第39話


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部落差別を残そう、と訴えているとしか受け取れない、今どき『部落差別をなくそう』と書かれた君津市役所の大きな看板の前の交差点を左折して、陸橋を通り越すと、そこは五十嵐香月の家がある畑沢地区になる。

 二年B組の担任を務める加納久美子は、放課後に彼女の母親から呼び出された。家庭訪問ではないし、普通であれば生徒の家までは行かない。行く必要がない。しかし、この場合は特別だった。

 五十嵐香月の母親は切実に訴えた。「加納先生、お願いです。こちらに来て一緒に娘を説得してください」

「お母さん、落ち着いて下さい。どんな用件なのか詳しく言って下さらないと、こちらとしては学校の仕事もありますし、勝手には動けません」

「先生、お願いです。主人は単身赴任しています。わたし一人だけなんです」

「わかりました。では、どんな用件なのか教えて下さいませんか」

「……」

「お母さん?」

「電話では言えません」

「では、お二人で学校へ来られませんか?」

「できません。こんなこと、とても……」

「申し訳ないですが、こちらは用件が分からないと動けません」

「……」

「お母さん?」事情を詳しく聞こうとすると母親は黙り込む。

「加納先生」

「はい」

「先生、娘が……。香月は--」最後の言葉を口にすると母親は泣き崩れた。

「……」加納久美子は驚いて、すぐに返事ができなかった。しかし大きな問題であることは理解できた。「今、すぐ行きます」そう言って電話を切った。

 家庭に問題が起きていて今から五十嵐香月の家まで行きたい、と教頭先生と西山主任に言って許可をもらう。どういう用件で、と説明を求められたが、よく分からないと答えた。当然、行く必要があるのかと二人は訊いてきたが、とにかく行かせて下さいと押し切った。それしか方法がない。秘密厳守が第一だった。

 安藤紫先生にも一言、声を掛けた。「もし何かあったら連絡して」

「わかった。ミスター・ムーンライトね」

「え? ……あ、そう。うふっ」

 言われて思い出す。先日、携帯電話の着信音をジョン・レノンの歌声に変えたのだ。嬉しくて、真っ先に報告したのが安藤先生だった。その場で彼女に電話を掛けてもらって、ちゃんと鳴るか二人で確認したのだ。すごく気に入っていた。ジョン・レノンの曲は全てが好き。『MOTHER』は聴くと涙を堪えられない。

 『ミスター・ムーンライト』は冒頭で、いきなりジョン・レノンが叫ぶところがカッコいい。そこを携帯の着信音にしたのだ。電話が掛かってきたらジョン・レノンが教えてくれる。なんて楽しい。

 フォルクス・ワーゲン ポロのイグニッションを回すと同時にステレオがオンになって、スピーカーからレッド・ツェッペリンの『カシミール』が流れ出した。好きな曲だけど今の状況に合わない。イジェクト・ボタンを押してカセットを取り出した。音楽を聴く気分じゃなかった。

 ああ、荷が重い。自分が行って何かしらの助けになるのか分からなかった。ただ母親は担任教師の加納久美子を必要としている。女生徒の家に足を運ぶしかない。

 県道から横道に入ると、そこは同じようなモダンな家々が並んでいた。ニュータウンといった感じだ。車の速度を落として番地を確かめながら進む。

 先日、板垣順平の母親から聞かされた、息子の異常な行動が頭から離れなかった。その後は、どうなっているのだろう。その件に関して母親から二度目の連絡はない。ただ学校での彼の様子に何の変化はなかった。普段どおりだ。機会を見つけて生徒に声を掛けようと考えていた。

 篠原麗子の家では、義父が何かしらのトラブルで大怪我を負ったらしい。その日から彼女は学校を休んでいた。精神的にショックを受けているらしい。

 そして今日、五十嵐香月の問題が持ち上がった。あの子の将来が掛かっていた。しかし、その問題に対して加納久美子は無力感しか覚えない。自分の手に余ると思った。

 勉強を教えることだけじゃない。次々と生活に関係する難しい問題の相談を受けた。ところが、こっちは大学を卒業して社会人になってから何年も経っていない未熟者だ。先生と呼ばれて頼られても困ってしまう。

 教師になって良かったのか、ずっと頭を悩ましていた。英語を教えているのか、それとも英語嫌いを育てていのか分からない毎日だった。原因は試験の為にする勉強だからだ。生徒は学ぶ楽しさなんて味わえない。高い点数を取った時の喜びだけだ。それは勉強じゃない。学習してもテストが終われば忘れてしまう知識だ。

 授業中に最も多く生徒から質問されるのが、「先生、それ試験に出ますか?」だった。教師にとって、やる気を本当に失わせる言葉だった。

 きみたち、こんなの勉強じゃない。こんな勉強は意味がないの。試験の点数なんか忘れて学習するのが、本当の意味での勉強なんだから。

 そう声を大きくして生徒たちに訴えたかった。もし実行に移したら父兄の反応は目に見えている。加納久美子は教師として失格、その烙印を押されるのだ。

 英語の受動態を教える時は、特に疑問を持った。多くの生徒が日本語の文章を受身に出来ないのに、英語の受動態を教えて理解できるはずがないだろう。

 英語を義務教育で教えるべきじゃないと思う。文部省は英語教育から手を引くべきだ。せめて受験科目から外してほしい。中学の三年間を掛けて勉強していながら、ほとんどの生徒が英会話が出来ないまま卒業していく。それって語学の学習なの? 

