43.小山内レイジへの出演依頼
「お読み頂ければ分かりますが、この放送局は今年開局七十周年と称して大々的なイベントを展開しています。人気ドラマの生放送や様々なアーティストとのコラボレーション、スペシャルドラマなどを精力的に放送しつつ、過去に話題になった高視聴率ドラマの再放送やリメイクなどをしています。そんな中、局内で話題になったのが『黒猫探偵レイジ』です」
そこで言葉を切った葉山はちらりと凪人を見た。
「局内スタッフ内の間では『黒猫探偵レイジ』は完結した未完成作として名高いドラマです。最高視聴率三十パーセントを記録しておきながら最終回が不完全燃焼だったというのです。念のため申し上げておきますがわたくしは凪人さんのことを否定しているわけではありません。体調が優れない中、最善を尽くして演技してくださったことに深く感謝しています。しかしながら局員たちはそうでない。『黒猫探偵レイジ』への思いは格別です。……とは言え、そんな内情を視聴者が知るはずはありません。突然リメイクしてそっぽを向かれる可能性もある。まずは再放送という形で当時を知る世代や新しい世代に『黒猫探偵レイジ』を認識してもらう作戦に出ました。結果、視聴率は悪くないそうです。そこで今度は二時間のスペシャル番組を放送することが決定しました。題して『帰ってこない黒猫探偵』。同じ世界観を踏襲しながらもキャストを刷新し、本格ミステリーとして新たなストーリーを展開することにしたのです」
つまり開局記念と称して新たな視聴者を獲得したいということらしい。当時人気を博した『黒猫探偵レイジ』がその起爆剤として取り上げられたのだ。
「一つよろしいですか?」
ためらいながら母が手を挙げた。
「『キャストを刷新』というお言葉を聞く限り、息子の出番はないようですけれど? まさか放送する許可を得に来たわけでもないでしょう?」
「ええ、当初は凪人くんに主役として出演していただく案もありましたが立ち消えになりました。かわりにいま若者に人気の斎藤マナトを主役として起用することになったのです。ヒロインは近くオーディションにより決定されます」
「斉藤マナトさんが新たな小山内レイジ役になるのですか?」
「いいえ、違います。彼は小山内レイジとは接点をもたない大学生で探偵事務所のアルバイトをしている設定です。しかし猫の声を聞くことができ、ヒロインからまっくろ太の捜索を依頼されるところからストーリーが始まります」
企画書の下に描かれていたまっくろ太の画像は本物と見まごうほどの出来栄えだった。
CG技術の向上によって、どこかぎこちなかった『まっくろ太』も六年を経て立派な猫に化けたのだ。そう思うとなにひとつ進歩していない自分など必要ない気がしてくる。
「脚本は間もなく完成しますが、ストーリーの終盤で小山内レイジの出番があるのです。いまや世界的に有名になった水内監督が初めて手掛けた作品が『黒猫探偵レイジ』だったことから、ぜひともレイジ……凪人くん本人に出演していただきたいとのご意向なのです」
「無理です。おれはもう小山内レイジじゃない。ただの一般人だ」
凪人は激しくかぶりを振る。監督といいまっくろ太といい、すべてが異次元の存在だ。
「ですからこのようにお願いに参った次第です」
しかし葉山はあくまでも冷静に、丁寧に頭を下げる。
「わたくしはMare(マーレ)の社員です。トライ&トライをモットーとしており、納得がいくまで足掻くのが信条です。凪人さんがわたくしのことを嫌っているのは重々承知しています。謝れ、土下座しろ、腹踊りをしろと命じられたら実行します。羞恥心など元よりない。どんな悪者にでもなりましょう。社畜となじられようとこれがわたくしのプライドです」
そう言って床に土下座しようとするので慌ててやめさせた。
凪人のように学生とカフェ店員のどちらにも中途半端に足を突っ込んでいる状態とは違う。葉山はどこまでも仕事を愛し、真剣なのだ。だから幼いころから凪人に厳しかった。
(たぶんアリスもおんなじだ)
もし目の前で土下座しようとしたのが葉山でなくアリスだったのなら、受け入れてしまいそうだ。自分の体調不良など、どうにかしてしまおうと思うだろう。それよりもアリスの喜ぶ顔を見たい。
けれど。
「……話は分かりました。でもやっぱりお断りします」
キッパリ告げると葉山の顔が険しくなった。
「子どもの頃と違って、いまのおれには葉山さんがどれだけ熱心なのかが分かる。だからこそ断ります。おれには覚悟がない。勇気がない。自信がない。イヤだと拒絶する自分の心を殺せない。そんな状態で『レイジ』を演じても誰も納得しないし迷惑をかけるだけだ」
これがいまの本音。偽ることのない本心。
心のこもっていない『レイジ』に一体なんの意味があるだろう。
「残念です……」
そう呟いたきり葉山は項垂れる。しかしなかなか立ち上がろうとしなかった。罪悪感のある凪人としてはコーヒーをぶちまけて怒鳴られればまだ気持ちが楽だったのに、それもない。
