第9話 忘却
都会より離れ、町からも離れた山奥。年に数回、物好きな登山家や自殺志願者意外には立ち寄ることのない緑の奥に、とある男の家がある。
男の家は、古い木造住宅であった。築50年以上は経っているだろうか。ガラスはひび割れ、瓦も一部が割れて、傍目には捨て置かれた廃墟にしか見えない。
周辺に、他の家はない。いや、家というよりは、家屋の残骸と畑がある。家屋は、辛うじて雨風を防げる程度には残されているが、その中は……おおよそ、外よりはマシだろうという状態になっていた。
そこは、おおよそ70年近く前には300人程度が暮らす村が存在していた。今は、もうない。最後の住人が離れてから、10年後。その男が周辺の土地ごと村全部を買い取ってからずっと、そこは……というより、そこら一帯は彼の家であった。
近場の街まで、車で2時間。往復で4時間強が掛かるが故に廃れてしまったのだが、そこら一帯を買い取った酔狂な男は、御世辞にも人当たりが良さそうな風貌ではなく、無造作に生やした髭を撫でるのが癖の、些か屈強な身体をした男であった。
男の年齢は……おおよそ、50代半ばだろうか。
その男は、何時も決まって朝の6時30分には家を出る。冬は暗いので7時30分ぐらいまで出ないが、今の季節は夏……この時間でも、外は十分に明るかった。
男の恰好は、正しく山人であった。
薄汚れてはいるが頑丈なデニムの上下に加え、登山用の長靴。分厚い帽子に軍手、リュックと猟銃を背負ったその姿は年紀が入っていて、日常的にその恰好でいるのが窺い知れた。
無言のままに、男は家を出る。声を出した所で、他に人がいない。元々無口な方ではあるが、ここに移住をしてから数年……すっかり寡黙となった男の足取りは、力強くも穏やかなものであった。
目的地は、決まっている。男の日課の一つは、起きて軽い朝食を取ってから、畑を見に行くというものだからだ。
既に、家周辺の畑の確認は終わっている。これから向かうのは、家より少しばかり離れた所にある川辺であり……要は、仕掛けた罠に魚が掛かっているかを見に行くのであった。
その罠は、男が自ら作った代物である。外に売りに行く物ではなく、全て自分で食べる物だ。色々と理由はあるが、最悪それが無くても食べる手段を用意しているからか、男の目には何の不安もない。
……ちなみに、夜は保存食の用意を始めとした内職と男は決めている。というか、それ以外にすることがないし、それ以外のことをしてもしょうがないのであった……いや、それはいい。
とにかく、男は何時ものように川辺に行く。ちりんと首に掛けた鈴を鳴らしながら、数か月かけてゆっくり作った(邪魔な枝葉を切り分け、一部の地面を踏み固めて舗装した)通路を通って、一歩一歩を確実に進む。
この場所では、無理は禁物である。何故なら、ここには医者がいない。そのうえ、他人もいない。故に、万が一何かしらの原因で動けなくなれば……待っているのは、確実な死だからだ。
ちちち、と。男の頭上を、鳥達が飛び交う。見上げれば、木漏れ日の向こうに鳥達の陰がちらちらと見えた。夏とはいえ、日が入り難い木々の下……夏でも、長袖が必要になる程に涼しい。
そっと目を細めた男は、辺りを見回す。虫たちの声の他には、何も感じない。けれども、油断は出来ない。男が住まうここら一帯には熊などの猛獣は出ないが、絶対に出ないという保証はないからだ。
そうして、時折振り返っては周囲の警戒を行う事、30分ほど。男が辿り着いたのは……幅にして数十メートル程度の、それほど大きくはない川辺であった。
森の中とは異なる、川辺の臭い。磯臭さではなく、真水(直接飲むには、リスクを伴う)の川特有の水臭さ。それを嗅ぎ取った男は、ふんと鼻を鳴らすと……設置した罠へと向かった。
罠は、一度入れば出られなくなるタイプの、ただ流れに任せて置いておくだけのモノである。掛かれば儲け物程度のソレを確認した男は……僅かに、笑みを浮かべた。
――今回は、運が良かった。何時もなら入って2匹なのだが、今日は3匹も入っている。この場所では、川魚は立派過ぎるご馳走だ。
リュックより取り出した瓶に移した男が次に向かったのは、川辺より少し離れた場所にある高台の……今にも崩れ落ちそうなほどにぼろくなっている山小屋である。
その山小屋は、男がこの地に移住してきた時から有ったものだ。
由来に関しては、男も知らない。おそらくは、まだここに村があった時代、この川辺にて魚を取る時などに利用されていたものなのだろう。中は雨風が凌げればという程度の簡易なものだが、それでも作りはしっかりしており、今でも使う事は出来た。
男がどうして家ではなくその山小屋に向かうのかといえば、単にそれが男にとっての楽しみの一つであるからだ。
