第88話

   88  一ヵ月後 1999年 4月 新学期

   

 「遅っせえな、こん畜生」少年は癇癪を起こしたいところを堪えて、小声で悪態をつくだけにした。「何をやってんだろう、あのバカは」

 人が行き交う五井駅西口の真ん前だった。知った人間が近くにいないとも限らない。しかめっ面で汚い言葉を使うのを見られて、誰からも好かれる優等生という評判にキズがついてはマズかった。せっかく順調に滑り出したビジネスがやり難くなる。

 素直で勉強が出来る少年という印象が人の心に植え付くように努力してきた。必ず目上の人には挨拶をする。無視されても続けた。扱い易い少年と思って誰もが気を許して接してくれたら、こっちの思う壺だ。

 あれっ、このガキ、なかなか狡賢いぞ。

 そう気づいた時は、もう手遅れ。弱みを握って、相手を意のままに操れる立場に立っている。こっちは一枚も二枚も上手だ。オレは誰にも指図されたりしない。指図するのは、このオレだ。 

 四十分も前から駅の西口ロータリーで父親の帰りを待っていた。

コンビニが店先で流し続ける『団子三兄弟』の曲が耳障りでならなかった。もう二度と食ってやるもんか、という団子に対する嫌悪感すら芽生えてくる。しつこいんだよ、同じ歌ばっかり聞かせやがってよ。

 携帯電話をポケットから出して見ると午後二時前だ。三時までは父親を絶対に家に入れることはできない。だから約一時間はカトーヨーカドーで買い物させたり、ラオックスでパソコンのカタログを貰いに付き合わせたりで、なんとしてでも時間を潰さなくてはならなかった。

 父親が会社から自宅に電話を掛けてきたのが昼前だ。少年が受話器を取った。もしかして約束した人物が予定を変更するのかな、と思ったからだ。

 「おい、オレだ。あれ、……お前か、学校はどうした?」

「あっ、お父さん」畜生、こんな時間に何で父親が電話してくるのか。何がマズいことになりそうな予感が走る。「うん。あのね、今日は緊急の職員会議があるとかで午前中で終わったんだよ。それよりさ、どうしたの?」

「だったら、母さんは居るか?」

「え、……どうして?」

「どうして、じゃない。母さんと話がしたい」

「今は、……無理だけど」

「何で?」

「だって……さ、出掛けてるもん」

「どこへ行った?」

「サンプラザのプール……」

「何時ごろ帰ってくる?」

「一時間ぐらい後じゃないかな。……何で?」

「急に出張が決まったんだ。明日の朝早くに新幹線に乗らなきゃならない。その用意があるから今から帰る」

「……」

「おい、聞いてんのか」

「今すぐに帰ってくるの?」

「これから簡単な打ち合わせをして、その後だ」

「だいたい何時ごろの電車で帰ってくるの?」

「たぶん一時半ごろかな、そっちに着くのは。母さんが帰ってきたら、そう伝えてくれ」

「わかった、そう言うよ」

「じゃあ、切るぞ」

「うん」

 やばい。間もなく今日の客がやって来るというのに。こっちからキャンセルしようか。少年にとっては前金で手にした七万円を返す義務が生じる。ところが、ほとんど使ってしまって幾らも残っていなかった。それとも予定通りにプレーさせてやろうか

 午後二時半までは客が家に居るだろう。つまりキャンセルしないならば一時間から一時間半は、どこかで父親を足止めさせないといけない。

 よりによって今日かよ。急に出張が決まるなんて。せっかく上手く行き始めた少年のビジネスが存続の危機に直面していた。

 どうしようか。

 しばらく考えて、お客には連絡しないことに決めた。前金で貰っている手前もある。父親を三時近くまで外で連れ廻してやるしかない。

 電話で言った事は全て嘘だ。学校で緊急の職員会議なんかなかった。仕事の段取りがあるからサボっただけ。母親もプールへは行っていない。ちゃんと家にいた。お客を迎えるために、その仕度をしているところだった。

