ACT.2 ホワイト・ゴースト(月光)

〇このお話に登場する飛行機 (運用者・開発者)


 ・二式陸上偵察機・「月光」(日本海軍・中島)

 斜め銃を装備して重爆迎撃で名を馳せた転生夜間戦闘機。転生以前、二式陸偵時代は南方戦線で専ら偵察・爆撃に従事していた。彗星とは一時二式偵察機コンビを組んでいたが、夜の本土上空で再び共闘することになる。


 ・「彗星」一二戊型(日本海軍・海軍航空技術廠)

 艦爆型の後席後部に斜め銃を一挺装備して照準器を光像式に取り替えた夜間戦闘機型。一二型以来の、主に燃料噴射装置に起因するエンジン不調、非力なバッテリーとモーターによる主脚の出し入れ不全は依然ついて回った。


 ・B−29「スーパーフォートレス」(アメリカ陸軍・ボーイング)

 スーパーチャージャーの化身。(成層圏で)吾に追いつく日本機無し。高高度なら偏西風に身を任せて東京上空を素通りできたのに、ルメイ少将の爆撃戦術のせいで日本軍の迎撃高度に突っ込むことになってしまった。でもそれで戦果を上げたのも事実。


 ・F6F-5N「ヘルキャット」(アメリカ海軍・グラマン)

 F6F-5の右主翼端にAN/APS-6レーダー入りのフェアリングをなじませた夜間戦闘機型。空戦性能抜群の単発機にレーダーをつけてしまえば最強の夜間戦闘機ができあがるのでは?と思われたが、たった一人で機体の操作とレーダーの操作を同時にこなせる曲芸師はさほど多くはなかった。


 ・TBF「アヴェンジャー」(アメリカ海軍・グラマン)

 F4Fに爆弾槽と銃座をつけて4人乗りにしたらこうなった。巨体単発機ながら型によっては急降下爆撃もこなす。初期型こそ4人乗りだったが、1C型の途中からキャノピーの真ん中の席には偵察員ではなく無線機を乗せるようになった。そしてその無線機を操作するのは尾部席に乗る通信員である。






(以下本文、18000字くらいです。)

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 伝説というものは、往々にしてその目撃者、あるいは目撃を錯覚した者の恐怖や焦燥による誇大を大いに含んでいる。したがって伝説として語られる存在そのものの実態は決して現実離れしたものではなく、魔力も強大な力もなく、至って凡庸で、ともすれば非力ですらある。そんな空虚な伝説など珍しくもない。むしろ世に流布する伝説の大半がその類に過ぎないのだろう。

 語られる側にとってみれば決して面白いものではない。

 伝説を信じていた人間と顔を合わせた時、私たちは彼らの落胆につきあってやらなければならないのだ。

 私たち。

 そう、私もまたそうした謂れのない伝説に祭り上げられた存在の一分だった。


 一九四五年四月、香取飛行場。私はアラート待機を終えて一服しようと煙草を取り出したところだったが、ピスト(搭乗員待機所)に整備隊の主任が入ってきた。基地を管轄する乙航空隊のトップだ。

 普段ピストに出入りしているのは専ら飛行隊(甲航空隊)の人間なので、何事かと思った。他の搭乗員も身構えている。室内の空気が一瞬張り詰める。

「松原大尉は居るか」主任は扉を開けたまま戸口で訊いた。ピストの中は暗い。しかも自分で光をしょっているから余計に人の顔が見えないのだ。

「ここに居ります」私は立ち上がって答えた。眠気で体がやや左に傾くのを感じた。

 主任は一度頷いて、私の顔を見たまま片足を外へ出して半身に構える。ついてこい、という合図らしい。

 私は階段を上って主任の後を追った。朝日が目に染みる。サングラスを出して弦を伸ばす。

 エプロンの列線にアラート待機の彗星と零戦、ついでに月光が誇らしげに並んでいる。彗星は夜間迎撃用で、いずれも旋回銃座を取り払って代わりに二〇ミリの斜め銃を一挺据え付けた夜戦型。零戦は基地上空の哨戒用で、いたって普通の五二型、あるいは五二型甲/乙だった。月光は背中に段のない完全新造の夜間戦闘機型。去年の十月に生産終了してしまったので最近は専用部品の供給が滞っている。古い機体から部品取りにして若い機体を生かしているのが現状だった。可動機はもう数機しかない。

 警戒網の整備が進んでいる首都圏の飛行場では何の前触れもなく敵が上空に現れることはまずないから、隠すより早く離陸させることを考えて並べている。九州や南方に比べれば緊張感に欠けると言われても仕方がない。

「月光について二,三答えてほしい」主任が言った。

「は、何でありましょう」

「いや、俺ではなくて」主任は背中を向けたまま肩を竦めた。「茂原に出掛けていた連中が帰りに捕虜を拾ってしまってな」

「捕虜?」私は半分口の中で訊き返した。

 主任もその呟きは質問ではないと受け取ったらしい。それ以上説明はしなかった。

 司令部に入る。作業着に小銃だけ担いだ整備員が廊下に立っているので場所はすぐに検討がついた。窓のない倉庫だった。奥に長い四畳ほどの空間に椅子が二脚。一脚は部屋の奥にきっちりとこちら向きに置かれ、そこに米軍の捕虜が座っていた。ひどく汚れた飛行服のまま、ライフジャケットの類は身に着けていない。できるだけ体と脚をを伸ばして座り、首をこっくりと垂れている。眠っているのかもしれない。亀の子たわしのような色の髪が汗で濡れて白い額に貼り付いていた。

 扉のすぐ横、もう一脚に宇兎山うとやま少尉が座って捕虜の様子をじっと観察している。

 私はごく短い溜息を吐き出した。

「お前が呼んだな」私は宇兎山に言った。

「ええ。月光のことなら松原さんでしょう」宇兎山は捕虜から目を離さずに答えた。「B‐29の機銃手らしいですよ。軍曹だか、とにかく、下士官です」

 整備主任が部屋の中から扉を閉める。

 話し声に反応して捕虜が顔を上げた。そしてぼそぼそっと何かを言った。

「また言ったな。こいつ、白い月光のパイロットは居ないかって、何度も訊くんですが、どうも、ホワイトゴーストってあだ名がついているらしくて」と宇兎山。私より遥かに英語の聞ける耳をしている。

「ふうん。その、ホワイトゴーストっていうのは、いったいどんな飛行機なんだ。本当に月光のことなのか?」

 宇兎山は私の質問を英語に訳した。といっても彼だってさほど喋れるわけじゃない。私には英語は理解できないが、彼の英語がたどたどしいのは十分わかる。

「確かに月光だったと言ってます。アーヴィングというのが向こうで言う月光のあだ名なんですが」と宇兎山。

「白いのか?」私は訊いた。

「白い、と言ってます」

「探照灯の光が当たって白く見えただけだろう」

 宇兎山が訊くと捕虜は何度か強く首を横に振った。否定だ。

「わからないな」私は言った。「月光は裏も表も緑に塗ってあるからな。見間違いとしか思いようがない。あるいは陸軍の屠龍にはそういう塗装の機体もあるのかもしれないが、少なくとも、この基地の所属機ではないな」

 宇兎山が伝えると捕虜は不満げに肩を落として一言またぼそっと吐いた。

「こいつはそのホワイトゴーストに撃墜されたのか」私は宇兎山に訊いた。

 捕虜はその質問には今までになく協力的だった。自分の手で飛んでいるB‐29を示して、逆の手の人差し指をその飛行機――ホワイトゴーストに見立てて航跡を示した。

 決して筋道の立った説明ではなかったが、まとめると次のような流れになる。

 その夜、彼らB‐29の編隊は例によって複列の単縦陣で東京を目指していた。高度三五〇〇メートルで陸の上空に差し掛かって間もなくサーチライトの光線が空を薙ぎ始める。高射砲弾の爆発が耳を打つ。

