第10話 再開




 そうして始まった男との二人暮らし(一方的に部屋を間借りしているだけとも言う)も、半年が過ぎた。その頃になると辺り一面は雪に覆われ、獣の往来すら見られなくなる。


 そんな、冬の山の中。


 さすがに、半年も一緒に、同じ屋根の下で暮らせば、男曰く『お前は鈍い』と言われた私にも見えて来るモノがある。それは、率直に男に関して気づいたことが三つと、私自身について分かったことが二つ……この、五つである。



 まず男について気付いたことの一つだが、世捨て人のような生活をしているこの男には、名が無いということだ。



 正確にいえば、名を捨てたと言う方が正しいのだろう。男は、自らの過去を名乗ろうとはしなかった。それは私の方からあえて話題にしなかったのも理由の一つだろうが、それを抜きにしても、男は欠片も語らなかった。


 だから、私は男の名を知らない。いや、名前だけじゃない。分かるのは男の外見から推測出来るおおよその年齢と、性別。あとは、時々ではあるが脇腹を抑える癖が見られた辺り、臓器を悪くしているのではないか……というところぐらいであった。



 そして、二つ目。それは男が……これは私の主観でしかないのだが、生きることを諦めているという節が生活の端々に見られるという点であった。



 死にたがっている、というわけではない。ただ、男からは、こう、なんだろうか……気力が感じ取れないのだ。


 生きてはいるが、死んでいない。死んではいないが、生きているだけ。言葉に例えるなら、そんな感じだろうか。男の瞳より感じ取れる、さざ波のように穏やかでありながら、何処までも静まり返った不気味さに……私は、例えようもない不安を覚えた。


 怖いというわけではない。ただ、不安なのだ。凶悪な存在だからというわけではない。むしろ、この男は私に対して優しかった。


 右も左も分からない私に対して、一度として声を荒げることはなかった。呆れたような眼差しを向けることはあるが、その度に『もう一度やってみろ』と言わんばかりにチャンスをくれるような男であった。


 だが、私は男に対して不安を覚えた。何故なら、自らの事を何一つ語ろうとはしないこの男は、一日に何度か……フッと、陽炎のように消えてしまいそうな雰囲気を見せる時があったからだ。


 当たり前だが、この男は忍者ではない。漫画やアニメのように指を立ててドロンと煙を出して消えるわけでもなければ、透明人間になったわけでもない。ただ……何時死んでもいいと本気で思っているその背中に、強い不安を覚えた。



 そして、最後の三つ目。それは、男が何かに……相手は分からないが、その何かにとてつもない憎悪を抱いているということであった。



 いったい、男の過去に何があったのか……教えられてもいないし尋ねてもいない私には分からない。だが、言葉では到底言い表せられない何かが有ったのだということは推測出来た。


 その男が憎悪を見せる瞬間は、マチマチだ。特に決まりがあるわけではなく、私の目には規則性らしきものは見えない。けれども、男がその憎悪を押し込めている壺の蓋を外した瞬間……それだけは、私にも察することが出来た。


 それは、陽炎のように消え入りそうな男が時折見せる……強い、その身を熔かして燃やしそうな程に激しく重い憎悪を立ち昇らせる瞬間。


 その時ばかりは、私も男の傍には近寄ろうとはせず、遠目から見守ることに徹した。憎悪を立ち昇らせている時間はそう長くなく、だいたいは10分もすれば治めてくれるからだ。


 まあ、私が男について分かったことはこれぐらいだろうか。他には、魚釣りが上手かったり、大工作業が上手かったり、私から話題を振らない限りはまず会話が起こらないぐらいには無口というところ……か。



 ……さて、だ。



 男について分かったことをつらつらと述べたわけだが、そんな私自身について分かったことが、この二か月の間に二つある。



 その内の一つは……私自身が、どうやら『重度の記憶喪失を発症している少女』であるという点だ。いや、少女なんてのは見たら分かることなのだが、実は……その、男と暮らし始めた当初、私は自分が『女』だということが分からなかったのだ。



 記憶喪失らしいので私には分からなかったが、どうやら私の記憶喪失は歪でありながらも相当に根深いようだ。何せ、自分の名前はおろか性別すら分からないのだ。そのくせ、地名に関して少しは覚えている辺り、歪と捉えていいだろう。