 第一、今日は月曜日でサンプラザ自体が休みだ。慌てたので、つい簡単にバレるような嘘をついてしまった。まだ甘いな、オレも。

 客は父親が通う近所の床屋、そこの主人だった。中年太りで、いつも脂ぎった顔をニヤニヤさせている。愛想はいいけど頭の中ではスケベなことばかり想像しているに違いなかった。

 こいつは客になる、と少年は直感した。自分の母親の姿に、嘗め回すような視線を送っているのを何度も見ている。

 母親は三十三歳になるが若作りでスタイルも良く、人目を惹くほど色気があった。高校生の娘と中学生の息子がいると知らされると、誰もが驚きを隠さない。

 一ヶ月前だ、少年が散髪に行くと都合がいいことに他に客は誰もいなかった。床屋の椅子に座って髪をカットしてもらいながら、それとなく誘いを掛けてみた。

「僕の母さんがオジさんのことを、男らしくて素敵だって言ってたよ」

「……」ハサミを持つ床屋の手の動きが止まる。間を置いて笑い出した。「わっはは。ボク、冗談が上手いなあ。あはは」

 予想通りの反応だ。こいつは満更でもない。それが事実であって欲しいと願っている。常識的に考えれば、こんな不恰好なデブを素敵だなんて言う女がいるわけがなかった。だけど不思議なことに本人だけは、そう思わない。

 自分がブスだと思っている女は、まずいない。それと同じように、自分が不細工でバカだと思っている男もいないのが事実だ。どこかに、たとえば鼻とか口元に長所を見つけ出すか、それとも太鼓腹を恰幅の良さと解釈したりして、人並みだと愚かに信じている。このデブも例外じゃなかった。

 「冗談じゃないよ。本当だってば」

「キミのお母さんみたいな綺麗な人がそんなことを言うわけないだろう。あはは」

「男の人は外見で判断できないって言ってたよ。こういう店を一人で経営しているなんて立派だってさ。それにね、内緒だけど母さんは離婚したがっているんだ」

「……それって、本当かい」

「うん。ずいぶん前から父親とは別々の部屋で寝ているしね」

「へえ、信じられないなあ。仲が良さそうな夫婦に見えたけど」

「離婚は時間の問題じゃないかな。お母さんが寂しそうにしているから、早くボーイフレンドでもできたらいいなと思っているんだ」

「……」

 さっきとハサミを動かすリズムが全然違う。まるで素人の手付きになっている。「オジさん、その気ない?」

「ま、まさか……キミのお母さんは俺なんか相手にしてくれるもんか」

「そうかなあ。オジさんみたいな人が友達になってくれたら、きっと母さんは喜ぶだろうな」

「あはは。そう言ってくれるだけでも嬉しいよ」

暑くもないのに奴が額の汗を袖口で何度も拭うのを見て少年は本題に入る。「どうする? ぼくが上手く話をまとめてみようか」


 そこからはトントン拍子だ。友達になるための御膳立てから、売春の斡旋に話が変わっても床屋のオヤジは何も言わなかった。ヤりたくて、ヤりたくて堪らないらしい。ただ何度か念を押すように訊いてきた。「本当に出来るのかな、そんなことが。大丈夫なんだろうね。君を本当に信用していいのか」

その度に、こう答えてやった。「任せてよ、上手くやるから。ただし幾らかの手数料は欲しいなあ」と。

 手数料と聞くと床屋のオヤジは僅かに首を立てに振って見せた。タダでは出来ないことは承知しているが、子供に小遣いを渡す程度で済ませようとしているのは見え見えだ。

 奴の休みは月曜日だ。その日の午後に家まで来てもらうところまで話を煮詰めてから、やっと金を要求した。七万円という金額に、さすがに床屋のオヤジは身を引く。

 「そ、そりゃあ、高いよ。相場っていうモノがあるだろう。千葉に栄町っていう遊ぶところがあるんだが、そこの方がずっと安い。それにだ、キミの母さんよりもずっと若い子が相手をしてくれるんだから」文句を並べ始めた。「そんな大金を何に使うんだ。君みたいな中学生が小遣いにする金額じゃないぞ。もう少し、まともな数字を出しなさい」

