第15話

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 秋山聡史は佐久間渚が挨拶してくれたことで、この上なく幸せな気分だった。あの子より可愛い女の子は世界に存在しない。いつの日がガールフレンドになってもらいたい。彼女に相応しいのはサッカー部の佐野隼人なんかじゃない、このオレなんだ。

 恋に落ちたのは中学一年の二学期で、席は隣同士だった。英語の授業が始まる前の休み時間だ。渚の「単語、調べてきた?」という一言で、宿題を忘れたことに聡史は気づく。ちぇっ。仕方ない、また叱られるんだと覚悟した。ところが彼女が、「あたしのノートを写してもいいよ」と助けてくれたのだ。

 女の子から、いや誰からもそんな親切を受けたことがなかった。

ノートは数分で写し終えたが、隣の席に座る佐久間渚の存在は依然とは全く別のモノとなった。

 確かに可愛い子だ。そういう女は特にオレに対して冷たく当たるのが常だった。だけど佐久間渚は違った。こんなに優しい妖精のような女の子の隣に座っていたんだ。まったく気づかなかったオレはバカか。

 本当に可愛い。毎日、オレに挨拶してくれる。学校へ行くのが楽しくなった。日増しに彼女への思いが強くなっていく。

 仲良くなりたい。だけど、どうアプローチすればいいのか分からなかった。出来ることは朝の挨拶ぐらいで、それも軽く会釈するだけだった。帰りの「さようなら」なんか声に出して言えない。佐久間渚が言ってくれた時に頭を下げて教室から出て行くだけだ。

 好きだ、大好きだ。仲良くなりたい。でも、どうすればいいのか分からない。

 土曜日、日曜日はもちろん、普段の日でも時々は彼女の家の周りを自転車で走った。遠くから家の様子を双眼鏡で観察もする。公園があって、そこが高台で絶好の場所になっていた。家から出てきた彼女の写真を撮ったりした。もはや佐久間渚が趣味と言ってもいいくらいになっていく。カメラは鶴岡政勝が新しいのを買ったので、古いのを安く譲ってもらう。

 なんとかして彼女に近づきたい。そう思い詰めてアイデアが浮かぶ。そうだ、自転車にパンクの細工をしよう。

 気に食わない板垣順平に仕掛けて上手くいった。いつもオレを馬鹿にしやがる。鶴岡も試合のことで、奴には頭にきていたらしい。二人で野郎の自転車に穴を開けて下校途中に転倒させた。怪我をして次の試合には出られなかった。自転車は壊れて徒歩での通学になった。いい気味だ。死んでもよかったのに。

 その週の土曜日に佐久間渚が赤い自転車に乗るのをずっと外で待ち続けた。今にも雨が降り出しそうな曇りの日で、そんなに期待はしていなかった。家の玄関に注意を払いながら、する事と言えばマイルドセブンを吸うだけだ。でも長く待った甲斐はあった。出掛けてくれたのは午後三時過ぎで、秋山聡史は気づかれないように後を付けた。行き先はルピタだった。渚が駐輪スペースに自転車を停めて店内に入って行くのを確認してから行動開始。聡史は隣に自分の自転車を停めると、しゃがんで横にある彼女の後輪タイヤに針を刺した。

 板垣の場合は前輪をパンクをさせてハンドルを利かなくさせた。佐久間渚には怪我をさせたくない。後輪なら大事に至ることはないはずだ。

 穴には小さくカットした黒いガムテープを貼り付けて、すぐに空気が抜けないように細工する。仕事が完了すると、その場から離れた。物陰に隠れて佐久間渚が店から出てくるのを待つ。買い物を終えた彼女が自転車に乗って家に帰るのを、距離を保ちながら追いかけた。

 渚がパンクに気づいて自転車から降りるのに五分と掛からなかった。作戦大成功。すぐにも助けに行きたい気持ちを秋山聡史は抑えて、三分してから偶然を装いながら憧れの佐久間渚に近づく。

 「あっ、秋山くん」

「どうしたの?」自転車を降りて聡史は訊いた。

「パンクしちゃったみたいなの。どうしよう、困ったわ。早く帰らないとアイスクリームが溶けちゃう」 

「見せてみな。直せるかもしれない」

「え、本当?」

「うん」

 赤い自転車の後輪を調べる振りをしながら貼り付けた黒いガムテープを探す。穴の位置をバルブからの距離で頭に入れる。佐久間渚の目の前でタイヤレバー、ゴムのり、パッチ、紙やすり、携帯の空気入れ、それら全てを路上に広げた。

