空戦
前河涼介
ACT.1 前後昇降(鍾馗と震電)
警 告
この小説には実在の地名、部隊名、飛行機の機種が登場しますが、登場人物、登場する飛行機の個体、状況・戦闘などは全て架空のものであり、記録や証言に基づくものではありません。したがって、この作品が事実との矛盾、不整合を多量に含むことを理解の上で閲覧してください。
〇このお話に登場する飛行機 (運用者・開発者)
・二式戦闘機「鍾馗」二型丙 (日本陸軍・中島)
細い胴体に魚の鰭みたいな小さな主翼がついた一撃離脱戦向きの戦闘機。上昇性能がよく急降下にも強いので垂直機動がとても得意。高空は苦手。
・十八試局地戦闘機「震電」 (日本海軍・九州)
水平尾翼(前翼)の方を前にして飛ぶ、いわゆるエンテ型の機体構成。高速と高高度性能を突き詰めた対重爆迎撃機。結局今日に至るまで満足な試験飛行をしていないので性能は未知数。ただし反トルクがきついことは判明している。
・P‐51D「マスタング」 (アメリカ陸軍・ノースアメリカン)
空力設計の妙とマーリン・エンジンの高空性能が融合した俊足万能戦闘機。高速時の運動性能は極めて高いが機首はブレる。見かけによらず何度かダイエットに失敗している。
・PB4Y‐2「プライヴァティア」 (アメリカ海軍・コンソリデーテッド)
B‐24をベースに低空哨戒任務に特化させた四発機。誰かに抓んで伸ばされたような単垂直尾翼が特徴だが、重武装化も甚だしい。大戦末期、ひっそりとしかししたたかに日本の商船を沈めていたことはあまり知られていない。
(以下本文、8800字くらいです。)
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一九四五年十月、大分県国東半島上空六〇〇〇メートル、風向きは南東。気持ち右にバンクをとって風に機体を立てる。針路は東。対気速度は時速四五〇キロメートルを少し回っている。エンジンは快調。猫の喉のような機嫌のいい振動で操縦席を揺すっている。きちんと整備していい燃料を入れてやればまだこれだけ動くのだ。筒温が少し下がっていたのでカウルフラップをちょっと閉めて、それから溜息。
時計を見る。少し早いが約束の時刻だ。
僚機を振り返る。
しかしそこで手信号は使うなと言われていたのを思い出した。蒸れを取るために酸素マスクをつけなおして操縦桿のスイッチで受送話を切り替える。
「機体の調子はどうか。大嶽曹長」吹き込んでスイッチ。
「異常なし」と大嶽。飛行帽のヘッドフォンに声が響く。
音量を少し上げる。
「笹川曹長」吹き込んでスイッチ。
「異常なし。パーフェクト」と笹川。
パーフェクト? まあいい。
再び送話。
「リース大尉、全機、良し」私は英単語で吹き込む。
「よし。大正に行くぞ。針路このまま」リースが答える。音の省略が多い。まるで歌っているみたいだ。
左右の密集編隊機位置に鍾馗が二機、私の乗機を含めて三機とも二型丙。鏡のような銀色の無塗装。増槽なし。三基のハ一〇九が奏でる唸りが聞こえる。小隊には一機足りないが、指定されたのが三機なのだから仕方がない。我々を取り囲むように編隊の中心から各々一〇〇メートルほど離れて護送用のP-51Dが四機。いずれも垂直安定板の前に背鰭のついたタイプ。前方に嚮導役が一機、これは今回の指揮官、リース大尉の乗機だ。それに我々の後上方に監視役が三機。振り返るとその腹にキセルのように突き出したラジエータからフラップが下がっているのが見える。P‐51は高空の足が速い。こちらは普段の巡航速度より少し乗っているくらいだが、向こうにしてみれば少し絞っているのだろうか?