「……」少年は反論しない。相手に好きなだけ言わせて、ただ黙って聞いていた。

 ソープランドの女なんて、いくら若くても所詮は商売女じゃないか。近所に住む美貌の人妻を相手に遊ぶ方がどれほどスリルがあるか想像してみろってんだ、このバカ。そう思っても少年は口には出さない。

 「いや、勘違いするなって。金を出さないと言っているわけじゃないんだ。どうだろう、三万円ぐらいで……。すぐに払うから」

 無言に不安を覚えたらしく、直ぐに奴は譲歩してきた。「ほら、三万円だ。受け取りなさい」

「……」床屋のオヤジが財布から取り出した札に少年は目もくれない。その代わりに用意してあった台詞を口にした。素直に床屋のオヤジが七万円を出すとは最初から想定していないぜ。「わかった。それじゃあ、いいよ。この話は無かったことにするから」

「……え」

「オジさん、時間を無駄にして悪かったね。忘れて下さい」

「ま、待てよ。そ、そんな気の短い――。そしたら一銭も手に入らないことになるぞ。せっかく、ここまで話は進んだのに。すべてが水の泡になってしまうじゃないか」

「いや。そんなことはないと思う」

「どうして。オレは一銭も払わないぞ」

「別にオジさんに払ってもらわなくてもいいから」

「どういう意味だ」

「駅前にあるスーパーの店長にも話しをしてみるさ」

「何だって?」

「ほかにも何人か母さんと仲良くなりたがっていそうな人がいるんだよ」

「……」

「どうする、オジさん」

「おっ、お前ってガキは……、そいつらにも同じ話を持ち掛けてたのか?」

「違うよ。オジさんに断られたら、そっちに話を持って行こうかなって考えただけさ。だって、母さんのお気に入りはオジさんだったからね。でも、あのスーパーの店長も四十歳を過ぎてるけど独身らしいよ。買い物に行く度にさ、ニヤニヤしながらオレの母さんに声を掛けてくるんだぜ」

「……」

「じゃあ、失礼しました。そろそろ帰ります」

「ま……待て」

「え?」

「待てと言っているんだ。帰らなくていい」

 

 そこで見せた床屋の表情は今でも忘れられない。顔いっぱいに苦々しさが浮かんでいた。たかが中学生の小僧に手玉に取られた悔しさだ。やっとオレの狡賢さに気づいたみたいだった。

 

 「話はオレがつけた。月曜日に床屋のオヤジに抱かれろ」 

 こう告げた時、母親は何も言わなかった。ただ食器を洗う手の動きが僅かに止まっただけだった。何を言われても素直に従うしかない、そう観念しているらしい。

 母親が自分の息子に違和感を覚えたのは、産んで間もなくだったようだ。まだ産婦人科病院から退院もしていなかった。

 小学校六年の二学期が終わるころ、私立の有名中学校から特待生として受けると通知が届いた時に、父親が洩らした。

 「お前は自慢の息子だ。素晴らしい。だけどな、お母さんは産婦人科病院で起きた事件のショックからだと思うけど、お前を自分の子供じゃないと言い出した時があったんだ。あっはは。今じゃ笑い話だ」そこで父親は真剣な表情になった。「もう中学生になるんだから話してもいいだろう。実はな、お前が産まれた病院で悲惨な事件があったんだ。気が狂った看護婦が、お前が寝ていた隣の赤ん坊をピンセットで刺して殺してしまったのさ。たまたま近くに父親がいて止めたから、それ以上の犠牲は出なかった。その看護婦は我が子を殺されて逆上した父親に殺されたけどな。俺は病院に着いたところだった。新生児室へ行ってみると、お前は血まみれで殺されたのかと思ったぐらいだ。大変な事件だった。バカな看護婦を殺してくれた、その父親に感謝したい。そうしなかったら、お前も殺されたかもしれないんだ。学校の成績は優秀だし、スポーツは万能で絵の才能もある。俺にとって宝のような息子なのに」

 言われてみると頭の片隅にそんな記憶が残っているのに気づく。しかし聞かされた話とは少し違う。その父親は最初に看護婦を殺したんじゃなかったか。それから隣に寝ていた赤ん坊を抱き上げて、その首に何かを突き刺した。真っ赤な血がほとばしった。少年は血を浴びせられ続けた。生暖かくて心地良かった。 