 「いつも修理の道具を持って自転車に乗っているの?」

「そうだよ。いつパンクするか分からないから」ふん、そんなの嘘だよ。今日だけ特別さ。

「へえ。どう? 直せそう」

「やってみないと分からないな」直せるに決まってら。穴の位置は分かっているし。だって針を刺したのは、このオレなんだから。

「お願い」

「ああ」ひゃーっ。憧れの佐久間渚から頼られているって最高の気分。もう死んでもいいぜ。

 タイヤレバーを使ってチューブを取り出すと、はっきりと穴の位置が見えた。これなら簡単だ、空気を入れて探す必要もない。その部分を紙やすりで擦り始めた。すると突然--。

 「秋山くんて凄い」佐久間渚から賞賛の声。

「……」口が痙攣して返事が出来ない。無表情を装いながら穴の部分にゴムのりを薄く塗りつけたが、気持ちはマッハのスピードで大気園外へと飛び上がった。

 ひょっとして次に『あたしの家で一緒にアイスクリームを食べない?』なんて言葉が聞こえてきたりして。聡史の期待は膨らむ。

 彼女の家に上がれば、きっと両親は大切な娘の窮地を救ったクラスメイトを大歓迎してくれるはずだ。VIP待遇は間違いない。母親は『良かったら夕飯を食べてって』と言ってくるだろう。ご馳走を振る舞ってもらった後は彼女の部屋でビデオ鑑賞といこうか。

 『ローマの休日』なんかを二人でソファに並んで見たら感激だ。グレゴリー・ペックの姿がオレとダブって彼女の目に見えてきたりして。そしたら帰り際に玄関の外に出たところで、両親に聞かれないように声をひそめて『秋山くん、あたしと付き合ってくれない』と交際を迫られちゃうかも。答えは決まっている、『いいよ。オレでよかったら』だ。だけど、ここは男として何も言わずにキスで応じるべきじゃないのか。映画のシーンみたいにな。きっと佐久間渚は驚く。秋山くんで見かけによらず大胆で男らしいと。

 聡史は自分の想像に酔った。初めてのキスだけど、上手く出来るんだろうか。すごく不安だ。ああ、でも楽しい。ずっとこうしていたかった。でも手早くパンクを直してカッコいいところを見せないと。チューブをタイヤの中に戻して後輪に空気を入れると、言いたくない言葉を口にした。「直ったよ」

「うわー。ありがとう、秋山くん。助かった」

「うん」さあ、アイスクリームのお誘いをお願いします。

「本当にありがとう。あたし、悪いけど急いでいるんだ。買ったアイスクリームが溶けちゃう。だから早く家に帰らないと。また月曜日に会おうね。じゃあ、さようなら。ありがとう、秋山くん」そう言い残して佐久間渚は走り去った。お誘いはない。振り返りもしなかった。ちぇっ。

 すっげえ、がっかり。

 一人になった聡史は路上に散らばったパンク修理の道具を見つめるだけだ。集めてケースに入れる気にならない。このまま捨てて帰ってしまおうか。 

 宇宙まで舞い上がっていた気持ちは、イチローのバットにジャストミートされたかの様に地球に逆戻り、そのまま地面に叩きつけられた。天国から奈落の底。今の、あの幸せに満ちた気分は何だったの? あの期待に満ちた想像は何だった? ああ、虚しい。

 額に雨粒が当たった。雨が降り始めて、やっと体が動く。道具を拾い集めて自転車に跨った。本降りになりそうな気配だ。走りながら色々と考えた。一緒にいられて楽しかった。さて、これからどうしよう。どうにかして自分を好きになってほしい。ペダルを強く踏んでスピードを上げると少しづつ前向きな気持ちになれた。  

 よし、分かった。パンク修理だけでは足りないのだ。何かもっと凄いことで彼女に強い印象を与えないとダメだ。すると思いつくのは火事から彼女を救い出す場面だった。

 秋山聡史の趣味にもう一つ、火遊びというのがあった。小学三年の時に、父親がゴキブリをティッシュで捕まえると、「聡史、面白いモノを見せてやろう」と言って、それに火をつけたのだ。丸めたティッシュが燃え上がると、焼き殺されるゴキブリのキィーという呻き声が中から聞こえた。見ていて異常な興奮を覚えた。メラメラとティッシュが燃えていく様にも我を忘れた。

