タケルはメグを避ける

「ほんと、いい加減にしてよね」


 朝一番から、メグの叱責を受けた。母親はタケルを恐れ、父親はどう接してよいのか分からぬらしく、両親との関わり合いは薄い。その中、タケルが家を飛び出さずにここにいる唯一の理由が、メグであった。口うるさく、ずけずけとものを言う妹であるが、昔は大人しくて泣き虫で、よく苛められて泣きながら帰ってきたものであった。

 そういうとき、タケルは、いつも慰めてやった。



「大丈夫だよ。俺が守ってやる。だから、泣くな」


 いつも、そう言って聞かせ、涙を拭いてやっていた。

 しかし、ある日、メグがひどく落ち込んで帰ってきたことがあった。いつもなら、タケルに慰められれば、メグは落ち着きを取り戻すのだが、このときは違った。


「お兄ちゃんは、わたしを守るって言いながら、いつも、泣くわたしを宥めるだけ。面倒くさいのよ。わたしが騒ぐのを、うるさいと思っているのよ」

「何言ってんだ。そんなことない」


 このとき、タケルはまだ中学二年生。今でこそ荒れた生活を送っているが、このときはまだヒップホップも喧嘩も知らぬ、ただ気の強いだけの子供であった。


「じゃあ、守ってよ。わたしを」

「落ち着けよ。何が、あったんだ」


 詳しく、事情を聞いた。聞いて、タケルは、黙った。気まずい沈黙が、兄妹の間を流れた。


「――もういい」


 メグは真っ赤に腫らした瞼をぷいと背け、部屋に戻っていった。タケルはその背をじっと見、考えた。守ってやりたい。強くなりたい。事情を聞いたところで、言葉をかけてやることも出来ない。メグの言うとおり、ただ妹が泣いているということを面倒がり、それから身を避けるため、優しい言葉をかけて済ませていたのかもしれない。

 何か、してやりたい。しなければならない。だが、何も出来ない。そうして思考の連環の中に自らを誘い、変換するという作業を続けた。そうするうち、思考の中の演壇にタケルの知らなかった自分が現れ、得々と論説を始めた。


 その音節の切れる度ごとに、タケルの中で何かが芽生えた。朝になる頃には見事に、眼の下に深い隈を作っていた。


「ご飯は?」


 父親が観るニュース番組から眼を背け、母親を無視し、タケルは家を飛び出した。

 親父もお袋も、何をしているんだ。

 そういう怒りが、身体の中を駆け回った。メグが泣いているのに、父親はどうでもよいニュース番組に見入り、母親は飯を食えと急かす。あんなに大人しくて弱い妹が見えていないかのように、彼らは日常を過ごしている。そうすることが出来るという神経を、疑った。


 俺は、違う。そのことを、証明したかった。



 メグはこのときから既に優秀だったから、私立の中学に通っていた。家から少し離れているから、朝は早い。

 そのメグの後を、タケルは追いかけた。寝巻として使っている、スポーツメーカーのジャージ姿のままで。

 雨だった。歩道を打つ冷夏のそれを打つコンビニ傘が煩わしくて、捨てた。捨てて、駆けた。


「メグ!」


 追いついた。駆け通しだったから、息が上がっている。


「お兄ちゃん?何してるの」


 驚くのも当たり前だろう。朝が苦手な、学校の違う兄がいるはずのない通学路を、駆けてきたのである。


「お兄ちゃん、だって。だっせぇ」


 笑う声。見ると、メグの学校の制服を着た男子生徒であった。数人で徒党を組み、メグとタケルを指差し、笑っている。髪型も派手で、洒落た着崩し方をしたポロシャツが、鼻に付いた。

 これが、いつもメグを苛めている連中。

 タケルの頭に、血が上った。


「お前らか。うちの妹を、いつも泣かしてるのは」


 男子生徒が、笑ったままの顔を緩めた。


「夏川の兄ちゃん、マジギレじゃん」

「やっべえ、お前、謝れよ」


 またげらげら笑った。それを見て、なおタケルは苛立ちを強めた。両親と、同じだ。メグが泣いているのに、あの二人は、どうして笑っていられるのだろう。仲は、よくない。父親はどうやら他にも女がいるようだし、母親はそのことを追及することに疲れているらしい。家にいるときは、お互いストレスを感じたくないとでも思っているのか、当たり前の会話を交わし、必要な対話はかわし、ただ自分が平穏であるために必要なことにだけ気を回し、守っている。


「――お兄ちゃん、やめて」


 メグが心配そうに、タケルのシャツの袖を掴んだ。彼女の傘がかかり、雨が当たらなくなった。

 それが、どうした。もともと、濡れている。メグを振り切り、ジャージのラインを残して、踏み出した。眼の前の男子生徒も、同じだった。何がおかしくて、笑っていられるのか。何が面白くて、メグを泣かすのか。父と母がたまに喧嘩をする度、それを見たメグは泣いた。わたしのせいかな、わたしが勉強を頑張らないからかな、とその度に自分を責めた。

 何もかもが、気に食わない。そして、それに対して何も出来ない、自分のことも。


「群れ集まって、キーキーうるせえよ、てめえら。猿か」


 吐き捨てた。


「やっべ、超こええ。極道だ、極道兄貴だ」

「小指取られるぞ、逃げろ!」


 そう騒ぐ一人の顔面を、殴り倒した。


「ブッ殺してやる!」


 殴り倒してから、叫んだ。あとは、タケルの怒りが向く方に向かい、暴れるのみであった。盛りの付く獣のようになったタケルの頭上を、他の生徒の悲鳴が飛び交った。



 学校近くで起きた暴力事件。警察も来て、両親も呼び出されて、さんざんな有様だった。男子生徒らの怪我は軽く、相手方の両親がメグへの苛めを認め、互いに謝罪するという形で事は収まった。