 息子が能力を発揮すればするほど父親は溺愛するようになった。

「お前はオレの全てだ。お前は間違いなく成功する。お前ならオレが出来なかった夢を実現できる。そのための援助は惜しまないからな」

 小学校六年になるころには、はっきりと息子中心の家庭になった。 

少年は家でしたい放題だ。まず三つ年上の姉に手をつけた。思春期を迎えて色気を帯びてきたところを頂いた。初めっから無抵抗。弟には逆らえない、そんな気持ちがあったようだ。彼女には中学校から付き合っていたボーイフレンドがいたが、結局それまで。高校二年の姉は、たちまち少年の性欲の虜になった。

 日中に姉弟が裸で抱き合う姿を母親が目にするのは時間の問題だった。父親の方は姉弟の仲がいいと喜んでいただけかもしれないが、女だけに何か怪しい雰囲気があると気づいていたのは確かだ。もちろん姉は性行為を秘密にしたがっていたが、少年の方は逆にバレることを期待していた。

 その日、いつも通りに学校へ行く振りをして家を出た姉弟は、母親が自転車でカトーヨーカドーへ買い物に出かける時間を待って、こっそり戻ってきた。

 誰も居ないはずなのに姉の部屋から物音が聞こえる。家に帰った母親が不審に思ってドアを開けた時は、まさに自分の娘が全裸で跪いて、弟の勃起したペニスを美味しそうに頬張っているところだった。

 少年が意図した通り、強烈なショックを与えた。金縛りにあったように母親は動かない。何秒かすると、その場に腰を落として手をついた。呼吸が荒い。

 少年は姉から離れると、苦しそうにしている母親の横に立った。放心状態で何の気力も体力も残っていないことを確かめてから、おもむろに膝を突き、勃起したままのペニスを今度は母親の口に捻じ込んでいった。


 「亭主を失望させたいのか? 家庭を打ち壊したいのか? お前が黙って我慢している限り、うちの家は平和なんだ」

 この言葉で母親を服従させた。しばらくの間、高校生の瑞々しい女体と三十代の成熟した女体を交代で犯す日々が続く。そのうち母親の方を他の男に抱かせて、小遣いを稼いでやろうと考えた。

 最初の客は父親が通う床屋のオヤジ、二人目は駅前にあるスーパーの店長だ。どんどん、お得意を増やしていくつもりだった。田所とかいう金払いのいい、君津に住む米屋を紹介してくれたスーパーの店長は、次回は割引き料金でプレーさせてやってもいいだろう。

 但し、あの床屋のオヤジには追加料金を請求したかった。少年も呆れるぐらいの性欲の持ち主なのだ。

 約束した二時間は、休むことなしに母親の裸体を弄ぶ。手錠とロープを使って自由を奪い、あらゆる手段で女を辱めるのが趣味らしい。母親の消耗が激しすぎた。

 「あの人だけは許して。とても体が持たないわ」二度目のプレーが終わると母親は訴えた。

「もう少しだけ我慢しろ。他に楽な客を見つけたら、あいつは断ってやるから」そう言って少年は宥めた。

 しかし女っていうのは不思議な生き物だ。あれほど嫌がっていたのにプレーが七度目を越えるころには、すっかり母親は床屋のオヤジに順応して喜びを覚えるまでになってしまう。

 客との性行為は隠しカメラで記録してあるので少年には母親の変化が一目瞭然だ。「どうしたんだよ、お前? 今では床屋のオヤジに抱かれるのが楽しいみたいじゃないか」

「……」母親は恥ずかしそうに下を向いたままで、否定はしなかった。

 

 その床屋のオヤジが今日の客だ。この時間、あのデブは様々な道具を使って母親を悶えさせているはずだった。

 少年は追加料金として幾ら請求してやろうかと考え始めた。トータルで十万円ぐらいは貰いたい。ただ、あのケチのことだから素直に支払いに応じることは絶対にない。納得させられるだけの何か言い訳を作り出さなくてはならなかった。

