亜獣譚二次創作コンペ参加作品
阿部ひづめ
純情はいらない
すこし冷えこむ夜だった。ノピン陸軍害獣駆除科の兵が生活する男子寮も、寒々しく風に吹かれている。
その中にある、一室。
殺風景な廊下を、はだしのつま先が、ぺたりぺたり、歩いていた。
「お風呂、いただきました。ありがとうございます」
ベッドに腰かけていたアキミア・ツキヒコは、顔をあげた。湯上りのホシ・ソウが、ほほえんでいた。シャツワンピースのえりから、桃色の肌がのぞく。かすかに湯気がたっている。鼻先を、せっけんの香りが通りすぎた。
「湯冷めしますから、こっちにどうぞ」
横にすわるよう促すと、彼女はしとやかに腰を落ちつけ、
「なにを考えていらしたんですか?」と、たずねた。
「なに、とは?」
「物思いにふけっているようでしたから」
アキミアは、太い指をあごにかけた。
「そう見えましたか」
「ええ」
ソウは、にこりとして、
「貴方は、いつもそうですけれど」と、つけたした。
「オレは、思索にふけるような人間じゃありませんよ。結局、そんなことは無意味ですから」と、ひねくれたことを言う。
彼女は、慈愛深くほほえむだけである。
実際、アキミアが考えていたのは、恋人のことだった。シャワーがタイルを叩く音を聞いて、なまめかしい湯浴み姿を妄想していた。その延長で、さらにくだらないことを思いかえしていた。
―――—親に彼氏はできたことないって言ってたけど、高校生の時に男の子とキスしたことがある。
甘い夜。枕に頭をあずけた彼女は、そう話した。少女らしいまばたきをして、アキミアを見つめた。
へえ、悪い子ですね。彼は、ニヤニヤ笑った。
ええ、悪い子なんです。彼女も、くすくす笑った。
そのときは気にも留めなかった。彼女の一番最初の口づけを奪った相手が、この世界のどこかにいる。今更ながら、そう気づいただけの話だ。
ソウはテレビを観ていた。口が、わずかに開いている。形のよい唇だ。厚すぎず、薄すぎず、アネモネの花弁に似ている。
「キスって、野蛮ですよね」
「はい?」
きょとんとする。
「どうしたんですか、急に」
「いえ、口と口を合わせるなんて、よく考えれば、なかなか狂気じみた行為だな、と思いまして」
害獣の巨大な口を思いうかべる。禍々しい牙の並ぶ口内は赤く、地獄の中のようである。自分もアレと似たようなものだ、とアキミアは思った。
「特に、貴女は、なかなか狂気じみていることがありますよ」
「どこが?」
「噛みつくじゃないですか、オレに」
「でも、それがうれしいでしょ?」
彼女は、頬に華奢なひとさし指をあてた。聖女の口元に媚態がうかぶ。
「もちろん、うれしい」
彼女の肩に、腕をまわす。身体の芯が、じわじわと熱くなっていた。いや、シャワーの跳ねる音を聞いていた時分から、たまらない気持ちではあった。
「でもさすがに、ファーストキスは、噛まなかったでしょう?」
冗談をとばしながら、やさしく押したおす。見下ろした顔が、固まっていた。
「……どういう意味ですか」
冷たい目が、アキミアの動揺した顔面に刺さる。
「いえ、どうというわけでもないんですが」と、視線を泳がせる。
「ほら、ファーストキスは高校生のときだって、言っていましたよね」
うろたえる恋人に、彼女はあきれ顔をつくった。
「わたし、誰彼かまわず噛みつくわけじゃないですよ」
ふい、と横をむく。シーツに白金の髪が散らばった。
「ツキヒコさんだから、噛まざるをえないんです」
「ええ、分かっています」
彼女を汚らしい欲望の渦に落としたのは、ほかでもない自分である。そのことをアキミアは、よく承知していた。
そっぽをむく顎をつかみ、口づけを落とす。噛みついてくるかと思ったが、おとなしく受け入れるがままだった。その従順さが、かえって心に暗雲となって落ちてきた。
淡い口づけを、他の男とした。それが、彼女の初めての記憶なのだ。そういう事実が、まざまざと感じられた。
「……ツキヒコさん?」
心配そうな目に気付き、我にかえる。急いて、今度は首元に唇をおとす。湯上りの肌は、湿度をたもっている。ようやく調子がもどってきた。
ソウが、アキミアの後頭部を抱いた。ふっくらした乳房の中心から、くぐもった心音が聞こえる。再び口づけをする。今度は深く。舌の動きがこわばる。
目が合う。どちらからともなく離れる。
「ほんとうに、どうしたんですか」
ソウは、姉のような表情で男の頬をなでた。
「いえ」
アキミアは、そうとしか答えられなかった。なにをくだらないことで、そう一蹴する気概を、温かい肉体にむける。
がばりと覆いかぶさり、下へ下へと動く。うめき声がする。ぬるい焦燥の裏側に、知らない過去がある。
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