第7話
*
ガーデンロードを進みながら続けられた老人の話からすると、なるほど幽ノ藤宮という人物がこの国の住民から尊敬の念を集めるだけの理由が分かった。
それにその奇病は、もしかすると幽ノ藤宮が居なければやがてシャグナにまで及んでいたのかもしれないのだから、かの者の功績はジラルドにとってもまったく関係の無い話ではない。
六つ目の青銅像、綻びかけの花の蕾の前を離れつつ、ジラルドは老人に訊ねた。
「それだけの先を見通す力、そして支持者が居るのなら、幽ノ藤宮という者はそろそろ市政にも口を挟める立場にあるのではないか?」
「幽ノ藤宮様がそうなされても市民に反対する者など居ないだろうが……そういうことは無いだろうね」
目線で理由を訊ねるジラルドに、老人は先に見えてきた庭園を細めた目で見つめた。
「幽ノ藤宮様は苗床様たちのことだけを考えておられる。だけ、と言い切るのは違うかもしれないが、あの方にとっては栽培が、花を美しく咲かせるということが一番なんだ。そしてあの方はそれで良い。そのために居られる方なんだ。あの方自身も、苗床様たちも、ネッサリア市民の我々全員が、そう思っているんだよ」
「ふむ……そうか」
心からそう述べている様子の老人に、ジラルドはまだ見ぬ偉大な功労者に期待を抱く。そしてそんな人物が居ると知ることが出来たこの機会に感謝をした。
しかしふと見た隣の付き人の表情の難しさに、ジラルドは眉を寄せる。
「どうした。デューイ」
「え? あぁいや……なんでもありませんよ」
はははと笑う付き人に強い目線を向ければ、デューイは諦めたように息を吐く。
前を行く老人に気付かれていないのをよく確認した後で、小声で答えた。
「オレはね殿下、忠誠心はあっても信仰心は無いんです。あのご老人が――いや、もしかするとこの都市の市民全員が幽ノ藤宮なる人間に向けているのは、尊敬や感謝というより、まるで信仰心だ。本人に会ってないからそう言えるだけかもしれませんが、オレには理解出来ませんね」
そういった人を批判はしませんけど、とデューイは言葉を締めた。
「忠誠心と信仰心は具体的にどう違うんだ?」
「ま、人によっては同じものかもしれませんね。殿下……ジオーク様の中では同じに感じられるのなら、そういうことなんでしょう」
デューイの言葉にジラルドは困惑した。
その困惑を脳内で咀嚼していると、突然、短く声を上げた老人が足を早める。ジラルドの思考は、否応なくそちらへと移った。
「急になんだ?」
「なんでしょう……とりあえず、オレたちも急いでみましょうか」
老人が歳からは考えられない速度で歩み寄った先は、七つ目の青銅像だった。
その像の前に立つ人物に向けて、老人は震える声をかける。
「こ、こんにちは、幽ノ藤宮様! 本日は、何故こちらへ?」
その言葉に、追い付いたジラルドとデューイは目を見開いた。
「マティスさん、こんにちは」
目の前の、つい先程まで話に上がっていた名で呼ばれたその者は、穏やかな笑みを浮かべて老人に答える。
「少々用事がありまして外へ出ていました。これから、庭園へ帰るところです。――この像のいつ見ても見事な仕上がりに、つい足を止めてしまっていたのですよ」
藤紫の髪と深紫の右目。左目のグリーンはジラルドの物より薄く涼やかだ。
見かけからは年齢も性別も分からないが、気品溢れるその姿は、信仰心を向ける対象としても間違っていないように思えた。ネッサリアの誇りである功労者を、シャグナの王子とその付き人は思わず凝視してしまう。
「そうでしたか。……あぁそうだ、幽ノ藤宮様!」
そんな二人の意識を引き戻したのは、老人がパチンと打った手の音だった。
「今、こちらのお客さんたちを庭園に案内している最中だったんですよ。幽ノ藤宮様の功績をお客さんに紹介していたんです」
「おや、そうでしたか。有難うございます」
老人に笑いかけた幽ノ藤宮は、観光客の二人へと向き直った。
「お初にお目にかかります。わたくしは庭園管理責任者である幽ノ藤宮と申します。この度はようこそおいでくださいました。――道行きは同じです、宜しければこの後、庭園へのご案内をわたくしが勤めさせていただこうと思いますが、如何でしょう?」
着いてから園内のご案内も出来ますよ、と幽ノ藤宮は言う。
老人が案内を申し出た時とは違って、デューイはジラルドへ確認を取ろうとはしなかった。
――と、いうより、
「ああ、是非」
デューイがその行動を起こす前に、ジラルドがきっぱりと返答をしていたのだ。
「僕はジオーク、連れはデューイという」
よろしく頼む、と告げるジラルドに幽ノ藤宮が喜んで答える。
そのやり取りを聞きながら、老人に向き直ったデューイは懐からコイン入れを取り出した。
「ここまでの案内を感謝します、ご老人。これは謝礼として――」
老人に金貨を渡そうとすると、彼はぶんぶんと手を振った。
「何を言ってるんだねお客さん! 庭園への案内はむしろ名誉なんだ、その気持ちは嬉しいが、チップなんぞ要らないよ」