「そういえば」
葉山がゆっくりと動いて、冷めたコーヒーに手を伸ばした。なにか思い出すように手元を見つめている。
「以前このお店の前ですれ違った女性――見覚えがあると思って調べましたらモデルのAliceだったのですね。親しいご関係ですか?」
どきん、と心臓が脈打った。よりによってアリスに気づくとは。
「いえ、ただのお客さんです」
平静を装うつもりだったのに自然と声が低くなってしまう。葉山はわざとそうしているように凪人の目を見ない。
「そうですか。SNSでクラスメイトと映った写真を拝見しましたが、凪人くんと同じクラスのようですね」
「だからなんだっていうんですか?」
次第にイライラしてきた。葉山の目的が分からない。
そんな苛立ちを当然のように受け止めつつ葉山はゆっくりとコーヒーを飲み干す。
「彼女、『帰ってこない黒猫探偵』のヒロインオーディションで最終選考に残っていますよ」
「――……まさか」
オーディション。その言葉を耳にして息を呑んだ。
アリスが演技指導を受けてまで出演したいドラマが『黒猫探偵』だとしたら、あれほどまで熱心だった理由も分かる。
「関係者に聞いたところお世辞にも演技が上手とは言えないのでヒロインとしては難しいようですが……もし凪人くんにご協力頂けるのであれば名前のついた端役なら用意できるかもしれませんね。わが社も協賛企業のひとつですから」
葉山の目が獲物のように凪人を捕える。体ごと心まで握りつぶされたような気がした。
私情なんていらない、心を殺して視聴者が求める『小山内レイジ』を演じろ――。
葉山はそう告げている。恐ろしい気迫で。
(なんで、こんなことに)
凪人の手足が小刻みに揺れ始めた。顔からは血の気が引く。葉山は企画書を引き取るかわりに名刺と二千円札を置いて椅子から立ち上がった。
「ごちそうさまでした。――来週、また伺います」
さらに追い打ちをかけてくる。
「良い返事を期待しておりますよ」
(ふざけるな)
こらえていた怒りが頂点に達した。
「……昔からそうやって優しいふりしてなんでもかんでも自分の思い通りにするところが嫌いだったんだ」
椅子を蹴るように立ち上がって二千円札を床にたたきつける。
「来るな、もう二度とこの店に来るなッ!」
腹の底から叫んで何度も机を叩いた。あまりの衝撃にコーヒーカップがガシャンと跳ねる。我を忘れてここまで激高したのは初めてだった。
「そんなふうに怒りを露わにすることもあるのですね」
葉山はこれといって取り乱すこともなく、醒めた目で凪人を見つめている。だからこそ余計に腹が立った。こんなことで取り乱す自分が幼稚に思えたのだ。
「お邪魔しました」
ドアベルを鳴らして去って行く葉山。その後ろ姿が消えた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。立っていることもままならずその場に座り込む。
嘔吐しそうな気配はなかった。怒りが勝ってそれどころではなかったのだろう。
「はい、お水どうぞ」
冷えたグラスが差し出される。凪人は急に喉の渇きを感じて一気に飲み干してしまった。母はすぐにかわりを用意してくれる。
「……おれ、店員失格だな」
「そうかもね」
母の声音は優しい。顔を見ても怒っている様子はない。
「それで、どうするの? 本当に断るの?」
「自信がないって言っただろ。あれが全部だよ。たとえアリスに頼まれたって同じだ」
克服できるものならしている。それができないから目立たずに生きていくしかなかったのだ。
「まぁね、もう高校生なんだから決めるのは凪人だけど」
母がリモコンを操作すると『黒猫探偵レイジ』の再放送が流れていた。右も左も分からない状態でぎこちないながらも一所懸命に演技しているのが分かる。
「お母さんはどっちも好きよ。黒瀬凪人も小山内レイジも。どっちも大切な息子だからね」
凪人はぼんやりと画面を見つめる。
思い出したくもない。できれば消してしまいたい過去でも、誰かの心にはクッキリと爪痕を残しているのだ。
『ぼくは鳴いている猫と女の子の味方だよ』
恥ずかしくてみっともないとすら思っていたレイジの決め台詞がやけに心に響いてきた。
自分はいま、誰の味方なのだろう。
※
翌週、アリスの最終オーディションの日は朝から雨だった。
日曜日のため店は休みで、母は地域の飲み会に参加して帰りは遅くなるらしい。
オーディションが何時に始まって何時に結果が出るのか聞いていない凪人だったが、どうにも落ち着かず昼過ぎからずっと店のカウンター席に座って料理本を広げていた。しかし本の中身はまるで頭に入ってこない。気になるのは時計の針とスマホの着信だけだ。
時計の針は四時を指している。アリスからの連絡は、まだない。
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