19、夏至祭の巫女
雲を貫き切り立つ岩山の、雪解け水が集り、岩の間を浸食しながら流れていく。
やがて小さな川となり、勢いを増していき、滝となる。
滝は滝壺に飲み込まれ、そのまま澄んだ美しい深い川となり森を流れていく。
森と滝と岩山だけの土地に根を張り、国を構えようとした建国の王が選らんだ特別な場所である。
王城から徒歩で行けるところに、滝があることを多くのデクロア国民は知らない。
豊穣を祈願して行われている夏至祭のために、特別に用意された舞台は、その豪快に落ちる滝の横に張り出した、自然に出来た平らな岩の上である。
少し離れた場所にある、列席者の場所よりも少しだけ高い位置にある。
地べたに置かれた羊毛で織られた敷物の上に、尻に敷く四角いクッションが適当に置かれている。
王族は10名ほどがあぐらやそれを少し崩した形で、思い思い寛いでいた。
アズール王子待ちであったようだった。
クレイに案内されて、アズールは靴のまま、敷物に上がる。
彼は敢えて靴は脱がない。
無防備なところを襲撃されたら靴を履くのに手間取り、致命的なことになりかねないからだ。
人からも、野生動物からもだ。
王はそれを見て、無言である。
異国の王子に好きにさせる。
二人のアズールの騎士は上がらず、デクロアの王騎士のように後ろに控えた。
その列席者には、王や王妃をはじめ、二人の美姫も、昨日3番のゼッケンをつけていた娘も、その他にも選抜試験で見覚えのある娘たちも何人かいる。
王族に繋がる傍系の娘たちであった。
娘たちはアズールに気がつき、頬を染めて会釈をする。
この中に、三番目の姫がいるのであろうか?とアズールは思う。
「お好きにお座りください。見やすい位置にどうぞ」
シシリア王妃の声が掛り、娘たちは体を動かしてそれぞれの隣りの場所をさりげなく空ける。
5番の娘、シーアはいない。
仕方なくアズールは、アクア姫の横に自分の場所を確保する。
長剣はすぐ手に出来るように前に置いた。
戦争をしている国の王子の身に付いた習慣である。
アクアは手に、シンプルな竹笛を持っていた。
よく見ると、娘たちも男もそれぞれ手には何かしらの竹や動物の骨、革など天然素材の楽器をもっている。
そうしているうちにもだんだんと空が白んでくる。刻々と日の出が近づいていた。
一人の巫女が、ま白い合わせの装束に、頭には景色が透けて見えるほど薄手に織られたショールをすっぽり被って、控えていた。
ベールの向こうの髪は高く、きっちりまとめられ結い上げられている。
その娘が立ち上り、ベールを手にして裸足のままたんたんと身軽に道ならぬ崖を渡る。
ベールのぐるりと端にはま白い毛皮の縁取りがある。昨年たまたま猟師が手にいれた、不運な事故で命を落した雪豹の毛皮である。
デクロアの民は雪豹を狩ることはない。
滝の中腹に張り出した天然の舞台にトンと降り立ち、しゃがみこむ。
娘は滝の横で白く輝く固まりになる。
「今年は一番の躍り手のリシアよ。アズール王子は運が良いわ」
アクア姫がささやく。
アズールが気にもしなかった、三番目の姫のリシアだ。
どの娘だったかと、アズールは腰を据える。
王の決まりきった口上が始まる。
デクロアの命を支える自然に対する感謝と狩りの成功と、豊穣の祈願。
国民の幸せを願う詔。
その間、滝の白い娘はピクリとも動かない。
娘の上には岩を跳ねて細かな霧状になった水滴が降り注ぐ。
アズールの頬にも僅かにかかる。
お決まりの口上が終わる。
娘に注目が集まっていた。
今か今かと待っている。
誰かが笛を息長く吹く。
空気を二つに分けていくひとつの音だった。
ピク。
白いものが己の体に気が付く。
ピクピク。
それは目覚めようとしていた。
顔をあげて、辺りを見回す。
四つん這いで体を伸ばし、尻を上げる。
娘は始まりの雪豹であった。
ここは彼の世界のすべてだった。
切り立つ岩場を住みかにして、森を駆け巡る。彼の王国。
娘は体全体で雪豹を表現する。
躍動する体はしなやかで美しく、それは人ではあり得なかった。
音色が変わる。
娘は立ち上り、ベールを肩にずらした。
雪豹から、始まりの人に変わる。
人は豊かな森で、岩場の産み出す豊かな水源を利用して、踏み入れた新しい世界で生活を始める。
雪豹は快く思わない。
ここは自分の王国。
醜く血と錆の臭いがする人間はいらない。
雪豹は森のオオカミを焚き付けて、増え続ける人間たちを追い払う。
人間は手にした武器で抵抗する。
人間たちは獰猛な野生動物が守る新たな土地を諦めるか、とどまるかの選択に迫られた。
彼らは続く戦渦を逃れてきた流浪の民。
そんなとき、ひとりの娘は森の王、雪豹に出会う。
娘は今だかつてこんなに美しい生き物がいることを知らなかった。
雪豹はうなり声を響かせて、鋭い牙を娘に向ける。
我らの美しい世界から出ていけ人間よ!