 自分でもやってみたい。それからはライターを使って色々なモノを燃やした。紙、木材、衣服、ブラスチック等だ。何度かボヤ騒ぎを起こして、その度に酷く叱られた。父親は何かあると皮のベルトで叩いて言う事を聞かせようとする。でも止めなかった。隠れて続けた。こんな楽しいこと止められるもんか。

 火をつけて燃やすことで気分は高揚した。自分が支配者になったような気になれた。そして、どう関係しているのか分からないが夜尿症が治った。それまでは、また布団を濡らすのではないかと寝るのが怖いほどだった。見つかれば父親の皮のベルトが待っている。あのバカは強く叩けば夜尿症が治ると信じているようで、一撃一撃と、どんどん力が増していく。母親は助けてくれるどころか完全に無視だ。横でテレビの芸能ニュースを夢中で見ていた。聡史は痛みで学校へ行けないことが何度もあった。そういう日は満足に食事もさせてもらえない。

 度々、両親は夜に息子の夜尿症を持ち出しては夫婦喧嘩をおっ始める。

 「いいか。こんな尻癖の悪いガキになったのは、お前の育て方が悪かったからだ」と酒に酔った父親が言う。

「冗談じゃないよ。聡史がバカなのは、あんたんところの遺伝に決まってるさ」

「何だと」

「そうだろ。あんたの父親はサラ金の借金で首が回らなくなって蒸発だし、母親は医者も見放すほどのアル中じゃないか」

「それは関係がない」

「あるさ。金に溺れた父親と酒に溺れた母親の因果が聡史なんだ」

「ふざけるなっ」

「ふざけちゃいないよ。大体あんたんとこの家族って異常じゃないかしら。妹にしたって風俗でしか働いたことのないバカ女だしさ」

「うるせい」

「恥かしくて、あたしは親に本当のことが言えない」

「もう黙れ」

「もし誰かにバレたらどうしようって、いつも心配している、あたしの身にもなってよ」

「この野郎っ」この言葉で父親は母親に平手打ちを食らわす。

「あ、殴ったな。畜生」叩かれて怯む母親じゃない。灰皿を持って立ち向かう。

 二人が取っ組み合いの喧嘩を始めて間もなくだ、「聡史、外で遊んで来い」という声が聞こえてくる。寒い夜であろうが、雪や雨が降っていようが家を出て行かなければならない。尻癖の悪い息子がいなくなると夫婦喧嘩はセックスへと昇華するのだ。聡史は近くの公園で一時間ぐらい過ごす。恥かしくて家の近くにはいられない。母親の喘ぎ声が嫌でも耳に届くからだ。

 こんな時間に自分たちの都合で子供を外に追い出す親が他にいるか。狭い借家なんだからセックスしたければ時間を選ぶとか、場所を変えてヤってくれ。両親に対する怒りは強い憎しみになり、いつか奴らをテッシュ・ペーパーに包んで焼き殺せたらいいなと思うようになっていく。

 普段の火遊びでは様々なモノを燃やしていくうちに、お気に入りが決まる。紙とマッチ棒を組み合わせて作った家の模型だ。平日に作成して、週末に貞元グランドの人気のない場所へ行って火をつける。

家の構造を複雑にすると燃え方もリアリティが増して面白い。設計にもこだわるようになった。次第に人が住んでいる民家を燃やしてみたくなる。

 だけど、これは火遊びじゃなくて完全に犯罪行為だ。警察には捕まりたくない。やりたい事はやりたいが、そこまでの勇気と決断は持てなかった。

 佐久間渚の家に放火して彼女を救い出す。

 いや、これはどう考えても問題外だ。自分がヒーローになるには最高の場面になるかもしれないが、彼女は住む家を失う。洋風のモダンな造りで燃やすにはもったいない。また、新しく住むところが近くとも限らない。転校して行く可能性が高い。これはマズい。ダメだ。

 じゃあ、どういう方法で彼女と親密になる切っ掛けを作ればいいのか。色々と考えたがパンク修理みたいにいいアイデアは浮かばなかった。難しい。ああ、もどかしい。どんどん佐久間渚への思いはエスカレートしていく。

