1‐7 仁愛

 二〇七九年の春、ノルン・ルーヴはアメリカ合衆国議会議員の母とノルウェー人ジャーナリストの母の間に生まれた。彼女の生まれた年に始まったベイカントとの戦争もあり、両親ともに忙しく家で一人で過ごすことが多かったが、二人の母はたくさんのキスとありったけのハグで彼女を愛し、自由な時間全てを一人娘に捧げた。


 幼いころから一人で会話していることの多かったノルンだが、それは小学校高学年になっても続き、心配に思った母からいくつか病院に連れていかれたものの、本人にとっては自分と会話することの何がおかしいのか、と自分のことを疑問に思うことはなかった。


 学校で孤立しても、ノルンは寂しいとは思わなかった。自分は一人でも孤独ではない。そう自分に語り掛ける自分がいたからだ。大好きな母たちもいる。何も問題なかった。何一つとして。


 二〇九四年の七月。ジャーナリストとして働いていたノルンの母が何者かに殺害された。犯人不明、原因はおそらく、当時彼女が行っていた軍関係の何か。関係者である娘の命も危ない。そう考えた議員の母はノルンを自身の親友のいる日本に送りだすことを決めた。何も分からないノルンにとってこの決定は認めがたいものだったが、母に押し切られ日本に渡ることを決めた。


 飛行機には母も同乗した。ベイカント警戒空域を迂回した限定航行可能空域を通るコースで北太平洋を渡る算段だ。曇りの、今にも嵐が来そうな静かな午後だった。そしてその予感は的中することとなる。


 ノルンと母を乗せた飛行機が離陸した二時間後、これまで数機での襲来が主だったベイカントが初の大規模侵攻を開始した。空を覆いつくす程の赤い飛行体の群れ。各国海上基地からはありったけの迎撃機が出撃したが、旧軌道エレベーターの正北に位置する基地が陥落、抑え込まれていたベイカントがあふれ出した。


 ベイカントの侵攻の報せを聞いたノルンの母は、しかし歩みを止めることはなかった。国に戻っても危険に変わりはない。


 離陸から五時間。高度一万二千メートル上空。雲海を見下ろす機体のガラスに、それは映った。赤い外殻。扁平な形状の飛行体、ベイカント。ノルンはそれを一枚のガラス越しに見た。機は回避起動をとったが数十秒の間、ベイカントはノルンの座席の窓の傍を離れることなく飛行していた。おそらく、人類で最も近く、長くベイカントと接触した瞬間だっただろう。


 そしてその時間は唐突に終わりを告げる。


 ノルンとその母を乗せた航空機のエンジンが、爆ぜた。急激に高度が下がってゆく。耳の奥が悲鳴を上げる。それすらあざ笑うかの如く機体の窓が消し飛ぶ。いや、大穴がいくつも開く。それがベイカントの銃撃であることを理解する間もなく、機体は二つに割れ、火と黒煙を吐き出しながら黒い海に落ちた。


 意識が戻った時、ノルンは海上にいた。機体の残骸らしきものに引っかかり、辛うじて生きていた。五体満足。奇跡だった。しかし、ノルンはそれを幸運とは思わなかった。二人の母が死んだ。愛していた二人が。愛してくれた二人が、死んだ。何故私は生き残ったのか。そう思った。


 夜の海は容赦なく体温を奪っていく。ノルンは手を強く握りしめた。まだ体温を覚えている。最後まで手を握ってくれていた温かさを覚えている。それすら私から奪うというのか。やめろ。これは私の熱だ。そう何度も唱えた。


 ノルンの意識が叫ぶ。何故私が生きているのか。何故二人が死んだのか。

 

 別の意識が語り掛ける。人はいつか死ぬ。その時が今だっただけだ。


 また別の意識が呟く。死にたい。


 別の意識がまくし立てる。どうせこのまま溺れ死ぬ。


 いくつもの自分の声が聞こえてくる。いつものことだ。けれど、殆どの声が、自分の意識が、自分のことしか考えていないことに気付いた時、ノルンはひどく惨めで、二人の母に申し訳ないような気持になった。


 頭が痛い。手が痺れる。空にはきれいな満月が輝いている。遠くの方で何かの音が聞こえる。花火のような、何かが爆ぜる音だった。


 こんな場所でなら、死んでもいいか。ノルンがそう思った時、彼女に声が聞こえた。


『あなたには出会うべき人がいる。だから生きて、その人を守ってあげて』


 自分の声。優しい声だった。きっとどこかにいた、自分の意識のひとつだ。


 生きよう。そう思ったもののノルンの体温は既に奪われ、すぐにでも闇に落ちてしまいそうだった。瞼が閉じ世界が黒に包まれ完全に感覚が失われようとした時。何か巨大なものが落ちてきた。


 目が覚める。波が激しい。晴天に飛沫の雨が降る。


 ノルンは空を見る。大きな金色の月。その中心にある人型の影。


 ほどなくしてヘリがやってきて、ノルンは無事八洲基地に救出され、日本に引き渡された。その時の記憶はほとんどないが、救出に来た人たちは私を探しに来たのではないことだけは、なんとなくであるが理解していた。