人によって評価は異なるが、男にとって、その山小屋の窓から見える外の景色が好きであった。年月によって変色したガラス越しに見える、その景色を眺めながら魚を食べるのが、好きなのだ。
かたり、と。
もはや扉というよりは立て掛けた板程度の役割しか果たしていない扉を開けて、別荘代わりに使っている小屋の中へと入った男を出迎えるのは、パイプ椅子を始めとした細々としたものばかり。
ため息を吐いて、男は荷物を下ろす。次いで、部屋の隅に置かれている七輪と火鉢を真中に置き、準備する。
まあ、準備といってもライターやら何やらがあるので、言う程のことではないが……一通りの準備を終えた男は、しっかり七輪が熱を持ったのを確認してから、魚を置く。
内臓は、事前に取ってある。しっかり火を通せば寄生虫も怖くはないが……念には念だ。
さあ、後は焼き上がるのをじっくり待つだけになった男は、リュックより取り出したウイスキーの小瓶で唇を湿らせた後……次いで、部屋の隅に転がっている人物を見やった。
……そこには、壁に背を預ける形で座り込んでいる裸の少女がいた。
少女の身体には、土と埃と……何だろうか、灰色の何かがこびり付いている。目立った傷痕は何もなく、垢などの悪臭もしない。俯いているのでこちらか何かをしない限りは見えないが、垂れ下がる黒髪の下にある顔は……男の目から見ても、文句なしの美少女である。
死んでいる……わけではない。そっと歩み寄り、少女の胸元……膨らみが確認出来る部位を押す。分かり難いが、指先より伝わる鼓動を感じ取った男は、軽く息を吐くと……再び、パイプ椅子に腰を下ろした。
――言っておくが、男が連れてきたわけではないし、男が行ったわけでもない。この少女は、男がこの山小屋を見つけた時には既にいた……言うなれば、先客なのである。
……この少女が何者であるかを、男は知らない。ただ、一つだけ確信を持って言えることがある。それは、この少女が人間ではないだろう、ということだ。
他者が聞けば失笑されそうな事だが、理由は幾つかある。
例えば、この少女だが……一向に齢を取っていないという点だ。男が少女を見付けてから最低でも5年は経っている。だが、少女には何の変化も見られず、見つけた当時のままだ。
髪は伸びず、汗だって掻いていない。手足の長さも変わらず、男であれ女であれいずれは起こる二次性徴も見られない。本当に何一つ、少女は変化していないのだ。
そのうえ、少女は……この5年間、一歩もこの場を動いていない。だらりと手足を投げ出して座り込んだまま、微動すらしない。その両肩に積もっている埃が、その証だ。
普通に考えて、人間がそんな状態で生きていくのは不可能だ。いや、人間だけではない。獣であろうが何であろうが、5年間も身動き一つせず……水すら口にせずに生存出来る生命体なんていうのは、存在しない。
故に、男はこの少女が人間でないと判断していた。そして、男はこの少女が何者なのかを知ろうとはしたが……今では諦め、生きているかどうかの確認をする程度に留めていた。
知ろうにも、少女は裸である。見ての通り、身元を示す物は何一つ持ち合わせていない。そのうえ、少女は男が見付けてからかれこれ……一度として、言葉を発したことがない。
身元不明なうえに、言葉一つ発しない。死んでいるなら死んでいるでまだしも、生きている。5年間も……いや、おそらくはもっと前から、何一つ変わらずに生き続けている。
――何とも、奇妙な関係である。
ああ……いや、それはもはや関係という代物ですらない。ただ、顔を合わせるだけの、一方的という言葉すら誇大になる程度の関係でしかない。
実際、男は少女に対して何もしていない。警察を呼ぶことはもちろんのこと、医者だって呼んでいない。服を被せたりもしていないし、食料等の用意だってしていない。
触れることだって、生きているかどうかを確認する以外では行っていないのだ。
なのに、どうしてだろうか……男は、この川辺に来るたびにこの少女の確認をせずにはいられなかった。もちろん、魚と景色も理由の一つだが、けしてそれだけではないということを男は自覚していた。
それは、性的な衝動から来るものではない。ただ、気になってしまうのだ。毎日というわけではないが、此処に来る度、この子の顔を見ずにはいられない。
……何故かは分からないが、見覚えがあるのだ。
少女とは、初対面のはずだ。何度か顔を覗き込んだことはあるが、その顔には心当たりはない。間違いなく、初対面のはずなのだ……が、どうしてか……見覚えがあるのだ。
いわゆる、デジャヴュというやつなのだろう。これで少しでも話が出来たら、正体が分かるのだけれども……仕方ない。
幾度となく出し続けてきた結論を、この日も出した男は……程よく焼けた魚を裏返す。じゅう、と弾けた油の匂いに目をやりながら、くいっと小瓶を傾け……ん?