 そんな時だ、衝撃的なニュースが教室で聡史の耳に届く。憧れの佐久間渚がサッカー部のキャプテンである佐野隼人と交換日記を始めたというのだ。

 何だと! 畜生っ、ふざけやがって。オレの女を横取りしやがった。てめえの家を燃やしてやろうか、このヤロー。よし、これで決まりだ。最初に放火するのは佐野隼人、お前の家だ。君津南中学から追い出してやるぜ。

 いつ、どうやってやるか計画を練り始めた。こんなことで警察には捕まりたくはない。いつか佐久間渚と恋人同士になるという将来が台無しなってしまう。慎重に考え続けた。学校では何度か佐野のバカが渚にピンク色のノートを渡すところを見せられた。もはや他人の目を憚ることもしない。お前ら公然の仲か、畜生。無性に腹が立った。

 渚も渚だ。パンクを直してやったオレを差し置いて、あんなバカと付き合い始めやがって。恩を仇で返すとはこういうことを言うんだ。いいか、交換日記までだぞ。キスはするな。キスは絶対に許さん。佐久間渚の身体には指一本触れさせたくない。聡史の悶々とした日々は続いた。

 いいアイデアというのはは平穏な時より逆境から生まれてくるらしい。いきなり閃いた。交換日記よりも、もっと佐久間渚と親密になれる方法を思いつく。下着を盗むことだ。

 彼女の家を観察していて、可愛らしいパンティとブラジャーが干してあるのを何度か見た。きっと渚のだ、と思った。

 佐野隼人には負けたくない。お前は交換日記までだが、オレは渚の下着を持っているんだという優越感が欲しかった。

 最初はハートがプリントしてある白いパンティを盗んだ。家に帰って誰もいないことを確かめてから机の上に広げた。物凄い興奮を覚えた。これを佐久間渚は穿いていたんだ。なんて愛おしい。手にとって頬ずりした。匂いを嗅ぐ。洗剤の臭いが強いが、微かに佐久間渚の匂いもしないでもない。嬉しかった。これは宝物だ。その後はパンティとブラジャーを一枚づつ盗んだ。大切なコレクションにした。

 家では厳重に保管しなければならない。父親に見つかれば、『どっから盗んできやがった、こんなモノ』と、怒鳴られて皮のベルトで叩かれる。母親に見つかれば取り上げられて、あの女のことだから自分で穿いてしまうかもしれない。冗談じゃない。あいつの汚いケツに使われたんじゃ、たまったもんじゃないぜ。

 あの女ときたら隣りの4号室から出て行ったババアになりすまして、二つ目の再春館のドモホルンリンクルの無料お試しセットをせしめたことがあった。呆れるぜ。そこまでするかよ。欲しかったら買え。その後も何度か4号室の郵便受けから小包を取り出す母親の姿を見た。

 佐久間渚の下着は自分しか分からない場所に隠した。家で一人になれた時は必ず机の上に広げた。頬ずりして匂いを嗅ぐのは必ずやる。これを身につけている佐久間渚の姿を想像しては股間を硬くした。

 ある日のことだ、ブラジャーとパンティを眺めていて思いつく。

秋山聡史は自分の衣服を脱いで全裸になると、佐久間渚の下着を手に取って身につけてみた。隣の部屋にある母親の鏡台の前に立つ。          

 「うわっ」誰もいない部屋で声が出てしまう。

 しばらく動けない。憧れ女性の下着を身につけた自分の姿にうっとり。似合っている。サイズはぴったりだし、これはもう間違いない。渚とオレは結ばれる運命じゃないのか。すごく嬉しい。もう脱ぐ気がしなかった。そのまま聡史は上からユニクロの白いポロシャツを着て、アディダスの紺色のジャージを穿いた。心地いい。大好きな女と一体になれた気がした。こんな幸せな気分は今までになかった。よし、明日はこれを着たまま学校へ行こう、そう決心した。

 佐久間渚の隣りに座って授業を受けながら、『オレ、今日はキミのブラジャーとパンティを身につけているんだぜ』と、心の中で何度も繰り返した。最高の一日だった。ときどきこうして学校に来ようと決めた。ところが、だ。

 B組にはゴロツキというか、居ない方が良かったと思えるバカ連中がいる。山崎涼太と関口貴久、それに相馬太郎と前田良文の四人だ。教室でバカ騒ぎを起こす。くだらない冗談を言って笑わせようとするが全く受けない。最近やったパフォーマンスは、『二年B組でAV女優として成功しそうな女子ランキング』だった。バカらしい。大人しくしているなら許せるが、四人が集まって騒ぐから迷惑は甚だしい。だから無視してきた。しかしそうできない事態になった。

