第29話
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「なあ、……この前の話なんだけど--」黒いメルセデス・ベンツの運転席に座る男が重そうに口を開く。
「いいわ。もう言わないで。わかったから」安藤紫は相手の言葉を途中で遮った。
イタリアン・レストランでの食事を終えて、アパートまで送ってくれたところだ。ほとんど二人は車内で言葉を交わさない。レストランでも今までとは違う雰囲気だった。
この男もダメだ。いざ結婚となると尻込みを始めた。電話で、逢おうと言われた時から否定的な返事を聞かされるんだと感じた。ウェートレスが注文を聞いて立ち去ると、男はトイレへ行った。安藤紫は行動を起こす。水の入ったコップにペナルティの白い粉末を落としてやった。躊躇いなんかない。これまで何度もやってきた。いい返事をくれないバカには代償を払ってもらう。タダ乗りは絶対に許してやらない。あたしの身体を楽しんでおきながら、その責任を果たさないで立ち去ろうなんて考えが甘すぎる。
「すまない。今は仕事が忙しくて……」
「いいのよ。あたしが性急すぎたわ。あの話は忘れて」
「また逢ってくれるかい?」
「もちろん。あなたのことを好きなのは変わりないもの。また連絡して。今日はご馳走さま。おやすみなさい」
安藤紫は助手席のドアを開けて外に出た。何歩か進むと振り返って、笑みを浮かべながら男に手を振った。同時に心の中では、こいつに安藤紫の恐ろしさを思い知らせてやろうと誓う。
また一から始めなきゃならない。男漁りだ。目立つ服を着て、人が集まる場所へ足を運ぶ。
どんな服を男が好むか、どんなポーズに男が興奮するか。すべて分かっている。学年主任の西山明弘は格好のモルモットだった。色っぽい仕草や甘い言葉にハッキリと反応してくれるから、ずいぶん勉強になった。
その甲斐もあって、言い寄ってくる男は数知れない。しかし付き合うに値する男は数少なかった。
メルセデス・ベンツの男には深く失望した。今度こそは、と思っていたのに……。医者の息子だった。長男だから、いずれ父親の経営する医院を継ぐのは間違いなかった。
あいつから連絡が来たら、しばらくは逢ってやろう。ペナルティをドリンクに混ぜて飲ませなきゃならない。体格から計算して、確実に症状が出る量を用意してあった。
お前は医者にはなれない。させるもんか。患者になるんだ、それも不治の病で。
さあ、気を取り直さないと。いつまでも落ち込んでいられない。
明日は加納先生を誘って二人で食事でもしようかと思う。彼女と一緒だと楽しくて、気持ちが前向きになれた。
それに悪いことばかりじゃなかった。もう一つの計画では大きな進展があったのだ。とうとう、あの女の子供を見つけた。女子生徒だった。
なるほど、あの女の面影を引き継いでいた。可愛い。いずれ相当な美人になるだろう。すでに男子生徒たちの注目を集めているのも頷ける。これまで気づかなかったのが不思議なくらいだ。
男よりも女でよかった。復讐のし甲斐があるというもんだ。美貌を奪って醜い女にしてやりたい。その変わり行く姿を見て母親と祖母が嘆き苦しむのが楽しみだ。
上手く手懐けて、こっちに親しみを持たせよう。毎日のように会って、少量のペナルティを混ぜたコーヒーを飲ませ続ける。徐々に体調を崩し、可愛らしさを失っていく。男子生徒の憧れから、誰もが目を背けたくなるような存在へと変貌するのだ。
明日の昼休みに、彼女が美術室へ遊びに来ることになっていた。そうだ。ベンツの男に失望させられた腹いせに、女子生徒のコーヒーには、今回だけ大目のペナルティを混ぜたコーヒーを飲ませてやろうじゃないか。
グッドな思いつきに安藤紫の気分は少しだけ良くなった。
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