かたり、と。扉が開いた。反射的に傍に置いた猟銃を掴むのと、黒い毛皮に覆われた……熊が室内に入って来たのが、ほぼ同時であった。
「…………っ!」
ひと際強く、男の鼓動が跳ねた。それは今まで現れることがなかった熊が眼前にまで接近しているというのも理由の一つだが、何より男に緊張感を敷いたのは……熊の視線であった。
たまたま迷い込んで入って来ただけなら、怖れはするがまだ余裕はあった。何故なら、熊は警戒心が強い生き物だ。こちらから意図的に興奮させるようなことさえしなければ、だいたいは向こうが引いてくれる。
しかし、この熊は違う。目は血走り、鼻息は荒く、僅かに唸り声を零している。何が原因かは定かではないが、興奮しきって我を忘れているのが明白であった。
そのうえ、どうやら空腹のようだ。頻りに鼻を鳴らして辺りを……室内を見回している。母熊か、それとも繁殖期を迎えた熊なのか……非常に危険な状況であった。
(…………)
視線を逸らすことはせず、掴んだ猟銃の手触りから、どこを掴んでいるのかを探る。不幸中の幸いというべきか、辛うじて……そのまま手の位置を変えずに構えることは出来そうだ。
だが、姿勢が悪い。構えて発砲するまでの……狙いを付けずに撃つことを考慮しても、最低でも数秒は掛かる。また、弾は既に込めてはいるが、それは散弾だ。
野犬や小さいイノシシ程度を対象としたモノであり、熊のような大型相手には難しい。一発で仕留められれば良いが、仕留めきれずにその腕を振り下ろされれば……最悪、致命傷だ。
「……っ!」
僅かに猟銃を引き寄せようとした瞬間、こちらを見やった。飛び掛かっては、まだ来ない。ギリギリのところで踏み止まり、そのまま静止したからだ。
ここで銃を無理に引き寄せたら、間違いなく飛び掛かって来ただろう。すんすん、と焼き魚に鼻を近づけては不思議そうに小首を傾げる熊は……次いで、傍の少女を見やった。
――ぐわう!
瞬間、熊の反応は劇的であった。まるで、四肢に電流を流されたかのように、熊はその場から飛び退いた。あまりに予想外の反応に、男は猟銃を構えることも忘れて少女へと目を向け……ギョッと、目を見開いた。
……少女は、目を開けていた。
姿勢は、全く変わっていない。何かを、したようにも見えない。ただ、そのまま顔を上げて熊を見ているだけ。たったそれだけの行為に……何故か、熊は目に見えて怯え始めた。
(……?)