 非常に不愉快なことだが秋山聡史と相馬太郎は背丈が似ていた。髪形も同じようで、何度が間違われたことがあった。それが、たまたま佐久間渚の下着を身につけて登校した日に起きてしまう。 

 聡史が廊下を歩いていた時だった、後ろから関口貴久に抱きつかれた。仲間の相馬太郎が目の前にいると勘違いしたらしい。くすぐってやろうとしたのだろう、奴の汚い手が聡史の学生服の中へと侵入した。

 やばいっ、と思った時にはもう遅い。廊下に倒れ込むだけで逃れる隙もなかった。「やめろっ」聡は怒鳴った。それでもバカは人違いだと分からない。奴の手は背中を伝わってブラジャーのホックに辿り着く。違和感を覚えたのに違いない、それが何なのか確かめるように奴の指先が動く。そして静止。すっと手が引っ込められた。

 関口貴久は体を離して、くすぐろうとした男子生徒が誰なのか確認するように聡史を見た。その顔に驚いた表情が浮かぶ。やっと人違いだと分かったのか。そして何も言わずに立ち去った。

 どうする? 授業中ずっと秋山聡史は今後の対策を考え続けた。関口のバカはオレがブラジャーをしていたことに気づいたはずだ。だけど、その場でみんなに言いふらさなかった。奴らしくもない。何事もなかったことにして忘れてくれるのか。いや、それは無いと思う。すぐに聡史はトイレに駆け込んで、着ていたブラジャーを脱いだ。これで後から言いふらされても、そんなことはないと否定できる。黙っていろと自分から言うのもやめた。あの時はブラジャーをしていましたと認めてしまうようなものじゃないか。そんなバカじゃないぜ、オレは。  

 「おい、秋山。話がある」

 やっぱりだ。下校しようと教室から出て行くところで、関口貴久に呼び止められた。大人しく廊下の隅まで付いていった。近くに他の生徒はいない。二人だけだ。奴は切り出した。「お前、ブラジャーをしてただろう?」

「……」聡史は否定も肯定もしない。

「ブラジャーをしてたな? お前」

「……」言い方を変えても同じだ。バカと話すつもりはない。何を企んでいるのか知りたいから来ただけだ。

「まあ、いいさ。このことは、お前の為に黙っててやろうと思う」

「……」で、その代わりに何を要求する気だ、このバカが。

「それでだ、今週中に三万円を持って来い。そしたら永久に忘れてやる」

「……」そんなこと信じられるか、このバカ野郎。

「分かったか」

「……」

「おい、何とか言え」

「……」

「今週中に三万円を持って来ないと、クラスのみんなにバラすことになるからな。いいな」何も言ってこないのに不安を感じたのか、口調は荒くなった。

「……」聡史は沈黙を貫き通す。頷きもしない。そして踵を返して廊下を階段の方向へと歩き出した。

「忘れんなよ、秋山」

 関口貴久の最後の言葉は背中に浴びた。ふん、三万円だと、このクソ野郎。ふざけんな。持って来たら永久に忘れてやるだと? バカ野郎、そんな言葉をオレが信じるか。上手く行ったら何度でも金を要求してくるに決まってら。よくもオレから金をふんだくろうなんて考えられたな。その代償は高くつくぞ。お前の家が燃えるんだからな。犯罪だろうが関係ない。お前の家に火をつけて恐怖を味あわせてやろうじゃないか。

 佐野隼人の家に放火する計画をそのまま関口貴久の家に変更してやった。恐喝を受けた日の二日後、三万円を持って来いと言われた期限の一日前。その夜に計画を実行に移した。初めての放火だ。

 家の三箇所に灯油を撒いてライターで火をつけた。ボヤで終わらせない為だ。上手く行けば火が火を呼んで一気に家を炎で包む。これは本を読んで知った。

 火をつけた後、聡史は急いで現場を離れた。あまりの明るさにたじろぐ。やばい。これでは簡単に見つかってしまう。近くに停めた自転車まで走り、急いで跨った。ペダルを踏み始めて間もなくだ、けたたましいサイレンの音が夜空に響いた。ちょっと早過ぎるぞ。もしかしたら失敗だったかもしれない。チクショー。通り掛りを装いながら、ゆっくり現場に戻った。