 灯火を消した日本軍機は依然上下から忍び寄ってくるが、味方の高射砲に撃たれるのを嫌って攻撃の手を緩める。

 その時上空に白い機影を見つける。

 夜空に張り付いたような白い影がいつの間にかそこに存在している。まるで時空の狭間を破って現れたかのようだった。その双発機はしばらく彼らを襲うこともなく静かに上空で並航していた。

 B‐29には銃手の席が機首、上部、左舷、右舷、尾部と五つあるのだが、上部銃手の彼は丸い天窓から上空を警戒していた。だからその様子は独り占めするくらいにはっきりと見て取れた。

「ホワイトゴーストだ」尾部銃手が言ったのが伝声管から聞こえた。

 彼は尾部銃手に従ってその機影に照準を合わせた。

 周りの列機からも同じ目標に向かって火線が伸びているのが見える。

 しかし射程距離を超えているのか全く当たらない。

 当たらないとわかっていても撃たなければ気が済まない。撃たなければ自分が狙われる。獲物にはなりたくない。その心理は列機の銃手たちも同じらしかった。

 相手は回避機動も取らずに悠々とまっすぐ飛び続ける。

 サーチライトが雲の底を舐める。

 B‐29を捉えた光線は岩にぶつかった滝のように二つに分かれる。

 その一筋が白い双発機に近づく。

 光線の中に機体がすっぽり収まる。

 そして光線は通り過ぎる。

 しかしそこに双発機の姿はない。直進していたはずの機影が消えている。

 ふと列機の火線が自分の飛行機を指向していることに気づいた。

 いや、自機ではない。自機の腹の下に潜り込んだ敵機を狙っているのだ。

「下だ、下!」彼は叫んだ。

 それはもう左右の銃手もわかっていた。必死に顔を窓に押し付けて機体の後下方に下部ターレットを指向する。

 しかし遅い。右主翼が火を噴くや否や、そこで主桁が折れて飛行機全体が二つ折りになったような具合に墜落し始めた。

 最後に窓から周りの様子を窺うと自機とほぼ同じタイミングで火を噴いた列機が二,三機見えた。防御機銃の火線を引き連れたまま白い双発機が自機の横をすり抜けていくのを間近で見た。降下加速で離脱していく。真っ白い翼に二つの日の丸。前後に短いひとつながりのキャノピー。それは屠龍ではない。

 月光だ。確かに月光だった。

 乗員は全員脱出したが、機体の姿勢があまりよくなかったから遅れたのもいた。風のせいで脱出が早かった方ほど落下傘が流されて着地点がばらばらになってしまった。

 そこで話が終わったので私は思ったことを言った。

「別にその一機の戦力が部隊を壊滅させたわけじゃあるまい。さしずめ照準が集中している隙に他の機もタイミングを合わせて突っ込んだんだろう。まともな集団戦術だ。21BC(第二一爆撃集団)のような大戦力を持っている部隊がたった一機の飛行機を恐れるとも思えないが」

「戦力だとか、そんなものは指揮官の算用であって、飛行士一人一人にとって神出鬼没の敵機というのはたとえ単機でも大変な問題だと」と宇兎山。彼は次第に捕虜の口調をまねて翻訳するようになっていた。

「基地でも噂になっているわけか」

「もちろん。はっきり見えてるのにいつの間にか死角に潜り込まれているのだから、傍から見ているだけだって恐いだろう。新型の迎撃戦闘機だとか、中国戦線以来の大エースが乗ってるとか、いろんな話を聞いた。どうせ出撃するなら東京より九州に行きたいってみんな言ってた、と」

「なるほど」私はそう言って整備主任に視線を送った。

 主任は頷く。もう十分、という合図だった。

 私は部屋を出る。宇兎山も整備隊の一人と入れ替わりに廊下に出てきた。

 彼は十期予備学生の出身で、もともと早稲田の文学部にいたという若者だ。私も士官とはいえ、兵学校の出ではない、いわゆる特務士官だったから、予備学生出の士官たちとは訓練でも宿舎でも何かと親交を持っていた。歳の離れた先輩のような役回りだ。

 私は外に出たところでずっと指に摘まんだままだった煙草に火をつけた。あの捕虜はじきに憲兵が迎えに来るだろう。

「上手くシラを切りましたね」宇兎山が言った。

「言葉が通じないのに上手いも下手もないさ」

 古い電柱の上に括りつけられた拡声器がピィーっと耳に痛いハウリングの音を立てた。

「木更津より入電。B‐29イチ、東京方面から東進中。高度一万メートル以上」

 東京方面とはなんだ、東京方面とは。

 サイパンの21BCが夜間の絨毯爆撃に切り替えて以降、B‐29編隊は相模湾から北上して太平洋に抜けていくのが主だったが、偵察機は依然として偏西風に乗って高速で成層圏を駆け抜けていくのが普通だった。いつも通りなら静岡あたりでレーダー網に引っかかるのだが、今日は雲が厚いせいで電波が遮られたのかもしれない。ともかくこうなると今さら迎撃を上げたところで絶対に追いつけない。

 私は二、三口がっぷりと煙草を飲んでから吸殻を踏み潰してエプロンの方へ走った。アラート機はおそらくまだ燃料を抜いている途中だ。列線に並んだままだろう。

 格納庫の裏手を突っ切る。列線に月光が一機並んでいるわけだが、色はもちろん上下面とも暗い緑色である。

 地上員が機材を持って機体の周りに取り付いている。やはりまだ作業中だった。

 雲間に機影がちらっと見える。肉眼では銀色に輝く点に過ぎないが、偵察機だ。撮影用の望遠レンズを積んでいるだろう。見られたからといって必ず攻撃目標に指定されるわけでもないが、それでも戦力を見られないに越したことはない。

 ピストにいた搭乗員たちが出てきて自分に振られた機体に向かって走っていく。整備分隊も集まってきた。月光の他に彗星が三機、零戦が四機並んでいる。

 月光に走ってきた人手に「こっちはいいから、とりあえず零戦と彗星を引っ張ってくれ」と言いつける。このタイミングなら飛び上がるより隠した方が早いだろう。しかし双発の月光は重い分押すのに人手を使うし、主翼も高いので押しづらい。後継機の彗星の退避を優先するのが道理だ。二、三人尾部について持ち上げ、総出でプッシュバックを進める。

 しかし格納庫の前でもたついてなかなか収容が進まない。

 B‐29(F‐13)が上空を通過する。真上ではない。向こうからはやや左手にこの基地が見えるはずだ。私は月光の翼の陰の中に入って銀色に輝く点を見上げた。まるで渡りをする白鳥のように悠々と飛んでいく。

 整備分隊もかなりの人数を動員したが、結局アラート機の格納はまだもう一息のところだった。彗星一機が格納庫からはみ出した状態、もう一機がそれを待っているような具合だった。向こうがこちらに注目していたら、エプロンに双発機一、単発機二とカウントするだろう。滑走路のエンドに木製の囮飛行機が置いてあるので基地全体ではもう少し増えることになる。

 撤収を済ませたあと、私はエプロンを北へ抜けて環状につながった誘導路の内側の畦道を突っ切っていった。周りには誘導路に沿って掩体壕の小山が並んでいる。利根川の広大な後背湿地に位置する香取基地の一帯にはろくに稠密な林が存在しない。飛行機を突っ込んで隠すのに適当に自然地形がないから掩体壕を建てなければならないのだ。

 誘導路の一角にまだ壕が建っていないコンクリート敷きのスポットが見えてくる。そこに月光が一機、堂々と駐機してある。やはり背中に段のないタイプ。排気管はハーモニカのような分散型に改造済み。機首にFD‐2レーダーの八木アンテナ四基。アンテナだけ残して送受信機を下ろしてしまった機体も多いらしいが、こいつはきちんと積んでいるし整備もしてある。