 その上で、だ。そりゃあ、いくら記憶がないからといっては、だ。身体の違い(正確には、見た目の違い)から、何となく眼前のこいつと私とでは、何かが違うんじゃないかなとは思っていた。


 でも、それを細かく修正してくれるやつが此処にはいない。何せ、男曰く『周辺どころか周囲数十キロはほぼ緑色』らしいこの場所で、比較対象となるのは、この無口な男だけなのだ。


 私よりも二回り以上は身体がデカいし体中がもじゃもじゃだが、比較対象となるのがそいつ以外いない。ぶっちゃけ、男から『強くは言わないが、女の子なのだから少しは慎みを持て』と言われて、初めて私自身が『女』という存在であることを認識出来たぐらいなのだ。



「――だからさ、別に私は気にしないんだからそんな目くじら立てなくてもいいと思うんだけど」

「駄目だ……それ以前に、どうして裸になっているんだ?」



 けれども、そんな私の主張を一言で切って捨てた男は、その言葉と共に……乾いたタオルを投げつけてきた。なので、仕方なく私は沐浴で濡れた己が身体に巻きつけた。


 すると、何故か男はため息を零した。ただの溜め息じゃない。その上に、特大の、という形容詞が付くぐらいの、大きなため息だ。あまりといえばあんまりな態度に、さすがに私も苛立ちを覚えた。


 先ほどの考えを訂正する。気づいたことは三つではなく、四つだ。この男はどうも口うるさいというか、細かい事を気にする性質というか……とにかく、事あるごとに『慎みを持て』と言ってくる。良いやつであるのは確かだが、正直……そう思った私は、「何だよ、そのため息は」軽く睨みつけてやった。



「お前……普通は胸と股の両方が隠れるように巻くものだろう。何で、腰から下だけを隠すんだ?」

「…………」

「俺は気にしないが、世間は気にする。いや、むしろ攻撃すらしてくる。お前はせっかくの美人だ……不本意であろうとも、『女』の振る舞い方を覚えていて損はない」

「……お、おう」



 まさかの、正論。いや、それを正論と思うかは人それぞれだとは思うが、私は男の言わんとしていることを正論であると思った。私自身、何故、それを正論と思ったのかは分からないが……話を変えよう。

 下手にこのままだと話が長くなりそうだと思った私は、「ああ、そうだ。アレは、どうしたらいい?」己が沐浴を行う必要に迫られた原因……へと、指差した。



「……外に置いてあるのか?」



 私の指差した先は壁……つまり、示しているのは外だ。大物だぞと答えてやれば、男は……またもや溜息を零した。いったい、何が不満なのだろうか。


 そう思う私を他所に、男はのっそりと椅子から腰を上げて、外へと向かい……次いで、手招きされた。今度は何だと思ったが、促されるがまま外へと出た私の眼前にあるのは……イノシシの亡骸であった。


 手足はもぎ取られ、内臓は粗方引きずり出されている。誰がやったのかって、私がやったのだ。ぽかりと空いた腹部の穴は、私の拳が突き刺さった跡である……そう、これが私自身が気付いた、私の事の二つ目だ。


 どうやら私は、他人と比べて非常に力が強いらしい。おまけに、体力や肉体の頑強さが尋常ではないのだという。これまた比較対象がないので何とも言い難いのだが、男曰く『人間じゃない』と断言されたぐらいらしい。



 まあ、普通とは違うのだろうなあ、とは思う事は多々ある。



 私には何が凄いのかが分からないが、私の拳はイノシシの腹部に容易く風穴を空ける。そして、百kg近い巨体を片手で掴んで投げ飛ばす腕力に加え、その突進を受けても膝すら擦り剥かない身体……それが、人間でない証らしいのだが……話を戻そう。


 とにかく、この大きな肉を前に、何故憂鬱そうにしているのだろうか。私は、首を傾げて男を見上げた。



「もしかして、血抜きが不十分だったか? 私なりに根こそぎ水洗いしたつもりだったんだが……」

「違う、そうじゃない。こんなデカいやつを仕留められても、食い切れないだろう。俺もお前も、大した量を食うわけじゃないだろ」

「干し肉にしたり塩漬けにしたりして保存すればいいじゃん」

「良い所だけで何十kgあると思っているんだ。それに、前にお前が仕留めた分がまだ残っている。あれだけで、半年先までは余裕が持てる量だぞ」



 ちらりと、男の視線が室内の……その奥にある小さい保冷庫へと向けられる。まあ、保冷庫といってもただの倉庫みたいなものだが……つられてソコへと視線を向けた私は……そっと、男に背を向けた。