いや、そうとも限らない。米軍機が圧倒的に高性能になるのはもう少し高い高度だし、こちらは機銃弾を積んでいない。しかも完璧に整備された万全の状態だ。
米軍が鍾馗三機の空輸命令を持ってきたのは六日前だ。十月に入ってからだった。大刀洗に集まった引き上げ部隊の装備機から機種ごとに状態のいいものを選んで東京に送り出したのが九月下旬、その任務に動員されるのもひと段落していたから、今さら何のつもりかと驚いたものだ。追加といったって大刀洗に新しい飛行機がやってきたわけじゃない。残っているのは歴戦でくたびれた機体ばかりだ。
話をきちんと聞いてみると経緯はわかった。部隊で排気管を推力式に改造した鍾馗を疾風と見間違えていたのだ。鍾馗も疾風も持って行ったが、改造型の鍾馗はまだだった。それが欲しい、ということらしい。大刀洗にはもう何十人と米軍のパイロットが訪れているはずだが、空で何度も判別したはずのその違いに誰も気づかなかったのだからお笑いものだ。
だが擁護してやれないこともない。鍾馗と疾風の立面形は確かに似ている。排気管が同じ推力式になっていたらさらに似るわけだ。おまけに武装解除でプロペラも外されているから三翅か四翅かでも見分けられない。両機種の一番の違いは主翼の大きさ、つまり平面形だろうが、地上にあるものを地上から見るのでは見上げることも見下ろすこともできない。よほど注意して鑑賞しなければその違いに気づかない状況ができあがっていたのかもしれない。
我々の部隊で鍾馗の排気管を改造した経緯には疾風のエンジン・ハ45の脆さが深く関わっている。というのも工作不良でシャフトが曲がったり焼けたりして使い物にならなくなったハ45が結構あったので、そこから排気管を失敬して整備中の鍾馗に移植したのだ。単排気管は製造がかなり面倒らしいのだが、ものがあるのなら話は早い。整備員も稼働機の整備で手いっぱいだったはずだが、根本的な性能の不利をどうにかして打開したい、弱い飛行機を完璧に整備するだけでは埒が明かない、という思いがあったのだろう。出来上がったものを披露する時の彼らの熱意はよく覚えている。ただその頃にはもう本土でも燃料の質が悪くなってきていたから、乗ったパイロットの感想だと、確かに速くなっているのは感じるが計器では諸元に届かない程度だし、そんなことより出力低下のせいで加速と上昇がのろすぎる方が問題だという結論だった。
そうして何機か改造したものの結局ほかの機体と同じように使われて損耗したり整備入りしたりして次第にぼろくなっていった。特別大事にされていたわけでもないし、停戦間際に納入されたわけでもない。暖機中に操縦室まで排気が流れてきて息苦しいと嫌うパイロットもいた。戦列は戦列でも端のほうにあった、というのもなかなか米軍の目につかなかった一因かもしれない。
三機のパイロット選定にあたって中隊長(飛行隊長)は私をまず呼び出した。
「須賀井中尉、他の二人の人選を任せたい。誰を連れていく」
こういうことは二度目だったから慣れたものだ。最初の時はなぜ自分が真っ先に呼ばれたのか訝しんだものだが「英語辞典のページが全部きっちり残っているのはお前だけだそうじゃないか」ということだった。地上ならともかく、単座機同士の空中勤務に専門の通訳を連れて行くわけにはいかない。英語力を買われたわけだ。ただ私も士官学校で英語を専修していたというだけのことで流暢に喋れるわけじゃないし、辞書を破かなかったのは周りのパイロットほど煙草を吸わないから、ただそれだけだ。
「それなら大嶽と笹川を連れていきましょう。先日の空輸にも参加しているし、何より腕が立つ」
二人とも堂々たる戦果を誇る歴戦のパイロットだ。大嶽は開戦以来何度か私の僚機を務めている。単独の撃墜は重爆が三機、うち二機は本土防空戦の体当たりによるもので、二度とも無傷で脱出したのだから大したものだ。二度目の脱出以降その偉業で名を上げたので機付き整備員たちから自分の担当機に乗せたくないパイロット一位に選ばれる不名誉も買っている。
他方、笹川は対戦闘機のプロだ。大刀洗に赴任する以前の戦果は伝聞に過ぎないが、F6F、P‐47、スピットファイアなど名立たる戦闘機を討ち取り、総撃墜数は二〇機を超えるとか。階級は私の方が上だが、それだけだ。飛行時間では彼ら下士官が上回っている。間違いなく技量も上だろう。
