第9話 masque

 血が欲しい。

 血が欲しい。

 焼け爛れたこの肉体に血が欲しい。

 血が欲しい。

 浴びるほどの血が欲しい。


 太陽は私から全てを奪う。

 いくら愛しても、いくら焦がれても、この肉体が焼かれていく。


 なぜだ、なぜ、私を愛さない。

 太陽よ、なぜ私を愛さない……!!




 ***




 刀を握り締め、太郎は全身を強ばらせる。

 目のない仮面には視線もない。……どこを見ているのか、こちらに気づいているのか、それすらも分からない。


 闇の中、息を潜める。……刹那、仮面が動いた。

 ぎしり、と階段に足をかけ……一歩、一歩と登ってくる。

 刃が月光を照り返す。

 鳥居の前に立ち塞がるよう、金眼の獣は緋く染まった仮面を視ていた。


 仮面の奥から見られているのか、それとも、また別のものを見ているのか、あるいは……

 考える暇はない。この下手人を是が非でも捕えなければ、被害は増え続ける。

 無用な血が流れないのなら、それに越したことはない。


「……?」


 仮面が小首を傾げる。「来ないのか」と、語りかけるように。


「……ッ、馬鹿、な」


 腕が動かない。いや……「殺せない」。

 殺意を持てば持つほど、己の内側から歯止めがかかる。

 殺してはならない……と、太郎自身が自らの足を縫い止めている。


 仮面の男は再び歩を進める。……どこを見ているのか、何を見ているのか、視線を悟らせないままに……。




 ***




「どうしたの?殺人鬼のニュースなんか見て」


 晃一が軟膏を仕舞って帰ってくると、シャルロットの瞳はテレビに釘付けになっていた。

 不安に揺れる視線が、床に落とされる。


「……これ、たぶん……」

「ああー……吸血鬼だよなぁ。間違いなく」


 アナウンサーが読み上げる「犯行」は、シャルロットにとっては解答そのものだった。

 被害者に抵抗した様子がないのは、bouquet能力を使用しているから。

 被害者の全身から血が失われているのは、糧となったから……


「……心当たりあるの? ……もしかして、知り合いだったり?」


 無論、晃一の「仕事」には大いに関わりがある。

 ……同業がみな本気で異形を悪とみなし、滅ぼす気があるなどとはとっくの昔から信じていない。ブラウン管の向こうで語られるおぞましい殺人鬼の存在そのものが、不信の根源とも言える。


「暁十字の会」開祖、矢嶋源三郎やじまげんざぶろうは、その殺人鬼を「脅威」の象徴とした。

「異形が人間を脅かす」という事実が強く、濃く浮き彫りになればなるほど、彼らの権威は強まる。

 上司も数人は本気で信仰に染まり切っているが、晃一はよく知っている。……矢嶋源三郎は、神の使者ではなく……ただの、拝金主義で、強欲で、がめつい、自分勝手な、自己中心的な、それでいて腹黒い……屑で、外道な狸爺だと。


