第56話
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「う、うう」西山明弘は意識を取り戻した。
周りに目にやると、二年B組の教室に一人だった。上半身を起こす。頭痛は消えていた。「バカやろう」悪態を口に出してみた。喋れた。
良かった。舌の感覚が戻っている。少し安心した。しかし凄まじい毒を持つ虫だった。あれはマムシかコブラ並みだ。蜂なんかじゃない。何だろう。正体が分からないので不安が残った。このまま何もなく体が回復してくれたらいいが。
それにしても冷たい生徒たちだった。黒川拓磨も手塚奈々も、学年主任のオレを見捨てて教室から出て行ってしまう。誰か手の空いた教師を見つけて呼ぶでもない。知らんぷりだ。信じられない。
覚えていろよ。これは、お前たちの成績に反映させるからな。内申書にも影響するように働きかけてやろう。
西山明弘は執念深い男だった。やられたら絶対にやり返す。酷い仕打ちをされて、そのままで終わらすことはなかった。
一方的に付き合いを止めて別れたいと言ってきた女には、それまでに渡したプレゼントの代金に高い利息を付けて請求してやった。金額が千葉銀行の通帳に振り込まれると、デートで利用したレストランのレシートを全て送りつけて食事代も追加請求した。それでも腹の虫が収まらなかったので、女がノイローゼになって入院するまで無言電話を掛け続けた。あの生徒二人にも、オレの恐ろしさ分からせてやりたい。
西山明弘は立ち上がった。よろけたのは少しだけだ。普通に歩ける。気づくと倒れていた場所が濡れていた。何でだ? 汗か? それとも誰かがオレを起こそうとして水でも掛けたのか。
体は大丈夫なようだった。だけど用心に越したことはない。炎症を抑える薬でもつけておこうかと、保健室へ行くことに決めた。
あそこにいる女、正式には養護教諭と言うらしいが、東条朱里を西山明弘は嫌っていた。
最初に見た時は、『いい女が保健室にもいるじゃないか』と思えたのだが、今は無視する存在だ。うわべだけの挨拶しかしてやらない。
痩せて背が高く、スタイルは抜群。ここまでだったら好みの女として、西山の恋人候補リストに上位ランクインしたはずだった。
顔は細面でショートカットのヘアスタイルが似合う。ボーイッシュでセクシーだったが、なぜか小悪魔的な感じが目立つ。それに人を見下したような話し方をした。気が強そうで、サディステックな雰囲気を漂わす。地元選出の代議士の愛人になっているらしい、と噂を聞くと、なるほどそうかと素直に納得できた。何を考えているのか分からない。確かなのはひとつ、女の頭にあるのが決していい事じゃなくて、絶対に悪い事だろうと言えた。
「あら、珍しい。西山先生、どうされました?」ノックをして保健室に入ると、東条朱里は椅子から立ち上がって迎えてくれた。その顔には意地悪そうな笑みが浮かんだ。
「たった今そこで、蜂みたいな虫に刺されてしまったんです」
「え、この時期にですか?」
「はい」
「どこを刺されました? 見せて下さい」
「ここです」西山はベッドの端に座ると、左足を持ち上げて靴下を脱いだ。さっきよりも赤く腫れていた。
「あら、本当だ。痛みますか?」
「ええ。少しズキズキしてます」
「頭痛や眩暈とかは?」
「ちょっとしているかな」
この女、東条朱里に二年B組の教室で失神したことは言いたくなかった。好き勝手に話を大袈裟にして学校中に広めそうで怖い。
「もしかしてアナフィラキシーかしら」
「えっ?」なんて言った、この女。「アナル、……フェラチ、……何ですか、それ?」
「アナフィラキシーですっ」
「す、すいません」なんだ、聞き間違いだった。虫に刺されて、アダルト・ビデオのタイトル用語を聞かされる訳がなかった。
「アレルギー症状です。鉢に刺されたのが二度目だったりすると発症します。吐き気や悪寒、冷や汗とか眩暈、それに耳鳴りや全身の震えに襲われるんです。死に至る確率も高いですから、気をつけないと」
「……」東条朱里の説明を聞いて、どんどん不安になっていく西山明弘だった。すべてが当てはまっている。
「毒性の強いスズメ蜂みたいなやつでしたか?」
「いいえ、ミツバチよりか少し大きい程度でした。黒くて、そいつの背中には〡〡」
「え、……もしかして黄色いラインですか?」
「そうです」なんだ知っているのか。よかった。それなら治療方法にも詳しいはずだ。そう期待した。
「……」
ところがだ、目が合ったままで東条朱里は何も言わない。その顔が一瞬だが小悪魔みたいな笑みに歪んだのは気のせいだろうか。
「どんな虫なのか知っているんですか?」相手の無言が不自然だった。虫の説明が続くのかと思っていたのに。仕方なく西山は自分から訊いた。
「いいえ」
「え?」理解できない。「と、東条先生」そんな、冗談でしょう?