空輸を指定された三機はかなり徹底的な整備にかけられた。エンジン回りは配管の洗浄とプラグの交換、無線機やバッテリーもできるだけ状態の良いものに取り換えた。剥げチョロだった塗装も一度全部剥がして磨き上げ、日の丸と部隊マークを大きく描き直した。三機ともだ。燃料やオイルも米軍の高規格になった。そしてプロペラを装着した。エンジンがかかり、プロペラが回る。久しぶりに聞く音、振動。
一足先に離陸するリース大尉が私の乗機のところまで来て集合地点の申し合わせをした。東に何キロ、高度は六〇〇〇。それから大正飛行場へ向かう。周波数はいくつ。エンジン音に負けないように始終怒鳴りながら、しかし彼はポケットから手を出さず、ガムを噛んでいた。ついでに言えばサングラスもかけていた。
階級が上とはいえ気に食わない態度だったので私はいかにも気になって仕方がないといったふうで人差し指を口の中に突っ込んで奥歯の歯垢をほじくりながら「ああ、ああ」と話を聞いていた。彼は握手の一つも求めなかったが、それは歯垢まみれの私の指に触りたくないからだ、といったように解釈することにした。
そうしてここまで登ってきたわけだが、やはり速い。ほとんど三〇〇キロを切らずに五分足らずで上り切った。監視役のP-51はこちらの離陸時に五〇〇も高度優位を取っていなかったのでたちまち足元に消えてしまった。
上空で待つリース機はゆるく旋回しながら後下方に我々の機影を捉え、彼我距離が五百メートルほどになったところで旋回の内側に僅かにラダーを切って機体を滑らせた。尾翼が薄く雲を引いたのでわかったが、こちらの射線を反らす動きだ。我々があまりの勢いで近づいてくるので不安になったのかもしれないし、あるいはその威勢に呼応してくれたのかもしれなかった。ともかくなかなか愉快だった。
我々がリース機に追いついてさらに二分ほどしてから監視役が位置についた。上ってから追いついてくるのではなく、下方で前に出て下から近付いてきたところを見ると、どちらかといえばスピードクライムの方が得意なのだろう。
一一時方向、天蓋の横枠のあたりに他の機影が小さく見えた。輸送機を見かけることは珍しくもないが、それにしては高度が高い。しかも大型機の近くに小さい機影、おそらく戦闘機が見えた。
先に大型機の機影がはっきりしてくる。B‐24の海軍型(PB4Y‐2)らしい。尾翼が高い。だが単発機の方はわからない。
相手の方が高度が上なので機影は次第に頭上に上っていく。それぞれのエンジンがくっきりとした白い雲を引いている。
戦闘機の方は震電だった。渡辺が開発した海軍の高高度迎撃機だが、何しろロールアウトしたのが席田飛行場だ。陸軍の飛行場だし、近所なので大刀洗からも士官を何人か視察に出したのだ。現像してすぐの写真が貼り出されるところに立ち会ったが、二二〇〇馬力、三〇ミリ砲四門という風聞のスペックから想像したイメージとはまるで違う飛行機だった。それ以前に私にとってはエンテ型という構成が飛行機として異様だったのだ。地上姿勢ではプロペラを後ろにして飛ぶというイメージが掴めないので尾脚が妙に長いのと垂直安定板が主翼についているのがただただ違和感のある姿だった。
現物を見るのは初めてだが、下からのシルエットにしてみると後退角のついた主翼もなかなかのものだ。まるでブーメランが飛んでいるように見える。
「あの戦闘機、初めて見ます」大嶽が言った。
「震電だろ」笹川が答えた。「まさか、待機所の掲示板見てないのか。おまえのようなやつがいるから同士討ちが起きるんだよ」
「どちみち近づけば日の丸が見えるだろうが」
「海軍の試作機だよ」
P‐51の連中は知っているのだろうか。普通のトーンで何か喋っているが聞き取れない。
音量のダイヤルの位置を確かめようとしたとき、頭上で光が返った。
震電がダイブしてくる。右に捻って背面から、ほとんど垂直。
爆撃機の背中を狙うような、まったく攻撃的な機動だ。
高度差も含めて距離は四〇〇〇程度。
前方、やや左。こちらがまっすぐ飛べばまともに交差する。
私はリース機の動きに注意した。彼はキャノピーの中で震電を見上げている。
気づいている。しかし動かない。
震電は我々の進路から少し軸をずらして真横を一〇〇メートルもないくらいの距離で通過した。まるで砲弾のような速度だ。
妙に甲高いエンジン音を残して真下へ抜ける。