 何故なら、そこにあるのだ。つい先日……正確には9日前に私が仕留めて塩漬けにした、干し肉の山が。それはもう、発泡スチロールの箱にこれでもかと詰め込まれ、安置されている。



 ……言われてみれば、そうだった。



 私もそうだが、この男も大した量は食べない。私と同じく、どちらかといえば酒のツマミに飯を食べるというタイプであり、食べ物よりも酒が良いというやつなのだ。

 そりゃあ、そこまで喜んだりはしないだろう。既に溢れんばかりに備蓄があるのに、そこに同じやつを持って来たってそう喜ばれはしない。それが年単位で長期保存が可能であればまだしも、生肉となると……うむ。



(分かってはいたんだけどなあ……何か、向かって来てくれたのが嬉しくてついついやっちゃうんだよなあ……)



 ここに来てようやく事態を理解した私は、困って男を見上げた。「売りに持ってはいけないのか?」そう尋ねれば、男は静かに首を横に振った。



「何十年も前ならそれで金になっただろうが、今は無理だ。特に、生肉の取り扱いはな……持って行ったところで、門前払いされるだけだ」

「……と、なると?」

「食べきれないのなら、仕方ない。自然に返し、自然の血肉になってもらうしかあるまい。幸いにも、イノシシは害獣扱いされている……猟銃を使ったわけでもないし、咎められることはないだろう」



 そう言うと、男は……私の頭に手を置いた。身長差があるので、男の手は容易く私の頭に乗せられる。正直、何とも言い表し難い感覚に私は背筋を震わせ……振り払った。


 けれども、男は構わず私の頭に手を置いた。次いで、撫でる。その手付きは御世辞にも優しいものではなく、ぶっきらぼうだ。右に左に上に下に、撫でるというより掻き回すと表現した方が正しいだろうソレを、私はもう一度振り払った。



 それを見て、男は笑った。



 滅多に笑わないこの男が笑みを見せるのは、数日に一回、有るか無いかぐらいだ。最初の頃は魚が大目に獲れたりした時ぐらいしか見せなかった笑みを、私に見せるようになったのは……こういう時が多い。



 つまり、今みたいに私が何かしらのヘマをしたりした時だ。



 私としては不本意だが、どうやら眼前の男はそれが面白いようだ。その時ばかりは、この男の目に気力が生まれる。その光が嫌いではない私は、怒ればいいのか無視すればいいのか分からず、何時もこうやって半端な態度を取るしかなかった。



「――分かった。それじゃあ、ちょっと捨てて来るから!」



 だから、何時も強引に話を切り上げる。見透かしているのだと言わんばかりの男の視線に、背筋がむず痒い。私は、それから逃れる様にイノシシの亡骸を盾にすると、押し固められた雪を蹴って……何時もの川へと向かった。










 ムササビのように空を舞って、小さい背中が雪の向こうへと消えてゆく。タオル一枚を腰に巻いただけだというのに、寒さを物ともしない少女を見送った男は……やれやれとため息を零して、部屋の中へと戻った。


 男が暮らすこの家を温める、唯一の薪ストーブ。それが、ぱちりと音を立てている。先ほどくべたばかりの薪が異常なく燃えているのを見やった男は、ため息を吐きながら……また、元の椅子へと腰を下ろした。



 何だろうか、今日は特別に身体が重いと、男は思った。



 体調は安定している。だが、どうにも億劫だ。疲れているわけではないのだが、何だか今日に限って気力が湧いてこない。まるで、呼吸をする度に生命力を吐きだしているかのような気分だ。



 ……俺も、歳を取ったということだな。



 そう、己を納得させた男は、近ごろ疼くようになった胸を摩る。そうするだけで、何だか疲労感が薄れるような気がした。



 ……あの子がこの家に住む様になってから、半年か。



 内心にて、男はもう一度ため息を零す。最近……いや、ここひと月ほど前から、ため息を零す機会が増えていること。それは単純な心労ではなく、もっと別の……己が胸に手を当てた男は、やれやれと頭を振った。



