3.アリスの化粧ポーチ

11.学校、一緒に行こ

『ほんとうかい、まっくろ太。この屋敷の中に凶暴なライオンが紛れ込んでいるの?』

『あぁ、さっきからヒゲがびんびんしにゃがる。見つかったら頭からバリバリ食われちまうぞ』


 黒瀬家の朝は『黒猫探偵レイジ』の映像をBGMがわりに流す。いつも通りの光景だった。


「それで、この前のデートはどうだったの?」


 出し抜けに問いかけられた凪人は牛乳を噴きそうになった。なんとかこらえたものの口端からわずかにこぼれてしまう。

 母は布巾で手早くテーブルを拭きながら片手でティッシュの箱を押しつける。


「早く拭きなさい。凪人がいつまで経ってもお母さんに報告しないからいけないのよ」


「違うんだよ、あれはデートじゃなくて……重大なミッションだったんだ」


「なにそれ!ミッションだなんて探偵みたいじゃない。かっこいー」


「格好良くないッ」


 呑気な母にも困りものである。もっとも、そのお陰で救われていることも多いのだが。


「今度連れてきなさいよ。とびっきり美味しいコーヒーをご馳走してあげるわ」


「……機会があればね」


 てきとうに濁して席を立つ。

 朝は自転車で通学しているのだが、時間が少しずれただけで信号待ちに足止めされる。早く出るにこしたことはない。今朝もさくらんぼは残した。


「んじゃ、行ってきます」


『奴はとんでもねぇケダモノにゃ。そのうちモフモフの尻尾を出すに違いにゃい』


 相変わらず母は黒猫探偵に夢中だ。


 玄関を出るとき、自然と姿見に目がいった。ぼさぼさの髪をなんとはなしに撫でつける。


(はっ、なにしてんだ。人目を気にするなんておれらしくないぞ)


 目立つのがイヤで苔のように地味に暗く生きてきたというのに、たった一度のキスで外見を意識するなんて単純すぎる、と自分を叱りつける。


 靴に爪先を引っかけて飛び出し、ガレージに停めてある自転車を引っ張り出してくる。急げばなんとか間に合いそうだった。

 助走をつけて自転車にまたがろうとしたその瞬間、玄関脇から小さな影が躍り出た。


「猫……ッ」


 あまりにも不意打ちだったせいで自転車に乗り損ねたばかりか勢いあまって放り出してしまった。そのまま自転車とは反対側に倒れ込む。


「いってー……」


 自転車の車輪が空回りする。膝がじんじんと痛い。起き上がるまでにしばらく時間がかかった。

 痛みをこらえながら膝立ちすると道路の向こう側でこちらを見ている黒猫と目が合った。


「危ないだろ、いきなり飛び出すなよ」


 思わず文句を言うと「にゃあ」と鳴いた。猫なりの謝罪だと受け止めておく。しかしそれ以上はなにをするでもなくさっさと行ってしまった。


(黒猫が不吉……)


 そんな言葉がよみがえる。


「凪人、すごい音がしたけど」


 音を聞きつけた母がサンダル履きで飛び出してくる。

 肩を借りて玄関に戻ってから膝を確認するとわずかに血がにじんでいた。ほんの擦り傷だが受け身をとっていなかったので体の節々も痛む。母の手で消毒と絆創膏が貼られ、治療は完了。問題は自転車にまたがると痛む、ということだった。母は車をもっていない。