「須賀井中尉」リースが呼んだ。彼は努めて丁寧な発音で続ける。「あの機は我々の進路を妨害しているようだ。君が追い払う。それが筋というものではないか?」
我々には聞こえないがB‐24と交信しているのだろう。だから震電が降ってきても慌てない。
「大嶽、笹川、模擬戦をやって見せろと言われた。一対一にしたい。俺が行こうと思うが、異存はあるか」私は僚機たちに訊いた。
「ありません」大嶽が先に答える。
「同じく」と笹川。
二人とも実力者だ。ろくでもないミスをすれば彼らは私に対する忠誠を失い心の中で見下すだろう。
大丈夫、気負うなよ。
新兵の初陣じゃあるまい。
「リース大尉、私が一機でかかる」私は言った。
「チェック、燃料」リースは短く答える。
「十分は戦える」
「五分だ」
スロットルを押し込む。ミクスチャー・コントロール(高空槓桿)を引いて燃料を濃く。
加速が私の体を座席に押し付ける。
リース機の左横を抜けるところで右を向いて軽く敬礼。
反応は見ない。
出力上げで受信機にびりびりとノイズが入る。音量下げ。
OPL照準器を点灯。
機銃発射ボタンを押して試射。
弾は出ない。それでいい。
ベルトをきつく締め、やや横にブレイクしながら素早く二度左にロール。自分が相手になることを震電のパイロットに知らせる。
震電は遥か下で大きくループ。翼端からリボンのような真っ白な雲を引く。
我々の後方に抜けて上昇に移る。
その上昇もまたほとんど垂直だった。
馬力だけではない。機体が重いから急降下でうんと速度を溜められるのだ。
震電はこちらより二〇〇〇くらい高く登って速度を使い切り、ひらりと水平飛行に移る。
P‐51の連中はベットだのダラーだのというおしゃべりをしている。どっちが勝つか賭けをやるつもりだ。どうせB‐24の方も加わっているのだろう。
「まったく、馬鹿にしてくれる」私は呟いた。
「誰が馬鹿だって?」とリース。
聞こえていたらしい。馬鹿という単語はわかるわけだ。
「大嶽、笹川、どっちに賭ける」
「もちろん小隊長です」笹川が先に答えた。
「俺も小隊長に。でもドル建てでしょう? 困るな。持ってないし」
「円礼でいいじゃないか。連中に土産をくれてやるなよ……」
二人の会話が雑音の中に聞こえる。
振り返ると我々の編隊は上空待機よろしく緩く左旋回に入っていた。僚機の二人は天蓋に顔を近づけて早くも観戦の態勢を整えている。
震電が再びかぶってくる。今度はまっすぐこちらを射線に乗せてくるだろう。
操縦桿を押して緩降下。
七〇〇くらいまで速度を稼ぐ。
そのまま相手の腹の方へ機首を切る。
相手もロールしてこちらに機首を合わせてくる。
距離が詰まってくる。
彼我距離約五〇〇で一気に操縦桿を引き、相手の旋回を誘う。
すぐさま逆にロールを打って相手の後ろを狙う。
上手くいけば相手の上昇に食いつける。
震電は一瞬こちらに食いつこうと機首を上げる。
だが、機体が沈み切ったところでロールしてさらに下へループ、深く潜って溜めた速度で再び急上昇。
しかも思ったより遠かった。
今切り返しても追いつけない。既に一五〇〇くらい離れている。
相手は九〇〇くらい出ていたんじゃないだろうか。
再び上を取られる。
高度も三〇〇〇まで下がった。同じことをしていたら先に海面に押し付けられるのはこちらだ。別の手を打たなければ。
いや、しかし低空で戦うのは悪い考えではないかもしれない。
震電は重い。しかも生粋の迎撃機だ。たとえ運動性に気を遣っていたとしても維持旋回は不得手だろう。同高度の維持旋回に持ち込めればこちらが有利かもしれない。その後どう転んでも上昇で勝てる。
速度三〇〇。
今度は速度を乗せず、むしろ上昇してやや高度を稼いで相手が降ってくるのを待つ。
プロペラの回転数を一八〇〇くらいに合わせて過給機を低空用の一速に切り替える。
カウルフラップも開いておく。
プロペラピッチを最大に戻す。
再び震電が翼を翻す。
そのエッジに反射した太陽が走る。
タイミングを合わせてほぼ同時に降下。
突っ込みは向こうの方がいい。追いついてくればこちらに合わせて抑えるだろう。
追われるというのは被捕食者の立場になることだが、自分が速度の決定権を握っている感じは嫌いではない。
震電は距離九〇〇から三〇〇程まで詰めて維持。
相手の腹側に潜り込むのを意識して小刻みにロール。ジンキング。