 男は……かつて、全てに絶望していた。



 まだ、男が大学に通っていた時。男の未来には、様々な道が開けていた。全体から見れば中堅より少し下ぐらいの大学に通っていた彼は、ただ漠然と、いずれは社会人の一員になるものだと考えていた。


 高校の時よりIT関係に興味があった彼は、そちらの方面を目指して勉強していた。他の大学生と同じく将来に対する不安はあったが、いずれは妻を持ち、裕福ではないが慎ましい日々を送るのだろうと男は思っていた。



 だが――そうはならなかった。どうしてかといえば、男を含めた同世代を襲った……世界規模の大不況のせいであった。



 今も時々、男はその時の事を夢に見る。さすがに涙を流しながら目覚めるなんてことはなくなったが、あれは……地獄であった。


 切っ掛けは、欧米の不動産やら金融やらが原因らしいが、その時はそんなことはどうでも良かった。重要なのは、その余波によって、男を含めた大多数の同世代の未来が、一瞬で粉々になってしまったという点であった。


 大規模な締め付けなどという生易しい話ではない。文字通り、就職先が消えたのだ。先週まであった就職口の6割近くが、一斉に『今年度の採用者はありません』と大学へと送って来たのだ。


 あの時の衝撃を、阿鼻叫喚などという言葉では言い表したくない。だが、そうとしか思えない現実を前に、男を含めた同世代の誰もが……残った4割へと、殺到した。


 選り好みしている余裕なんて、なかった。そこが元々選択肢から除外されていた職種ではあったが、関係なかった。とにかく、このまま行けば無職のまま社会に放り出される……その恐怖から逃れる為に、誰もが必死だった。


 けれども、現実はそれ以上に残酷だった。残った4割……それすらも、大企業の事業縮小の煽りを受けて、ばたばたと……ドミノ倒しのように、倒産していったのだ。



 その結果、男は正社員という立場には成れなかった。



 故に、男は正社員という立場を諦め、派遣やアルバイトの立場に就いた。望んでそうなったわけではない。それしか、男の前にはなかったのだ。いや、それにも成れなかった者を多数見てきた男にとって、それでもまだ上等だと当時は思っていた。



 だが……そこからが、男にとっての苦難の始まりであった。



 一言でいえば、何もかもが不安定であった。そして、キャリアなど積める環境にはなかった。会社からは部品の一つとしてでしか見られず、少しでも意見しようものなら即日交換なんていうことも、珍しくなかった。



『お前たちの代わりなど掃いて捨てるほどいる。嫌なら、今すぐ辞表を書いて提出しろ!』



 それが、男の若き頃に最もよく聞いた言葉であった。そこに、社会人としての尊厳はおろか、人としての尊厳すらなかった。明日にも路頭に迷う可能性に怯えながら、男は何時か正社員に雇用される日を願って、必死に働いた。


 その間、色々なことがあった。大規模な派遣切りによる大量失職、天災に中東の戦争。15年掛けてようやく景気に回復傾向が見られたかと思えば、その時にはもう……男は、社会からは『怠け者』としてのレッテルが張られていた。



 何よりも強くレッテルを叩きつけて来たのは、皮肉にも男と同世代の……正社員としての立場を手にした者たちで……ある意味、それが一番辛かった。



 そうなる頃にはもう、生き残っている友人は二人だけであった。



 前は両手の数だけいたのだが、二人を除けば全員が将来に絶望し、命を絶った。その二人だって、長く続けられた部品扱いによって精神を壊し、今ではまともに会話すら出来なくなっていると聞く。


 それでも、男は耐えた。何時の日か、政府が……国が、何かしらの手を差し伸べてくれるのを。人並みでなくてもいい、明日の食事に心配しなくていいようにしてくれる……そう願って、男は耐えた。



 だが……全てが、考えていた中でも最悪な結果となって男に返された。



 国は、男を含めた同世代の全てを『いない者』として扱ったのだ。雇用統計からも意図的に外された男を含めたこの世代は、バブル世代とその下の世代の肥やしとなって消耗され……捨てられた。


 それを、あの日。たまたま見たテレビに映し出されていた国会中継を見た、あの瞬間。男の中で、何かが壊れた。何かが、はっきりと壊れる音を男は聞いた。



 それからの日々は、ただ生きているだけの毎日であった。



 明日仕事が無くなる恐怖に怯えて安定剤が手放せなくなり、不安を忘れる為に睡眠薬を常飲するようになった。身体の至る所が悲鳴を上げ、存在しない何者かの姿を時折見るようになった。


