第17話
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ああ、どうしよう。困った。
学校が終わって家に帰ってみると、まず目に入ったのは駐車場に停まっている義父の軽自動車だった。色褪せた赤いスズキのアルトだ。何で、こんな時間に家にいるの?
家はセキスイハウスで建てた新築で、親子三人で暮らすには十分な広さがあった。でも、あの男と二人だけで家に居るのはイヤ。何をされるか分かったもんじゃない。
「お母さん、再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど」
そう言って、母親が国道沿いにあるデニーズで紹介してくれた男は、ハゲ頭の背が低い中年だった。
がっかり。なんで、こんな男が母親と? 何も言えない。挨拶すら口から出てこない。結婚って、男と女がエッチなことをする約束みたいなもんなんでしょう。あたしのママが布団に入って、こんな汚らしい中年男と……。ああ、イヤだ。気持ち悪い。
あたしが幼少の頃に別れた本当の父親は、写真で見る限りだけど、すっごく背が高くてハンサムな人だった。笑顔が優しそう。こんな素敵なパパと何で別れちゃったのか理解できない。会いたかった。一緒に歩いて友達に見せたい。
写真を目にする度に母親に、「どうして?」と訊いた。いつも決まった答えが返ってくる。「あんたは子供だから知らなくていいの」、だ。
きっと何か、子供には話せない、大変な理由が出来て、仕方なく離婚しなければならなくなったんだろう。でも二人は心の中で今でも愛し合っている。きっと、そうだ。だって、あたしのママとパハだもの。そう篠原麗子は、ずっと信じてきた。
母親から再婚したい相手がいると伝えられた時は、信じていたものが崩れていく思いだった。じゃあ、あたしのパパのことはどうするの? と、訴えたかった。
新しい父親を受け入れるのには強い抵抗があった。自分を納得させる為にも本当の父親に似た人であって欲しいと願った。
デニーズに遅れてやって来て、テーブルの向かいの母親の隣に腰を下ろした男を見て、この人を好きになるのは、どんなに努力しても無理だと直感的に思う。
ハゲ頭の中年男は、あたしの機嫌を取ろうと食事中よく喋った。学校のこと、将来のこと、友達のこと、興味もないくせに色々と訊いてくる。ああ、うざったい。つまらない冗談しか口にしない。今どき、そんなの子供にも受けないよ。大好きな和風ハンバーグが全然美味しくなかった。
馴れ馴れしくママの肩や手に触ることも気に入らない。もう、腹が立つ。見ていられない。辛いのは、それを母親が嫌がらないことだ。どんどんママが自分から遠ざかっていると感じた。
デニーズからの帰り、自動車に乗ってすぐに母親は訊いてきた。
中年のハゲはいない。二人だけだ。「どう? あの人。なかなかイイ人でしょう」
「……」え、どこ……がっ? 何も言えない。正直に言ったら、母親がどんな反応をするのか分からないし。
「あの人って見掛けは良くないけど優しいのよ。それに市役所に勤めているの」
「……」娘の沈黙を拒否反応と悟ってくれたらしい。市役所、そうなの。それが再婚の決め手らしい、と麗子は理解した。
「結婚したら家を建てるって約束してくれたのよ。車も外車にするって言ったわ。麗子も色々なモノを買ってもらえるわよ」
「……」いらない。何も欲しくない。アパートでいいから、ママと二人だけの生活を続けたい。
「どう、嬉しくない?」
「……」全然。モノを買ってくれなくていいから、あの人とは一緒に住みたくない。
娘の返事を待っている様子だ。でも何も言えなかった。間が空いて、次に口を開いた母親の口調は一変していた。「あんた、あの男のことをまだ想っているの?」
「……」そう。だって本当の父親だもの。頭から消し去るなんて無理。公園で楽しく遊んでくれたことを覚えてる。
「あの男は、あんたのことなんか何も気にしてないわよ」
「……」その言葉、麗子の胸に突き刺さる。そんなのウソだわ。
「だから会いに来ないのよ。娘のことを想っているなら、ちゃんと養育費とか払ってくれるはずでしょ」