そう、熊は何故か怯え始めたのだ。総毛を逆立て、唸り声をあげ、牙を見せている。一見すると怒りを露わにしているようだが、傍目にもはっきり分かる程度に引けた腰の位置が……熊の内心を物語っていた。
いったい、少女の何を恐れているのだろうか。
異様な光景に、男は思わず目を瞬かせた……と。不意に、淀みなく鮮やかに、少女は年月を感じさせることなく立ち上がった。動いた、と、男は無意識に呟いていた。
途端、さらさらと少女の肌に乗っていた土埃やら何やらが零れ落ちる。「――ごああ!!」声を張り上げて威嚇する熊を前に、少女は無表情のまま歩み寄ると。
――威嚇する熊の頭に、手を置いた。
少女が行ったのは、たったそれだけであった。だが、たったそれだけの事で……熊は負けを認めてしまった。吼えることもせず、ううん、と情けない声を出して縮こまってしまった。
「……っ」
少女が何かを呟いたように、男には見えた。だが、男の位置からは少女が何を呟いたかまでは聞き取れなかった。唯一それを耳にした熊は、少女の手から離れ……外へと飛び出し、そのまま木々の向こうへと消えてしまった。
……。
……。
…………少女は、何も言わなかった。呆然としている男にも一瞥すらしなかった。無言のままに部屋の隅へと……先ほどと同じ位置にて腰を下ろすと、先ほどと同じ姿勢になった。
……。
……。
…………男は、しばしの間その場に立ち尽くすしかなかった。
その緊張が解ける切っ掛けは、放置されていた七輪から焦げ臭さが漂い始めたから。「――っ!」反射的に七輪へと手を伸ばした男は……そこでようやく、現状を理解することが出来た。
――大丈夫か、と。
尋ねるが、少女は答えなかった。今のは白昼夢か……いや、違う。まだ混乱が尾を引いている自覚がないまま、男は不用意に少女の肩を掴んだ――瞬間。
がくん、と。顎から脳天へと走る稲妻が如き衝撃と共に、男の視界が揺れた。
痛みを感じる間もなかった。気づいた時にはもう、男は仰向けに倒れていて。殴られたと思って恐れ混じりに身体を起こした男が目にしたのは……何事もなくそのままの姿勢でいる少女であった。
だがしかし……状況を理解するには十分な情報であった。ひとまず息を整え、気持ちを静める。
そうしてから、何とか食べられる程度には焦げが留まっている焼き魚をかじって、ウイスキーを一口……大きく息を吐いてから、改めて少女を見やった。
少女は……何も答えなかった。これまでと同じく俯いたまま、何の反応も示さない。けれども、男は引かなかった。
ほとんど味わうこともせず急いで焼き魚を食べ終えた男は、ウイスキーではなく持参した水筒の水を飲む。そうしてから、男は少女の傍に腰を下ろすと、ただただ待った。
返事が無いなら、それでいい。とにかく、日が暮れる前までは待つつもりであった。それで少女が何も言わなかったら、何も望んでいないと判断する。ただ、それだけのことであった。
……。
……。
…………そうして、待ち続ける事1時間ほど。何も言われないことを覚悟していた男の耳にその言葉が届いた時、男は最初、それが何かの聞き間違いだと思った。
――違う、違うんだ。
それが、少女の発した言葉であった。意味が分からずに尋ね返してみるが、少女は答えなかった。
ただ、ぶつぶつと不明瞭な何かを呟いたかと思えば、両耳を押さえ……ごろりと横になると、胎児のように丸まってしまった。
命の音がする。誰の命だろうか。私の命だろうか。いや、そうじゃない。私の音は、こんな音じゃない。もっとドロドロとして、聞くに堪えない酷い音だ……じゃあ、これは誰だ?
誰だろう、この音は誰のだろう。私のじゃない。でも、私以外にここには誰もいない。何も存在していない。なのに聞こえてくるこの音は……いや、いいか。
――ここは、とても静かだ。
暗闇の中で、私は思う。何もないここはとても静かで、心が落ち着く。でも、ずっと静かじゃない。静かな時と騒がしい時と、二つある。どちらが長いのかは分からないが、ずっと静かなままな方が、私は好きだ。
騒がしい音は、嫌いだ。私は静かにしてほしいのに、騒がしい音は、私のことなどお構いなく騒がしくする。止めてくれと訴えても取り合ってくれず……静かになるまで、ずっと騒がしいままだ。
だから、嫌いだ。騒がしいのは、嫌い。違うと言っているのに、あいつらは騒がしくする。何時までも私の中に居座って、静かになるまで騒がしいまま……本当に、騒がしいのは嫌い……あれ?
