4.追いかけてきたA
「おはよう居眠り王子くん?」
からかうように顔を覗き込んできたのは若い養護教諭だ。
「二時間も寝ていたんだよ。具合はどう?」
男子トイレに籠城していた凪人は心配した担任に助けられて保健室に担ぎ込まれたのだ。
ベッドから起き上がった凪人は腹をさすって様子を確かめた。
「お腹がすいてきたので大丈夫だと思います」
「そりゃ良かった、ちょうどお昼の時間だよ。アンパン食べる?」
半分に割ったアンパンが手渡される。また吐くかもしれないと恐怖はあったが空腹には勝てずにかぶりついた。餡子のほのかな甘さがじんわりと広がって美味しい。
「はぁー、やっぱり人様からもらったアンパンは美味しいわね」
「人様?」
「差し入れ。一年生の女の子が持ってきてくれたんだよ。さっきはごめんなさい、だってさ」
話からすると福沢がお詫びを兼ねて持ってきてくれたらしい。養護教諭はそれをご相伴に預かっている、ということだ。
だからといって非難するだけの気力もなく、凪人は数口でアンパンを食べきってしまった。
それを確認したところで養護教諭が話しかけてくる。
「この症状初めて?」
「あ、いえ。何度も経験しています。最近はあまり症状が出なかったので通院していなかったんですけど、今日は久しぶりにきつかった」
昔からの症状で慣れてきたとは言え、胃の内容物を吐き出すのはやはり抵抗がある。
「起きられるようならもう大丈夫でしょうね。昼休みが終わったら教室に戻っていいよ。さっきまで職員室付近が騒然としていたんだけどもう落ち着いたはずだから。なんでも芸能人が来たとかで」
「へぇ、
「さぁ、なにかの取材かな? まるで蟻の巣をつついたようにあっちからこっちから生徒が出てきて大騒ぎ。嬌声を響かせて背伸びしてカメラ構えて凄かったよ」
「で、誰だったんですか?」
「それはね――」
コンコンと扉がノックされた。
「はいどうぞー」
自ら扉を開けに行った教諭は目を丸くした。
入ってきたのは教頭先生だ。教諭に目配せしつつ凪人に視線を向けてくる。
「黒瀬くん。もう具合はいいのかい?」
「大丈夫です」
布団を剥いでベッドを降りようとしたところを止められる。
「そのままで構わない。じつはお客さんが来ていてどうしても会いたいというんだ。さ、どうぞ」
教頭に促されて扉の向こうに隠れていた人影が姿を見せた。
(――あっ)
見覚えのあるスカートを履いている女生徒は今朝会った少女に違いなかった。黒髪のウィッグをかぶっている。
目が合うとにっこりと微笑まれる。ごくごく自然でそれでいて皺が寄らない絶妙な目尻と頬骨のあがり方を見ていると、顔の筋肉がよく訓練されているなぁと感心させられた。
「どうぞ中へ。いいかね黒瀬くん」
後付けで凪人に了解を得る教頭は心なしか口元がゆるんでいる。
「今朝痴漢から守ってくれたということで、お礼を言いたいそうなんだ」
(痴漢?)
