〈4.7〉それが約束だ
目をさました雪は、全身が震えていることに気づいた。冷気に晒され、流れる血がすべて冷水に変わったかのように寒かった。着ていたダッフルコートは奪われ、ブレザーの制服姿で冷たいコンクリートの床に転がされていた。
いがいがする喉で咳き込みながら、身体を起こす。
ぬっ、と巨大な人影が雪に差した。
「おはようございマス」
ロシア人の大男……雪に注射を突き立て、さらった誘拐犯。
「……あんた誰。ここはどこ」
「ラヴロフ・タルコフスキー。ここは都内のホテルデス。誰も使っていナイ」
ラヴロフのぎこちない日本語のとおり、周囲を見るとたしかにそこは大きなエントランスだった。いたるところに埃が積もって、床のカーペットは無様に剥がされていた。そこらじゅうの壁に落書きがされていた。きっと心霊スポットとかなのだろう。
その大階段の下に、雪は縄縛もされず寝かされていたのだ。
「……身代金は出ないと思う」
「そんなものは要りまセン。実はアナタの抹殺を依頼されたのデスが、もうどうでもいいのデス。あの男がアナタのボディガードだったと知ったノデ」
「ハガネが……ハガネを狙ってるの?」
「ウマシロ・ハガネ。そう名乗っテルらしいデスネ。カレの以前の仕事はご存知デスカ?」
「さあ……」
言われてみれば考えたこともない。中学校に通っていた? まさか。
奇妙なことに、この状況に恐怖は感じなかった。目の前のロシア人のコントみたいな喋り方のせいかもしれなかった。
ラブロフはにっこり笑った。
「ワタシと同じデスよ。傭兵……殺し屋デス。我々は世界中でズイブン殺して回りマシた。ドクサイ政権の樹立を助けたコトもありマスし、同じ政権を崩壊させたコトもありマス。文明国家での暗殺も大得意デスね。そうイエバ厄介な武装民族を根絶やしにもシマシタ。つまりお金サエ貰えれば何でもやるのデス」
「……嘘」
嘘に決まっていた。確かにわけのわからない“コートアーマー”を所有して、使いこなしているのだから、まともな経歴ではないと思っていたが、それでもあのハガネがなんの罪もない人たちを殺すなんて考えられなかった。
ハガネは絶対にそんなことを許さない。
「ウソではありまセン。我々は
「……台湾? あんたたち、ずっとハガネを付け回してたの?」
「まさか奴がもう一度ボディガードをやってるなんて驚きデシたよ」
「あんたらにハガネの何がわかんの。知ったような口きかないでよ!」
「わかりマスよ。カレを仕込んだのはワタシだからデス。汚れを知らない子供たちに、生き抜く術を教えるのはワタシの役目デシタから」
そう言うと、いつの間にかロシア人の隣に、小さな人影が立っていた。
女の子だった。あの巨大な“コートアーマー”でミツグを叩きのめした彼女が、まるで大男の影から浮かび上がってきたかのように現れた。
男はまるで手すりみたいに、少女の肩に手を置いた。少女は無反応だった。
「だから台湾でアレが起こったノデス。ワタシの植えつけた条件付けに逆らえず、カレは暴走し、“彼女”を手にかけた。カレは深い絶望をいだきマシた。自分ニハもう二度と誰も守れナイと思いつめマシタ。ああ、手に取るようにワカリマス。ワタシの愛しい子よ……」
“彼女”? 直感めいた思考が雪を襲った。
おそらく最初の
私を通して見ていた、人生で一番大切な人。
とたん、涙を流していた。猛烈な自己嫌悪が胸をついた。
この涙が、大事な人を自分の手で殺してしまったハガネの心を思ったものではなく、私を見てくれなかったと確信した悲しみだとわかっていたから。
私はハガネではなく、自分のために泣いている。
そんな自分が恥ずかしくて嫌だった。
ハガネの選択は正しかった。
私には守ってもらう価値なんてない。
「来まシタネ」
ラヴロフの声に、雪は赤く腫らした目を上げた。
ホテルの正面玄関、くすんだガラス扉を押し開いて入ってくるハガネの姿があった。
◇
郊外にある、廃業して長そうなホテルに足を踏み入れる。
中は薄暗く、陰気だった。壊れた調度品や、剥がれた壁紙。死とか衰退とか、そういうものを強く感じさせる場所だった。心の弱い奴が一週間でも住んでみたら、自殺してしまいそうだ。