 そして何より色が暗い緑色ではない。白い。下面も上面も、カウリングまで白い。別の色が使われているのは識別用の赤い日の丸と主翼前縁の黄色帯、プロペラの褐色だけだ。

 そして日の丸も今は白い麻布で隠されている。麻布は前方が主翼前縁から垂れ、後方は尾部からさらに胴体長の半分ほど先までぴんと伸ばされて重石で地面に留められている。麻布は上から見るとちょうどコウモリの翼のように広がっているはずだ。

 そんなことをしているのは機体の下にできる影を隠すためだ。月光の機首はちょうど朝日の方角を向いている。したがって影は月光の後方に伸びることになるが、なだらかに伸びた麻布の裾が地面に接しているので、影はその下に隠れてしまって上空からは視認できない。操縦席の開口にも影ができるが、風防も別の一枚ですっぽり覆っているのでこれも目印にならない。

 私は内地勤務になる前は南方で偵爆をやっていたし、月光(二式陸偵)に乗る前は水偵で艦隊勤務をしていた。これは私の偵察員としての経験なのだが、高高度から真下にある地表を見ていると、飛行場に置いてある飛行機というのはまず影で認識される。地面と機体の色の違いでもないし、飛行機そのものの輪郭でもない。影だ。周りは太陽光が当たって明るいのだが、主翼の下には必ず真っ黒い穴のような影ができる。機数を数える時、それは影の数を数えているのだ。

 だから白いコンクリートの上で白い機体を隠すには影を消してしまうのが一番だ。布を広げるだけだから掩体壕に引き込むよりずっと手間がかからないし、十分な数のない掩体壕を他の機に譲ることができる。

 何度か実験してから一度他の月光に乗って上空から確認してみたことがあるが、白い機体は綺麗に消えていた。そこに物があるという気配さえ私にはほとんど感じられなかった。逆に言えば、コンクリートの地面というのは上空から見るとそれくらい白く見えるものだった。

 機首の下に国吉が立っているのが見えた。他の整備員や地上員たちは翼の下に隠れたりスポットの外側の茂みに潜り込んだりしていた。

「上手く隠せたか」私は歩きながら声を張って訊いた。

「ああ、はい。三十秒もかかりませんでしたな」国吉は腕を組んだまま答えた。

 国吉上飛曹はよく私と組んでいる操縦員だ。ニューギニア以来の付き合いなので互いに気心も知れている。今立って私がわざわざ走っていかなくてもきちんとやるべきことやってくれた。生粋の偵察機・爆撃機乗りではなく中攻重視戦略の煽りで戦闘機から転科してきたパイロットなので空戦の腕も信頼できる。

 私は一応月光の周りを歩いて影ができていないか確かめた。試しにタラップを登って主翼の上から見渡したが、見事に真っ白だった。右側は翼端から水平尾翼にかけて張られたアンテナ線を避けるために支柱を突っ張っているのでそこだけややいびつな皺ができているが、あとはほぼ平滑。自分の陰が尾翼の方へ長く伸びる。まるで雪山に登頂したような具合だった。

 さて、あの偵察機はホワイトゴーストをカメラに収めることができただろうか。おそらく、写っている。でもそれを現像した時、そこに月光がいると気づけるかどうかはまた別の話だ。

 ホワイト・ゴースト――白い幽霊。

 幽霊といえば、見える人間には見えるし、見えない人間には見えないもので、足がないだとか、影ができないとか、そんな言い伝えがある。

 そう、影ができない。

 案外、それらしい渾名じゃないか。 

 主翼にかぶせておいた白い麻布を取り払う。麻布の下から他の月光より一回り小さい日の丸が現れる。機体色はよく見ると真っ白ではなくかなり薄いグレー、零戦などの下面色に白を混ぜたものだ。

 発端となったのは宇兎山の提言だった。大学でドイツ文学を学んでいた彼はドイツの戦況にも通じていて、ドイツの夜間戦闘機は白っぽい色に塗られているという情報を掴んでいた。数多の探照灯の光線の中で戦うとなると、敵味方の機上要員の目は瞳孔が閉じてしまうからどうせ闇の中では何色であっても視認しづらいが、光線の中に飛び込んでしまうと黒い機体はかえって悪目立ちする。そもそも夜空とはいえ月明かりや探照灯の輻射光で空が白んでしまう。それならいっそ白の方がいいというのだ。

 それは一理ある、と私も思った。探照灯に照らされた銀色の爆撃機はむしろ光芒の中に尾を引く影で視認するのだ。機体自体は光を反射しているからさほど目立たない。

 その話は私から飛行隊長、飛行長へと伝わって、試しに一機塗り替えてみろという命令が返ってきた。そうして部隊で塗料を調色して出来上がったのが真っ白な月光だった。

 この二か月ほど実戦で使って試した結果だが、隠密性についていえば残念ながら通常塗装の月光に劣る、という結論が出た。むしろB‐29のコンバットボックスからの火線は白い月光に集中する傾向がみられた。それは単に暗闇の中の白が目立つからでもあるだろうし、今日の捕虜の話を勘案するなら、「白い幽霊」なんて渾名を頂戴して目の敵にされているせいでもあるのだろう。全く迷惑な話だ。

 一方で味方高射砲の誤射、至近炸裂はめっきり減った。白地に日の丸としたことで地上からも味方機であることがはっきりと視認できるらしかった。そうして白い月光はむしろ「目立つ飛行機」としての運用に切り替わっていた。どうせなら堂々と飛んで囮役を引き受け、その間に味方に活躍してもらえばいいのだった。

 私は風防に被せた麻布を直してふと司令部の方を眺めた。かなり距離があるし間に宿舎などを挟んでいるので視界は通らない。あの捕虜は白い月光を目にしていないはずだが、麻布も横からの目には効果がない。連れ出す時にきちんと目隠しをしてくれればいいが……。

 滑走路からエンジン音が響いてきた。離昇出力の轟音だが、栄ではない。もっと重く滑らかな音だ。目を向けていると横空から派遣されてきた彩雲が北向きに飛び立って頭上を越えていった。アメリカの空母部隊の索敵に行くのだろう。


 昼夜逆転の睡眠をとって再び夕方、白米とアラメの炒め煮の夕食後にブリーフィング。その夜21BCが大規模な爆撃を仕掛けてくることは無線傍受から察知済み、八丈島のレーダーでも確認していた。

 各員担当機について燃料を注入し直す。エンジンを回す。月光の心臓、一対の栄の調子は悪くない。涎のように油を垂らしながらバタバタと軽快に回り始める。このオイル漏れがひどいので内地の月光は地上では大抵タイヤカバーをしている。操縦員は国吉、偵察員は私だ。

 私は配電盤のスイッチを入れて無線機を温める。ヘッドフォンのコードをつなぎ、送信と受信を切り替えて指揮所を呼び出す。受信に切り替えて待つと「感度よし」の返事。他の機体も次々と感度調整を始める。ちょっと賑やかなので音量を小さくしておく。

 ジャイロが安定するのを待ってタイヤカバーと車止めを外してもらう。国吉は座席を高くして前を見ながらスロットルを少し押し上げて機体に勢いをつける。

 タキシング、誘導路を渡る。誘導路は細いし曲がりくねっているから寝ぼけていると脱輪しかねない。国吉が操向に集中している間、私も立ち上がって周りを見ておく。双発用の掩体壕から通常の黒い月光が出てくる。一回り小さい掩体壕の前で彗星夜戦がプロペラを回している。アツタ特有の過給器の低音がよく響いている。主翼前縁の着陸灯を光らせて我々の月光に続く。

 一番のろい月光が一番先に発進する。片持ち式のキャノピーを閉じて支柱をロック、南向きに滑走を始める。

 尾輪が浮き、操縦席が水平になり、やがてタイヤの振動が消える。国吉は一七〇ノットまで水平飛行で粘ってから操縦桿を引いた。航続性能はピカイチなので上空で他の機を待つ分には何の問題もない。