相手もロール。
さっきと同じような状況だが、今度は私も逃げずに急降下を続ける。
視界は一面の海。
横転はこちらが速い。捕まらない。
二機が激しい螺旋を描きながら真っ逆さまに海面へ向かっていく。
高度計がぐるぐる回る。
コクピットの中で太陽が回る。首の骨がぎしぎし音を立てる。
耳抜き。
左右に振っている操縦桿をそのまま少しずつ手前に引いて軌道のブレを大きくしていく。
スピードも落ちる。
高度三〇〇〇でスロットルを引く。
相手を押し出す。
震電は
前に出つつエンジンを唸らせる。
こちらに合わせてスピードを殺すより逃げた方がいいと判断したらしい。
その咆哮でこちらのキャノピーまで震える。
耳がやられる。
相手のプロペラの向こうでアフターファイアが明滅する。
震電は大きくバレルロールしてこちらの機首の下に潜り込み、そのまま急降下して逃げていく。
こちらも再びスロットルを一杯に押し込むがまったく追いつかない。機影はどんどん小さくなる。
やはり急降下速度では勝てない。
無線から歓声が聞こえた。攻守逆転に沸いているのか。二機がぶつかったようにでも見えたのかもしれない。
「よく見ておけ。日本人の戦い方を知る最後の機会だ」雑音の向こうでリースが言った。
「馬鹿が。これが順当な戦法なものか」私は言った。送話スイッチは入れていない。
高度一五〇〇で引き上げ。
実戦ならもう少し粘るが、演習で無謀な操縦を行うのは馬鹿だ。
両手で操縦桿を引く。主翼が波打ち、バナナのように撓る。
速度は落とさない。相手が下にいるうちにこちらが上を取る。
震電は海面の手前で半ループ。
降下の勢いで上昇しつつこちらから距離を取る。
高度差が縮まる。
再び上昇していくのかと思いきや、同高度で背面、こちらに機首を向ける。
そうか、真下からこちらを突き上げなかったのは追いついたところで今の速度差では上に逃げられないと悟ったからだ。
つまり上手く速度を削れたらしい。
ヘッドオン。
ラダーを蹴って大きくバレルロール。
交差する直前に切り返してシザーズへ。
案外回ってくる。
相手の機首のほうが早い。
上昇方向へ滑って危うく回避。
二度目の交差。
相手が主翼の下にフラップを出しているのが見える。
速度はまだ五〇〇ほどある。
そういうことか。こちらはまだフラップを出せない。
この速度域では単純な旋回性能は相手のほうが上だ。
鍾馗も高速のほうが得意だが、それでも震電相手なら低速域のほうが勝ち目があるだろうか。
さらに上昇して相手の上を取る。
震電も旋回をやめてまっすぐ距離を取る。
彼我距離は一二〇〇くらいまで広がる。
左バンクして右ラダーで高度維持。
自分の主翼の下に機影を捉えておく。
自分の排気で景色が潤んで見える。
濃緑色の震電は海面に紛れる。深紅の日の丸だけが鬼の目のように浮かんでいる。
そういえばまだ新しい綺麗な塗装だった。
震電は大きく水平に右旋回して円を描きながら少しずつ速度を乗せている。
しかしこの高度で一度押さえ込んでしまえば鍾馗の加速性能がものをいう。相手はいくら離れてもこちらに向かってこようとする限り上を取ることはできない。
こちらはその上方、やや内側に入るように追う。
震電が上昇。一気にこちらの上に出る。
これ以上近づかれると身動きが取れなくなると思ったのか。
こちらの正面を通過するがまだ狙える距離ではない。
震電は背面に入ってこちらに機首を向ける。
私は左に切って相手に右を見せながら距離を取る。
タイミングを計って右ロール、旋回。
相手は追ってこない。下へ抜け、右翼を上にして浅く斜めにループ。
私は大きく旋回。
距離四〇〇、相手は四時方向、やや下方から向かってくる。
スロットルを絞り、わざと相手の前に出るようにしてから左捻り。
操縦桿を左手前に引いて左ラダーを踏み込む。
左旋回に見せかけ、そのまま背面から右下のナイフエッジ。
一気に吹かして相手の背後に食らいつく。
相手はやはり右旋回を選んだ。
プロペラの反トルクが機体を右に捩じるので右旋回のほうが入りやすいのだろう。
相手が内側へ入っていくように速度を保って旋回の外側から攻める。
速度が四〇〇を切る。
操縦桿のボタンを押してフラップを空戦位置(一五度)まで下ろす。
機首がふわりと浮き上がって一気に旋回半径が小さくなる。
照準器の輪に相手の機体が入り、そのまま通り過ぎて機首の陰に隠れる。
