第8話 星

 次郎左近には、恋というものがよくわからない。


「仁左衛門、恋ってなんだ?」


 10代の頃、幼馴染にそう問うたことならある。


「難しい質問ですね……。どうしようもなく焦がれて、欲しくなってしまうこと、でしょうか」


 ふむ、と、真剣に悩みつつ、1歳年上の仁左衛門は答えた。

 それでも、次郎にはピンと来なかった。


「ええと……夜空に輝く星に手を伸ばすような思いと言いますか……。すみません、変にロマンチストみたいなことを……」


 誰かを思い浮かべたのか、仁左衛門は照れたように頬をかいていた。

 首を捻りつつ、次郎も真剣に返す。


「星は……地球から何光年と離れているから難しいぞ……?」

「そういうことではなくですね……!?」


 双子の片割れにも尋ねたが、太郎は「わからぬのなら、わかる必要もない」と、静かに跳ね除けた。

 その頃から、ずっと一緒だった兄に壁ができたように感じていた。兄とまた仲睦まじく語らいたいと思いつつ、届かない背に手を伸ばすような心地でいた。


 ……年月を経ても変わらなかった。次郎には、やはり、恋がわからない。




 ***




「星に手を伸ばす思い……と、仁左衛門は言った。……それならこの感情が、きっと……恋なんだろう」


 兄から返答らしい返答はなかった。「そう思うのなら、そう思っておくが良い」と、見えない壁の向こうから声だけが飛んでくる。

 そのまま、踵を返して太郎は境内へと向かう。……その背中に、確かな拒絶を滲ませながら。


「兄さん……俺は、たぶん、兄さんに恋をしている」


 シャルロットへの思いはあくまで探求欲と、知的好奇心だ。……その気になれば満たせる欲求を、恋と呼んでいいものか。

 それならば、届かない背中を追い続けるこの感情こそ……恋心、と言えるのではないのか。


 吸血鬼の少年を背負い、次郎は夜空の星を見上げる。そろそろ、銀河の帯がよく見えるようになってくるか……などと独りごち、10年前、どこかの万博で公開された月の石を思う。

 宇宙にもし生命体がいるのなら、レアなのは地球人の方か、それとも向こうか……と、とりとめのない思考を巡らせ、夜道を歩いていく。


「……お兄さん達、人間じゃないよね?」


 静かな問いが、背中から飛んでくる。


「人狼……だっけ?ヴィクトルさんから聞いた」


 ロベールは声音に警戒を滲ませつつ、次郎の無防備に晒された首元に目をやった。


「人狼じゃないぞ。大神おおかみだ。吸血鬼からすると馴染みはあるだろうが、兄さん達はその呼び名があまり好きじゃない」

「ヴァンパイアだって、吸血鬼って呼ばれるのは嫌がるよ。少なくとも僕は嫌」

「そうだったのか……」


 次郎は意外そうに息をつきながら、今度から気をつけるか、と素直に答える。

 ロベールはそうして、と告げつつ、そっと首筋から目を逸らした。


「……ところでロベール。姉はいるか?」

「腹違いだけど……いるよ。……それが?」

「シャルロット……という名前か?」


 ごくり、と唾を飲む音がする。

 それが答えだった。




 ***




「それでは、私はこれで」


 奈緒を送り届け、美和の家の前まで来たところで、仁左衛門は静かに礼をした。

 友人の朗らかな笑顔を思い出す。あれほどの非日常を見せながら、奈緒はいつものように「また明日ねー!」と笑った。


 胸の奥から、制御できない感情が沸きあがる。

 ──面白い、と。


「……もう一度言いますが、くれぐれも深入りはなされるな」


 雰囲気で察したのか、目の前の巨漢は釘を刺す。


「分かってる。今日はありがとうございました」


 ざわつく感情を抑えつけ、美和はぺこりと頭を下げる。

 仁左衛門の視線が不安そうに揺らぐが、やがて、諦めたように去っていった。


 その背を見送り、何の変哲もない一軒家に足を踏み入れる。


「ただいまー」


 美和がそう告げれば、おかえりー、と、台所の方から声がする。

 ……姉の「呪い」を解くために玄関に置かれた水晶やら、壺やら、数々の眉唾風水グッズを一瞥して、そのまま自室に戻る。

 姉……紗和がフランスに行ってから、数年が経つ。美和は姉の顔もよく知らないが、全身に鱗があったというのは両親から何度も聞かされた。


 美和は両親が好きではない。

「あなたの肌は綺麗でよかった」と、毎日のように語る両親が好きになれない。

 姉を、「可哀想な女の子」にする両親は、むしろ嫌いだ。


 ぱらり、と、姉の書いた本を捲る。

 きっと、向こうで楽しんでいるのだろう……と思うと、文字を追いかけるのが楽しかった。


 紗和は、美和にとっての目標だ。

 道標となるような……輝く一等星。


「……姉さんは、素敵な人よ。「化け物」なんかじゃない」


 姉、シャルロット、「大上次郎」……彼らを化け物と呼ぶ人間がいるのなら、それこそ許せない。


 パタン、と本を閉じる。

 気まぐれな姉は手紙すら中々寄越さないが、美和は、別にそれでもよかった。

 本のページをなぞるだけで、姉の息吹に触れられる。何よりも憧れた存在に近づける。


 ……言葉を交わせなくても、触れ合うことができなくとも、今はまだ、それでいい。




 ***




 夜は更けていく。星空に輝く月は、柔らかなベールで陽岬を包み込み……


 その存在を映し出した。


 真っ赤な血潮が、白い仮面に散っている。

 にたりと耳まで裂けた仮面の口が、ぽたりぽたりと彼自身のただれた口元に鮮血を流し込んでいた。……目はない。覗き孔すらも、仮面にはない。

 境内を見上げ、仮面の男はどさりと、まるで供物や生贄のように犠牲者を投げ捨てた。……八つ当たりか、宣戦布告か、意図はわからない。


 夜闇に煌めく金の瞳がその姿を捉える。……が、刀を抜くことはない。

 大神の「神眼しんがん」が、男の全身をくまなく探る。その体躯を、その息遣いを、その一挙一動を眼に焼き付け、太郎右近は今か今かと息を潜めていた。

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