 過給機のギアが切り替わってエンジンが息をつく。

 高度三五〇〇メートルで酸素マスクをつけてボンベの調子を確かめる。高高度装備の不調で戦列を離れなければならなくなることもままあるのだ。

 国吉が二基の栄をよく御しながら上昇にかかっている間、私はFD‐2レーダーの点検をしておく。操作盤で電源を入れる。直流変圧用と交流発電用のコンバータが回転して低く唸り始める。

 送信機と受信機の電源ランプを確認、スコープの電源を入れると座席正面に取り付けた指示機のブラウン管表面にじわじわと緑色の縦線(正中線)が浮かんでくる。その線はまるで油に揚げられるように絶えずぶるぶると震えている。電圧計を確認しながらスライダックのダイヤルを回して定格に合わせる。スコープの周りについた各種ダイアルで輝線の輝度を少し上げ、できるだけくっきりと映るように焦点を合わせ、正中線がしっかりスコープの真ん中に位置するように左右、上下の位置を合わせる。

 送信機のスイッチを切り替えて送信用空中線に通電、電波を発信する。FD‐2では直接波はスコープに映らないので画面の左右はまだ真っ暗だ。

 ただ雲が反射した反射波を受信用空中線が捉える。受信機がそれを増幅して指示機のスコープに映す。決して大きな反応ではない。正中線の中ほどが一層ぶるぶると震える。受信機の利得調整ダイアルを回す。感度を上げるとスコープ一面が緑色のびりびりした波で覆われ、感度を下げるとそれが消えて正中線がぴたりと静かな直線に変わる。

 南西に向かって飛びながら二十分ほどかけて八〇〇〇メートルまで上ってきた。他に通常塗装の月光が二機、そこへ彗星が着々と追ってきて左右についた。翼端灯の緑と赤が左右に交互に並んでいる。互いに見える距離、かつ接触に気を遣わない距離で緩い編隊を組む。光源のない暗闇ではさすがに白い機体はいい目印になった。

 彗星は四機。搭乗割より二機少ない。故障で引き返したのだろう。無線を開いて訊いてみると、一機がエンジン不調、一機が脚の格納不全だった。エンジンの方はスロットルが利かない、ブーストが上がらないという話だから、燃料噴射装置が悪いのかもしれない。気化器に頼らないアツタ特有の問題だ。脚の方も彗星ではよくある故障で、巻き上げに貧弱な電気モーターとバッテリーを使っているせいだ。

 七機のエンジン音が混じって低い唸りが生じている。

 数が揃ったところで足の速い彗星が前に出た。わざわざ頼むわけじゃないがレーダーの練習に付き合ってもらおう。

 距離は五〇〇メートル。やや下方に排気管の炎が見える。FD‐2は前方上下左右三〇度の円錐形視界を持っている。捉えるには十分な角度だった。実際レーダースコープに上下二本の横線が現れていた。ともに正中線から右側の方が少しだけ長く、下の横線の方が全体的にやや長い。これはターゲットが機体正面よりやや右下方に位置することを意味している。

「国吉、少し降下して彗星の真後ろについてくれ」私は伝声管に吹き込んだ。

 降下増速して彗星に真後ろから迫ると、二本の横線は同じ長さになった。左右も均等、上下の間隔はさっきよりずっと狭い。二本の横線の上下間隔がターゲットまでの距離を示しているのだ。

 さらに降下して後下方につくと、今度は上の横線の方が長くなった。ターゲットが自機正面より上方に位置している、という意味だ。

 そのまま降下を続けると二本の横線は萎縮するようにわなわなと短くなって消えた。彗星がレーダーの視界から外れたのだ。肉眼ではキャノピーの枠の奥に彗星の白い腹と翼端灯が見えている。正面以外の視界は結局のところレーダーには頼れない。

 国吉は少しばかりスロットルを開いて月光をもとの高度へ戻した。

 編隊飛行で南西に向かう。月明かりに仄暗く発光する雲が眼下を流れる。

 右五〇〇メートル、下方一五〇メートルほどのところに翼端灯の一団が見えた。機速、編隊の緊密さからして戦闘機だろう。我々をゆっくりと追い抜いていく。

 目を凝らす。三日月の薄い光で縁取られた雲の輪郭の手前を暗いシルエットが横切っていった。

 陸軍の四式戦か。陸軍の戦闘機はキャノピーの枠が少ない。

 松戸か柏、あるいは高萩あたりから上がってきたのだろう。陸軍飛行場は東京西部にも成増、調布、立川、所沢がある。何も夜戦の屠龍だけが戦力ではない。陸軍は単座機でも夜間戦闘に全力で上がってくる。海軍では夜間戦闘に出られる零戦や雷電の操縦員は一握りだから、そう考えると陸軍も頼もしいものだ。