 楽しいという感情など、とうに消え失せていた。大学を卒業してからこれまで、まともに笑ったことはない。抱えた不安に怯え、常に顔色を伺い、それでも自殺する気力が持てないまま……気付けば、男は大病を患っていた。


 その病名が何なのかを、男は覚えていない。『ガン』だとか腫瘍だとかを医者から言われたが、男は覚えていない。たった一つだけ、覚えていることがあるとしたら……それは、解放から来る喜びであった。


 そう、喜びだ。命の期限をはっきりと明示された、あの瞬間。男の胸中を過ったのは、かつてない程の開放感と……安堵感であった。


 仮に、あの時。いや、この国に、外国と同じく銃器が普通に販売されていたら。おそらく……いや、間違いなく、自分はそれを手に取っていただろう。そして、思いつく限りに銃口を向けて……躊躇いもなく引き金を引いていただろう。



 少なくとも、あの時それが可能であったなら、そうしていた。実行しなかったのは、この国に銃が無かったからだ。



 それを男自身が自覚していたからこそ、男は街で暮らすのを止めた。何時の日かと思って贅沢の全てを除外して溜め続けた金を使って、この場所に来てから数年。あの時よりは、幾らか心が平穏で満たされているのを男は感じていた。



 それでも、消えたわけではないし、忘れたでもない。ただ、記憶に蓋をして、忘れたふりをしているだけだ。



 その証拠に、時々ではあるが、湧き出す憤怒に我を忘れそうになる時がある。何の前触れもなく、突然、何もかもを壊したい、幸せそうに歩いているやつらを皆殺しにしてやりたいと思う時がある。


 使い潰され続け、使い潰され続け、気付けばこうなっている。その現実を否定したくて、何もかもをひっくり返したくて、どうにもならない程気分が滅茶苦茶になる時があった……でも、今は違う。



(あの子が此処に来るまでは……ただ、耐えるだけだった)



 そう、あの子だ。あの子が来てから、変わった。それはとても小さい変化だが、自分の中で何かが……決定的な何かが変わったのだと、男は思った。


 目を瞑った男は、静かに少女のことを思い出す。イノシシを片手で担ぎ、太い木々を菓子のようにへし折り、雪景色の中を半裸で歩き回っても平然としていられる……あの、名前すら知らぬ子の事を。



(不思議だ……どうして、俺はあの子の事を受け入れたのだろうか?)



 閉ざされた瞼の向こうで、男は思う。


 少女は、その美しい外見とは裏腹に、『少女』では欠片もなかった。そう思うようになった切っ掛けは……今の所、男には思いつかない。


 何と言い藁せばいいのか……そう、『男性』だ。それも、20代ぐらいの男性……少女の川を被った男性なのではないかと思う時が、多々ある。


 もちろん、少女は男性ではない。手足は細く、背丈だって低い。女の証でもある性器があるのは何度か目撃したし、顔立ちだって女性のソレだ。


 だが、立ち振る舞いがそうではない。重度の記憶喪失であるのは確かだが、何というか……細かい部分が、男性のソレなのだ。男である彼もまた『男性』であるからこそ、それがよく分かった。


 だが、男が少女を受け入れた理由はそこではない。そんなのは、一緒に暮らし始めてしばらく経ってから分かったことだ。


 どうして、受け入れたのか。今日もまた、男は考える。考えて、考えて、考え……かんが……え…………。








 積もった雪原に、足跡を残す。最初の頃は物珍しさに気分も高揚したものだが、さすがに毎日毎日同じ光景ばかりが続くと、飽きる。「はよう、春になれよう」そう呟きつつ、私は……掲げたイノシシ肉を、放り投げた。


 肉の塊は、放物線を描いて川向こうへと飛んで行った。下手に川に流すと、何処でどう被害が及ぶか分からない。川向こうにも雪は積もっているので落ちた先は見えなくなったが……まあ、獣やらハエやらがどうにかしてくれるだろう。