 何がいいだろうか。父親が現れるまでにアイデアが浮か--。

 「うへっ」少年は吹き出した。

 いきなりだ。思考も中断するほど野暮ったい格好をした中年女の姿が目に飛び込んできた。

 女は数十メートル先の駅の階段の入り口に立っていた。誰かと待ち合わせでもしているのか、そこから動こうとはしていない。

 なんて派手な服装だよ、あのババア。恥ずかしくねえのか。

 ピンクのスエット・シャツに緑のトレーニング・パンツだ。ここは駅前だぞ。お前ん家の自宅の居間じゃねえ。さらに人目を引いて滑稽なのは頭に巻いた大きな白い包帯だ。階段から転げ落ちるみたいな、よっぽど酷い怪我でもしたらしい。通り過ぎる誰もが一目見るなり、汚いモノを避けるようにババアから距離を取ろうとした。

 いつからそこに突っ立ってんだろうか。つい、さっきまではいなかったのに。階段から降りてくる一人ひとりに注意してたはずなんだが気づかなかった。まったく幽霊みたいに――。

 ……おい、嘘だろ。

 戦慄を覚えた。その中年の女が、じっとこっちを見ていることに気づいたからだ。何で? どうして? 失礼なババアだな。お前とオレとじゃ身分が――。や、やばい。鳥肌が立ってきた。中年女の視線を浴びて少年は不安に駆られ始めた。

 友達の母親にあんなのがいたか? いや、覚えがない。それに、もしそうだとしても、あんな表情でオレを見たりするもんか。こんなことは生まれて始めてだ。オレを見るなっ、見るんじゃない。

 逆に睨み付けてやった。この野郎、オレ様から視線を外――。でも中年の女は見るのを止めない。

 呼吸が荒くなっていく。怖い。頼むから、オレを見るのを止めてくれないか。少年も中年女から目が離せない。あっ。その女の口元が僅かに動く。な、何か言う。

 「拓磨っ」女が呼んだ。

 えっ、なに。……タクマ、だって? バカヤロー。オレは、そんな名前じゃないぜ。人違いじゃ――いや、女は確かにオレに声を掛けた。このオレが誰なのか、ハッキリと知っている自信が窺える。なぜだ。

 「行くよ」

 それだけ言うと女は振り返り、改札口へと続く駅の階段を上がっていく。すぐに姿が見えなくなった。

 少年は汗びっしょりだ。もう中年女はいない。助かった思いだった。

 あっ、……そうだ。

 去年の十月ごろだった、同じようなことが起きたじゃないか。そのときは、これほど慌てはしなかったけど……。

 久しぶりにドクター・ペッパーでも飲もうかと、家の近くにある自動販売機の前で自転車を降りたところだった。「ねえ、君」そこで父親と同じ年ぐらいの男に声を掛けられたのだ。

 「五井駅の近くにあるラオックスに行きたいんだけど、道が分からないんだ。教えてくれるかい?」

 ウソだろ、おじさん。オレと話をする口実にすぎない、と分かっていた。なぜなら、その男の姿はすでに二回ほど見ていたからだ。学校からの帰り道と公園で友達とサッカーをしている時だった。距離を取って遠くからオレを観察している様子が窺えた。この日は、とうとう話し掛けてきた。案の定だ、こっちが道順を説明しても上の空でしか聞いていない。

 それどころか、「この辺にキミは住んでいるのかい?」とか「今は何年生なんだい?」、「どこの学校に行っているのかな?」とか全くラオックスに関係のない事ばかり聞いてくる。

 変なオヤジだなあ、と思ったが付き合ってやることにした。態度からオレと仲良くしたがっていることが明らかに分かるからだ。悪いヤツじゃなさそうだし。

 「実はさ、お昼を食べていなくて、お腹を空かしているんだ。良かったら、どうだろう。一緒に食事をしてくれないか?」と言われると素直に応じた。どうしてだか分からないが強い親近感を覚えていた。この人と一緒にいたいと感じていた。 

 「いいよ。だったら、この近くにデニーズがあるんだけど、そこへ行かない?」と言うと、知らないオジさんは満面の笑みを浮かべた。

 しかし、この人の言う事は全部がウソみたいだ。『お腹を空かしているんだ』って言わなかったっけ? スパゲッティを注文したくせに、ほとんど食べない。反対に「もっとフルーツ・パフェは欲しくないかい? アイスクリームはどうだい?」とか、どんどんオレに食べさせようとする。