「……」気分は奈落の底へ。悲しい。
「あんなダメな男はいないの。お金にはルーズで、女にもルーズだった。仕事は何をやっても中途半端で投げ出す始末だから。背が高くて見栄えはいいけど、それだけよ。無責任でだらしない男。お母さんが、あいつのお陰でどれだけ苦労︱︱」
「わかった。もういい」もうパパの悪口を言わないで。お願いだから。「あの人と結婚していいから」そう言うしかなかった。
「そう?」
「……うん」目から溢れた涙が頬を伝わって落ちてくる。
(再婚したいと考えている人がいるのよ。もちろん、麗子が気に入ってくれたらの話だけど)あの言葉って何だったの。
「あんたの気持ちは分からないでもないのよ。あたしだって、あの人のことを心の底から好きとは言えないもの。理想の男性には程遠いわ。だけどね、現実を見なきゃダメよ。女手一つで、あたし達が二人で暮らしていくって本当に大変なんだから。この結婚は麗子の為を思って決断したとも言えるのよ。あんたも大人になれば、きっと分かる」
「わかった。ごめんなさい」自分の意に反した言葉を口にしなければならないことに涙が止まらなかった。
「いいのよ。わかってくれて嬉しいわ」
「……」
「すぐに家を建てるわよ。あたしの気が変わらなければ、今月中にも新昭和住宅と契約を交わすつもり。夢のマイホームよ。もうアパート暮らしじゃなくなるの。お母さん、車はBMWかベンツを考えているけど。麗子は、どっちがいいと思う?」
「どっちでもいい。ママが好きな方を選んで」
「わかった。そうする」母親の機嫌が直ってくれて安堵。「お前は、いつでも素直でいい子だから好きよ。お母さん、絶対に麗子のことを悲しませたりしないから。それだけは約束する」
「……」ああ、意味がわからない。これが悲しませることじゃないなら、もし母親が本気で娘を悲しませようとしたら、一体何をしてくるんだろうか。それを考えると怖かった。
母親は再婚して姓が変わったが、あたしは篠原のままでいた。せめてもの抵抗だ。篠原麗子、この名前は好きだ。愛する人と結ばれるまでは変えたくない。
義父は頼みもしないのに色々なモノを買ってくれた。母親とは初婚で、いつか誰かと結婚するつもりで給料のほとんどを貯金をしていたらしい。そのお金を今、母親が自由に使っている。お洒落な洋風の家を建てさせ、そしてグリーンのベンツを買わせた。義父は古い軽自動車のままだ。
お父さんと呼んで欲しいのだろう、いつも義父は麗子の機嫌を伺っていた。無理、それは無理。パパとは呼べない。
何も買ってくれないでいいから、馴れ馴れしくしないで。そう、はっきり言いたかった。
新しい家に住み始めると、義父は母親にするのと同じ調子で麗子の身体にも触ってきた。嫌悪感。すぐに逃げた。でも笑っている。嫌がっているのが分からないみたい。鈍感な男。やめてくれるように母親に言おうかと考えた。だけど母親は新築のマイホームと新車のメルセデス・ベンツを手にして、ものすごく嬉しそうだ。衣服、靴、アクセサリーが高価なモノに変わった。こんなに生き生きしている姿は見たことがない。言い出せなかった。
麗子は二階の日当たりのいい部屋をあてがわれた。嬉しかった。天井はモスグーン、壁紙はベージュにした。机と椅子、ベッドは木更津のニトリで気に入ったのを選んだ。値札を見ないで買い物をするなんて今までになかったことだ。
ペットが欲しい。兄弟がいない寂しさを紛らわしてくれるだろうと期待した。隣の家ではイヌを三匹と二匹の猫を飼っていた。みんな人懐っこくて、すごく可愛かった。遊びに行くと麗子を大歓迎してくれた。
言えば二つ返事でペットを飼わせてくれるのは分かっていたが、借りを作るのがイヤだった。義父の馴れ馴れしさは悩みの種だ。それが助長される恐れがあった。ただ自分の部屋に居れば何もない。学校から帰ってくれば直ぐに閉じこもった。お風呂と食事以外はリビングに降りていかない。
三人家族になって二ヶ月ぐらいが経った晩、自分の部屋で寝ていると麗子は物音に気づいて目を覚ます。
え、なに? 気の所為? 夢だったの?