 香取の指揮所が無線で方位と高度を指示して我々の編隊を目標に指向する。間もなく木更津の部隊と合流するようだ。

 爆撃機編隊は高度四〇〇〇メートル、二〇〇ノットで北進中。

 我々はその編隊の右翼を叩く。数的には追浜や厚木の部隊が海軍の主力だが、そちらは左翼を狙うらしい。

 受信機のダイヤルを回して陸軍の周波数を探り当てる。どこの基地かわからないが、ともかく飛行機を敵右翼に指向している。

 送話に切り替えて編隊各機に伝える。「陸軍戦闘機も同じ空域に向かっている。各機、誤射、衝突に注意しろ」

 高度六〇〇〇まで下りたところで木更津の月光六機が登ってきて我々の前についた。

 翼端灯消灯、相模湾に出る。

 レーダースコープに反応はない。味方機が映らないように編隊の端に移動して打っているのだが、正中線以外全く真っ黒のままだった。


 キャノピーから水平線の下を眺めていたが、ふと足元の四角い偵察窓に目を落とした時、青白い排気管の炎が目に入った。

「敵編隊見えた」

 高度は下がって三五〇〇。綺麗に列をなして並んでいる。後続の機は前の機の真後ろについて飛んでいる。規模も規模ならまるで碁盤の目のようだ。

 まず彗星隊を降下させ、それから足の遅い月光隊を確実に指向する。私の月光は誘導のために上空に残る。一機一機に狙うべき敵機を指定。

 彗星四機が機首下げで降下に入る。

 一〇〇〇メートルほど下で一息入れて敵の進行方向に合わせる。

 そしてほとんど敵直上から突っ込む。

 月光二機も緩やかに旋回しながら降下してスピードを上げていく。

 周りが静かになった。我々も高度を下げて敵編隊を追う。

 私は機内照明を消して足元の偵察窓を覗きながら目を凝らした。

 彼我の曳光弾が花火のように夜空に走る。

 エンジンをやられたB‐29が隕石のように炎を引きながら編隊を抜けて降下していく。

 海岸線が近づく。

 探照灯の光芒が天に刺さり始める。

 光は神の龍のようにぬめぬめと夜空を滑る。

 高射砲が射撃を始める。地上レーダーの反応をもとに探照灯がB‐29を照らし、照らされたB‐29に砲火が集中する。

 B‐29の撒いた電探欺瞞紙が探照灯を浴びてタチウオの群れのようにきらきらと光った。

 前方にあった光の柱がふとこちらに向かってくる。地上レーダーが私たちの機体を捉えたらしい。

 一瞬目を瞑る。

 眩しい光線が操縦席の中を貫通する。

 さあ、今だ。

 降下。

 機速は三五〇ノットに近づく。この高度のB‐29よりずっと速い。

 国吉は光線に沿って敵機の脇を掠めながら斜め銃の照準を見上げて一斉射した。

 背後から機銃の「だだだっ」という作動音が聞こえた。

 エンジンの轟音の中に榴弾の破裂が混じる。

 降下の勢いで得たスピードのまま水平飛行して前方のもう一機を狙う。

 同じように主翼付け根に撃ち込む。

 振り返る。後ろの一機はたちまち主翼がV字に折れ曲がった。そのまま全体がひしゃげて落下していく。

 手前の一機は主翼下面に弾痕が見えた。しかし効果はない。桁を折れなければこんなものだ。燃料を吹いているだけ。

 この距離で姿を見せてしまえば敵もこちらを狙う。火線が集まってくる。

 国吉は機体を滑らせて敵の照準をずらしながら降下の勢いのまま一度離脱する。

 私は仕留め損ねたB‐29を見ていたが、そこにほぼ真上から小さな機影が突っ込んできて曳光弾を降らせた。探照灯の光線を突っ切る。さっきの四式戦か。

 四式戦は相手の腹の下で鋭くピッチアップして上昇に移る。まるで石のように降ってきて燕のように昇っていく。

 すかさずもう一機降ってきて銃弾を浴びせる。

 その二度目の攻撃が手負いのB‐29の主翼をへし折った。

 先ほどの一機と同じように二つ折りになって墜ち始め、燃料が誘爆して巨大な火球になる。その光源を背景にして折れた主翼が曲芸師のナイフのように回転しながら落ちていく。

 味方の対空砲火が激しくなってくる。それを避けた味方機が敵編隊を離れて上昇に転じていく。

 私はまだ再攻撃の機会を窺っていたが、敵の弾幕が分厚くてさすがに近づけない。

 一度一〇〇〇メートルまで降下して東に距離を取る。編隊の進行方向に向かって上昇、高度五〇〇〇まで戻した。海の光と海岸線の形からして鎌倉上空のようだ。無線で呼びかけて僚機を集める。

 彗星が一機減っていた。

 送話に集中していたので事情は分からない。無線機の故障、あるいは軽い損傷で引き返したくらいならいいのだが。ともかく、撃墜されるところは目にしていない。


 戦闘はまだ終わっていない。

 爆撃編隊は東京を通過ののち銚子方面から太平洋に抜けるのが常だ。船橋辺りまで先回りする。

 左舷を眺めていると東京の沿岸部に火が見えた。その様は七輪の中で燻る炭の火に似ていた。

 しかしその炭の上には餅でも秋刀魚でもなく、生きている人間がいる。死にゆく人間がいる。

 敵の飛行士たちはそういう想像をするのだろうか。するとして、よく精神が無事なものだ。

 いや。

 基地で見た捕虜の顔がふと思い浮かんだ。

 無事なんかじゃない。十分苛まれている。でなければあんな妄想に取り付かれたりしない。

 彼らが怖れているのは自分が殺した人間たちの怨霊なのであって、この月光そのものではないのかもしれない。

 爆弾を落として身軽になった敵機が向かってくる。やや増速して二三〇ノット。家路を急ぐ。彗星なら追撃できるが、月光では追いかけるのが精一杯、まともな攻撃機会は一度きりだ。

 東京を離れると探照灯が少ない。敵編隊の捕捉が難しくなる。

 地上管制に従って我々の基地に向かって東進、印旛上空で再補足した。

 川や溜池の反射の中に青白い排気炎を見つける。しかし離れている。ほとんど米粒ほどの大きさにしか見えない。

 私が高度と方角を無線に吹き込むと国吉が「やっぱり目がいいな。よく見つけますよ、あんなの」と呟いた。

 今度は前方からの攻撃はできない。彗星隊は上昇してやや追い越すくらいの位置から逆落としをかける。

 彗星が上昇と下降、接近と離脱を繰り返して翻弄している間に月光三機で下方から迫る。

 B‐29は下方銃座も二基備えているが、無人銃塔なのでむしろ真下の監視は甘い。

 ターレットの銃身の向きに細心の注意を払って腹の下に潜り込む。気づかれる前に国吉が右主翼の付け根に狙いをつける。

「退避、右だ」

 ターレットがこちらに旋回した。

 国吉は操縦桿を右に倒しながら発射ボタンを押した。

 曳光弾の光が敵主翼下面に走る。

 鋸を引いたように外板が割れてぱっと火花が上がった。

 バンクしてそのまま右に退避する。漏れ出した燃料に火がついてその色が銀色の胴体に映る。外板が溶け落ちて強度を失った主翼は端から三分の一ほどで折れて脱落する。

 バランスを失ったB‐29は少しずつ右に傾いてそのまま高度を下げていった。

 敵の火線がこちらに集まる。

 回避に専念。

 味方機も闇の中で果敢に攻撃をかけている。撃墜に至るものは多くないが、敵編隊の中には尾翼をぼろぼろにしたものやエンジンが止まっているものも見られる。我々の攻撃を耐え抜いてもその中の何機かはサイパンまで帰れないだろう。

 後方で大きな光源が生まれた。さっきのB‐29が地面に落ちて爆発したのだ。

 ややあって左手上空にも大きな火球が見えた。それは私たちの戦果ではない。

 彗星隊が弾切れを宣言して次々に降下離脱していく。さほど弾薬が少ないわけではないのだろうが、門数が少ないからどうしても一回の射撃が長くなる。

 あとは月光でやるしかない。

 敵の注目を逸らしながら同航して海上まで追ったが、さすがに深追いになる。他の二機も弾切れだった。

 私の機がしんがりを務める。二機を帰して旋回、敵編隊の機数を数える。


 海上。あたりを見渡す。

 ふと確認したレーダースコープに何かが映っているのに気づいた。

 強い。そしてかすかに明滅を繰り返している。それはレーダーの送信波そのものが何かを捉えた時とは違う反応だった。

「レーダーに感あり。距離二〇〇〇。追えるか」私は国吉に訊いた。

「はい」

「左」

 国吉は操縦桿を傾けて機体を左にバンクさせる。

「ヨーソロ、下げ」

 正面。

 計器越しに前を見通す。何の影も見えない。

 スコープに目を戻すと反応がかなり左に寄っていた。

 当然だが相手も移動しているのだ。それもこちらの機に対して左右の移動が大きい。

「左、一五〇くらい高度下げてくれ」

 体がかすかに浮いた。

 左上方に排気炎。

 視認、TBF。こちらに背中を向けている。

 そうか、敵の空母が近海まで来ているのだ。今朝偵察に飛び立った彩雲の姿を思い出す。

「国吉、グラマンの雷撃機だ」

 私が言うより一足早く国吉は舵を切っていた。

 電信で接敵を告げる。鍵を叩いて「ヒ」を連送。

 敵は天を警戒しているのか、あるいはレーダーか無線に集中しているらしい。回避機動を取らない。

 腹の下に潜り込んであと一息で射撃位置につくという時、自機の主翼の端にストロボのような光が走った。

「左!」

 国吉は再び素早く舵を切る。

 つやっとした石油の塊のようなものがすぐ脇を落ちていった。

 F6Fだ。ダークブルーの塗装が光ったのだ。

 F6Fは下へ抜けていく。

 速い。一瞬真横に見てていたものがすでに豆粒大だった。

 偵察窓から目で追っていたが、ロールして翼で排気炎を隠されたのか、海面の反射の中に敵機を見失う。

 国吉は何度か小刻みに旋回して追撃を警戒していたが、来ない。米軍の戦闘機が一機で行動することはあり得ないはずだが……。

 幸い雲が近かったので逃げ込む。

「いったん北東へ向かおう。東へ逃げるとは思わないだろう」私は国吉に言った。

 後方を警戒するためにいろは坂のようなジグザグ飛行で上昇する。

 巻いたか、と思ったが、二分ほど経って後ろに機影が見えた。二機。

「敵夜戦、後方に二機、来るぞ」

 しっかり追ってきている。視界は雲で遮っていたから、こちらが白いせいで見つかったわけではない。つまり敵もレーダーを持っている。それもこちらよりうんと性能の高いやつだ。

