けてくる。そちらに気をとられた一瞬にアリスが走り出した。ビーチサンダルを脱ぎ捨てて裸足で駆けていく。
「――待っ」
追いかける凪人。しかしアリスは立ち止まらない。ぐんぐん加速してコンクリートを蹴り飛ばす。
(なんでなんで、どうして。やっぱりおれは)
来なければ良かった、こんなふうに拒絶されるのなら。
そう思う一方でいま後戻りしたら二度と会うことができない気がした。
裸足が痛むのかアリスのペースが落ちてくる。ようやく追いついた凪人が腕を掴もうとすると凄まじい勢いで頬を叩かれた。
「触らないでよ、触らないで、やだぁ……」
苦しそうにうずくまってしまう。
「私、怖くて、触られるの、怖くて」
カタカタと肩を震わせながら訴えてくるアリス。
「私……汚れちゃった、あんな男に、手、握られて、肩抱かれて、キス――されそうになって、私……まっくろに、なっちゃった」
「そんなことない。アリスはきれいだ」
「汚いの!」
「おれアリスに会いに来たんだ、謝りたかった。だから顔見せてくれよ」
しゃがんで顔を覗き込もうとすると再び立ち上がって走りだす。アリスは逃げることに必死で回りが見えていない。
ふいに。
行く手の遮断機が鳴り出した。
しかしアリスは躊躇なく線路内に踏み入れる。
「ダメだ行くな、行くなアリス」
警報が鳴り響く。
赤い目玉が点滅する。
アリスの後ろ姿が霞む。
凪人は――……。
息を吸う。肺が破裂しそうなほど。
「――――好きだッッ」
張り裂けんばかりの声が警報を打ち消した。
……ガタタンと電車が通り過ぎていく。長いようであっという間だった。
遮断機がゆっくりと上がって視界が開ける。膝をついて座り込んでいた凪人はぺたぺたと近づいてくる足音に顔を上げた。
「あぁ……良かった」
アリスだ。
やっと、つかまえた。
※
「昔、猫を飼いたくて仕方なかったんだ」
海浜公園のベンチに二人の姿はあった。互いの心の距離を表すようにベンチの端と端に座っているが逃げ出す様子はない。
気まずそうなアリスを前に口を開いた凪人は自分の病気の原因について明かすことにしていた。
「知り合いが連れてきてくれた子猫をおれが逃がしてしまった。猫も見知らぬ場所で怖かったんだろう、あちこち追い回したあげく屋外に出てしまった。そこで待っていたのは」
外は小山内レイジの出待ちをする多くのファンでごった返していて、凪人の姿を見た途端に色めき立ち、津波のように押し寄せてきた。
幼い凪人はもみくちゃにされ、体のあちこちをぺたぺたと触られた。肺が押されて呼吸すらままならない。凪人を見る彼女たちの目は恐ろしく歪んでいた。
慌てて追いかけてきたスタッフたちの手でなんとか解放された凪人だったが、肝心の子猫がいない。
必死に探し歩いた先に黒い塊を見つけた。
「いた!」そう目を輝かせたのも束の間。
「そこ、道路の真ん中だったんだ。夕方のラッシュでものすごい量の車が行き来していた」
信じられないとばかりに口を覆うアリス。
凪人の肩がおおきく震える。
「あいつはもうただの塊だったよ。悲鳴は聞こえなかった。遠目にも剥き出しの骨や内臓が見えたし、タイヤにでも引っかかったのか長い長い血の跡が数メートルにわたって続いていたんだ。……たくさんの人たちが、いた。でもだれも見てなかった」
あの衝撃を、あの驚きを、あの恐怖を、なんと言葉にすればよいのだろう。
先ほどまで健気に鳴いていた子猫、どう引きずられたのかハッキリと分かる血痕、その先に転がっている肉塊。そして凄惨な光景を目にしたあとも何事もなかったように「レイジ」を取り囲んで欲求を果たそうとするファンたち。
その異様な目つきはいまも罪悪感とともに凪人を苛んでいる。
「そのときからだよ。注目されたり、たくさんの人がいたりすると吐くようになったのは。いまだって思い出しただけで胃が……」
こみあげてくる吐き気を必死にこらえようとする。またいつものパターンだと呆れてしまった。
するとアリスの手が伸びてきて凪人の口元を覆った。
「いいよ、ここに吐いても」
「な……に言って」
しかしアリスは平気そうに笑う。
「凪人くんのなら汚くないから」
あまりにもびっくりしたせいか、喉元までこみ上げていた吐き気がウソのように消えてしまった。こんなことは初めてだ。
「アリス。――この前はごめん」
あの日突き放してしまったアリスがようやく近くに来てくれた。ここから歩み寄るのは自分の番だ。
「ううん、私も、ごめんなさい」
「アリスに会いたかった。会って謝りたかった」
「福沢さんがいるのに?」
「彼女にはフラれてきた」
「自分から行ったの?」
アリスの視線はやや腫れている凪人の頬を見ていた。
どんな事情があれ凪人は福沢の好意を踏みにじった。その罰だ。
「好きな人がいるって正直に伝えた」
「それ誰のこと?」
「なに言ってるんだよ。だってこんなに――」
まじまじと顔を見るとアリスが不思議そうに首を傾げた。ターコイズの瞳はなんてきれいなんだろう。
「こんなに好きになった相手、初めてなんだ」