目は開けずに、じっとしていた。何もなければ再び眠りに落ちるだろうと--、額に冷気を感じた。え? 部屋のドアが開けられていることに気づく。人の気配を感じた。きっとママだ。でも、どうして何も言ってこないのか。ヘン? そしてお酒のニオイが漂ってきて、全身に衝撃が走る。ママじゃない、義父だ。あの中年男があたしの部屋に黙って入ってきていた。
何をしているの? 何かを盗もうとしているの?
理解できない。ここには何も高価なモノなんてないのに。義父の息遣いを感じた。何か興奮しているみたいな。怖かった。早く出て行ってほしい。
完全に目は覚めた。でも恐怖で動けない。しばらくすると義父はいなくなったが、麗子は朝まで一睡もできなかった。
翌日、部屋に鍵を掛けたいと母親に言ってみると、「どうして?」と訊かれた。
「……あのう、……その」答えはしどろもどろ。
「そんなの必要ない」と一蹴されてしまう。
母親を納得させるだけの理由を用意していなかったのが間違いだった。何か悪い事を企てているんじゃないかと誤解されたらしい。
ああ、困った。どうしよう。
その後は頻繁に義父は、お酒のニオイをプンプンさせながら部屋に入ってきた。ベッドに近づいて寝ている麗子の様子を窺う。義父の目的が分かった。この、あたしだ。あたしの身体に興味があって部屋に入って来るんだ。
驚愕。いやらしい。どうして? こんなに歳が離れているのに。
夜、寝るのが怖い。義父に何をされるか分からないからだ。睡眠不足の日が続く。
この早熟な身体が原因らしい。中学二年になって急に大人びてきた。胸のふくらみ、ふくよかな腰まわり、もう二十歳過ぎの女性と変わらない。外で歩いていても男性の視線をすごく浴びる。お茶でも飲まない、と何度も声を掛けられた。まだ十四歳なのに、だ。
麗子の理想は加納久美子先生だった。あんなスレンダーな体型に憧れた。アスリートみたい。知的な顔立ちも素敵。それなのに風呂場の鏡で見る自分の姿は、男性向けの雑誌を飾るピンナップガールみたいだった。
麗子はクラス・メイトの手塚奈々みたいに、長い脚を自慢して露出する勇気はなかった。山岸くんたちが作った、『二年B組女子生徒ベスト・オナペット』のランキングでは二位にされて恥ずかしい思いをした。だけど奈々ちゃんは嬉しそうに両手を挙げて男子の拍手を全身に浴びた。よくあんなことができる、と感心してしまう。
学校では何度も男子から手紙をもらって戸惑ってもいた。文面はどれもほぼ同じで、『ぼくと付き合って下さい』だ。何て返事していいのか分からなくて困った。
意思に反して急速に大人っぽくなっていく身体が異性を惹きつけた。誰もが美味しそうなケーキを見るような目で自分に視線を送ってくる。なんか怖い。それなのに家では危険な男と一緒に住んでいる状態だ。警戒は怠れなかった。
ところが、ある日を境にして、よく眠れるようになる。寝不足の疲れが溜まっていたからだろうか。いつものようにホットミルクを飲んでベッドに入ると、すぐに眠りに落ちた。いつ義父が部屋に入ってこないか心配しなければならないのに、強い眠気には勝てなかった。
朝までぐっすり。部屋のドアが開けられる音に目を覚ますこともない。これまでと違うのは毎晩のようにエッチな夢を見ること。誰かに身体を触られて気持ち良くなっている、自分の姿だ。朝、起きると汗びっしょり。下着にはシミ。ああ、恥かしい。
これって思春期だから? 年頃になると、こんな夢を毎晩のように見るの? だったら二年B組の女子みんなが、こういう夢を見ているのかしら。もしそうなら学校で、よくあんな真顔でいられる。いつもと同じように友達同士で喋って笑って……。自分なんか恥かしくて、もう相手の目を見て話すことが出来なくなった。
え、でも……もしかして、麗子の頭に別の考えが浮かぶ、これって病気だったりして。
だったら大変。お医者さんへ行かなくちゃ。ガンじゃないけど早期に治療しないと、手遅れになって今より悪くなる可能性だってありそう。
