第54話


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 起死回生のチャンスが到来だ。西山明弘は意気込む。今度は失敗するものか。強い自信があった。相手は気難しい思春期の女じゃなくて、たかが十四歳のガキだ。勉強はできるかもしれないが、考えていることは単純そのものだろう。

 『黒川拓磨が、あたしの手に余る』と、加納先生から助けを求められた時は飛び上がりたいほど嬉しかった。手塚奈々を上手く説得できなかったことで、オレへの信頼は失墜したと思った。これでターゲットは安藤紫先生一人に絞るしかないと諦めていたのだ。

 悔しさから、二年B組で次々に起きる不祥事に担任の加納先生に対して辛く当たってしまった。お前に指導力がないから、こんな事が続くんだろう。そんな感じだ。ところが、まだオレを頼りになる男として認めてくれていたらしい。しっかり成果を挙げて、彼女にとっての憧れの存在へと登りつめたかった。

 黒川拓磨なら手塚奈々と比べれば赤子の手を捻るようなもんだ。まさか時給三千円でアルバイトもしていないだろうし。外見も子供そのもので、男としての魅力なんかあったもんじゃない。

 学年主任である西山明弘は、すぐに問題点に気づく。黒川拓磨は担任の加納先生を教師ではなくて、異性として意識しているのだ。注目してもらいたくて何かしら事を起こす。手っ取り早いのが、悪さをして加納先生を困らせることだろう。

 やり方が稚拙だ。まあ、中学二年程度の知識と経験じゃ、それぐらいが精一杯かもしれない。

 年上の女性に憧れる年頃でもある。まして担任教師が魅力的な女性だから尚更だ。無理もない。そんな時期が自分の過去にもあったから良く分かる。

 『いいか、加納先生を困らせるんじゃない。今、お前にとって大切なのは勉強だ。このままいけば木更津高校に間違いなく合格できる。頑張れ。オレが応援してやるから』

 このぐらいの言葉を掛けてやれば、きっと奴は態度を改めるに違いない。一件落着だ。そして、これを切っ掛けにしてオレと加納先生が急接近する。

 『西山先生、ありがとう御座います。彼と上手くコミュニケーションが取れるようになりました。さすが主任です。お礼と言っては何ですが、今度いつか食事を御馳走させて下さい』

 こんな言葉が加納先生の口から聞けたら大成功だ。オレのレガシィで迎えにいって、ディナーの後は夜のドライブと洒落込みたい。鹿野山に上って、二人で君津の夜景でも見に行こうか。考えると、どんどん気持ちがウキウキしてくる。西山明弘は、やる気満々だった。

 「黒川、そこに座りなさい」

「何ですか?」

「まあ、いいから。体育の森山先生には許可はもらってある。少しぐらい授業に遅れても文句は言われない。安心しろ」

 体育の授業が始まる前の休み時間だった。二年B組の教室には西山と黒川拓磨の二人だけだ。手塚奈々と話した時と同じ所で、机を間に挟んで向かい合って椅子に腰を下ろした。

 今度は時間が掛からない。すぐに終わる。生徒に向かって話し出そうとしたところだった、ブーンと一匹の虫が西山の目の前を飛んで横切った。「なんだ、ハエか?」

 それにしては少し大きいみたいだ。黒いが、そいつの背中に黄色いラインが走っている。見たこともない、コスタリカにでも生息していそうな虫だった。この寒い季節に、ちょっと信じられない。

 「ハエじゃありません」と、黒川拓磨。

「何ていう虫か知っているのか? お前は」知ったような生徒の答えが意外だった。

「説明すれば長くなります。放っておきましょう」

「何だと」人を小馬鹿にしたような口振りにムッときた。オレを誰だと思っているんだ。「あっ」

 再び、あの虫が優雅に目の前を横切った。今度は顔に近すぎて、思わず後ろに仰け反った。その慌てた教師の様を見て、黒川拓磨の顔に笑みが浮かんだ。てめえっ。怒りが込み上げた。その態度は何だ。どうしてやろうか?