 学校で教えるのを止めれば、きっと英語嫌いはいなくなる。みんなが危機感を覚えて、英語の学習に一生懸命になるはずだ。

 ある母親は強く加納久美子に訴えた。「先生、しっかり基礎を教えてやって下さい。お願いします」

 なんと返事していいのか分からない。困惑した。ただ頷いて、その場を無言で乗り切るしかなかった。後で考えてみると答えは、「すべてが基礎です」だった。あの場面で、それを口にしたら相手が理解してくれるかどうかは疑問だ。

 父兄から最も多く問われる質問は、「先生、息子が勉強しなくて困っています。どうすればいいですか?」だった。

 答えは簡単で明瞭だ。いつも加納久美子の頭の中にあった。ただし口に出しては決して言わないだけだ。

 「お子さんを勉強好きにしたいのであれば、まず御両親が勉強を好きにならなくてはいけません」

 大学の在学中に学習塾の講師としてアルバイトをしていた。何人かの母親に自分の意見を率直に言ったことがある。彼らの反応は、すぐにその顔に現れた。

 〈なんて生意気な女だろう。先生だからって威張っているんだ〉

 それ以来、加納久美子は父兄に対して言葉を選んで口にすることにしている。

 文部省と教育委員会には疑問が多くあった。決定的だったのは神戸連続児童殺傷事件での対応の仕方だ。犯人の中学生には、母親の愛情に飢えていたと決めつけた。たかがそんな理由で、あんな犯行に及ぶだろうか? あり得ない。

 事実を覆い隠して、誰もが納得して理解しやすい答えを無理やり貼り付けたのだ。こんな悲惨な事件が再び起きないようにと、全国の児童には植物を植えて育てる事と組み体操を奨励した。命の大切さ学んでもらうのと、一緒に演技をすることでお互いが支え合っていることを意識させる為らしい。

 久美子にしてみれば無駄なことだった。そんな対応をマスコミが受け入れているのが信じられなかった。つまり日本の社会は、サイコパスという障害を認めないらしい。事実に向き合わないで目を背けるのだ。

 疑問や不満は数知れない。これから先、こんな世界で自分が生きていけるのか自信を失いそうだった。

 父親が生きていてくれたらと切に思う。彼こそが全てを曝け出して相談できる唯一の人間だった。幼少の頃から母親よりも強い影響を受けた。久美子に読書の楽しさを教えてくれた。音楽のテイストは、ほとんど同じ。水泳、スキン・ダイビング、ウインド・サーフィンは父親仕込みだ。 

 きっと娘ではなくて息子が欲しかったのに違いない。しかし父親は一度も、それについて不満を口にしなかった。

 レンタル・ビデオ店で借りてきて映画も一緒に観た。黒澤明監督の『用心棒』と『椿三十郎』以外は全てが洋画だ。小学校の高学年になると、同じ映画を三回も続けて鑑賞したことが何度かあった。一回目は映像を主に見る。二回目は字幕を読むことに集中。最後は字幕を見えなくして映画を楽しむのだ。彼なりの英語の英才教育だった。

 その甲斐あって、高校になると久美子の語学力は父親を凌ぐ。理解するのに余裕が生まれて、映画鑑賞で別の楽しみを見つけた。横目で父親が映画に夢中になっている姿を見るのが楽しい。子供みたいに喜んでいるのを目にすると、久美子自身も嬉しくなった。


 番地が生徒の家に近いことを示す。スピードを落とした。加納久美子は思いを過去から直面する問題へと移す。と同時に女子生徒の母親が最後に口にした言葉を頭の中で繰り返した。

 『香月は妊娠しています』

 妊娠という言葉が久美子の胃に突き刺さる。なんてこと! 彼女はまだ十四歳の少女にすぎないのに。

 五十嵐と書かれた表札を見つけた。ここだ。人目を引く洋風の家だった。外壁はサイディングで、ツーバイフォーで建てたように見えた。屋根付きのガレージにはフォルク・スワーゲンの白いゴルフが佇む。

 「加納先生、お呼び立てして申し訳ありません。来て頂いて本当に感謝しています」

 玄関のベルを押すと、すぐに母親が迎えてくれた。顔色が悪い。憔悴しきった様子だ。リビングに通されると、五十嵐香月がソファから立ち上がって会釈した。言葉はない。不機嫌そうだ。

 カーテンと家具がグリーンとブラウンを色調にして上手にコーディネートしてあった。女性らしい優しい演出。娘のセンスがいいのも頷ける。こういう家で育てば当たり前だろう。大型テレビの横には、黒いBOSE製の小型スピーカー 101イタリアーノを見つけた。単身赴任している父親の影響は、ステレオと駐車場にある白いフォルクス・ワーゲンだけらしい。