 一か月後。体も回復した頃、日本がノルンに伝えたのは、八洲への移送だった。専守防衛を掲げる日本が軍を持ち、ベイカントに攻撃を仕掛けるために作りだした独立軍事国家、八洲。日本国民であれば多重国籍を許可する、などという屁理屈のような国だというのが、ノルンにとっての第一印象だった。


 命を狙われるVIPを隠すならば、ほぼすべてが機密となっている八洲軍の中がいいだろうという日本の計らいだった。年齢が十八になるまではそこの孤児院で保護という形を取り、移行は兵役義務もなしという条件だった。


 孤児院、という言葉を聞いて、ノルンは両親がもういないことを理解した。その時そのことを告げた女性はこう言った。


『今の君には、他者の存在が必要だ。自分でなく、他人が』




 その翌週、ノルンは東京湾に浮かぶ巨大な人工島、八洲に移送され、その地下一階にある八洲軍管轄の孤児院に迎え入れられた。


 管理者、――ここにいる子どもは『マム』と呼んでいた――に連れられ、一通りの“家族”の紹介を受けたあと、同室になる少女を紹介された。


 肩までの黒い髪。夜を閉じ込めたようなどこまでも暗い瞳。見方によっては少年のようにも見える、真っ白な制服と対照的な黒を纏う少女。自己紹介をするよう促された彼女は一言、


『――未宙』


 短く、そう答えた。冷たい、氷のような、しかしその奥に何かを秘めた人だ、とノルンは思った。そして何より、美しいと感じた。


 その日はその後、何一つ会話を交わすことなく終わった。その翌日も、そのまた翌日も、未宙は一言も発さなかった。ノルンが見ている限り、ほかの子どもともあまり関わりのある様子はなかった。


 少しして、管理者に未宙は十四歳で、今までここの最年長だったことを聞きノルンはしくったな、と思った。そして、大事な人と離れ離れになってからああなったことも。


 大事な人。ノルンはその言葉を反芻した。


 自分が語り掛けてくる。


『その程度でふさぎ込むようなやつ、相手にする必要はない』


『あの人のことをもっと知りたい』


『なんでそんなにそいつのことを心配するんだ』


『無理に人と関わってもいいことはない』


『失うくらいなら最初から求めなければいい』


 うるさい、と思った。けれどどれも、自分だった。


 その日の夜も、一言も交わすことなく消灯時刻が来た。窓には外の景色がモニターに映っている。ノルンがモニターの電源を落とそうとカーテンを閉じた時、後方から声がした。


「これ、入所祝い」


 そう言って未宙が差し出したのは、一本のペンだった。万年筆。黒の光沢塗装。


「みんなで小遣い出し合って買ってきてもらった。みんな、あたしが渡せって言うから、その、これからよろしく、おねがいします」


 言葉選びに迷っているようだった。一つ一つ選び取るように、そっと選ばれた言葉。その未宙の姿が、ノルンはたまらなく愛おしく思えた。


 この人はきっと、怖がりなだけなんだ。


「――ありがとう、ございます」


 敬語が出た。それから自分のベッドに座って少し話をした。この孤児院のこと、アメリカという国のこと、これまでのこと。ふとここに来るまでのことを思い出して、ノルンは涙が出た。わけもわからず涙をぬぐっていると、未宙がノルンを抱きしめた。優しく、きつく、抱きしめていた。ノルンはその抱擁に母たちを思い出して、また泣いた。そして落ち着いたころ、


「ここに、いたんだ。リザが」


 そう言って未宙はノルンの隣に座った。そして穏やかに、かつてそのベッドを使っていた少女のことを語った。彼女が愛した少女のことを。そして、その少女を探すために軍に志願するということを。虚空を眺める未宙の瞳に光が輝いているのを、ノルンは見た。


 その時、どうやっても彼女の一番になれないことを、ノルンは直感した。それでも、彼女の傍にいたい。氷のような彼女を、少しづつでも温めてあげたい。


 だから、真面目で不器用な彼女のために、ノルンはおどけた口調で話しかける。


「よろしくお願いします、先輩」


「そっちが年上だ」


「けど、ここに来たのはそっちが先だし、軍に入ることを決めたのもそっちが先っすよ」


「お前も来るの」


「当たり前っすよ。私が先輩の傍にいます。だからこれから、よろしくお願いします」


 いたずらっぽく笑って見せる。それがきっと、未宙という人のためになるだろうから。私が愛する人のために、私はやれることをする。母たちと同じように。そうノルンは決意した。


 それからノルンは眼鏡をやめてコンタクトにした。いつも未宙とともに居た。悪友というポジションを確立した。


 軍学校にも二人で入り、ともに優秀な成績を収めて卒業。ノルンは学科試験首席、未宙は実技試験首席だった。


 あいにくノルンは意識が並列して活動する特性が災いしてコンピュータを含めた自分を信じ切ることが必要となるファイターパイロット適性はなかったものの、その情報処理能力を買われ管制機のパイロットとなった。


 そして、現在。ノルンは未宙とともに、同じ空を飛んでいる。


 データリンク要求を示すビープ音。天螺あまつみの文字。


 彼女が、先輩がやってくる。亡霊を連れて飛んでくる。彼女が愛した人の亡霊。自分にはなれない、彼女の一番。


 今日もはやく終わらせて、一緒に夕食をとろう。


 データリンク確立。


『先輩、聞こえますか?』


 返答を確認。深呼吸をして、仕事を始める。

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