 よくよく思い知ってなお、晃一は、生きるためこうべを垂れる道を選んだのだ。


「……きっと、父です」


 ぽつりと、シャルロットの青ざめた唇から言葉が紡がれた。


「……いつからか、父はおかしくなってしまって。『太陽よ、なぜ私を愛さない』……とうわ言のように繰り返して……いつしか、姿を消しました」


 俯いたまま、過去の記憶を……失った日々の光を手繰り寄せる。

 父は、セザールはシャルロットに優しかった。……けれど、それでも、太陽に心も身体も焦がれて堕ちていった。

 ……長の候補になるほど能力も人望も優れていたセザールは、愛に狂い身を滅ぼしたのだ。




 ***




 陽岬市暮越町くれこしちょうのマンションの一室。次郎は本棚から兄への伝達ノートを取り出し、ロベールはなんの断りもなくテレビをつける。


「……また父さんのニュースやってる」

「……! その殺人鬼が……久住と、お前の父親か?」


 次郎の驚嘆にまあね、と事もなげに返答し、ロベールは大の字に寝転がる。

 カーペットにシワが寄ることも気にせず、ふわあと欠伸を一つ。……その態度には、さすがの次郎も冷や汗を流した。


「僕は顔すら知らないけど。……物心ついた時には、判別がつかないほど焼け爛れてたから」

「そうだったのか……。久住とも同居していたのか?」

「あんまり会ったことはなかったよ。……あ、クロードやヴィクトルさんは気にかけてたみたい」


 クロード、と親しげに名を呼びながら、ロベールは瞳を閉じる。

 ……母も、あの頃はまだ壊れていなかった。

 血が欲しい、と呻いた声音を思い出す。何度も何度も血が欲しいと繰り返し……父は、やがて禁忌を犯した。

 長の最有力候補だった男は欲に溺れ、道を踏み外した。……それだけのことだ。


「姉さん……死んじゃったのかと思ってた」

「え?」

「……姉さんがいなくなってから、誰かに姉さんのことを聞いても教えてくれなかったし……ヴァンパイアは、死んでも亡骸がないから……」


 肉体は燃え尽き、灰となり、後には形すら遺さない。

 ……それが、ヴァンパイアの「死」だ。


「僕……姉さんのことあんまり知らないけど、死んでもいいやと思える性格でもないし」


 いつも、困ったように、控えめに笑う姿をよく見ていた。

 ……本当は泣きたかったんだろうと、心細かったんだろうと、そう感じたこともある。


「だってさ、姉さん……我慢強くて優しいでしょ? ……生きててよかった」


 きっと誰からも愛される人だ。「恐怖」の能力を持つハンデも大したことはない。

 ……次郎は、その評価に何も返すことができなかった。彼がシャルロットの……いや、誰かの感情や性格を考慮したことは、ほとんどない。

 次郎には、分からない。そもそも、目に見えないものを理解し推測できるとも思えない。……「そうか」と相槌を打つのが精一杯だった。




 ***




 太郎は呼吸を整え、体勢を整え、確かな殺意を蘇らせる。……が、ずきん、と、激痛が体内から動きを乱した。

 喉奥から鉄の味がせり上がる。

 まずい、と思う前には膝をついていた。


「が、はっ、ゴホッ」


 口を覆った手のひらに飛び散る赤褐色の液体。

 飛沫はぼたぼたと指の間から溢れ、石段を汚した。


「……」


 仮面の男が動く。……が、彼は結界を超えられない。

 歪んだ魂を魔のものと識別したのか、見えない壁は男がその先に向かうことを忌避し、立ち塞がっていた。


「…………まだだ……俺はまだ……」


 一度「当主」としての自分を脱ぎ捨て、大きく息をつく。……そして、再び震える手で刀を構える。

 口の端から赤褐色の血が垂れるのも構わず、金の瞳で相手を見据えた。

 殺さなければならない。……たとえその肉体が長くなくとも、彼には背負ったものがある。守るべきものがある。


 ……病だと、周りには説明していた。おそらく、太郎本人と主治医でもある仁左衛門、母の眞子以外はそう認識しているだろう。

 幼い頃、その身体は既に破壊されていた。……病魔ではない。かつて水銀を用いた猛毒が、太郎のあらゆる臓器を、あらゆる神経を侵した。

 こうして生きていること自体が不可思議なほど、もはやその肉体は終焉に近づいていた。


 だから、面を被る。当主として冷静な余裕に満ち、冷徹な判断力を持ち、冷淡に振る舞える自分がいれば……その役割さえあれば、

 まだ、この世にしがみついていられる。


「……血が欲しい……」


 掠れた声が静寂にこだました。……太郎の手の震えは、未だ治まらない。

 仮面の男は見えない壁を叩き、引っ掻き、その先へ進もうとしていた。

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