「香取、香取、こちら松原、銚子沖で敵艦上機と交戦中」

 香取から戦闘哨戒が上がっているかもしれない。空中戦を告げる「ク」連送を叩いたあと、少しだけ期待を込めて電話を送る。

 二機編隊の一機が下に出て速度を溜めたあと、突き上げざまに撃ってきた。

 こちらは旋回して躱すしかない。

 すかさず順当に追ってきたもう一機が追いついて後ろに回り込む。

 左にバンクして全力で旋回する。

 主翼のスラットが滑り出して薄く雲を引く。

 強力なGが体を押さえつける。腹の下に力を入れて血液が下がるのを止める。

 首が動かない。

 F6Fは旋回性が高い。しかし小さい旋回を続けているとすぐにスピードが落ちる。低速に追い込めば鈍い。

 双発で図体のでかい月光ではどの速度帯にしろ旋回でF6Fの内側に入るのは無理だが、しかし斜め銃がある。相手より旋回半径が大きくても追いつけば照準を合わせられる。

 国吉は一度スロットルを絞ってF6Fを外側につかせた。

 そして一気に吹き上げてスナップのように機首を振る。

 F6Fはスピードを殺せないまま前に出る。

 焦ったのかまっすぐ抜けずに旋回に入った。

 国吉は主翼を立てたまま重力に任せて敵の下に入る。

 そのまま横倒しで大きく速い旋回を続けながら少しずつ旋回軸を敵機の方へ合わせていく。

 敵もまだ回り勝てると思っているらしい。小さい旋回を続ける。

 何発か撃ってF6Fに回避させる。速度を削る。

「最初の、上に抜けた」私は言った。

 突き上げから速度を回復したもう一機が上昇して斜め上方でこちらに機首を向けようとしている。

 タイミングを見て合図、国吉は操縦桿を押し込む。

 敵機はこちらの旋回方向に後方から照準していたから、その機動に合わせられない。

 その一機は左手に抜ける。

 旋回で追っていたもう一機がくるりと右にターンして後ろについてくる。

 国吉はラダーを踏ん張りながら操縦桿を引いて機体を捻る。

 まるで水面を叩いたように主翼が震えた。失速の前触れか。

 火線が頭上を掠める。

 もう成す術がない。

 単発戦闘機二機相手によく粘った方だ。

 観念してF6Fの太いエンジンを眺めていると、その後ろに別の飛行機が追いつくのが見えた。

 機首と主翼から四条の火線が伸びる。零戦だった。

 F6Fの右主翼に閃光が走って何か細長い部品が弾けるのが見えた。エルロンか。F6Fはバランスを崩して右ロール、そのまま降下して離脱する。

「追うな。前方、もう一機昇ってくる」私はそう言って無線機が送話になっているのを確かめた。

 零戦は降下するF6Fを追わず、一度こちらの下に入ってスピードを溜めながら、上昇中のもう一機に狙いをつけた。無線を聞いていたようだ。

 国吉はその一機を零戦に任せ、緩く旋回する。半径の大きい旋回だがバンク角が大きい。私に下を見せているのだ。

 海面の上に小さな光を見つけた。波頭の反射とは動きが違う。

「いた。左下だ」私は言った。

「ああ、ほんとだ」国吉が答える。

 国吉は緩く降下しながらF6Fの頭を押さえるように位置取りする。

 そのあいだ私は零戦ともう一機のF6Fの方を見て零戦に指示を出していた。二機とも暗い色なので見づらいが目を凝らす。

 この暗さでは一度見失った敵機を再補足するのは難しい。互いにできるだけ相手から離れずに戦おうとする心理が働く。せいぜい直径五〇〇メートルの球体の中で二機は旋回戦を繰り広げている。入り乱れる分、自分の翼や胴体の陰に入った敵機を見失う機会は多くなる。

 零戦が小さな旋回でF6Fに迫る。

 F6Fはフラップを広げて全力のターン。そこから一瞬右にバンクして一度旋回の外側に抜け、上昇して零戦の後上方からかぶさろうとする。

「上に行った。右に切れ」と私。

 零戦はF6Fを追って機首上げのクイックロール(旋転)で一回転。

 射線の中をF6Fが通る。胴体で弾が跳ねる。

 ロール、五〇メートルで交差。

 F6Fは切り返さない。機首を上げて降下しながら大きく縦旋回。

 スピードを上げた方が有利だと気づいたか。

 零戦は右に切り返して敵を探すように水平面で旋回を始める。

「右、降下。下にいる」

 零戦はすぐに降下に入った。

 だがF6Fはすでに機首を上げ始めている。

 反航戦(ヘッドオン)の形になった。

「避けろ、回避だ」

 正面でぶつかったら装甲と瞬間火力で優るF6Fが絶対有利だ。

 零戦はバレルロールの頂点から捻り気味の旋回。

 木の葉が舞うような小回りだ。

 F6Fは零戦が降りてきたのを見てさらに降下で離脱する。

 真後ろから伸びる零戦の火線をスライドとロールで回避、こちらの真上を通過するコースだった。

 敵はこちらに気づいていない。あの胴体の太さでは下は見えないだろう。足下に窓がついているわけでもない。

 国吉が機首を右へ振った。斜め銃を撃つ。

 火線の光が敵機の機首へ一直線に走った。

 数回赤い炎がちらついたあと、この暗さでもわかるほどの黒煙が噴き出した。

 それで視界を奪われたのかF6Fの回避機動は途端に鈍くなる。

 零戦がそのF6Fを追って止めを刺す。煙が火炎に変わった。

 こちらの隙を見て下のF6Fが上昇に転じた。

 国吉はバンクを深く取って、ほぼ背面からの射撃で牽制。

 その火線を見た零戦がすかさず降下して襲い掛かる。

 私は風防の枠を押さえつけて体を支える。国吉はそのまま左にロールを続けて機体を正立に戻した。

「右!」私はふと上を見て叫んだ。

 零戦への指示と思ったか、国吉の反応が少しだけ遅れる。

 上から降ってきたTBFが撃つ。

 そうだ、アメリカの雷撃機は固定機銃を持っているのだ。

 どこかへ逃げたものとばかり思っていた。

 忘れていたと言ってもいい。

 機体に鈍い振動が響いた。左主翼と胴体か。

 国吉が機体の姿勢を立て直す。

 大丈夫、まだ飛んでいる。

 零戦の方もさっきの指示を自分へのものと思ったらしく、F6Fへの攻撃をキャンセルして右へ距離を取っていた。

 TBFは最初のF6Fと同じようにこちらの脇をすり抜けたあと、後部銃座から銃弾をばらまきながF6Fの方へ降下していった。

 敵は離脱する。私たちとしてもあえて追う意味はない。

 彼我距離が伸びていく。

 戻ってくる気配はない。本当に諦めたようだ。

 私たちもしばらくその場を旋回してから帰路についた。自機の左の翼を見るとエンジンナセル周りが虫食いのように荒れて、漏れたエンジンオイルで黒く汚れていた。まだ部分的に外板が剥がれかかっている。国吉によると左エンジンの温度が高いのと昇降舵の効きがかなり悪いらしい。TBFにやられた分だ。

 零戦も我々に並航していたが、翼端がかなりボロボロだった。よく無事だったものだ。

 操縦員がキャノピーを開いて機内灯で自分の顔を照らした。マフラーを外す。白い歯がのぞいた。

「宇兎山か」私は一度呟いて、改めて無線に吹き込んだ。

 受話に切り替えて少し待つと相手の声が入ってきた。

「……宇兎山です。ご無事ですか」

 彼の声は不思議とクリアに聞こえた。咽喉式マイクのせいだ。無線のノイズだけで、機内の騒音が入っていなかった。

「無事だ。二人とも問題ない。わかったから、照明を落とせ」私は言った。まだ敵と別れたばかりだというのに、この暗さの中で明かりを灯すなんて自分の位置を敵に教えているようなものだ。