――虫の声が、聞こえる。昼の声ではない、夜の声だ。
今は、夜なのだろうか……分からない。あれ、これは昼の声……ん、夜か。目を開けているつもりなのだが、何も見えない。音は、聞こえる。音だけは、今も聞こえている。
これは、何だろうか。聞き覚えがある。どこで聞いたか……思い出せない。でも、聞いた覚えはある。今は、静かだ。だから、よく聞こえる。よく聞こえるから、何だか聞き覚えがあるような気がする。
夜の音だ。昼の音じゃない。この音は、この声は、この虫の声は……夏の声?
ああ、そうか。今は、夏なのか。なんだ、夏だったのか。ここは静かで、何もない。いつの間にか、夏になっていたのか。道理で、虫たちの声がするわけだ。
虫たちの声は、嫌いじゃない。だって、騒がしいけど、騒がしくはないから。
りんりんしゃかしゃかみんみん、くわくわくわ。りんりんしゃかしゃかみんみん、くわくわくわ。りんりんしゃかしゃかみんみん、くわくわくわ。りんりんしゃかしゃかみんみん、くわくわくわ。
騒がしいけど、嫌いじゃない。こいつらの声は嫌いじゃない。夜の下でも、一人じゃないと思えるから。私はここにいて、こいつらはそこにいて、一人ぼっちじゃないと思えるから、嫌いじゃ――
『――――っ』
――ああ、違う、違うんだ。違うよ、違う、そんなつもりはなかったんだ。私は、そんなことをしたかったわけじゃないんだ。
『――――っ』
ああ、来た。騒がしいやつが来た。耳障りだ、聞きたくない。こいつらの声は、聞きたくない。耳を塞いでいるのに、こいつらの声はよく響く。
『――――っ』
ああ、違う、違う、違う。そうじゃない、そうじゃないんだ。私はただ、みんなの為に、何かをしてやりたかっただけなんだ。
『――――っ』
止めて、止めろ、止めて、止めろ、止めて、止めろ、聞きたくない、聞きたくない、私は悪くない、私は悪くない、私は悪く――じゃあ、アレは誰が?
『――――っ』
ち、ちが、う、違う、違う違う違う違う違う、違う!!!!
アレは私じゃない、アレは鬼がやったんだ、アレは私じゃない、アレは鬼が、鬼がアレを、私は何も、でも鬼は私で、私は鬼で、でも鬼は人で、私は人で、でも鬼で、私はアレじゃない、あれじゃない、あれじゃ、あれ、あれ、あれ……あれ?
じゃあ、私は……何だ?
私は鬼だ。え、じゃあ私が鬼なら、アレは鬼がやったことで、鬼がやったことが私なら、アレは私で……え、でも私は人で、でも人ならアレは出来なくて、出来ないなら鬼で、鬼は私で、私は、私は、あれ、鬼が、あれ、あれ、あれ……あれ、あ……あっ。
――違う、私じゃない、アレは私じゃない。
だって、私はそんなつもりがないんだもの。身体は鬼でも、心は人。そんなことはしたくないし、鬼だから平気だし、そんなつもりはないから、アレは私では……あ、でも、え、そうなると。
『――――っ』
違うよ、違うんだ。だって、私は人だよ。鬼じゃない、人なんだ。だから、アレは私がやったことでは。
『――――っ』
違うよ。
『――――っ』
違うってば。
『――――っ』
違うっていっているじゃないか。
『――――っ』
だから、違うって――。
『――――っ』
違うって――。
『――――っ』
違う。
『――――っ』
違う。
『――――っ』
違う、違う、違う違う違う違う違う。
『――――っ』
違う違う嘘嘘うそうそうそうそうそ――。
『――――っ』
だから――全部違うって、言っているだろ!!!!
……。
……。
…………目の前に置かれた小さな光が何なのか、私は最初、分からなかった。
息が、荒い。いや、荒いのだろうか。痛みを覚える程に激しく鼓動する胸に手を当てれば、はっきりと脈動を感じ取れる。いっそのこと破れてくれればいいのに……いや、そうじゃない。
顔を上げれば、周りが見える。光だと思ったのは、ランプの形をした電灯であった。キャンプ等に使うようなそれは一般的な懐中電灯よりもはるかに明るく、人の目でも室内の様子が分かるぐらいの光を放っていた。
……室内?