 あ、いい感じに燃えている。こりゃ、悪くないぜ。

 すでに家の周りに人だかりが出来ていた。炎が上がって、遠くにいても熱が伝わってくる。聡史は自転車を電柱にワイヤー・ロックで固定すると、歩いて野次馬の中に入って最前列へと進む。特等席は当然の権利だろう。だって火をつけたのは、このオレ様なんだから。      

 あれ、余計なことをしやがって。

 近所の人たちだろう。バケツに水を汲んで一生懸命に火を消そうとしていた。バカ野郎、せっかくの全焼モードを台無しにするんじゃねえ。負けるなよ、火。

 しかし反面、慌てふためく大人たちを見て愉快に感じた。自分が放った火によって町内に大混乱をもたらしたのだ。オレは全能の神か。

 「すっげえ火事だな」

「こんなの初めてだ」

「一気に燃え上がったぜ」

 人だかりのあちこちで賞賛の声が上がる。気分がいい。『凄いでしょう。オレがやりました。初めてだったけど、なかなか上手く行ったと思います。みなさん、どうぞ楽しんで下さい』人だかりの前に出て、そう挨拶したいくらいだ。きっと拍手が沸き起こるに違いなかった。

 サイレンの音と共に消防車が着いた。防火服を着た消防士が素早く降りてきて、「危険ですから退いてください」と言いながら野次馬連中を強引に後ろへ下がらせる。そして何人かで黄色いテープ張っていく。ここから前へ入るなということか。ちょっと遅れてパトカーも到着。数人の警察官とツナギ服を着た男たちが降りてきた。記念撮影でもするのか、大きなカメラを持った奴もいた。

 『おい、大人たち。いいか、この火事の演出者はオレなんだぞ。退けとは失礼じゃないか』そう言いたいところを我慢して秋山聡史は指示に従う。

 と、その時だ。場所を移動する動きの中で自分と同じ中学生ぐらいの奴の姿を認めた。誰だろう? 見覚えが--あっ、やっぱり関口の野郎じゃないか。ラッキー。

 そっと近づく。ふっ、思わず噴出しそうになった。バカはポケモンの黄色い寝巻き姿だった。袖のところが少し黒く焦げてる。中学にもなって、アニメ・キャラに執着か。サンダルは片方だけ、それも大人のサイズだ。大事そうに猿の縫いぐるみを抱えてる。まだガキか、お前は。寝癖か、それとも燃えたからか、髪の毛はクシャクシャ。まるでホームレスみたいじゃないか。辛うじて火事から逃げてきたって感じがありありだった。笑いを堪えて後ろから声を掛けた。「おい、関口」

 奴が振り向く。「……」放心状態だ。口は開いているが言葉が出てこない。よく見ると唇が震えていた。この前とは逆だ、オレが喋る番だな。

 「なあ。明日、いくら学校に持ってくればいいんだっけか? あっはは」ついでに滅多に人に見せない秋山聡史様の笑顔を拝ませてやった。

 この後は二度と関口貴久の姿を見ることはなかった。祖父がいる九州へと引っ越してしまった。

 ああ、でも火事は最高だった。あの燃え方、あの熱気、あの家が崩壊していく様、観衆の期待と興奮、すべてが素晴らしかった。またやりたい。やっぱり次は佐野隼人の家しかない。この君津からクソ野郎を追い出したい。九州でも、どこでもいい。佐久間渚の前から消えてくれ。あの女はオレのモノなんだ。その証拠に下着のサイズがぴったり一緒だろう。いずれオレたちは恋人同士になるんだ。

 それにしてもだ、気に入らないのは彼女が五十嵐香月と山田道子の二人と仲良しだっていう事実だ。ぜんぜん佐久間渚に相応しくない。

 五十嵐香月なんていう女は最も嫌いなタイプだ。お高くとまりやがって、お前は何様のつもりだ。いつだってオレのことを無視しやがる。いつか家が燃えても知らねえぞ。この女の性格の悪さが渚に伝染しないか不安で仕方ない。

 山田道子を一言で表すとすれば、それは『普通』という言葉しか見当たらない。美人であるわけではなく、また可愛いという形容詞は相応しくない。まあ、ブスでもなかった。全く印象のない女。記憶に残らない女。その他大勢の中の一人。居なくなっても誰もにも気づかれない女。究極の『普通』だ。