 ……辺りを見回せば、周囲にはその獣の気配はない。少なくとも、この私の耳を持ってしても、聞こえない。雪が音を吸ってしまうせいか、本当に静かであった。



「もう、冬なんだな……」



 その中で、ポツリと呟いた私の言葉もそこへ解けてゆく。思えば、私があの男の家に世話になって……もう、半年だ。


 単調な日々ではあったが、退屈ではなかった。半年が経っても男は相変わらず寡黙で、私の過去を尋ねたりはしてこない。反対に、私も男の過去を尋ねようとはしていない。


 それが、何とも心地良かった。この距離感が、良かった。干渉してくるわけでもなければ、無干渉というわけでもない。付かず離れず、その言葉がピタリと当てはまる今の時間が……私には、好きでならなかった



「……いや、いやいや、いやいやいや」



 何を言っているんだ、私は。


 思わず、私は己が頬を叩いた。なんて恥ずかしいことを考えていたのか……この私だぞ。この私が、誰かと一緒と暮らして、心地よい、楽しいだなんて……そんなの、今まで一度だって……ん?



(あれ、いや、違う……ん? 何が違う……だって、私は今まで……)



 ……止めよう。考えると、どうにも額の奥がちりちりと痛む。とりあえず……これで肉の処理は終わりだ。下手に近場の放置しておくと獣が寄って来るし、そうでなくとも悪臭を放ち始める。微生物の活動をなめてはいけないのだ。



「……あのイノシシには悪い事をしてしまったかな……まあ、襲い掛かって来たのは向こうからだし、仕方ないか」



 気持ちを切り替えるつもりで大きく伸びをした私は、踵をひるがえして家へと向かう。そういえば、この恰好で出て来てしまった……また怒られそう――ん?



 不意に……私は、足を止めた。いや、それは止めたというより、止まった、という方が正しいのかもしれない。


 何か……そう、何かが、胸中を過った。それが何なのか、私には分からなかった。ひと際強く跳ねる胸の鼓動に、思わず私は手をあてがい――それは、直感であったのかもしれない。



「――っ!」



 何かが、起こっている。根拠はないが、その瞬間、何よりも強い予感を認識した私は……家へと駆けだしていた。


 反動で、雪が周囲に飛び散り、タオルが舞う。構わず、走る。瞬く間に家へと辿り着いた私は、蹴破る勢いで扉を開けて、「――おい!」ぐったりとした様子で床に倒れ伏している男へと駆け寄った。


 男の顔色は、真っ青であった。額に浮かぶ汗は冷えているが、表情は穏やかだ。まるで、今にも息を引き取ろうとしているかのよう――そう、あの人のよう――違う!



「――ぐっ、うう!?」



 脳裏を過った強烈な激痛に、私は顔をしかめた。だが、痛みに呻く暇はない。男を仰向けにした私は、次いで、ボタンを外して裾を捲り、露わになった胸に耳を当てた。



(音が……今朝と違う!?)



 何か、心臓に異常が起こったのか。


 気付いた私は、急いで男の胸を叩こうと――したが、その前に手を止めた。それは、今やらんとしているこの行為が、果たして適切なのかどうかが分からなかった……からなのと、もう一つ。


 私の手が男の胸を叩く前に、その当の男が私の手を遮ったからだ。「な……何も、しなくていい……」ひゅうひゅうと苦しげな様子ながらも拒否するその姿に……私は、気付けば吼えていた。



「――ふざけるな!」



 目尻を吊り上げ、唾を飛ばし。この家に来て初めて荒げた怒声に、瞑られていた男の瞼が、僅かに開いた。「なにを、満足して逝こうとしてんだよ!」それを見て、私は男の頬を軽く叩いた。



「まだ生きているんだろ!? だったら生きろ! 病院だろうが何だろうが、俺が背負って連れて行ってやるよ!」

「いい……もう、何もしなくていい……」



 でも、男の反応は変わらなかった。しかし、少しは気持ちが動いてくれたのか、「少し、身体を起こしてくれ……」そう言って手を差し出してきたので、私はその手を取って身体を起こしてやった。


 軽い……反射的に口走りそうになった言葉を、私は寸での所で呑み込む。せめて苦痛が和らぐようにとその胸に手をあてがうと、男は意外そうに私を見やり……目を細めた。



 ――ああ、止めろ。



 思わず、私はその顔を張り倒したくなった。憎いわけではない。ただ、どうしようもなく……私自身の胸が苦しくなったからだ。


 分かるのだ、分かってしまうのだ。男の胸に宛がった指先から、掌から伝わる命の鼓動に、異常が起こっているのが。そして、理解してしまうのだ。


 己の――としての感覚が、それを察知してしまう。この男は、もうまもなく死ぬ。例えるなら今は、最後に勢いよく燃え上がる蝋燭のような状態なのだということを……嫌でも、理解させられてしまう。