驚いたように目を見開いていたアリスは、しばらくして大げさに肩を揺らした。
「なにが可笑しいんだよ?」
「ううん。凪人くんがこんな素直に告白してくれるなんて私の努力も無駄じゃなかったって感慨深くて」
まったくだ、と拗ねたくなってしまうがアリスに出会う前は他人の目を気にして俯いてばかりいた。
こんな風に面と向かって告白するなんて死んでも御免だったはず。
けれどいま心の中は驚くほど澄み切っている。
焦りも恥ずかしさもなく、心地よい風が吹き抜けているような感覚だ。
「あのな、それでおれ」
「あのね、私、」
ほぼ同時に話してしまって互いに目を見合わせた。「お先に」とアリスに譲ったものの不安そうに瞳が揺れていた。
「あのね私、この前ある男の人に――襲われそうになっ、て」
かすかに震える語尾。凪人は抱きしめるかわりにキッパリと告げた。
「知ってるよ。愛斗さんから聞いた。アリスは悪くない」
「……軽蔑しなかった?」
「しなかったよ。その男に嫉妬はしたけど」
「私がバカだったの。あの人も『黒猫探偵レイジ』のファンだって言うから嬉しくて話が弾んで、部屋に小山内レイジからもらったグッズがあるから見に来ないかと誘われてついていってしまった。廊下で待つと言ったら急に部屋に引きずり込まれそうになって、抵抗したら不意打ちで髪の毛に触れられて……その瞬間ものすごく怖くなって逃げ出したの。あとから要注意人物だと聞かされた」
その時のことを思い出して再び震えるアリス。
「大丈夫だ」と言って細い肩を抱いてやろうとするとアリスは小さく首を振った。
「ごめんなさい。もう少しだけ待って。まだちょっと怖いの、触られるのが」
アリスをこんなにも傷つけた男への怒りで頭が沸騰しそうだ。
けれど自分にも一因がある。
アリスに言わなければいけないことがある。
「正直に答えてくれ。アリスはいまでも小山内レイジに会いたいか?」
小山内レイジ。
二人を繋ぐ糸であると同時に二人を隔てる大きな壁だ。
アリスは少しだけ考える。
返事次第で自分の正体を明かそうと考えていた。
自分が憧れていた相手がこんな人間になったと知ったらアリスはどう思うだろう。それを知るのがまだ怖かった。
「そうだね、会いたいよ。初恋の人だもん。本当はエキストラでもいいからドラマに参加して、アナタがいるから私はいまココにいるって伝えたかったんだけど……」
もったいぶるように言葉を切り、首元があらわになるほどの角度で空を見上げている。
「けど?」
心配そうな凪人を横目で見、薄く微笑んだ。
「凪人くんが嫉妬しそうだからやめておこうかな」
「なっ……!」
確信を秘めたような笑顔は凪人の心など見透かしているようだ。
「ホテルの件で気づいたの。私はやっぱり凪人くんのことが好きで、もう凪人くん以外を好きにはなれない。それなのに裏切る形になってしまった。本当は何度も連絡しようとしたし黒猫カフェにも行きたかったけど、嫌われるのが怖くて身動きとれなくなった。いっそ死んでしまおうかとも思った。だけどさっき――『好き』っていってくれたから、どうしても続きが聞きたくて」
撮影中ずっと不安そうにしていたアリスはようやく本来の自分を取り戻しつつあった。アリスの心をつなぎとめたのは他ならぬ凪人である。
「だから自信をもって。あなたはモデルのAliceが愛した世界にただ一人の男の人なんだよ」
いまや数万人規模のファンがいるAlice。
そんな彼女のたったひとりの相手が、自分。
「が、がんばって、みる」
緊張のせいか少しだけ声が震えた。
ともすれば子役だった時よりもプレッシャーがかかる気がする。吐きそうだ。
「……ねぇ」
ふと指先が伸びてきて、ためらうように凪人の手の甲に重なった。
「手、つなぎたい」
アリスはまだ距離を測りかねている。
だから凪人は笑って受け入れた。
「いいよ」
もう離れないようにときつく指先を絡める。
「肩にもたれかかってもいい?」
「いいよ。少し汗くさいけど」
「そんなの全然平気」
やわらかい髪の感触とともにアリスが寄り掛かってくる。
「触れてみたい」
「いいよ、好きなだけ」
アリスの指先が頬や首筋、肩、腰へとうつろう。少しくすぐったいが目をつむって我慢した。
「さっきのあれ、もう一回ちゃんと言って欲しいな」
「あれって?」
「分かってるくせに。踏切前で叫んだ言葉」
そこで凪人は目を開けた。すぐ傍にあるターコイズの潤んだ瞳に自分の姿を見て、軽く息を吸う。
「好きだよ、アリス」
好きな人に好きだと告げること、それはなんてステキなことなのだろう。
アリスも破顔した。
「私も。私も凪人くんのことが大好き」
どちらからともなく顔を寄せて唇を重ねた。離れていた時間を埋めるように抱き合って、ひとつの体のように密着する。
「凪人くんの舌、血の味がする」
そう言ってアリスが笑ったので、悔しくなって再びキスをした。
アリスの舌からは潮の味がする。
きっと世界で一番、あまい。
(最終話へつづく)
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