少し操縦桿を戻して相手の位置を確認。
震電はそこにいる。
あっけない幕引きだった。
再び旋回の外側につく。
震電は機体を正立にして水平飛行に移る。
あの天蓋で後ろが見えるのか甚だ疑問だが、ともかく完全にこちらの射線に入ったことはわかったようだ。
高度五〇〇、速度三五〇、距離一〇メートルで並航。私が左側。進路はほぼ真東。
左後方、七時方向上空に我々の編隊。やはりB‐24も合流していた。その腹の白色塗装が眩しい。
筒温と油温を確認、カウルフラップは既に一杯。
燃料の減りは想定の範囲内。
呼吸を整える。
マスクを取って襟を押し下げる。
お互い顔を合わせる。
相手のパイロットは確かに海軍の飛行服だ。
彼はガラスの向こうで左手で敬礼。こちらも返す。
前方に向き直る。
すると右にあったエンジン音がすっと消えた。
震電が機首上げ。進行方向そのままに減速。主翼の上で薄い雲が発生と消滅を繰り返す。
あっと思う間に私の乗機の斜め後ろで水平を回復し、すぐさまフルパワーで右にバンクして離脱、西へ向かって上昇しながら飛び去った。
「小隊長の勝ちですね」大嶽が言った。
「当然だろう」私は音量を少し上げて答えた。「単機戦である以上、決着をつけなきゃいけない。あれだけ足があるんだ。実戦なら逃げられてるさ。逃げを選択できない状況では負けるしかない。そういう戦闘機だってある。鍾馗に乗ってる我々にはわかるはずだ」
「もちろん」と笹川。「それはそうと、ひとつ気づいたことがあるんですが。鍾馗と震電っていうのは、真上か真下から見ると機影が結構似ていませんか」
私がその説を確認したのはずいぶん後になってからのことだ。笹川が妙にそのことに執着して二機分の模型を作って私の家まで持ってきてくれたのだ。天井の明かりに翳してみると確かに似ていた。震電は後退翼で、鍾馗の方は主翼の前縁はほぼ真横に伸びているが、主桁には前進角がついている。つまり前後をひっくり返すと似ているのだ。なるほどと思った。それで上昇・降下という得意分野が真逆というのだから、妙なめぐりあわせのような気がして面白かった。
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〇おまけ情報
・フラップ
鍾馗二型のフラップの展開制限は450 km/h以下で9度、400 km/h以下で15度、250 km/h以下で35度です。以下の取説の116ページに書いてあります。
(https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000218627)
しかし時速800キロにも耐えたという証言もある一方で急降下制限が650キロととても慎重な設定ですから、実際にはフラップの展開耐性も制限よりかなり高いのかもしれません。
震電のフラップについては残念ながらよくわかりません。主翼にも前翼にもついていたこと、自動空戦フラップの採用が否定されていることは知っていますが、自動ではないにしても空戦フラップの角度が設定されていたのか、それとも着陸フラップだけだったのか、またそれぞれの展開耐性が何キロなのか、わからないところです。なのでウォーサンダーの設定(空戦540 km/h、着陸350 km/h)でイメージしました。
・鍾馗の航続距離
本土防空戦に参加した鍾馗の多くが増槽をつけずに運用されていたという話を聞いたので、フェリー任務ですがそのまま増槽なしとしました。
同上の取説は『二式戦闘機(二型)取扱法』という題になっているのですが、武装項目の胴体機銃が八九式固定機関銃となっているので、のちの区別による二型甲についてのものだと判断できます。
この21,22ページによれば、燃料タンクは右翼内120 L、左翼内105 L、胴体内260 L、落下タンク(増槽)130×2 Lで合計745 Lになります。二型甲は増槽付きで航続距離が1300 ㎞弱といわれているので、増槽なしでは空気抵抗の減少を考慮しない単純計算でも840 ㎞余りになります。大刀洗飛行場から大正飛行場までの直進距離は約480 kmなので、増槽なしでも十分飛べる距離でしょう。
なおウィキペディアの諸元欄の航続距離が二型甲1296 ㎞、二型乙/丙1600 ㎞となっているのですが、これが燃料タンクの拡大などを意味するのかよくわかりません。