 宇兎山は素直に明かりを消して風防を閉めた。少し冷静になったようだ。

 あとは静かに基地へ向かうだけ。

 もう一度周囲を見渡す。機影なし。

 海岸線を越えたところで灯火をつける。利根川の光を頼りに進み、手持ち信号灯(オルジス灯)をつけて滑走路やピストの周りに差し向ける。飛行場の周りを旋回しているうちに黄色い路側灯や赤と緑の進入角指示灯を見つけた。やや北風のようで南西からの進入になる。灯火管制が厳しいので進入方向にいないと飛行場の灯火も全く見えない。

 まず宇兎山の零戦が高度を下げて直接滑走路に滑り込む。地表近くで翼端の赤と緑がちょっと左右に揺れたが、それでも点灯したままきちんと停止した。無事のようだ。

 私たちはその上空を一度通過して左に一八〇度旋回し、滑走路と平行に直進、再び一八〇度旋回しながら速度を絞って滑走路の正面に出る。国吉はフラップと脚が下がるのを待ちながら座席を高く上げる。彼の頭越しに進入角灯の赤と緑が同じ高さに見えた。機体の左側に損傷が多いのでやや右に機体を傾けてバランスを取っているが、いいコースだ。

 国吉は最後の引き上げと同時に機体を水平に戻す。

 タッチダウン。

 誘導路を走る間にレーダーと無線機の電源を切る。天蓋を開く。国吉は掩体壕の前でくるりと機体を回し、一度吹かしてからスロットル・オフ。

 この瞬間の静寂が私は好きだった。

 二度ほど深く息を吐いてから立ち上がる。長時間空に上がっていると、この「立ち上がる」という感覚を忘れそうになる。最近の防空戦ではあまり経験していなかったが、今日は違った。上手く脚が動かない。一度気合を入れる。膝を叩く。

 地面に降りた時、胴体に開いた無数の穴に初めて気づいた。もう少し狙いが前だったら私も国吉も撃ち抜かれていただろう。尾翼を見上げると方向舵の上半分が骨組みだけになっていた。左の水平尾翼も外側三分の一くらいが飛んでいる。こんなふうに空力バランスの崩れた飛行機を飛ばす難しさ、操縦員の苦労は残念ながら偵察員にはわからない。

 スポットの外へ下りて立ち小便をしてから、礼を言おうと思って宇兎山のところへ行った。さっき手前の壕の前でターンしていたのを見たから場所は把握している。

 行ってみると彼は翼の下にべったりと座って飛行帽を脱いだだけの恰好で水筒から水を飲んでいた。刈り揃えた短い髪が汗で光っていた。さっきの戦闘の高揚が余ってまだ神経が参っているような様子だった。

「さっきは危なかった。見つけてもらわなければ助からなかったよ」私は零戦の主翼前縁に手をかけて覗き込んだ。

「松原さん」宇兎山はそこでまた水を飲んだ。上手く声が出ないようだった。「松原さんの月光が白くてよかった。白くなかったら僕には見つけられませんでした」

「そうか」私は頷いた。

「よく考えたら、僕がグラマンを落とせたのも、月光が弱らせてくれていたからです。敵だってきっと自分をやったのは零戦じゃなく月光だと思うでしょう。……それで、僕は思うんですがね、敵さんはきっとこれからもっと白い月光を恐がるんじゃないでしょうか」

「そうか」

「何せ、双発戦闘機がF6Fを落とせるなんて思わないでしょうし」

 米海軍は日本よりずっとパイロットの海上救助に力を入れている。墜ちたF6Fのパイロットも今頃波間で味方の飛行艇を待っているのかもしれない。彼が仲間にに白い月光のことを話せば、あるいはホワイト・ゴーストの伝説にもうひとつ逸話が加わることになるのだろうか。

 私はまた何度か頷いてから主翼を押さえていた手を離して自分の月光を振り返った。

 エンジンの熱や排気が周りの空気に薄く靄をかけているせいだろうか、ズタボロになった白い機体が三日月の細い光を映してぼんやりと光って見えた。

 ホワイト・ゴースト。

 少しくらい荒んだ装束の方が幽霊もそれらしく見える。

 だが残念ながら私は死人でもなければ伝説でもない。

 今までも、

 これからも、

 それは変わらない。

 私は小さく一度首を振って煙草に火をつけた。






 ------



〇おまけ情報


 ・オイル垂らしの栄

 月光の栄が微妙に扱いづらい代物だったことは『世界の傑作機』(文林堂,1996)を読んで知りました。垂れたオイルでタイヤが劣化するのを防ぐために内地の基地ではかまぼこのようなタイヤカバーをしていたのを知ったのも同様です。



 ・月光の無線機

 月光の無線機は海軍二座機によく使われた九六式空二号無線機です(もともと三座だから三号かも?と思ってましたが二号でした)。操作盤は操縦員席・偵察員席ともに右側の内壁にあります。常に送受信機とも温めるタイプの電源なので送受信をぱちぱち切り替えられたはずです。ボタン式のTR1133なんかと違ってダイヤル式だから自由に受信周波数を選べたのさ(なおTR1133の前身TR9Dはダイヤル式でなかなか目的の周波数がクリアに入らなかったのが不評だった模様)。

http://www.grandpas-shack.com/parts/datasheets/96-KU-2.pdf



 ・B-29の銃座

 B‐29の機銃ターレットは五基。銃手席も五つあるのですが、一対一で対応しているわけではありません。指向する目標によって一つの席から複数のターレットを操作することができました。それぞれの席に二,三基のターレットが割り当てられていて、すべてのターレットが複数の席で共有されるような仕組みになっていたようです。上手く説明できている気がしないので下記サイトの表をぜひご覧ください。

http://www.twinbeech.com/CFCsystem.htm



 ・チャフ

 『彗星夜襲隊』にはアメリカ軍のレーダー網に対して偵察員が電探欺瞞紙をばらまきながら突っ込んでいく描写が度々登場するのですが、アメリカの方でも日本を爆撃する時にやはり使っていたようです。

下記サイトにチャフに関する証言があります。

http://www7b.biglobe.ne.jp/tkoshio/

http://www7b.biglobe.ne.jp/tkoshio/1945%20bombing.pdf



 ・FD‐2について

 参考サイト・資料が3つほどあります。


①「友軍の電探システム図集」

http://www1.odn.ne.jp/~yaswara/antennan/yu-gun.html

 スコープについては主に上記サイトを参照しました。


② Reports of the U.S. Naval Technical Mission To Japan (1945 – 1946) Series E: Electronics Targets E-02 : Japanese Airborne Radar pp.21-28.

https://web.archive.org/web/20120501101128fw_/http://www.fischer-tropsch.org/primary_documents/gvt_reports/USNAVY/USNTMJ%20Reports/USNTMJ-200B-0112-0146%20Report%20E-02.pdf

回路図関係の他、末尾に一覧表がついています。これによるとFD‐2の視野角は上下左右とも30度。偵察員席にスコープと送信機の操作盤があるというのも書いてあるのですが、操作員の欄に「パイロット」の表記。???