「病院には、行く気はないのか?」

「行く気は……ない。これで、いい……どうせ、長くない命だ……」

「持病でも、あったのか?」

「心臓に、少し……とはいえ、全身ボロボロさ……」



 そう告げた男の顔は……笑みを形作っていた。それは、私を安心させる為のものではない。本心から、死を喜んでいるのが伺える……穏やかな微笑みであった。



「何で……生きることを諦めるんだよ」

「今更、生きていたいとは……思わん……いいんだ……これで……」

「どうして、どうしてだよ……どうして、どいつもこいつも……」



 だからこそ、堪らなかった。今にも掻き毟りたくなるほどの痛みに、私は己が胸を掴む。ぎりぎりと、指先が肌を抉って鮮血が手首を伝ってゆく……その痛みに気が紛れた私は、大きく息を吐いて。



 それから。


 それから。


 それから……それから、私は男を見つめた。



「死なないでくれ……頼む、死なないでくれ」



 その頬を摩れば、私の血がぬるりと張り付いた。まるで――のように、生気が失せ始めている瞳を見つめた。



「お願いだ、私を一人にしないでくれ。もう、一人は嫌なんだ」

「……どうした、いきなり……」

「嫌なんだ。寂しいんだよ。もう、一人で食べる飯は嫌なんだ。何でだよ、何でみんな私を置いて逝くんだよ」

「………………」

「どうしてだよ、どうして、私が好きになったやつはみんな、死んで行くんだよ。どうして、私を置いて逝くんだよ。どうして、私を連れて行ってくれないんだよ」



 頬が、熱い。視界が、歪む。胸が、痛い。滴り落ちるそれらが、男の首筋に落ちる。ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 どうして、私の前からいなくなるんだ。どうして、好きになったやつばかりそうなるんだ。私が、何をしたっていうんだ。私が、いったいどうしたっていうんだよ。



『――――っ』

 ああ、違う。それは違う。違うんだ、誰も、私も、そうしたかったわけじゃないんだ。



『――――っ』

 ああ、止めろ、思い出させるな。せっかく、今まで忘れていたんだ。これからも忘れたままでいさせてくれ。このままでいさせてくれ。



『――――っ』

 止めろ、違う、違う、そうじゃない、違う、私はただ、皆のために、ただ皆の為にそうしたかっただけで、違う、違う、違う違う違う違う違うちが――。



「――阿呆、また同じことを繰り返すつもりか?」

 


 ……瞬間、視界が晴れた。何が起こったのか分からなかった私は、上下左右と視線を動かす。直後、己が頬を挟む手に気付いた私を見た男は……そっと、手を離した。



「俺は、お世辞にも優秀な人間ではなかった」

「――っ、そんなこと」

「いや、優秀ではなかった。少なくとも、世間は、社会は、俺を落第者とした。自己責任だと誰もが口を揃え、滑り落ちた俺たちを……都合良くいない者として扱った」

「…………」

「俺の弟は幼いころから優秀でな。俺よりも上位の大学を卒業して、有名企業に入った。美人の嫁さんを捕まえて、子供を作って、家を建てて……何もかもが順風な人生を送っている」

「…………」

「俺は、中学に入った頃から弟と比べられ続けた。俺なりに結果を出しても、俺の親はその度に同じことを言った。『弟の方が点数がいい、もっと頑張れ』、とな」



 そこまで話し終えた辺りで、男は大きく息を吐いた。堪らず見やれば、「もう少しだ、話を聞いてくれ……」男は気力を振り絞るかのように声を震わせて……話を再開した。



「今になって、分かる。お前は、あの頃の俺と似ているんだ」

「……あの頃?」

「誰からも認められず、誰からもついでのように見られていた頃の俺と……今のお前は、鏡を見ているかのようにそっくりだ」

「そんなに……似ているのか?」

「ああ、そっくりだ。似ていると分かったから、余計にな」



 そう言うと、男は……グッと腕を伸ばし……私の頭に手を置いた。その掌の位置は何時もより少しばかり低く、額に近い位置であった。私は、その手に合わせて頭を下げ……全体に掌をあてがうようにしてやった。