もし症状が悪化したらどうなるんだろう、これ? 夢だけじゃなくて、起きている時もずっとエッチなことを考えてる状態になるのかな。冗談じゃない。そんなのイヤだ。
病院へ行くなら、これって何科になるの? 内科、違う。外科、違う。耳鼻咽喉科、ぜんぜん違う。産婦人科、いや、子供を産むわけじゃないし。あっ、精神科じゃないかしら。たぶん、そうだ。
だけど病院へ行くのに母親に何て言う? 「あたし、毎晩のようにエッチな夢を見て困っているの」なんて口が裂けても言えない。
たとえもし病院へ行けても、多くの医者は男性だ。母親よりも言い難い。
きっと若くてハンサムな独身の医者は、びっくりして目を丸くするはずだ。近くにいた超美人の看護婦は思わず手にしたカルテで顔を隠して、鼻で笑う。「きゃはっ」そしてナース・ステーションへ駆け込むのだ。滅多にない愉快な話を同僚たちに伝えるために。
「ねえ、ねえ。ちょっと、みんな聞いてよ。今ね、〇X先生のところに、エッチな夢を見てばかりいる女子中学生が来ているんだ。うふっ。すっごく面白くなりそうよ。どう、見に来ない?」こんな調子だ。診察室は好奇心に満ちた看護婦たちで、ドアが閉められなくなるほど満員になるだろう。
難しい手術をしていたドクターは、傍にいたはずの看護婦が一人残らず姿を消してしまったので、仕方なくセルフサービスで執刀を続けることになると思う、きっと。
「診察しますから、シャツのボタンを外してくれるかな」、なんて若くてハンサムな独身の医者に言われたらどうしよう。え、精神科なのに服を脱ぐんですか? そんな疑問を持っても、中学生の自分は先生の言葉には逆らえない。思春期を迎えて女らしくなった身体が、好奇心に満ちた看護婦たちの視線の集中砲火を浴びるのだ。誰もが息を止めて、篠原麗子の指の動きを見守っている。張りつめる空気。彼女たちの唾を飲み込む音が耳に届いてきたりして。診察室では一言も口に出さないけど、きっとナース・ステーションへ戻った時は篠原麗子の話題で持ちきり。
「あんなにマセた子は、あたしは知らない。エッチな夢を見るのは無理ないわよ、あんな大人びた身体をしているんだもの。一体いくつなの、あの娘?」
「驚かないで聞いて。十四歳になったばかりよ」
「えっ、まだ子供じゃない。信じられない。それで、あの色気?
もう世も末だ」
「びっくりよ。見た? あの尻の丸み」
「もちろん。もう男を咥えたくてウズウズしてるって感じだったじゃないの」
「いやらしい。親の顔が見てみたい」
「きっと母親は亭主の目を盗んで、ラクビー部の男子高校生なんかと朝から夕方までズッコンバッコンさ。じゃなかったら娘が、あんなふうに育つわけがないもの」
「そりゃ、言えてる」
「うちなんか年頃の息子が二人もいるだろ。あんな小娘が丸い尻をプリプリさせながら街中を自由気ままに歩くと思うと、心配で心配で仕事に集中できやしない。医療ミスでも起こしたら大変なことになるっていうのにさ。それから来年は次男が受験なんだよ。もし志望校に入れなかったら、あの女の所為だ」
「将来が恐ろしいよ。どこまで淫らな女になるんだろう」
「男なしでは生きられないってな感じじゃない。あの歳であの身体だもの、どスケベな母親を超えるのは間違いないよ」
「君津警察に通報してやろうかしら。刑事に知り合いがいるんだけど」
「何て?」
「重大な性犯罪を誘発させそうな淫らな小娘がいますって言うつもり。あの女は公然わいせつ罪と同じだよ」
「でも素っ裸で歩くわけじゃないから難しいかもよ。どんな対策をして欲しいの? あんた」
「あの子の腰の回りにモザイク処理を施してくれと頼みたい」
「そりゃ無理じゃない。写真とかじゃないし、聞いたことないよ」
「だけど放っておけば絶対に何かが起きるよ。これだけは言っておく。あの小娘の丸い尻で、きっと誰かが命を落とすことになるだろう」
「あんた、そこまで言う?」
「あたしには分かるんだ。この病院で嫌というぐらいに沢山の人たちを見てきたから」
そんな会話が聞こえてきそう。ああ、耐えられない。病院へ行くのは無理だ。自分で治すしかない。篠原麗子は悩み続けた。