 時々コーヒーを飲みながら、ずっとこっちを見ていた。不思議なのは左の耳の傷を嬉しそうに見ていることだ。ほとんどの人たちが意識的に見ることを避けるのに。

 そして気になる一言を口にする、「そっくりだ」と。すぐにオレは反応した。「え? どういうこと」

「あっ、すまなかった。忘れてくれ、別に何でもないんだ。ごめんよ」

「……」その否定の仕方は、何か意味があるというふうにしか受け取れなかった。

 ひょっとしたら、この人はオレの正体を知っているのかもしれない、と思い始めた。『そっくりだ』って、一体このオレが誰にそっくりなんだ? 教えてくれ。両親と姉に全く似ていないのは、どうしてなんだ。それに、ずっと周囲の人間と自分は何か違うと感じていた。それらの疑問に答えてくれそうな気がした。バナナ・パフェを食べながら待った。でも世間話をするだけで、聞きたい事は何も教えてくれなかった。一時間ほどしてデニーズを出たが、苦しいぐらいに腹いっぱいになっただけだった。

 「オジさん,ありがとう。すごく美味しかったよ」お礼を言って自転車に跨った。返事はない。愛情に溢れた笑顔を見せて頷くだけだった。

 少年は相手の名残惜しそうな態度から、この人とは二度と会えないことを悟った。交差点を曲がる時に後ろを振り返ったが、もう姿はない。オジさんが帰りにラオックスに寄ったとも思えなかった。

 それから半年が経って、今度は野暮ったい中年女が現れてオレを惑わす。

 だけど……だけど、行くよって、どういう意味だ。勝手に行けって。さっさと行ってくれ。オレに構うな。まったく、わけが分からない。呼吸を整えようと深く息を吸う。早く落ち着きたかった。

 父親が帰ってくるのを待たないと。

 どうする、……どうしよう。何事もなかったように、また父親の姿が現れるのを待ち続けていいものか、疑問が浮かぶ。

 オレってタクマなのか? いや、……まさか。

 えっ、もしかして――。

 その時、不意に気がつく。半年前にデニーズで一緒に食事をしたオジさんは、産まれたばかりの新生児室で隣に寝ていた赤ん坊を殺した父親と同じ人物じゃないのか? 「ああーっ」 

 人が行き交う五井駅の前なのに無意識に声が出てしまう。きっとそうだ。十四年も経って会いに来たんだ。この事実に少年は背筋が震えるほど衝撃を覚えた。どうしてなんだ? 赤ん坊を殺した理由はオレに関係があるのか? たぶん、……いや、きっと、そうらしい。何かの運命に導かれていると確信した。

 無視できそうにない。

 あの野暮ったい中年女に声を掛けられたことで、少年の中で何かが崩れ去った。生まれてから今まで築き上げた様々な事が無意味に感じてきた。学校の成績も、周囲の評判も、始めたばかりのビジネスですらどうでもよくなった。

 オレはオレじゃなかったらしい。ずっと自分は周囲の連中とは違うと不思議に感じてきたが、その答えが見つかろうとしているようだ。 

 父親を引き止めないで、まっすぐ家に帰せば大変なことになる。自分の愛する女房が床屋のオヤジに裸を縛られて弄ばれているのを目にすることになるんだから。息が止まるほど父親は驚くはずだ。明日の出張はキャンセルかもしれないな。期待を掛けた息子が黙って姿を消したら、もう立ち直れない可能性が強い。それに追い討ちを掛けるように、たぶん一ヶ月もしないで愛娘の妊娠が明らかになる。姉は双子を身籠っているんだった。

 出来ることなら家庭の崩壊を自分の目で見て楽しみたい。絶望に打ちひしがれて、苦悩する父親の姿を知らずに立ち去るのは辛かった。問い詰められ、責められて母親が苦しむ様子も見たかった。

 決心した。

 少年は見ず知らずの中年女の後を追って五井駅西口の階段を上り始めた。コンビニの店先では,相変わらず『団子三兄弟』の歌が流れていた。

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