「あの時の俺は、こうして欲しかったんだ」



 その瞬間――はっきりと涙が噴き出したのを、私は知覚した。



「別に、金が欲しいわけじゃない。地位が欲しかったわけじゃない。ただ、言って欲しかったんだ。お前は頑張っている、例え世界がそうではないと口を揃えても、俺だけがお前の頑張りを見ているぞ……と」

「……ひっ、ひっ」

「そうして、頭を撫でて欲しかった。子供っぽいと言われても、お前は頑張っていると、お前も大事な家族だと褒めて欲しかった……俺が欲しかったのは、ただそれだけなんだ」

「ひっ、うっ、ええ、へえ、ええ……」



 止められない。涙が、止まらない。堪えようと思っても、どうしようも出来ない。歪みに歪んだ視界に映る男の顔は、もう分からない。


 笑っているのか、それとも悲しんでいるのか。声すら、私自身が漏らす嗚咽が邪魔をする。それでも聞き分けるのは、私は――だからだ。



「お前も、そうなんだろ? 分かるよ、俺もかつては通った道だからな」

「ぐすっ、ふう、ふう、うう……」

「だから……泣くんだ。力いっぱい、泣くんだ。あの頃の俺が、かつての俺が、今の俺が出来なかったことを、お前はやるんだ。お前は、それが出来るんだ。それをして、いいんだ……」

「ふう、ふう、ふう、ふう……」

「俺は逝く。お前を置いてな……でも、これだけは……忘れないで……くれ……」



 瞬く間に、男の声から力が抜けてゆく。堪らず、私は顔を近づけた。そうしなくても聞こえたのだが、どうしても私はそれをせずにはいられなかった。



「最後に……お前に会えて……」



 だから、私は見ることが出来た。涙で歪んだ視界の中でも、はっきりとその顔を見ることが出来た。



「……楽しかったぞ……悪くない、さい……ご……」



 心からの、笑みを。今までこの男が見せて来た笑みの中でも、とびっきりの笑みを、私は見ることが出来た。そして、それは同時に……命が、男の中から飛び出した瞬間でもあった。



「  あ あ 」


「ああ あ ああ 」


「ああああ ああああ ああああああ」



 理解した、男の死を理解した……そこで、私はもう駄目になった。



 ――私は、泣いた。



 心から、泣き続けた。鬼の身体でなければ喉が枯れ果て、衰弱死していたであろうぐらいに、ただただ泣き続けた。



 ――そして、私は謝った。



 私が殺した者たちへ、謝った。私の怒りに巻き込んでしまった者たちへと、謝った。私の怒りを理解することが出来ない無垢な者へと、謝った。私の……欲求に少しでも利用してしまった、好きだった者たちへと謝り続けた。



 謝って、謝って、謝って、謝って、謝って、謝って、謝り続けて、そして……気付けば、私の傍に『ママさんたち』は消えていた。







 それから、私は男の亡骸を家の傍にある小さい広場に埋めた。そこは、先日男が『俺が死んだら、そこにでも埋めてくれ』と口にしていた場所であった。


 あの時は、つまらん冗談だと思っていたが……己の寿命を予期していたのだろう。もしかしたら違うのかもしれないが、私はその言葉を頼りにして男の遺体を埋めてやり……そこに、石を置いてやった。



「……そういえば、結局お前の名前は分からず仕舞いだな」



 しばし手を合わせて、部屋に戻った後。男が用意してくれていた、私用の衣服(要は、男のお下がり。Tシャツに長ズボン。ぶかぶかで、サイズが違い過ぎる)を身に纏った私は、ふと、思い出して……苦笑した。


 こいつは、最後の最後まで怒りを他者に向けずに人生を終えた。そして、最後の最後で……こいつは、自分と向き直った。


 反面、私は何をしていたのだろうか。自らが仕出かした事から逃げ出し、ママさんたちとの思い出からも逃げ出し、この男との思い出からも逃げ出そうとした、この私は。



 ――行こう、また、あそこへ。



 気付けば、私はそう心の中で呟いていて……呟いた時にはもう、私の足は歩き出していた。外は相変わらずの雪景色で、既に日も暮れて真っ暗であったが。



「……ここって、こんなに星が綺麗だったんだな」



 不思議と、私には……何もかもが輝いて、それでいてどこか寂しく見えた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る