エッチな夢を見る原因のヒントを見つけたのは、加納先生の英語の授業中だった。
席を立って古賀千秋が教科書を朗読していた。流暢な英語で、しっかり勉強しているのか窺えた。その前が手塚奈々の番で、英語なのか韓国語なのか分からないような読み方だったので尚更だ。
麗子は教科書のセンテンスを目で追っていたが、突然だった、寝る前に飲むホットミルクのことが頭の中に浮かぶ。
幼稚園の頃からの習慣だった。家族が三人になると、「いいね。オレも欲しいな」と言って義父も飲み始めた。今では義父が先に用意してくれて、それを二階の寝室まで持って行く。
「あっ」思わず声が出た。何事かと古賀千秋が朗読をやめる。二年B組全員の視線が麗子に集まった。た、大変なことをした。
「篠原さん、どうしたの?」と、加納先生の声。
「す、すいません。何でもありません」そう言葉を搾り出す。下を向く。恥かしくて顔を上げていられない。みんなの注意が早く授業に戻って欲しかった。
「大丈夫?」
「はい」顔を上げて加納先生を見ながら答えた。大きく頷いて安心させないと。
しかし精神状態は大丈夫からは程遠かった。心臓はドキドキで、胸から飛び出しそう。
睡眠薬。
篠原麗子の頭の中にホットミルクの次に浮かんだ言葉がそれだ。認めたくないけど辻褄が合う。
睡眠薬を混ぜたホットミルクを飲まされていたらしい。夜中に部屋に入ってきて、あの中年男は好き勝手に熟睡している自分の身体を弄っていたんだ。間違いない。きっとそうだ。
卑劣。なんていやらしい。最低の人間がすることだ。いや、人間じゃない、あんな奴。
そんな男に触られて、仕組まれたとは言え、気持ち良くなっていた自分が情けない。悔しくて涙が溢れ出た。下を向いて回りの生徒たちに悟られないようにしないと。身体が震えてくる。汚された身体から義父の手垢と指紋を取り除きたい。涙が膝の上に置いた手に落ちてきた。
「篠原さん、これ使って」
「……」え?
声を掛けてくれたのは隣に座る転校生の黒川くんだった。差し出されたのはポケット・ティッシュ。ありがたかった。頷いて受け取った。そのまま何も言わない優しさが嬉しかった。麗子は一人で静かに泣き続けた。
英語の授業が終わると、すぐにトイレに向った。誰とも喋りたくない。一人でいたかった。また泣いた。休み時間が終わって教室へ戻った麗子は、もう自分が回りにいる生徒たちとは違う存在になった気がした。前みたいに一緒に喋って、ゲラゲラ笑うことは出来ない。あたしは汚れた女なんだから。すごく悲しかった。
「篠原さん。もし何か悩みがあるなら、僕で良ければ相談に乗るよ」また黒川くんが声を掛けてくれた。
「うん」続く有難うと言う言葉は口から出てこなかった。でも感謝はしている。泣いているのを、みんなから隠してくれたから。
義父から渡されたホットミルクは二度と飲まない。隠れて流しに捨てた。強い眠気は襲ってこなくなった。
思った通りだ。夜中に義父は麗子の部屋に入ってきた。心臓が破裂するぐらにドキドキ。そして布団の中に手が差し込まれる。背中に触れた時、「いやっ」と声を上げて反対側へ逃げた。義父が手を引く。そのまま動きが止まった。驚いているらしい。
静寂。
窓の外からスクーターが通り過ぎる音が聞こえてきた。しばらくして義父は部屋から出て行った。
朝だ。ほとんど麗子は寝ていない。これからどうなるの、とずっと考え続けた。今日は休みたい。窓から見下ろすと駐車場に義父の赤い軽自動車がなかった。恐る恐る、足音を立てないでリビングへ降りていく。義父はいつもより早く市役所へ出勤したと母親から聞かされた。少し、ホッとした。でも夜には顔を合わさなくてはならない。嫌だ、あんな奴と。母親に言うべきか。どう母親が反応するのか、それも怖かった。
とにかく学校へ行くことにした。
次々と否定的なことが思い浮かぶ。もうボーイフレンドができて楽しくデートすることも、結婚して幸せな家庭を築くことも不可能だ。ハゲで中年のデブに汚された女を誰が相手にしてくれる?