そして、吹き抜けの二階につながっている正面の大階段。
その最下段に、雪がいた。
逃げ場を潰すように、ラヴロフと女の子が雪を挟んでいる。
「アーリャ」とラヴロフが声をかけた。
少女……アーリャは素早くナイフを取り出して、躊躇いもなく雪の喉に突きつけた。
「何しに来たの、馬鹿! 契約はもう終わったんでしょ!」
雪の目は赤く、涙の流れた跡があった。泣いていた。身体は無事のようだった。
ならば、何を言われた? 気の強い雪なら、大抵の脅迫には耐えられるはずだ。
だがもしかして、絶望したら違うのかもしれない。自分を助けてくれる者など誰もいない、と疑ったら、あの雪でさえ絶望するのかもしれない。
あの涙はつまり、俺のせいだ。
「久しぶりデスネ、ハガネ。夜はきちんと寝ていマスか? 歯は磨いてマスカ? 手は洗っテ?」
ラヴロフの石刻のような顔を見ると、反射的に身体が震える。どれだけ頭で押さえつけようと、刻み込まれた条件付けは永遠に消えないのだろう。
俺は奴に殺しを教え込まれた。
奴は出来損ないの粘土細工みたいにまず徹底的に俺の心を砕いて、それを捏ね直し、完璧な兵士のそれへと作り変えた。その残滓はいまだに俺の心に棲みついていて、睡眠を悪夢に変え、暗闇に化物を潜ませ、ときには俺の身を守る。
二十メートルほどの距離をとって、俺はアタッシュケースを突き出した。
「“パーシヴァル”だ。雪を離せ」
「セラフィム・ドライブはどうしマシタ?」
俺は手袋を投げ捨てた。
「取れるわけねえだろ」
「アタッシュケースを開きナサイ」
俺は解除用の認証コードでケースを開いた。
ぎっしりとナノマシンの敷き詰められた中身を、ラヴロフに見せつける。
「確かに入ってるようデスネ。では……」
がしゃああん、とラヴロフは俺の足元に鉄鎖を放った。
「それで封印しナサイ」
「駄目、ハガネ!」
言うとおりにした。俺は冷えた鉄鎖を持ち上げ、アタッシュケースにぐるぐると巻きつける。投げられた南京錠を受け取り、アタッシュケースを締めつける鉄鎖に鍵をかけた。
「いいでショウ。アタッシュケースをコチラに」
その言葉に従い、ケースを蹴った。コンクリートの床を刃のように滑り、ラヴロフはそれを踏みつけて止めた。
「これで“パーシヴァル”は封じたはずだ。雪を離せ」
「まったくナゼ敵を信用するのデス? ソンナことは教えてマセンよ」
つっ、とアーリャのナイフが食い込み、雪の喉から血の珠がにじむ。
雪は悲鳴を押し殺した。
「思ったとおりだ」刃先が皮膚より深く刺さる前に、俺は言った。ナイフが止まる。
「
俺の認証コードを受信して、アタッシュケースが撃たれたようにびくんと震えた。しかし、鎖に締められた蓋はわずかな隙間も見せなかった。
「……アア、どうやらコンナ平和な街にいすギテ、鈍ったようデスネ」
心底哀れそうにラヴロフは首を振った。
だが、ラヴロフはその首を止めた。
低い、ブーンという忌まわしい羽音がエントランスに届いていた。
それはまるで地獄から聞こえてくるようで、発生源は見当もつかない。
「コレは……」
次の瞬間、轟音と共にラヴロフたちの背後の大階段を突き破って、純白の龍が猛然と噴出した。訓練を受けた二人は、恐るべき反射神経でとっさに転がる。
雪だけがその軌道にいた。龍は、雪を乗せてまっすぐ俺に突っ込んでくる。
一瞬、俺の胸に妄想じみた願望が浮かんだ。
こんな俺のことなど、この龍に喰い殺されればいい。バラバラに噛み砕かれ、魂まで粉々になるといい。
だがそんなことは許されない。俺は最後まで抗い、立ち続けなければならない。
それが約束だ。
偽装用のわずかなナノマシンをアタッシュケースに残して、俺が事前に地下駐車場に配置しておいた“パーシヴァル”は、指向性を持った激烈な嵐と化して俺の身体を飲み込んだ。
すべてが装着されていく。神経が、骨が、筋肉が、戦うための体躯となる。
一瞬後、数多の血を浴びた純白の“コートアーマー”を身に
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