「タクシーを呼びましょうか」


「いいよ、大けがしたわけでもないのにタクシーなんて使ったら注目されちゃうだろう」


「でも」


「電車で行くから平気だよ」


 とは言ったものの電車はやはり慣れない。一度吐いてしまうと同じ場所を見ただけで吐いてしまうこともある。


 そこへ一台の車がやってきた。


「おっはよう凪人くん。学校、一緒に行こ」


 後部座席から飛び降りてきたのはアリスだ。凪人たちの様子を見て目を丸くする。


「あ、おはようございます。凪人くんのクラスメイトの兎ノ原アリスといいます」


 まずは母に頭を下げる。母はその顔に覚えがあったようだ。


「あら貴女どこかで」


「はい、僭越ながらモデルをさせて頂いています。凪人くんと一緒に登校しようと思ったんですが……どうしたんですか?」


「それがね、猫をよけようとして転んだんですって」


「えぇっ、大変じゃないですか」


「大したけがじゃないのよ。でも自転車で行くのは無理そうね」


 母はアリスと凪人を交互に見ている。その視線が意味するところを理解した凪人は恥かしさでいっぱいになった。


「もし宜しければ私の車で一緒にどうですか? ここまで送ってもらって凪人くんと一緒に歩いて行くつもりだったんですけど。あ、兄の車なのでガソリン代などはご心配なく」


「あらそう、じゃあお願いしようかしら。ね、凪人」


 当事者を抜きにして二人で話が進められている。

 恥ずかしい気持ちもあったが、いまは車を出してもらえるのはありがたい。


「じゃあ行こ、凪人くん。立てる?」


「立てるよ」


 差し出された手を払いのけて立ち上がる。

 膝が痛むが注意していれば歩けないことはない。


「では行ってまいります」


「ありがとう、助かるわ。今度うちのお店に遊びに来て。うーんとサービスするから」


「はい、必ず」


 そんなこんなで凪人は車で通学することになった。

 アリスの兄だという男性が運転する車は大型のワンボックスカーで、革張りの座席は乗り心地がいい。後部座席のシートにもたれた凪人を隣のアリスが覗き込んでくる。


「ケガ、本当に大丈夫?」


「ただの擦り傷だって」


「強がっちゃって。ナイスタイミングだったでしょう、私」


 本当にナイスタイミングだったからこそアリスのドヤ顔に腹が立った。


「そんなことよりも、なんでおれの家を知っているんだよ」


「生徒手帳に書いてあったの。凪人くんって真面目なんだね。そういうところ嫌いじゃないよ」


 スマホを開いて見せてくれたのは生徒手帳の写メだ。顔写真、氏名、学校名のほかに住所を自書する欄がある。書くのは任意だと言われていた意味をいまごろになって理解した。こういう輩がいるからだ。


「きみが噂の黒猫くんか。アリスが世話かけたみたいで申し訳ない」


 バックミラーごしに話しかけてきたのは黒髪の男性。兄だと言うがアリスとは似ても似つかない。


「彼はマネージャーの柴山さん。怒るとめちゃくちゃ怖いの。兄っていうのはウソ。正直に言うと凪人くんのお母さまが遠慮しちゃうと思ったから」


 ストーカーに啖呵を切ったことを怒ったマネージャーで、出勤するついでに乗せてきてもらったのだという。


「そういえばストーカーはどうなった?」


「ん、事務所への嫌がらせはなくなったよ。特定の掲示板や事務所のホームページに悪質なメッセージが数件あったけどそれっきり。私に失望したのか、他に可愛い子を見つけたんだろうね。ちょっと心配だな」


 アリスはあっさり言うが、ストーカーに追われた日々は相当な恐怖だっただろう。

 その矛先が別の者に向かうのを懸念するのも分かる。


「でも私もいつまでも気にしていられない。しっかり前を向いてカメラの前に立たないと」


 容姿が優れているからといって誰もがモデルになれるわけではない。きっとアリスのような決意と覚悟が必要なのだ。そんなアリスの姿を見ているとちっぽけな自尊心がバカらしくなる。


「兎ノ原、あのさ」


「呼び捨てがいいな。『さん付け』も『ちゃん付け』も却下」


 いきなりハードルが高いが、無視したら機嫌を損ねるに違いない。


「……ア、アリス」


「もうちょっと愛情のこもった呼び方がいいけどまぁいいや。なに?」


「その……車さ、本当はすごく助かった。うちは片親でお金があるわけじゃないし、おれの発作があるから母さんも家で店を開いたんだし。ありがとう……柴山さん」


「ええっ!私は!?」


「だ、だから、サンキューな、アリス」


 からかったり嘆いたりと忙しかったアリスの顔がみるみるうちに輝いていく。


「ありがとう。なんか嬉しい」


「今回は、だ。今回は感謝しているってだけだ」


「うんうん分かってるよ。ところで凪人くんって首が長いんだね」


「首?」


 そう言われれば、という程度に自覚はあった。だからなんだというのだろう。


「長いだけじゃなくて細くて白いし、喉仏もあんまり出っ張っていないんだね」


 ふと気づくとアリスが距離を詰めてきていた。


「シャツのアイロンがけはお母さまが? んー、ミルクのいい匂いもする。赤ちゃんみたい」


 不自然なほど縮まる距離。動悸がしてきた。

 早くこの雰囲気をどうにかしなければという気になり、自然と体がそっていく。


「……ね?」


 顔を上げるアリス。色白で眉目が整った顔立ちは絵画のように美しいのに。


「ちょっとだけでいいから」


 腕をからめて顔を近づけられると逃げたくてたまらない。

 けれどターコイズの瞳に惹かれている。

 逃げたいのと逃げたくないのがあって、身動きがとれない。

 一体どうしたらいいのだろう。


 腕の表面をなでるようにして上がってきたアリスの手が凪人の頬に添えられた。


「ちょっとだけでいいから、甘噛みさせて?」


 ――――忘れてた。こいつはケダモノだ。

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