母親に言ったとしても、あの卑劣な男はきっと否定するだろう。
証拠は何もないのだから。その後で、どんな仕返しをしてくるか分かったもんじゃない。怖い。母親から新築の家とグリーンのベンツを奪ってしまうかもしれない。
誰かに相談したい。最初に頭に浮かんだのが加納先生だ。次に美術の安藤先生。二人ともタイプは違うが美人で優しい憧れの先生だった。
安藤先生とは最近になって急に親しくなる。切っ掛けは、「篠原さん。あなた、美術部に入る気はない?」という誘いだ。
え、あたしが? びっくり。どうして? 絵は下手で芸術のセンスなんか全くないと思っていたのに。
「下手とか上手とかは別にいいのよ。あなたの絵には何かインスピレーションを感じるの。描いていて楽しく思えることが大切なんだから。どう? 美術部に入って一緒に楽しく絵を描いてみない」
褒められて嬉しかった。「考えてみます」と答えたが気持ちは決まっていた。
幼なじみの山田道子に誘われて映画同好会に入っていた篠原麗子だったが、何でも仕切りたがる五十嵐香月の性格が嫌で、集まりには行かなくなっていたのだ。
美術部に入って正解だった。安藤先生は優しくしてくれる。すごく気が合った。
家庭のこと、将来の夢、趣味、好きな食べ物、とか色々と聞いてくれた。気に掛けてくれているのか分かった。そんな話の流れで、ある時、安藤先生は「あなたのお母さんの結婚する前の名前は何ていうの?」と訊いてきた。
え、何で?
違和感を覚えた。そんなこと訊く必要もないのにと思った。答えると安藤先生は驚いた様子を見せながらも、何も言わずに立ち去って行く。その後は麗子の生活に関して何も訊ねてこなくなる。不思議だった。
美術部は絵を描くことよりも、コーヒーを飲みながら安藤先生と会話する方が楽しかった。何度か佐久間渚を誘った。そのうち彼女は映画同好会と美術部を掛け持ちするようになる。
美術部の活動は麗子に家庭での嫌なことを忘れさせてくれた。家に帰りたくない、という気持ちすら芽生えていた。
近ごろでは、母親と義父が言い争う声が二階の自分の部屋まで届く。
「オレたち夫婦じゃなかったのか?」
「すごく疲れているの。何度も言わせないでよ」
「お前なあ。疲れている、疲れているって、もう一ヶ月にもなるじゃないか。一体いつになったら元気になるんだ」
「医者に行って診てもらうわ」
「何だと。まだ行っていなかったのか?」
「忙しかったのよ」
「ふざけんな。じゃあ、夜の仕事を辞めればいいだろう。贅沢しなければオレの給料で十分にやっていけるんだから」
「そう言うけど、これから色々とお金が掛かることが続くのよ。麗子の高校受験だってあるし。もし公立に受からなかったら私立よ。幾ら掛かるか分かったもんじゃない」
「だったらベンツを売れ。あんなモノ、家庭の主婦が乗るもんじゃない」
「イヤよ。あれは絶対に手放さないから」
こんな調子だった。二人の言い争いが始まると、ステレオのボリュームを大きくして聞こえないようにした。でも、もし義父が母親に暴力を振るうことがあったらと気が気でなかった。
数日後、麗子は用事があって昼休みに佐久間渚と一緒に美術室へ行く。コーヒーを御馳走になって教室へ戻ったが、授業が始まる直前になって気分が悪くなる。学校を早退した。
家に近づいた時だ、玄関から母親と長身の若い男が出てきて、グリーンのベンツに乗り込むのを目撃してしまう。
あ、パパだ。と最初は思った。写真で見る実の父親と似ていたからだ。しかし直ぐに違うと気づく。あれは自分が幼稚園の頃に撮られたはずだ。容姿がそのままとは考えられない。若過ぎる。母親と一緒だった男は知らない人だ。誰だろう。自宅に呼ぶなんて、よっぽど親しい仲に違いなかった。もしかして母親は浮気をしているの? その考えが麗子の頭を過ぎる。母親との距離感が更に遠くなった。