「僕からも受け取って欲しい。詳しい説明もしていただいた」
その言葉を聞いたジラルドの勧めにも、老人は一向に頷こうとはしなかった。
困ったような顔をしている二人に、でしたら、と静かに佇む幽ノ藤宮が手の中の何かを老人へと差し出す。
「マティスさん。庭園へいらっしゃるお客様をご案内していただいたこと、わたくしとしても嬉しく思い感謝しています。お金ではありませんので、これを受け取っていただけませんか?」
「えぇと、幽ノ藤宮様……これは?」
「すずかから落ちてしまった花で作った香袋です。あと二日ほどしか香りを持たないものですので、御礼としては不適当かもしれませんが」
「いっ、いいえそんな、苗床様のお花なんて自分には買えるものではないものですから! ありがとうございます、大事に大事にさせていただきます」
両手で包んだ薄紫の香袋を掲げるようにして、老人は何度も礼を言った。
大きく手を振る老人に見送られつつ、ジラルドとデューイは幽ノ藤宮に率いられて『庭園』へと向かう。
老人に声が届かない程歩いた後に、ジラルドは言った。
「……本当に尊敬されているのだな」
それともあれはやはり信仰の域だろうか。
ちらりと横を見れば、おそらく同じようなことを考えているのだろうデューイは嫌味にならない苦笑を浮かべていた。
「えぇ、有り難いことです」
ですが、と、幽ノ藤宮は目を伏せた。
「わたくしはやりたいことをやったまで――今のわたくしへの評価は、大袈裟なものとも思います」
そんな謙遜の言葉に首を傾げ、そうだろうか、とジラルドは生真面目に答える。
「僕の国には、話に聞いた恐ろしい病は広がらなかった。しかしそんな地域の者である僕でも、あなたへの評価を大袈裟だとは思わない。どういった理由からであろうと、あなたは結果的に大勢の人を救い、それは世界を救ったとも言えるだろう」
あなたの行なったことは素晴らしい功績だと言い切ったジラルドに、
「――有難うございます」
幽ノ藤宮は、ただ曖昧に微笑んでいた。
*****
身支度を整えてきますので、と、庭園の門を潜りつつ幽ノ藤宮は言った。
「向こうに見える洋館へどうぞ。誰か庭園内部の者が居るでしょうから、申し訳ありませんがしばしそちらでお待ちくださいまし」
「分かりました。わざわざすみません」
敷地内に咲き乱れる花々に言葉を失っているジラルドの代わりに、デューイがそう答えた。
では、と幽ノ藤宮が背を向けた時、
「ふじみやさまっ、おかえりなさい!」
言いながら姿を表した者が、幽ノ藤宮の腰あたりに抱きついた。
「只今戻りましたよ」
黒髪の間からぱらぱらと小さな花を撒き散らす少女の頬を撫で、幽ノ藤宮は再び二人を振り返る。
幽ノ藤宮に肩をとんとんと叩かれた少女は、はっと気付いたような顔をした。
「おふたりは、お客さまですか?」
「えぇそう、遠方よりお越しの方です。すずか、ご挨拶をなさい」
庇護者の着物を握っていた手を離し、すずかと呼ばれた少女は姿勢を正した。深々と頭を下げながら、こんにちは、と言う。
「苗床の、すずかです。ほんじつは、この庭園を、ゆっくりごかん……ごかん……」
「『ご鑑賞』」
「そうでした。……ごかんしょう、ください!」
花をまとわりつかせながらにっこりと笑ったすずかに、ジラルドは今日で幾度目になるか分からない「成程」を感じた。
感染者の命を救っただけでなく、日々人間を蝕んでゆく醜悪な植物を、商売が可能な形にまで変化させた。その功績は聞いただけでも感心したものだが、その成果を実際に目にすれば想像以上に感激してしまう。
この美しさをこの人が一人で生み出したならば、それはネッサリアにとって誇りと呼ぶ以外のなにものでもないだろう。
「ありがとう。これだけ美しい光景は自国でもなかなか見られない。とても楽しませてもらえそうだ」
綺麗な笑顔を返したジラルドに、すずかはぽっと顔を赤くして、幽ノ藤宮の背後へ回った。
そんな少女に苦笑しつつ、幽ノ藤宮は半身を返す。
「それでは後ほど、洋館で」
「――の前に、一つ良いですか」
歩み去ろうとした幽ノ藤宮を呼び止めたのは、デューイだった。
「あなたは先程、オレ達のことを『遠方よりお越しの』と言われましたね? どうしてそうお思いに?」
ジラルドは隣の付き人を見上げる。デューイの表情は疑ってかかっているという訳では無さそうだったが、念の為、という気持ちが滲み出ていた。
その問いに、あっさりと、そして意外そうに幽ノ藤宮は答えた。
「お二人は、マティスさんの説明をお聞きになるまで病のことをご存知無かったのですよね。でしたらこの辺りの方では無いのだろうと勝手な判断を下してしまいましたが――間違った点や、お気に障るような点がおありでしたか?」
「あっ、いや全然……そうか、そりゃそうですね。すみません」
はははと頭をかいたデューイにくすりと笑みを零し、幽ノ藤宮はすずかを連れて、今度こそその場を去った。
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