「全く。何てことをしてくれたんだ」


 夕方になってから雨は止み、それが蒸らすアスファルトを踏みながら、父親がうんざりしたような声を発した。それきり、何も言わず、憮然として母と共にメグを連れてタクシーに乗り込み、帰宅した。タケルは、そのタクシーには乗らなかった。



 父親の言葉が、頭の中で悪い呪文のように巡った。メグが泣いているとき、何をした。そう言ってやりたかった。しかし、話すだけ無駄だと思った。母親は、何も言わなかった。苛めを受けている娘と、その報復に出た息子に対して、ただ黙るしか出来なかった。

 自分は、違う。少なくとも、そう思っていた。それを、証明したかった。だが、それも、このような大事になってしまい、かえってメグを傷付けたかもしれないと思うと、暗澹たる気持ちになった。



「――お兄ちゃん」


 呼ぶ声がして、タケルは歩きながら伏せていた眼を上げた。向こうから、メグが駆けて来ていた。何の用があるのか、と思った。


「戻って、来た」


 そう言って、メグは可愛い目を少し細めた。今はいい。今は、その目はいらない、と思った。代わりに、罵声を浴びせてほしかった。何てことをしてくれたの、と。お兄ちゃんのせいで、ひどい目に合った、と。

 だが、タケルの期待は、裏切られた。


「ごめんね、お兄ちゃん」


 メグが、困ったような顔をして、言った。タケルは、自らの中で何かが崩れそうになり、慌てて気を保った。雨上がりの曇天の下、タケルの街では有名なファミレスチェーンの本店のある大通りの喧騒に、追い越された。立ち止まる二人を、自転車が、迷惑そうに睨み付けながら、過ぎ去ってゆく。その全てに逆行し、メグは戻って来たのだ。そして、言葉を継ぐ。


「わたしのせいで。わたしが、泣いてばかりだから。お父さんもお母さんも、何も言わなかった。だから、お兄ちゃんは、わたしの代わりに――」

「うるせえな」


 タケルが、そっぽを向いて答えた。


「お前には、関係ないだろ。気にいらない奴がいた。だから殴った。それだけのことだ」


 それは、わざわざ家を飛び出し、学校を放り出してメグの後を追い、彼女を苛める男子生徒に食ってかかり、大喧嘩をしたことについての説明にはなっていない。自分でもそうと分かっていたが、タケルは、そう言うしかなかった。

 守りたかった。自分は、メグの味方で、いつも心配して、気にかけている、と証明したかった。しかし、それをすれば、メグはきっと、自分のせいで兄にそれをさせた、と嘆くに決まっている。だから、タケルは、その本心を明かすわけにはいかなかった。



 結局、メグは学校には居られなくなり、公立の中学に転校する羽目になった。父や母がタケルを見る眼が、それで更に冷ややかになった。タケルもまた学校の中で、暴力事件を起こした人間としての眼に晒され、教師やクラスメイトとの距離を自然と取ることになった。

 昼間の日差しの中で、タケルを認める者はいなくなった。だが、メグは、この事件と転校をきっかけに、内気な性格を押さえ込み、明るく降る舞うようになった。転校してきたタケルの通う学校でも、クラスメイトと上手くやっているらしい。ろくでなしの兄のせいで転校させられた、可哀想な優等生として、教師も親身に接した。


 それでよかった。タケルは、あのとき自分がした行動に、意味があると感じることが出来た。意味などないということを知りながらも、感じることが出来るだけ、ましだと思うことにした。


 それから、メグは、タケルにことある毎に突っかかって来るようになった。口うるさい母親のようになって、兄の行動を監視し、諌めるようになった。

 兄が、どんどん日向から日陰へと逸れてゆくことに、何か思うところがあるのかもしれない。自分さえ、しっかりしていれば。そう思っているのかもしれない。


 お前には、関係ないことだ。俺が落ちこぼれなのは、俺が駄目な奴だからだ。タケルは、メグの心のうちを感じる度、そう言ってやりたくて、なお悪さに手を染めるようになった。不思議と、喧嘩をしても負けなかった。盗みなどはしたこともないし、煙草も飲酒も葉っぱハーブもやらない。しかし、同じような思いを抱く人間といつの間にか出会い、言葉を交わすようになり、彼は日陰から夜へとその足を踏み入れた。



 どう思われてもいい。怒るなら、勝手に怒れ。

 俺がどうなろうと、お前のせいじゃないんだから。

 勝手に、心配してろ。

 お前にゃ、関係ない。


 そう思いながら、手入れが面倒だからとツイストパーマを当てた長い髪を垂らしてスポーツメーカーのトレードマークである三本ラインを帯びたタケルは、メグに答えた。


「うるせーな。何時に帰って来ようが、俺の勝手だろ。起きて待ってんじゃねえ。嫁かよ。気持ち悪ぃな」

「悪かったわね。たった一人の、大事な大事なお兄様ですから。そりゃあ、心配にもなるわ」

「やめろ、気色悪い」

「ふん、ろくでなし」

「なんだよ、ガリ勉」


 タケルはぷいとそっぽを向き、玄関の方へ。


「どこ行くの?」

「学校だよ」

「あれ、珍しい。今日、槍が降る日だっけ」

「うるせーな」


 鞄も持たず、玄関を出た。

 どうして、学校に足を向けるのか、分からない。昔のことを思い出したからというのもあるだろうが、本当のところは、自分が一番よく知っている。徹頭徹尾、タケルとは素直ではないのだ。

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