 三人が腰を下ろすと、さっそく母親が口を開いた。「香月、よく聞いて。子供を産んで育てるなんて、思っているほど簡単なことじゃないの。あなたには将来があるのよ。一度の間違いは取り返しがつくわ。お願いだから、お腹の子は堕ろして」

「いやよ、ママ。香月、絶対に産みたい」

「……」重い空気が五十嵐家のリビングを包む。

「さっきから、こんな調子なんです。先生からも言ってくれませんか」

 母親に促されて久美子は女生徒に話しかけた。「五十嵐さん、お母さんの言う通りよ。あなたの歳で子供を育てるなんて、とても大変なことよ」言葉に説得力がなかった。宿った小さな生命を堕ろせなんて、他人の自分が言うべきでないと考えているからだ。

「わかっています。でも産みたいんです」

「……」十四歳の少女とは思えない強い意志にたじろぐ。初めて見る五十嵐香月の姿だった。

「父親は誰なの?」母親が訊いた。

「……」

「お腹の子の父親は誰なのか、お母さんが訊いているの」口調を強めた。

「誰だっていいでしょう」

「そんな事ありません。責任を取ってもらわないと」

「あたしが一人で産んで、一人で育てたいの」

「馬鹿なこと言わないで。そんな事できやしない、中学生のお前なんかに」

「大丈夫、なんとかなると思う」

「無理です」

「……」久美子は口を出せない。二人のやり取りを見守るしかなかった。

「先生」

「はい」

「黒川っていう子は転校生ですか?」

「……」突然だった。驚いて言葉を返せない。一体、どうして?

ここでも彼の名前が出てきた。

「先生」

「は、はい。そうですけど……」まさか。

「その彼と、うちの香月が付き合っていたということはありませんか?」

「わかりません」きっぱりと答えた。そこまで生徒の行動を把握できない。

「一度ですけど、香月が電話で黒川という子と話しをしているのを聞いたんです」

「……」

「香月、その子の父親は黒川っていう転校生なんでしょう?」

「……」女子生徒は母親と目を合わさなかった。

「やっぱりそう?」

「違うわ」

「じゃ、誰なの? 相手にも責任があるんだから、こういう事は」

「言わない」

「五十嵐さん、あなた一人で解決できる問題じゃないのよ」久美子も口を添えた。あまりにも頑な女子生徒の態度に呆れてしまう。

「いい加減にしなさい、香月。加納先生だって--」

 『ミスター・ムーンライト』

 加納久美子の携帯電話が鳴った。何事かと、驚いて母親が途中で口を閉じた。

 「あっ、すいません」謝るしかない。急いでポケットから取り出して応答した。ジョン・レノンの着信音は早急に変えないといけない。そう痛感した。やはり安藤先生からだった。学校で何かあったのか? 「もしもし」

 「加納先生、まだ五十嵐さんの家に居るの?」口調が早い。

「え、……そ、そう」何かあったらしい。

「すぐに学校へ帰ってきて」

「どうしたの?」携帯を握る手に力が入る。

「佐野隼人くんが教室の窓から転落したみたい。意識がないの。救急車は呼んだわ」

「えっ、まさか」つまり校舎の三階からっていうこと? 

「お願い、早く戻ってきて」

「わかった。すぐに帰るから」加納久美子は携帯電話を閉じた。二人が訝しげに自分を見ている。「すいません。学校で何かあったらしくて、すぐに戻らなければいけません」

「……」母親は無言だった。どうして、こんな大切な時に? うちの問題よりも優先すべき問題なんて、この世に有り得ません。彼女の厳しい表情から、そう読めた。

「すいません、失礼します」久美子はソファから立ち上がった。

「先生、また来て頂けますか?」

「もちろんです」力になれるとは思わないが、そう答えるしかなかった。

 「加納先生」

 リビングから出て行こうとしたところだった。後ろから五十嵐香月に声を掛けられた。口調が今までと違う。久美子は足を止めて振り返る。「え、なに?」もしかしたら考え直してくれたのかしら。

 女生徒もソファから立ち上がっていた。改めて、その華奢な身体に新しい生命が宿っていることに驚きを覚える。十四歳の少女は自分の腹部に,優しく手をやって言った。

 「双子なんです。うふっ」

 途方に暮れてしまう。五十嵐香月の顔には喜びが溢れていた。まるで待ち望んでいた赤ちゃんを授かって、幸せの絶頂にいる母親のようだった。

 ああ、この子には何も言っても無駄だ。本当に産む気でいる。そう確信した。加納久美子は返す言葉がない。何も聞かなかった振りをしてリビングのドアへと向かう。佐野隼人の容態が心配だった。無事であってほしい。

フォルクス・ワーゲンのアクセルを踏んだところで、彼が職員室で黒川拓磨に対して言った言葉が不意に頭の中に蘇った。

 『あいつ、怪しいです』

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