 空中に浮かぶ、あの黒い虫が目に入った。また、こっちへ飛んでこようとしていた。オレを、おちょくっているのか。

 「西山先生、手を出さないほうがいい。大変なことになりますから」

「うるさいっ。黙ってろ」

 虫が近づいてきて射程距離に入ったところで、西山は右手を勢いよく振り下ろした。命中。叩かれて虫は床に落ちた。寒いから動きが鈍いのだろう、簡単に殺せた。

 「ああ、やっちゃった」

「どうってことない、ただのハエだ」

「ハエじゃありません」

「うるさい。そんな事はどうでもいい。お前に話があるんだ」

「オレに?」

「そうだ、お前にだ」寛容な気持ちは消え失せた。このクソ生意気な小僧を、どう懲らしめてやろうかという思いしかない。手塚奈々の時と同じような結果になりそうだと考えたが、怒りが理性を凌駕した。

 「体育の授業に遅れたくないんで、手っ取り早く頼むぜ」

「なに」この野郎、このオレに向かってタメ口を利きやがった。

「落ち着けって、西山」

「くっ、……」今度は呼び捨てにしやがった。怒りで身体が震えてきた。

「西山、身の程を考えなきゃダメだろう。お前なんかには加納先生も安藤先生も無理だぜ。所詮は高嶺の花なのさ」

「なんだとっ」

「分からねえのかな、その歳にもなって。お前は大家の娘を相手にしてりゃ、それでいいのさ。お似合いのカップルだぜ。あっはは」

「どっ、どうして--」何で、このガキがそれを知っているんだ。

「まったく、お前には呆れるぜ。バーミヤンの割引券なんかで女を誘い出すんだからな。せこいったらありゃしねえぜ。まあ、そんな誘いに乗る女の方もそれなりだから丁度いいのかな」

「この野郎っ、もう許さん。懲らしめてやる」

 西山明弘は湯気が立ちそうなくらいに全身が熱くなった。このガキを虫と同じ目に遭わせてやる。叩き潰す。泣いて土下座して謝るまでボコボコにしてやろう。

 『失礼な口を利いて申し訳ありませんでした。これからは西山先生様と呼ばせて頂きます。許して下さい』

このぐらいの謝罪の言葉が、クソ小僧の口から出てくるまで殴り続けてやろう。

 もう殺したって構わないかもしれない。こいつがオレ様に向かって生意気な口を利いたのが悪いんだ。殺した口実は後から考えればいい。オレ様の偉大さを分からせてやりたい。

 すでに佐野隼人が死んでいるんだ。もう一人ぐらい増えたって大したことはない。『きっと後追い自殺じゃないですか』、それで説明がつく。

 「お前、覚悟しろ。しっかり後悔させてやるからな」

 一発目のパンチを浴びせてやろうと、右の拳を高く掲げたところだった。左足の脛に違和感を覚えた。何かに針を刺された感じだ。

 「うぐっ」それが直ぐに、強力なドリルで足に穴を開けられるような痛みに変わった。ど、どうした?

 目の前に座る生徒を殴るどころじゃなくなった。その場に西山は屈むと、急いでズボンの裾を捲り上げた。「ああっ」

 自分の目を疑う。殺したはずの虫が灰色のソックスの上に止まっていたのだ。こ、こいつに刺されたらしい。

 手で掃おうとしたが今度は素早く飛び立ってしまう。畜生っ。ソックスを下ろすと皮膚が赤く爛れていた。「おい、あれに刺されたみたいだ」

 黒川拓磨を見ると、椅子に座ったまま窓を通して校庭の様子を眺めながら、左手の人差し指を鼻の穴に突っ込んでいた。こっちを向いてもいなかった。ふざけた態度だ。少しは教師を心配--。「げえっ。げ、げ……」

 刺されたところから激痛が全身に広がろうとしていた。どっ、毒だ。吐き気。ひどい悪寒。冷や汗。めまい。耳鳴り。全身の震え。すべてが一気に襲ってきた。声を出したくても、口が麻痺して喋れない。「あう、あ、ああ……」

 誰かを呼んでくれ。助けてくれ。生徒に言いたかったが舌が回らない。その場に倒れこんだ。息が満足に出来ない。苦しい。意識が朦朧してきた。目の前が真っ暗になる直前に黒川拓磨の言葉が耳に届く。

 「体育の授業が始まってるんで、そろそろオレは行こうかな」

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