その事実を認識した途端、私は辺りを見回し……目を瞬かせる。見覚えのない、部屋だ。御世辞にも綺麗とは言い難く、それでいて狭い。おんぼろとしか言いようがないそこは、小屋という印象を覚える内装をして……ん?
ふと、視線を向けて気づいた。部屋の隅……ランプから向こうに、人がいた。人は、男だった。
そいつは、見た所50代といったところだろうか。服装は……まあ、古臭い感じだ。世捨て人……そう、世捨て人というやつなのだろうか。ホームレスとは少し違う、独特の雰囲気を放っている。
どんな顔をしているのかは、私の位置からは見えない。何故なら、私に背を向ける形でパイプ椅子に腰を下ろし、真っ暗なガラスの向こうを見続けているからだ。
……ここは、こいつの家なのだろうか?
いや、家にしては、あまりに殺風景だ。見た所、部屋にあるのは男の私物と思わしきリュックぐらいで、寝床すらない。寝袋があればまだしも、部屋の何処にも寝具になりそうなものはない。さすがに、着の身着のままでは身体が……と。
不意に、男が振り返った。50代だと想像した通り、そいつの顔は50代のそれであった。鉄板のように生え散らかした髭はぼうぼうで、清潔とは言い難い風貌をしていた。
男は、私を見ても何も言わなかった。だが、無反応ではなかった。のそり、と、年齢相応の動きで椅子より腰を上げた男は、傍に置かれたリュックを漁ると……中からタオルを取り出し、それを私に放り投げて来た。
反射的に受け取った私は、意味が分からずに首を傾げる。いったい何だと思って見つめれば、男は無言のままに目元や顔を拭う仕草をした。それを見て、私は己が顔にタオルを当て……そうして、気付いた。
私は……泣いていたようだ。
涙を拭ってから気付いたが、顔中が涙で湿っている。いや、顔だけじゃない。今更気付いたが、涙で視界が歪んでいたようだ。目を瞑っただけで溢れる涙と、口周りの涎を吹くと……視界が、晴れた。
「――何が、違うんだ?」
途端、それを見計らったかのように男から尋ねられた。「……いきなり、何だ?」意味が分からなかった私は、思わず男を睨んだ。でも、男は欠片も引かなかった。
「小さな声で、違うと呟いていた。何が違うのかと、思ってな」
「……違うって、何の事だ?」
「さあ、俺には分からん。分かるのは、あんただけだ。命を助けてもらったし、話ぐらいなら聞いてやろうと思っただけだ」
そう言うと、男はリュックから大きな……バスタオルというには些か大き過ぎるキングサイズなタオルを取り出すと、「着ろ、目のやり所に困る」こちらに放り投げて来た。
受け取った瞬間、私は今更ながら……己が裸であったことを思い出した。
正直、裸だからといって私は何とも思わない。だが、たった今男が口にした命を助けられたという言葉が気になった私は、とりあえずは素直にタオルを広げ、立ち上がる。
「私が助けたって、何を私はしたんだ?」
「襲い掛かる熊を追っ払ってくれた。おかげで、餌に成らずに済んだ」
「……私が?」
全く身に覚えのない話に、私は首を傾げた。熊、熊か……いかん、全く記憶にない。熊なんての対面していたら、酒をたらふく飲んでいても覚えていそうなものだが……いや、待て。
そもそも……ここは何処だ?
