第86話

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 教頭に飛びつかれた板垣順平は前のめりに勢い良く倒れた。強く床に手をついた衝撃で右手に持っていたロウソクが二つに折れる。火のついた部分が床を転がり、黒川拓磨の足元まで届く。こぼれたガソリンに引火して、一気に炎が立ち上がった。

 目の前で黒川拓磨が炎に包まれる。「きゃーっ」加納久美子は叫び声を上げた。と、同時に廊下の壁に退いた。

 近くにあった消火器に手を伸ばそうとしたが、黒川拓磨が動いて立ちはだかる。

 どうして? 逃げようとしているんじゃなくて、火を消そうとしているのに。

 相変わらず生徒はペニスを向けたままだ。まだ勃起している。「そんな……」こんな状況でも性欲を失わない異常さに驚愕。

 まわりが一気に熱くなった。

 えっ。笑っている。いやっ、違う。炎に焼かれて顔が変形しているのだった。すぐ横でトレンチコートの男も燃えていたが、黒川拓磨の燃え方は異常なほど激しい。紙細工の人形だったのかと思えるほどだ。その目も鼻も口も形が崩れて顔から表情が消えた。どんどん炎が彼の身体を黒く蝕んでいく。恐ろしかった。

 断末魔なのか、黒川拓磨の体が小刻みに震え出す。だが勃起したペニスは萎むどころか逆に大きさを増す。一体、どういうこと。驚きの目で見ていると、いきなり白い精液が噴き出した。避ける間もなかった。大半が久美子のスカートまで飛んできた。

 男の体液で汚れた自分の衣服に注意が向く。目を離した瞬間だ、砂の袋が落ちるような音がした。正面に立っていた黒川拓磨の姿が消えた。

 久美子は首を左右に振って、辺りを窺う。燃えているトレンチコートの男の他には誰もいなかった。黒川拓磨がいた場所に、小さな黒い灰の山が出来ていた。まさか、あいつの燃え尽きた姿がこれなの。

 加納久美子は急いで非常ベルを押し、そして消火器を取った。レバーを握って白い泡を噴射させた。まずトレンチコートの男の火を消す。それから回りを消火させていった。

 黒川拓磨、あれは人間じゃなかった。一体、何者なの。

 火が消えて回りが白い薬剤だらけになると、一気に身体から力が抜けていく。これは後の掃除が大変だ。自分がしなきゃならないのかしら。ああ、気が重い。

 疲れた。もう動けない。非常ベルの音だけが、けたたましく校舎中に鳴り響いていた。うるさくてかなわない。早く誰かに来て欲しいが、一刻も早く静かになって欲しかった。その場に加納久美子は腰を落とそうとした。えっ、何これ?

 自分のスカートから蒸気みたいな煙が立ち上がっていることに気づく。「あ、あっ」黒川拓磨の精液だった。あいつの体液が驚いたことにスカートの生地を溶かして移動している。久美子の下腹部を目指しているんだった。

 急いでスカートを脱いだ。廊下の向こうへ投げ捨ててやった。露わになった下半身にはヘリー・ハンセンのウインド・ブレーカーを巻き付けた。なんて奴なの、あいつは。なんて恐ろしい。

 何故だが分からないが、また身体が震え始める。途端に悲しみが込み上げてきた。加納久美子は廊下の壁に寄りかかり、口を手で押さえながら嗚咽を洩らした。

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