 どんなに高価な服を身につけても、安っぽい着こなししか出来ない女。いつも野暮ったい雰囲気を漂わせている。似合うのは、しまむらのバーゲン品かDマートのワゴン・セールで買った服だけだろう。

 もし誰かから『山田道子って、どんな女?』と訊かれたら、もちろん、『普通な女』としか答えられない。『それじゃあ、よく分からない』と言われたところで出てくる答えが、『足の臭そうな女』だった。実際に嗅いだわけではないが、そんな感じがした。

 憧れの佐久間渚が山田道子と一緒にいると、なんだか果汁100パーセントの美味しいオレンジ・ジュースに、不注意にも水道の水が注がれて、どんどん味が薄くなっていくみたいで嫌だった。

 交換日記をする相手に佐野隼人を選んだのも気に入らない。サッカー部のキャプテンだからか? それがどうした? 佐久間渚を本気で好きなのはオレだけなのに。何で、どうして、それが分からない?

 いずれ恋人同士になった時に教えてやろう。渚のブラジャーとパンティを身につけたオレの姿を見せてやるんだ。『キミのことが大好きだから、キミの下着が欲しかった』という言葉を添えて。一目でサイズがピッタリなのは分かるだろう。秋山聡史こそ運命の人だと気づく瞬間だ。きっと渚は目に涙を浮かべて感動するはずだ。こんなにも自分を愛してくれた人がいたんだと。

 そこで、もう少し佐久間渚の下着をコレクションしたかった。三枚くらいじゃあ本気で好きだったと証明するには不十分に思えた。

 だけど彼女の家では、洗濯物を盗られないように警戒している様子が窺えるようになった。干しても数時間で部屋の中に入れてしまう。これでは盗みようがなかった。ただ眺めているしかない。向こうの気が緩むのを待つしかなかった。もどかしい日々が続く中、いきなり赤いチューリップ柄の下着のペアが目に飛び込んできた。

 えっ、何だ。うわっ、すげえ。一目で欲しくなる。あれを絶対にコレクションに入れたい。

 その下着を盗むことだけに秋山聡史は集中した。ほかのモノには目もくれない。隙を見つけて盗む。それ以外にない。しかしチャンスは訪れない。分かったことは滅多に渚は、その下着を着用しないということだ。だから洗濯する回数も少ない。タンスに仕舞い込んでいるらしい。洗っても外で干すのは一時間以内に限られていた。盗られないように細心の注意が払われているのだ。これじゃあ、手も足も出なかった。

 ミッション・インポッシブル、つまり不可能に近い作戦だ。これが成功したらトム・クルーズ主演で映画化されても、ぜんぜん不思議じゃない。もしかしたら永久に手に入らないかもしれなかった。その可能性は強い。諦めるべきなのか。でも忘れられそうになかった。そう考えると、より一層欲しくなっていく。あのチューリップ柄のブラジャーとパンティが手に入るなら何でもしてやろう、そんな心境だった。

 どうしよう、あいつに相談するか? いいや、それは最後の手段だ。本当に信用できる人間なのか、まだ分からない。出来ることなら自分の力でなんとかしたかった。

 週末のある日、いつものように遠くから双眼鏡で佐久間渚の家を観察していて気づく。他にも誰かが同じように彼女の家を双眼鏡を使って見ていたのだ。そいつは大胆にも路上で自転車に跨ったままの格好だった。

 一体、誰だ? 「あっ、……あいつだ」まさか。信じられない。何で、どうして? 

 あっ、やばい。と思った瞬間、もう手遅れ。突然そいつが双眼鏡を持ったまま回転を始めたのだ。聡史の方向を通り過ぎてから、不自然に動きが止まって少し戻った。畜生、見つかったらしい。双眼鏡を通して目が合った状態だ。二人とも動けない。聡史の全身から汗が噴出す。秘密を知られてしまった思いだ。どうしよう。ブラジャーをしているところを関口貴久に見つかった時よりも動揺している。動けない。呼吸すら満足に出来なかった。緊張して何も聞こえない。苦しい。双眼鏡を持つ両手が痛い。