③ Air Technical Intelligence Groupe, A Short Survey of Japanese Radar Volume III, pp.72-74.

https://apps.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/895893.pdf

 ネット上で閲覧できるFD-2の送受信機のほとんど唯一の画像が載っているのですが残念ながら黒白に潰れていて不鮮明。スコープの表示方式がSCR‐521に似ているとあります。

 しかしSCR‐521のスコープ表示方式はネット上にあまり情報がないです。ので、SCR‐521のベースになったイギリスのASV MarkⅡを調べると、これはLスコープ方式でした。Lスコープは目標の距離だけを表示できるAスコープを縦置きにして左右に並べたもので、目標までの距離と、左右の反応の差によって方位も表示できます。

 しかし「友軍の電探システム図集」によるとFD‐2の表示方式はもう少し高度で、Lスコープを上下に二つ合わせたような感じのようです。②のTMJレポートのシステム図にも横線が二つ書いてあるように見えるので実際かもしれません。これによって上下の反応の差も見ることができるので目標の高度(俯仰角)も見ることができます。また本文中で述べた通り直接波(送信用空中線から受信用空中線に直接飛ぶ電波)の反応がスコープに映らないのも特徴のようです。

 レーダースコープの方式について詳しくは英語版ウィキペディアのRadar Displayまで。


 FD‐2の送受信機や表示器の実物画像が見つからなかったので、インターフェースの描写についてはH‐6電探のものを参考にしています。

 下記サイト曰く、スコープの映りを調整するダイヤル類は表示器のスコープの周りに、利得調整は受信機のダイヤルで行うようです。


横浜旧軍無線通信資料館掲示板『海軍「三式空六号無線電信機四型(H-6)」航空機搭載レーダー』

http://www.yokohamaradiomuseum.com/cgi-bin/imgboard.cgi?bbsaction=disp_rep_form&amode=&page=1&blood=20161013134843&parent=8473



・AN/APS‐6

https://pwencycl.kgbudge.com/A/p/APS-6_airborne_radar.htm

 上記サイトが簡潔にまとまっていると思います。曰く、捜索モードでは1,5,25,65マイルの表示距離設定が可能なのですが、1,5マイルではOスコープ、25,65マイルではBスコープの表示方式になります。Bスコープは表示できる情報はLスコープに近いですが、波ではなく輝点で表示します。わざわざ左右の波の大きさを目で比較しなくても、どれだけ正面からずれているか一目でわかるわけです。

 Oスコープはもう少し凝っていて、水平面に輝点を表示するのはBスコープと同じなのですが、一つの目標に対して二つの輝点がつきます。一つの輝点は同じく目標の水平座標を示し、もう一つの輝点はその右横につきます。この輝点が本来の輝点より下に位置すれば、目標も自機より下に、上に位置すれば目標も上にいることを示します。俯仰角の表示もできる優れものなのです。

 また捜索モードとは別に近距離で使用するガンサイトモードというのがあって、これは目標を点と横棒で示します。これを見れば目標の飛行姿勢がわかるわけです。目標との距離によって輝点の大きさが変わります。目標の全幅を入力する手間はかかるのですが、スコープについている枠線に合わせれば照準器としても機能するようです。

 このレーダー、面白いのが走査方式で、スパイラルスキャンといって、レドームの中に入ったパラボラが回転しながら首の角度を変えることで螺旋状に前方を走査して、捜索モード時で上下左右に60度の円錐型捜索範囲を形成します。何でもこのパラボラの回転数が1200rpmだとか。24回転で螺旋パターンを1セット描くらしいですが、そんなに高速回転しながら14秒に5セットのペースで頷いているわけで、首がもげないのか心配になります。

 捜索モードでは捜索円錐の頂点角は120度ですが、ガンサイトモードではこれが15度まで狭くなります。

 また3つ目のモード、ビーコンモードというのがあって、これは空母や基地など帰投方位を示すやつです。これも表示距離を1,5,25,100マイルで切り替え可、表示方式はBスコープに近いっぽいです。

 パイロットのインターフェースは3つ、計器盤の真ん中にスコープ、座席の左側に操作盤、左のキャノピーの下に簡易操作盤がつきます。捜索とガンサイトの切り替えは簡易操作盤で、表示距離の切り替えは操作盤で行います。

 とにかく下記サイトにとても分かりやすいパイロットマニュアルの実物PDFがあるので見て下さい。

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/ref/NightFighterRadars/index.html#APS6

http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/ref/NightFighterRadars/APS-6PilotsManual.pdf


(ACT.1もそうだったけど、アメリカ軍機の方が解説が長くなってしまうのがお決まりのパターン。そう、資料が多いからさ。まったく、記録を残すってのは正義だぜ……)


 劇中、なぜ1機しか襲ってこないのかと松原が訝しむシーンがありますが、きっとレーダーの操作に手間取って松原機を見落としたのでしょう。やや時間的余裕のできた追撃ではきちんと2機で追ってます。

 沖縄戦では夜間襲撃の日本機を結構取り逃してるのですが、そういう煩雑さのせいではないかと『彗星夜襲隊』の中で著者渡辺氏は考察しています(なおP-61に関しては鈍重だから追いきれなかったと)。



・アメリカ海軍の夜戦編隊

http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/JP/gurman5.htm#5

 上記サイトに、F6F‐3N2機、TBF1機の3機1組で夜間の哨戒を行っていたとの記述があります。TBFは航法支援などを行う嚮導機的役割を担っていたようです。F6F‐5Nでも同じような運用をしていたのではないでしょうか。

『彗星夜襲隊』にはF6F夜戦の3機編隊というのが何度か出てくるのですが、実際にはこの中の1機はTBFだったかもしれません。戦闘機3機という編成は米海軍がロッテ(サッチ・ウィーブ)を導入していたことを考慮するとやや不自然なので。

 とはいえこの時期の米海軍は沖縄に防空戦力を集中させていたはずで、関東まで空母を出していたのか、出していたとして夜戦を積んでいたのかは不明です。

(とするとF6Fの存在の方がよっぽど幽霊なのでは)



・IFF

TBF発見前に通常の反応とは違うパターンの像がスコープに映ったと書いてありますが、これは自分で送信した電波ではなく他の飛行機が発した電波、米軍のIFF信号などを拾ったものをイメージしています。


・零戦五二型の無線機

 それまでの九六式空一号無線電話機に代わって三式空一号無線電話機を装備しています。送受信機が一体型になったこともあり、発電機が送受信機双方の真空管に常に電圧をかける仕様に変わっているようです。これによって送受の切り替えインターバルが縮まっています。

 咽喉式マイクを挿すこともできるのですが、これは三式専用というものではないと思います。

 改二型から電話通信専用の外部送受信転換器を差せるようになっているらしいです。長押しスイッチがついてて、押してる間だけ送話に切り替わるやつ。これがおそらくマイクと管制器の間に延長コードよろしく挟むタイプで、マイクだけだと端子が3本のところ、これを挟むと管制器に差し込むところが4本になるのでは。でもネットに上がっている管制器の端子を見るとだいたい4つ穴なのです。うーむ。

 これとは別に阿部三郎氏の証言が『空戦に青春を賭けた男たち』にあって、曰く押してる間だけ送話になるスイッチは操縦桿の先端についていたと。

 2タイプあったのか? それとも延長コードタイプのを操縦桿にくっつけていたのか? でも首元にスイッチが来てる写真もあるし……。

 なんだかよくわからなくなってきたぞ。

https://togetter.com/li/870412

http://kenyamamoto.com/yokohamaradiomuseum/2011jan28.html

http://www.yokohamaradiomuseum.com/navy3.html

http://www.roswitha.jp/zerosennopuropera1.html

http://cb1100f.b10.coreserver.jp/collection3_a.html



・帰還シーンについて

 夜間着陸時のシーケンス、基地の灯火については渡辺洋二『彗星夜襲隊』(朝日ソノラマ,1997)の225ページあたり、岩川基地についての記述を参照しています。

 オルジス灯って淵田美津雄『真珠湾攻撃』(PHP文庫,2001)で目にしてからいったい何ものなのか気になっていたのですが、偵察員が手に持って掲げる携帯信号灯なのですね。引き金を引くと点灯(消灯?)するのでモールスの発光信号を送れるというもの。フィルターを使って赤と緑の光も作れるっぽい。

https://242.teacup.com/astroboy/bbs/8866

 前に調べた時は「オルヂス座薬」というのがヒットして、ああ、なるほど、尾部に白色閃光灯があって、尾部なだけに座薬なのか!とか思ってました。なんだかなあ。


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