身体に巻き付けたタオルを破らないように気を付けながら、外に出る。そこに広がっていたのはネオンが輝く歓楽街……でもなければ、住宅地が密集する規則的な明かりでもない。
有るのは、暗闇であった。虫の声や獣の声、鳥の声や木々の声がざわめく、夜の森であった。思いっきり目を凝らしても、景色は欠片も変化をしなかった。
「蚊が入って来る。必要がないのなら、閉めろ」
「……ああ、うん」
目を白黒させるしかない私は、言われるがまま中に戻って扉を閉める。合わせて、外のざわめきが途絶えた室内は静かになった。「あの、あんたは誰だ?」とりあえず、困惑のままに私は男に尋ねていた。
「知らん、忘れた」
「――はい?」
「名前なんて最後に呼ばれたのは何年も前だからな」
けれども、男の返答は私が求めているソレではなかった。というかコイツ、始めから会話をする気がないのだろうか。
「で、お前は?」
「え?」
「お前の名前は? 恩人に何時までもお前というのも変だろう? だから、名前だよ」
「あ、ああ、なるほど。それもそうか、俺の名前は――いっ!?」
思い出そうとした瞬間、私は思わず頭を押さえた。それは、これまで覚えた事のない、形容しがたい激痛であった。誇張抜きで、脳髄を抉り取られたかと思った。
食いしばった歯が、ぎりりと軋んだ。頭痛なんていう言葉が生易しく――痛い、本当に痛い。ぐわん、と、目の前が揺らぐ。音も聞こえず、なのに耳鳴りがし始め――。
「――忘れてしまったんだな」
――た、辺りで。不意に、その声が耳鳴りの隙間を通って私の中に入って来た。それは、眼前の男の声だった。不思議と、大して大きいわけでもないその言葉は、心地が良かった。
見上げれば、男は先ほどから変わらず無表情だった。でも、敵意はない。ただ、事実をありのまま確認するかのように、「忘れた、そうだな?」再度同じことを尋ね……というか、言われた。
忘れた……忘れた。え、忘れた……名前を、俺が忘れた。え、じゃあ俺の名前は……忘れた……忘れたって言われても、思い出せないし、熊の事もそうだけどそもそもここは……ああ、そうか。
そうだよ、そうなんだ。俺は、忘れてしまったんだ。
何だろうか、そう思った瞬間、頭痛が消えた。いや、それどころか、スーッと気分が良くなった。まるで、嫌な事がするっと解決したかのような……ん、嫌な事?
(嫌な事って、何だ?)
思い返してみようとするが、思い出せない。いや、思い出さなくていいんだ。だって、忘れてしまったんだから。だから、「うん、そうだ、忘れた」私は素直に男の言葉に頷いた。
何だか分からんけど、忘れてしまったのなら仕方ない。思い出したって良い事なんてないし、忘れたのであれば、忘れたままの方が良いんだ……ん、待てよ?
「そうなると、お互いに名無しってことになるんじゃ……?」
「……ははは、そうだな。名無し同士、不思議な縁だ」
名無し……その言葉に、私は何だかまた気分が楽になった気がした。
「それで、お前はこの後どうするつもりだ?」
「どうするって?」
「名前を忘れたってことは、住んでいたところも忘れているわけだろ?」
「……そういえば、そうだな」
言われてみて、納得した。確かに、そうだ。名前を憶えていないんだから、住んでいた場所を覚えていないのも当然だ。だって、全部忘れているわけだし。
というか……ここって何処だろうか。
気になって尋ねてみれば、長野の県境だと言われた。
長野……うん、どうして私はそんなところにいるのだろうか。前はこんな場所じゃなくて、もっと……いや、もっとって何処だよ。全部忘れているのだから、覚えているわけがない。
そう、俺は覚えていないんだ。今となってはさっぱり分からないが、過去の俺は色々と反省するべきところだと思う。いくら俺でも、さすがに文明の利器がない場所で過ごすのは……ん?
(……俺でも? 何で俺は、自分のことを『俺でも』なんて思ったんだ?)
己の身体を見下ろし、首を傾げる。何処からどう見ても、中学……いや、小学生並の体格しかない。幾らか見栄があるにせよ、こんな小さい身体で一人どうにか出来ると……何故、思えたのだろうか?
(いや、というか、そもそも裸だったのは何故――ぎっ、いぃ!?)
また、脳天に痺れが走った。二度目だから最初よりは堪えられたが、相当に痛い。堪らず頭に手を当て、大きく深呼吸をして……痛みの波が過ぎ去るのを、待つ。
……止めよう。やっぱり、思い出そうとすると痛みが走るようだ。
思い出せないのであれば、思い出さないままでいい。これだけ痛いんだ。思い出さない方が、色々と良いのだろう。そう考えた俺は……改めて、眼前の男を見やった。
「雑用はするから、しばらく厄介させてくれ」
「……礼儀も糞もないが、恩人の願いだ。贅沢はさせられないが、気の済むまでいたらいい」
「礼儀に関しては忘れてしまったから諦めてくれ」
ため息と共に了承してくれた男に、私は笑みを浮かべた。その時、ずきりと一瞬ばかり脳裏に痛みが走ったような気がしたが……気がしただけであった。
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