 あ、あ……助かった。 

 幸いにも、そいつが先に行動を起こしてくれた。双眼鏡を下ろすと、何もなかったように自転車で走り去って行く。姿が見えなくなると、その場に聡史は腰を落とした。深呼吸。それを何度も繰り返す。疲れた。すべての体力を使い切った気分だった。もう今日は帰ろう、と立ち上がったところで、佐久間渚の家の物干さおにチューリップ柄の下着がペアでぶら下がっているのを目にする。ちっ、マジかよ。こんな時に限って……。ダメだ。そんな気力は残っていない。行動に出ればドジを踏むに決まっている。渚の家族に見つかれば取り返しのつかない事態を招く。間違いなく両親は下着を盗もうとした男と娘の交際を快くは思わないだろう。仕方ない。聡史は泣く泣く帰路についた。

 家に帰って考えたのは、あいつのことだ。これからどうなる?

これからどうしよう。秘密を知られたからには、家に火をつけて君津から追放してやるしかないのか。関口貴久の時みたいに金を要求してくるだろうか。だけど今回は前と違って自分も奴の秘密を知ったということだ。どう向こうが出てくるのか待つことにした方がいい。こっからは何も言わないと決めた。

 「秋山くん」月曜日の昼休み時間、教室に生徒の数が少ない時を見計らって奴は小声で話しかけてきた。「驚いたな、キミも佐久間渚に夢中だったのか」

「……」オレは否定も肯定もしない。

「あんなに可愛い子は他にいないぜ」

「……」ああ、その通り。

「キミもチューリップ柄の下着を狙っているのか?」

「……」えっ、マジかよ。こいつも渚のブラジャーとパンティに興味を持っていたらしい。やばいな。

「だったらオレは諦めようかな。キミと勝負して勝てる見込みはなさそうだ」

「……」本気で言っているのか、お前。まさか誘導尋問じゃないだろうな。

「しかし、あの下着をゲットするのは難しいだろうな。一人じゃ無理だと思う。良かったら、いつでも協力するぜ。いいアイデアあるんだ。考えてみてくれ」

 そう言い終ると奴は振り向いて、その場を離れた。オレは黙ったままだったが、なかなか内容のある話だった。佐久間渚のことは諦めてくれるらしい。ライバルが一人でも減ってくれるなら、それはいい事だ。チューリップ柄の下着を盗むことは一人では難しい、とも言った。それも同感だ。だけどオレは誰の助けも借りたくなかった。

 それから数週間が聡史の目的が達成されないまま過ぎた。苛立ちと焦り、募る欲求。次第に頭の中で協力を求めるという考えが大きくなっていく。悩み続けた。あのチューリップ柄の下着さえ手に入れば、佐久間渚の心を捉えたも同然という錯覚が秋山聡史を支配する。何が何でも早く欲しい。

 あいつに……、いや、人には頼みたくない。だけど、このままでは手に入れることは不可能だ。どうしよう。

 朝起きて、まずその事を考える。学校へ行きながら、その事を考え続ける。授業中もその事しか考えない。佐久間渚の近くにいる時は尚更だ。家に帰って夕飯を食べながらも、頭の中は渚のブラジャーとパンティでいっぱい。デレビを見てても、ずっとその事に思いを集中させている。

 今日、下校途中で佐久間渚と挨拶を交わした。嬉しかった。この問題を早く解決したいという気持ちは強くなった。あいつに……、「あ」と思わず口から声が漏れる。

 道の反対方向から同じクラスの篠原麗子が足早に通り過ぎて行ったのだ。何で、どうして。学校に忘れ物でもしたか。いや、そんなんじゃない。何か切迫した雰囲気があった。聡史と目も合わさなかった。彼女らしくない。

 あの女は嫌いじゃなかった。優しくて素直な性格で、それが顔立ちにも表れていた。誰からも好かれている。身長は百六十センチを超えていて、女らしい身体つきだった。ここ最近で、すごく色っぽくなった感じがした。制服を着ていなければ、もう大人の女性と変わらない。ボーイフレンドでも出来たんだろうか。そいつと喧嘩した直後だったりして……まあ、いいや。どうせ、オレには関係ない事だ。それより佐久間渚の下着の問題だった。もう待てない。一刻も早く解決したい。あいつが言う、いいアイデアというのを一度聞いてみたい気になっていた。それがオレを納得させられるものだったら、その時は協力を頼もう。それがいい。

 秋山聡史は久しぶりに気持ちが楽になった思いだ。さっそく明日の朝、あいつに声を声を掛けようそう決心した。

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