義父の赤い軽自動車が玄関の横に停まっているのを見て、慌てて家路を逆戻りした日、麗子は美術の安藤先生に相談する気でいた。
こんな情況、もう一人では耐えられない。そんな思いだった。しかしどこを探しても見つからない。仕方なく街中をブラブラして時間を潰すしかないと考えた。校門を出たところで転校生の黒川くんと出会う。
「どうした?」すぐに彼が心配そうに訊いてきた。よっぽど心の不安が顔に現れていたに違いない。
「……」でも何も言えない。
返事を待っていたが麗子が答えられないでいるのを見て彼は言った。「ルピタのフード・コートへ行こう。一緒にジュースでも飲もうよ」
その言葉に篠原麗子は首を縦に振った。うれしかった。
安藤先生に相談したかったことを、すべて彼に話す。涙が止まらなかった。話すことで気持ちが少しづつ楽になっていく。そして彼は問題を解決する方法としてアドバイスをくれた。
え、そんなことできない。
とても無理だと思った。そんな勇気は自分にない。「分かった。考えておく」とだけ言って、ルピタのフード・コートを二人で出た。家に帰っても安全な時間になっていた。
事情が変わる出来事が起きたのは数日後だ。
幼なじみで近所に住む山田道子が泊まりに来てくれた時のことだった。義父は親睦会の旅行に行っていた。夕食を終えて、リビングで母親を交えて三人でデザートを食べていた。義父がいないと家は楽しい。そこで新居に合わせて買ったサンヨーの大型テレビが衝撃的なニュースを流す。
再婚した妻の連れ子である義理の娘に、性的な虐待を繰り返していた父親が警察に逮捕されたという内容だった。麗子は身体が固まる思いだ。
「酷いっ、酷すぎる。許せない、こんな奴は絶対に許せない」と声を張り上げて非難する山田道子。強く同意を求めていた。だけど麗子は弱々しく頷くことしか出来ない。早く次のニュースに変わって欲しいと願うだけだった。無意識に横目で母親の様子を窺う。
えっ。
麗子と同じように身を固くしているのだ。無表情でテレビを見つめている。デザートを乗せたスプーンは宙に浮いて止まったまま。山田道子の言葉に反応できない。娘の視線に気づくと何も言わずにリビングから出て行った。
この瞬間、母親は自分の娘が義父から性的虐待を受けていることを知っているんだと確信した。頭のてっぺんから足の爪先へと百万ボルトの電流が一気に突き抜けた感じ。
麗子もリビングから出て自分の部屋へと急いだ。そこで心の動揺が顔に現れなくなるまで待つ。少し落ち着くとリビングへ戻って、「どうしたの?」と訝る山田道子に、急に気分が悪くなったと言って帰ってもらう。一人になりたかった。
悲しい。自分の部屋で、ベッドにうつ伏せになって泣いた。
どうしてっ、どうして? どうして、助けてくれないの? どうして、何もしてくれないの?
あたしよりも新築の家やグリーンのベンツの方が大切だったらしい。ずっと愛してきた母親は、そんな人間だったのか。ズタズタに傷ついた。もう絶対に回復しそうにない。麗子は心を閉ざした。
これからどうしよう。これから、どう生きていけばいいのか。
翌日から母親は罪の意識を感じたのか、びっくりするほと優しくなった。いつも声を掛けてくれて、何でも買ってくれようとする。だけど逆に、それが麗子の怒りに油を注ぐ。もう大嫌い。上辺だけの優しさだ。肝心なことを話そうともしない。ウヤムヤにする気らしい。決心した。あのアドバイスを実行するしかない。今ならできる。それだけの勇気があった。
篠原麗子は計画を練り始めた。
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