予想外の単語が出て戸惑っているうちに少女が頭を下げた。
「失礼します。私、
体の前に両手を揃えて深々と頭を下げるアリスはいかにも育ちのよい令嬢といった雰囲気で、傍らで見守っている教頭たちも感心したようなため息を吐いた。
そんな空気を察したのだろう、
「あの、凪人さんと少しお話をしたいのですが」
と切り出して大人たちに視線を向けた。
「おぉそうか。では我々はこれで。帰りに職員室に寄ってください」
「じゃあ黒瀬くん、がんばって」
扉が閉まるのを確認したアリスは凪人を振り返った。その顔に先ほどまでの笑顔はない。それどころか親の仇でも見るような凄みのある顔をしている。
「……さて、と」
ランウェイを歩くようにつかつかと近づいてきてそのままベッドに乗り上げてくる。
「あの……聞き間違いじゃなければお礼に来たんですよね」
お礼参りの間違いでなければここまで迫られる理由がない。
「あぁ今朝の? 逆に人前でウィッグとられたこと謝ってほしいくらいだけど」
「そうですよね……すいません……」
「――なんて冗談冗談」
体を引いたアリスは本気で謝罪して欲しいわけではないらしく、黒髪の毛先をくるくると絡めて遊んでいる。
「やんなっちゃうのよね、いま変な奴に追いまわされて。事務所あてに写経かってくらいびっしり書かれたラブレターや私服姿の盗撮写真とか大量に送られてくるの。しかも私のプライベートのことまでバッチリ知られてる。所謂ストーカーよ」
「なんだか大変そうですね」
しかし事務所とはなんだろう。
「だから相手の目印になるような髪とか服とかアクセサリーを変えて様子見していたんだけど、ウィッグで髪色を変えたのもバレていたから家も見張っているみたいで」
「じゃあ今朝ホームで背中を押したのは」
「たぶんそいつ。顔は見た?」
「いや、人が多かったから」
「そっかー手がかりになればと思ったんだけど」
「ごめん」
あからさまに残念そうなアリスを見ていると申し訳ない気持ちになってくる。もう少し注意深く見ていればストーカーの人相を確認できたかもしれない。
「どうして謝るの? さっき言ったことは忘れてよ。あなたは命の恩人なんだから胸張っていいのに。私が死んだらどれだけの人が哀しむと思う? はい凪人くん答えてみて」
教師のように人差し指を突きつけてくるが、死んだとき哀しむ人数を応えよと言われても。
「家族と近所の人、あとは学校や幼稚園の同級生やその保護者くらいだから……多く見積もって百人くら」
言い終わる前にアリスが前のめりに迫ってきた。
「は? 少なすぎるでしょう!? ファンクラブ会員だけでも三千人いるのよ。私のこと誰だと思ってるの?」
誰だと言われても。
「――だから兎ノ原アリスさんだよね。そう名乗ったじゃないか」
「だから私はアリスなの。A-L-I-C-E……Alice(アリス)」
言いながら黒髪のウィッグを取り払った。ヘアネットとピンも外すと彼女の地毛であるミルクティー色の美しい髪がなびく。
ターコイズブルーの瞳がこれ見よがしに輝いて凪人を見つめてきた。
「ほら。ほらほらほら見覚えあるでしょう?」
「……………えぇと」
ここまでの会話でどうやら彼女がただの一般人でないことは薄々察しがついていた。しかし肝心の『Alice』が分からない。
しかしアリスは諦めずに詰め寄ってきた。
「ハイティーン向けの『Emision(エミシオン)』って雑誌知らない?」
「Emision――悪いけど女性向けの雑誌は見ないから」
「じゃあネットは? 高校生ならスマホでいくらでも見られるでしょう」
「スマホは高いから持ってないんだ。自宅にあるパソコンは親と共有だから見るのはニュース記事と決まったサイトくらいだよ」
「じゃあAちゃんねるも知らない? ネットの動画配信番組なんだけど」
「それなら今朝中学生が話題にしていたよ、おれは観たことないけど」
アリスの顔がどんどん険しくなる。
旬な話題に疎いことは凪人も自覚していたが、どちらかと言えば「避けている」面が強い。しかし実生活で困ったことはなく、またこんな風に相手を残念がらせることもなかった。
「……はぁ。私の知名度もこの程度か」
肩を落とすアリスは明らかに落胆した様子だったが、自分の努力不足を自覚しているようだった。そのままゴロリと横になり、猫のように体を丸くする。
「なにしてるの?」
「悔しいからふて寝」
意味が分からない。
凪人の戸惑いなど意に介さず自宅のリビングにでもいるようにくつろいでいる。このまま占領されてはベッドから降りられない。
困った。
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