……と書いたのですが、その後ひとまず『世界の傑作機』を見て、わかったような、わからないような。
航空ファンからの引用部分(13ページ)を見ると、燃料搭載量は二型甲・乙・丙とも同じ485+260 Lでした。航続性能は甲と乙・丙で分かれていて、航続距離と最大航続距離はそれぞれ1296/2000 kmと1200/1600 km でした。
航続距離と最大航続距離って増槽の無しと有りのことだと思っていいのでしょうか。
二型の米軍によるテスト記録(77ページ)を見ると、高度450 mで燃料搭載量と速度を変えた場合の記録があって、曰く
402 Lの場合、399 km/hで909 km、 280 km/hで1191 km
746 Lの場合、370 km/hで1304 km、266 km/hで1690 km
だそうで(まず巡航速度(400 km/h)で最大航続距離とならないところに驚いたのですが)、搭載量からして、402 Lの場合が増槽なし、746 Lの場合が増槽あり、ということはほぼ確実に言えると思います。
こうしてみると航続距離/最大航続距離をどう捉えればいいのかさらに微妙なところです。時速200キロ台で増槽の無し/有り、というのが記録的には確かに近い。でも増槽ありで巡航速度(400 km/h)/時速260キロくらい、というのもあり得そうです。
むー。勘弁して。
ともかく米軍記録の中で今回の状況に一番近いのは左上です。OK?
・過給機の切り替え
上記の取説120,121ページに
高度3500 m未満の全力上昇・全速、高度5500 m未満の巡航は1速
高度3500 m以上の全力上昇・全速、高度5500 m以上の巡航は2速
とあります。
切り替え時は発動機愛護のため回転を毎分2000以下にすること、必要なら公称回転(毎分2600くらい?)でも可、潤滑油温は75℃以下、切り替え間隔は3分以上置くこと、2速で低空に降りても大丈夫だけど馬力が下がるからできるだけ1速にしてね、などと書かれています。
・無線セット
鍾馗二型の装備は取説上では九六式飛三号二型無線機となっているのですが、帯域についての情報が見つかりませんでした。しばしば換装されたという九九式飛三号無線機の情報を援用しましょう。使用帯域は短波(HF)で、送信2.5-6.7 MHz、受信1.5-6.7 MHzに対応しています。
(http://www.yokohamaradiomuseum.com/army2.html)
P-51Dの無線セットにはいくつか種類があり、最も古いのはSCR-274-Nです。これは中波(MF)帯、200~400 kHzに対応していますが、各種受信機・送信機を追加することでHF帯までカバーすることができます。受信は受信機BC-453で190~550 kHz、BC-454で3~6 MHz、BC-455で6~9.1 MHzに対応、送信は送信機BC-457で4~5.3 MHz、BC-458で5.3~7 MHz、BC-459で7~9.1 MHzに対応していました。周波数(チャンネル)を合わせれば九六式飛三号二型無線機ともやり取りできるはずです。
(https://ww2aircraft.net/forum/threads/p51-d-antenna-wire.18345/)
(http://www.scr-274-n.info/basic-components.html)
VHF帯の無線装備もあり、後継機までの場つなぎとして採用されたSCR-522と本命のAN/ARC-3がこれにあたり、使用帯域はだいたい100~150 MHzです。
使用するアンテナはSCR-274-Nがコクピット内からキャノピーを貫通して尾翼上に取り付けられた張り線、SCR-522が背中のブレードアンテナ、AN/ARC-3が胴体下面、脚の間にあるブレードアンテナです。
SCR-522とAN/ARC-3はさすがに選択式のようですが、SCR-274-NとSCR-522は両方積んでいる機体が多かったようです。
おまけ情報はこれを書くにあたって調べただけなので、ガチ勢の諸兄は間違っているところがあったら指摘してください。確認できれば訂正します。
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