娘は思う。
オオカミに喰われたり、森の外にでて再び野蛮な人間たちに追い立てられるならば、この美しい雪豹に食われ、その美しい血肉になるほうが、よほど良いのではないか?
差し出した無垢なる白い手に、雪豹は唸りながらも押さえられず、その顔を擦り付ける。
擦り付けるうちに、それだけでは収まらず、ビロードのような弾力のある毛に被われたしなやかな体をごと、娘に押し付け、つややかな顔をなめ上げる。
娘もはじめは驚くが、その雪豹の誇り高く青い目に恋をする。
同時に雪豹は、人の娘に恋をした。
巫女は高く結い上げていた髪を一気にほどいた。豊かな金茶の髪が波うちながら、ほどけ落ちる。
体をくねらせ、白いベールを雪豹に見立てて、恋ごころを躍りあげていく。
次第に激しくなる恋のダンス。
音楽は一層激しく華やかになっていく。
夜明けはもうすぐそこまできている。
次第に水量を増していく滝のしぶきを、リシアは構わずその体に浴びる。
冷たい雪解け水を含む重い装束をリシアは一枚脱ぎ捨て、伸びやかな脚で大きく蹴りあげ滝に落す。
手にしているベールのような薄手の濡れた肌着は、リシアの体に張り付きまとわる。
そしてその場にいた男も女も息を飲む。
まだ完成しきってはいないが、膨らみ始めている優しい体の輪郭に、跳ねっ返りのリシア姫が、少女から美しい女に一気に変わろうとするのを、その場にいるものすべてが見た!
クレイは舞台で舞うリシアから目をそらせない。
熱くなっていく若い体と裏腹に、急激に心は冷えていく。
リシアを舞台から引摺り下ろして、抱きかかえて連れ去りたい衝動と戦う。
クレイは、美しい自分だけの姫が、手の届かないところに行くのを、息をするのを忘れて固唾を飲んで見守るしかなかった!
一晩で娘は変わる。
この娘は本当に跳ねっ返りの三番目の姫なのか?
雪豹が乗り移った、人ならざる者なのか?
それとも、雪豹が愛した、デクロアの始まりの娘そのものが、現れてリシアの代わりに舞っているのか?
巫女は踊りあげる。
再びベールを頭に小さく雪豹に戻る。
岩場の隙間から、夏至の日にだけ差し込む朝日が、リシアであった雪豹を射した。
滝の水量は舞台が危険になるほど増している。
夏至祭は終わった。
娘は顔をあげる。
豊かな金茶の髪。
ブルーグレイの瞳の娘が、列席者の中の異国の男に気が付く。
どんなに色んな人がいても、リシアは彼に気がついてしまう。
リシアの心を暴き、晒し、かき乱す異国の男。
リシアは踊りながら彼のことを思っていた。
雪豹が娘を見る目が、彼がリシアに向ける目に重なる。
危険なのに、雪豹に食われてもいいと思える娘の心境は、己の心にも存在してはないか?
危険なのに、あの黒い目の男に触れたいという心境と同じではないか?
三番目の姫の卑屈さは邪魔であった。
冷たいしぶきが、リシアの16年の間に染み付いたコンプレックスを洗い流していく。
最後に残った呪縛は、重く体に絡んだ装束と共に滝壺に棄てさった。
リシアは美しく、自由であった。
そして、アズールは二度同じ娘に恋に落ちたのだった。
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