わすれもの 九 探し物の在処
しかしその蝶が外に飛び出すことはなかった。問志の予想に反して、飛び上がった蝶は何故か問志の周囲をぐるぐると旋回すると彼女の胸元に止まり、元の紙へと戻って重力に逆らうことなく床へと落ちてしまったのだ。
「え、何故...?」
問志は困惑して真朱と菊荷を交互に見たが、二人も同じような顔をしていた。
「…橙埼さん、失礼ですけれどちょっと雑念が多かったみたいですねぇ」
「待ってくれ別に俺は彼女のことを思い浮かべてなぞいないが?」
「そうは言っても話を聞いた限り、問志ちゃんは貴方の探し物を持ってはいないでしょう?」
「心当たりは確かにないです、ないはず…?」
問志は真朱の力を信用しているし、菊荷がどれだけ必死に烏から奪われたものを取り返そうとしていたのかもきちんとその眼で見ている。しかし、問志にも該当するようなものを手にした記憶もない。
「今日は昼間から書庫に居て、その前も外には出ていなくて…。外から物音がしたから窓を開けたら、あの烏とぶつかって…。……ん?…まさか?」
問志の脳裏に、無かった筈の心当たりが浮かび上がる。あの時、菊荷が追っていた烏は問志と一度激しく衝突していた。そうして問志の胴体を踏み台のようにして更に建物の上へと上がっていったのだ。
もしもその時、烏の脚に引っ掛かっていたものを彼の鳥が手放してしまっていたとしたら。そうしてそれが、今後は自分の身体に引っ掛かっていたら?
問志は
びたりと、問志の体が固まる。
問志はゆっくりと袷の隙間に手を差し込んで音を鳴らした”何か”を引き抜く。すると問志の爪の先は、鈍い輝きを放つ真鍮製の小さな楕円型をした装身具を摘まんでいた。菊の花を模した細工が施された二枚の薄い金属片を小さな蝶番で留め、開閉できるようになっている。千切れた金属の鎖が、中途半端に問志の指に絡みついて揺れていた。
「あの、橙崎さん、もしかしなくても...?」
油を
対する菊荷もなんとも気まずそうに、問志の予想通りの返事を寄越した。
「...君が思う通り、俺が捜していたものはまさしくそれだ」
紙の蝶に間違いはなかったのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
問志が菊荷を見送るために柳の店の外に出ると日は傾き始めており、空を塗りたくる色は橙色から夜の青へと刻一刻と移り変わる真っ最中であった。
店を出た菊荷は、自身の手の中で鈍く輝く装身具を確認するように指でなぞった。
「なんというか、余計な手間を掛けさせてしまって、申し訳ないです」
「君が気に病むことは何もない。むしろ、あの烏に持ち去られたままであったら、二度と俺の手元に戻ってこなかったかもしれないのだから。…君が持っていてくれてよかった」
菊荷は自らの元に戻ってきたペンダントを衣服の内側へと仕舞い込みながら、安堵の表情を浮かべている。
「今日はもう遅いから、後日改めて礼をさせて欲しい。君にも、
「いやいや、そんなお気になさらず。僕は案内しただけですし。真朱さんだって、実質お礼なんていらないって言ってるようなものだったじゃあないですか」
謙遜する問志であったが、菊荷に譲る様子はなかった。
「充分良くしてくれただろう。此処まで助けてもらって、何もしないなんてそれこそ寝覚めが悪い」
「…そう言われてしまうと、強く遠慮しずらいのですが」
「その為に言ったんだ。何か食べたいものや欲しいものはあるか?男手が必要な用事があるならそれを手伝ったって良い」
そこまで言うのなら、と問志は頭を捻った。槐が居るため男手は足りているから、真朱への礼は必然的にそれ以外となる。
「そうですねぇ。真朱さんはよく晩酌をしているので、お酒はなんでも喜ぶと思いますよ」
問志は真朱とそれほど付き合いが長いわけではないが、この二週間一日の大半を共に過ごしている為、多少は味覚の好みも好むものも把握している。
「…俺の同僚にも酒好きがいたな。いい酒を知っているだろうから聞いてみよう」
「橙埼さんはあまり飲まないんですか?」
「まだ十九だ。飲める年齢じゃない」
「あれ、僕と二つしか違わないじゃあないですか」
問志は丸い目をさらに丸くして驚いた。淡々とした話し方と身につけている衣服の印象で、菊荷の年齢をてっきりもっと自分より歳上かと思っていたのだ。
「随分大人っぽいですねぇ。垢抜けているってこういうことを言うんでしょうか」
問志は、感心したように改めてまじまじと菊荷を見つめる。夕焼けの朱と夕闇の紺で僅かに染まる骨色の髪は、青年の実年齢をより曖昧なものにしていた。
「...自分ではよくわからないが」
問志の視線から逃れるようにそっぽを向く仕草は、年相応の青年そのものである。尤も、問志にとってはその態度自体が”年相応”であることすら理解できていなかったが。
「俺のことは良いんだ。君の要望を聞かせて欲しい」
菊荷は気を取り直すと、再び問志に目線を合わせる。彼の表情はいたって真剣だ。今まで同世代との関わりが殆どなかった問志は、そんな橙崎菊荷という人間への興味を抑えきれないほどに募らせていた。
そこでひとつ、少女はあることを思いついた。
「菊荷さんは、帝都で暮らして長いのですか?」
「そうだな、物心が付いた頃からずっとだ」
菊荷の返事に顔を輝かせた問志は、革の手袋で覆われた彼の右手を両手で強く掴む。夕陽に照らされたその顔は好奇心と興奮とでキラキラと瞬くようだった。
「それなら、僕に帝都のことを教えてくれませんか」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「あの二人、こっちにまで聞こえてるのに気づいてないのかしら」
適当な棚に身体を預ける真朱は、引き戸の向こうにいるであろう二人の会話をぼんやりと聞きながら、柳が淹れた
「気づいてないだろうね。青少年の健全な会話って感じで、可愛らしいじゃないか」
煙草の煙をぷかぷかといくつも空中へ浮かべる柳の表情は、童を慈しむ翁のそれである。
「それにしても真朱くん、君はもう少し従業員への教育ってものを考えた方がいいと思うよ。問志くんは素直でいい子だけれど少しばかり警戒心が低すぎるんじゃないかい?只でさえ君の職種は厄介事に突っ込みやすいんだから」
「御忠告どうも。だけどあの子はあのままでいいのよ。警戒するものは警戒されやすいもの。それに、その
「嗚呼、確かにそれは違いない。君なりに考えているならこの件に関して余計な口を挟むのは控えるとしよう。…さてここからが本題なんだけれど、白髪の彼の持ち物が随分気になるようだね。君の手持ちに加えるには少しばかり簡素じゃないかな?」
柳の質問に湯呑みを持つ真朱の指がピクリと震えたが、返事を返すことはなかった。しかし柳は真朱が口を開くのを待っているようで、口角を上げて愉しそうに真朱のことを見つめている。
対する真朱は、苦いものを飲み込んだような渋い顔をしていた。一度興味を持つと納得いくまで詮索をする柳の
「アレの前の持ち主に心当たりがある。其れ以上を聞きたいなら店を閉めた後に話してあげるわよ」
わすれもの おしまい
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