「わたしは知りません。まったく昆虫には詳しくないので」
「待ってください。いま背中に黄色いラインが、って言ったじゃないですか」そんなバカな。
「偶然です。たまたま口に出してみたら、当たっただけのことですから」
「そ、そんな……」こんな時に意地悪しないで欲しい。こっちは不安で、不安で困っているんだ。
「とにかく消毒しましょう」
「……」東条朱里は振り返ると薬剤を取りに行った。西山は左足を出したまま待つしかない。
「かなり沁みると思います。目を閉じて横を向いてて下さい」
「わかりました」言われた通りに従う。痛みには弱い西山明弘だった。歯医者は大嫌い。顎を閉じて少し力を入れた。「うっ」患部に液体が落ちるのを感じた。
「終わりました」
「え?」ウソだろ。「待って下さい。まったく痛くありませんでしたけど」
「それは良かった」
「そんな……。かなり沁みるって言ったじゃないですか」
「個人差がありますから。西山先生の場合は消毒液と相性が合ったのかもしれません」
「……」消毒液と相性が合ったから痛みがない、なんて聞いたことがないぞ。この女、本当に養護教諭としての資格を持っているんだろうか。
「これで少し様子を見ましょう。痛みが続くようでしたら、また何か治療方法を考えますから」
「東条先生」さっさと保健室から出て行くように促しているんだろうが、これで引き下がるつもりは西山になかった。
「なんですか」
「あの虫のことを知っているんでしょう?」
「まったく知りません。何度、訊かれても答えは同じです」
「そう言われても信じられない。さっきは知っているような口振りだった」
「西山先生。ご存知かと思いますが、来月には入学式に続いて身体検査が行われます。その準備で忙しいのです。これで失礼させて下さい」言い終わると東条朱里という女は、椅子に腰を下ろして机に向かう。ボールペンを手にして書類を捲り始めた。完全に西山を無視だ。
「おい、お前な……」もう頭にきた。学年主任のオレに向かって、その態度はないだろう。ここでしっかり、どっちが偉いのか白黒つけないと後々つけ上がらせることになると思った。こてんぱに、こき下ろしてやるしかない。
「ふざけてんじゃねえぞっ、このアマ」
「……」驚いた様子だった。真顔で西山を見ている。怒鳴ってやったのが効いたようだ。さあ、これから人生のレッスンをしてやろうじゃないか。
「いいか、オレに嘘をつくな。オレを刺した虫の説明を今ここでしないと、素っ裸にして校庭に放り出すぞ。お前のスケベなオマンコを生徒たちに見せてやることになるんだ。そうする前に犯してやってもいい。丁度ここにベッドもあるしな。代議士の愛人だろうと、そんなのオレには関係ない。む、……ど、どうした? なにが可笑しい」怯えさせようとしているのに、相手がニヤニヤし始めた。この女、やっぱりバカか。
「西山先生」東条朱里は言いながら、ゆっくりと西山明弘の股間を指差す。「あははっ」
「うっ」促されて視線を落とすと、ズボンのチャックのところが円を描くように濡れていた。や、やばいっ。二年B組の教室で倒れていた時に、小便を漏らしてしまったらしい。
西山はベッドから立ち上がると、急いで保健室を出た。後ろから東条朱里の声が聞こえた。
「どういたしまして。西山先生」
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