第13話 朝香8
マンションでは引っ越しの準備が進められていた。
一階のエントランスと外を繋ぐ扉は開け放たれ、引っ越し業者が慌ただしく物を持ち運びしている。
買い物袋を横を提げた朝香はその横を通り過ぎると、自分の部屋がある最上階へと向かうエレベーターに乗った。
「引っ越しか、隣の人かなぁ」
住み慣れた環境からの変化とかかる手間、費用。
いざやろうと思っても中々踏ん切りがつかない行動の一つ。
一時期ストーカーの恐怖に追われていた朝香も引っ越しを考えてはいたものの、必要なくなった。
朝香を追っていたストーカーは逮捕されたからだ。
肝試しだかなんだかで、偶然あの廃墟に来ていた人たちによって拘束された。
ただその件を除いても、朝香が引っ越しをしない理由は別にあった。
「だって、それじゃあ意味がないよね」
最上階の廊下から見る風景に今日も変わりはない。
一車線の道路と道行く人々、そして反対側には雨川代行事務所。
あの二階建ての建物を見ていると朝香はどうしても彼のことを思い出してしまう。
「雨川さん……」
今でもよく覚えている。
分厚い眼鏡とややぽっちゃりとした体形。
将来ストーカーなんていう脅威に晒されるなんて、想像すらできなかった学生時代の朝香に声をかけてきたのは彼だった。
――それ、面白いよな。
高校に入学して半年ほどが過ぎた頃、部活に入っていなかった朝香は放課後に図書室で本を読むのが好きだった。
読むのは専らライトノベルと分類されるもの。
アニメや漫画も大好きな所謂オタク。
さすがに漫画はなかったが、それでも小説の方はなぜか不思議なほど図書室に置かれていたため、朝香は通い詰めていた。
――ええと、まあ。
当時のオタク文化は今よりも表に出ていなくて。
アニメの話をする人なんて教室でもほとんどいなくて。
そういう方面の趣味があると周りに知られるのは恥ずかしく、話を振られた瞬間にかっと体が熱くなったのを覚えている。
――今二巻? 全部読んだ?
――いえ、まだですけど。
運動もしていないのに吹き出してくる汗が制服の内側を濡らす中、心は激しく昂揚していた。
相手は蔑むどころか理解があり、なんなら自分よりも詳しい様子。
貴重な同志を見つけられた喜びは何にも代えられないくらい幸せで。
自分の好きなものを語って、相手が反応してくれる。
ただそれだけのことが嬉しく、さらには共感を得られた時には天にも昇るような心地だった。
――二巻はあれだ、主人公が覚悟を決めるところが格好よかったよな。
――私はまだそこまで読んでないですね……。
――そっかそっか、すまん。じゃあせっかくだから今から三巻のネタバレをするか。
――はい。え? なんでですか!
特異な分野の話題だったとはいえ、今よりもさらに男性への免疫のなかった朝香が、気負わず話せたのは彼の人柄によるものか。
初対面の男性相手にあれほど話せたのは彼以外にいなかった。
そのことに気付いたのは、彼と図書室で別れた後だったが。
――雨川先輩はこれ、もう読みました?
――それは、まだ読んでないけど……。
――なんで警戒してるんですか。
――どうせネタバレする気なんだろう? ちっ嫌な奴だ。
――しませんよ……先輩じゃあるまいし。
悪戯好きで、子供っぽいところは随所に見え隠れしていた。
ただ今思うとあの年頃にしては落ち着いた部分もあって、朝香の長い語りを呆れることなく聞いてくれた。
次の日会うのが楽しみで、放課後が待ちきれなくて。
連絡先は交換していたものの、電話なんかでやり取りするのはなんだかもったいなくて。
共通の趣味を語る時間も貴重だが、それよりも雨川に会うのが目的になっていって。
春香が話をするとき、目を細めてゆっくりと先を促すその仕草を近くで見たくて。
好きになるのに時間はかからなかった。
「雨川先輩は、きっと覚えてないけど」
二学年も上だった雨川との日々は、雨川の卒業という形で一度終わりを迎えた。
真昼と出会ったのはこのすぐ後くらいだっただろうか。
「こんなことになるなら、もっと早く言えば良かったな……」
私があの時の朝香だって。
一定の好意を男性に寄せられるくらい綺麗になれたのも、あなたのために努力したんだって。
言えない理由はあった。
朝香は雨川を追ってこの街の近くで就職することにした。
朝香は雨川の近くにいたいという理由だけで、このマンションを選んだ。
毎朝彼の姿を見ると元気になれた。
近くにいるというだけで、満足するようになってしまっていた。
いずれ話そうと思ったまま時は流れ、いつの間にか朝香自身が雨川のストーカーのようになってしまっていた。
あの雨の日、自分と宮田を追っていたのが雨川だと知って、朝香の中で小さく暖かい何かが生まれた。
ストーカーに対する恐怖が薄れ、別のものに書き換わった気がした。
それは決して表に出してはいけないような、仄暗い感情だった。
何の因果か彼と関りを持つようになり、会社で会った時はずっと興奮していた。
実際に話しかけられた時なんて、秘めていた様々な感情が混ざり合い腰が抜けてしまったほどだ。
「真昼ちゃんは、一体どこで先輩と出会ったのかな」
雨川と真昼の距離感は、会ってすぐという雰囲気では絶対になかった。
あとで説明すると真昼に言われた気もするが、結局あんなことになってしまって聞けずじまいだ。
「はあ……」
雨川のこと、真昼のこと。
思い出すと胸の内から悲しく寂しい気持ちがせり上がってくる。
滲み出た涙を拭っていると、下の道路で車のクラクションが鳴り響いた。
その音で現実に戻された朝香は、いつまでも感傷に浸ってられないと部屋に入るためカードキーを取り出した。
そのタイミングで誰かが同じ階でエレベーターから降りた音がした。
何気なく朝香が背後を振り向くと、そこには先ほどエントランスで作業をしていた引っ越し業者の人が一人立っていた。
帽子を目深に被り、その場から動くことなくただこちらの方を見ていた。
ふいっと視線を逸らした朝香は、素早く扉を開錠する。
なにか嫌な予感がした。
本能的なものだろうか。
それともただ神経質になっているだけなのだろうか。
隣の部屋への引っ越し作業ということであれば、朝香がいた方の通路を見ていた理由も分かる。
そう考える方が自然だ。
「――っ」
足音が聞こえた。
最初はゆっくりと、それから段々早く。
もう後ろを見るのは怖かった。
急いで扉を開けて、体を滑り込ませた。
気が急いて買い物袋が一度引っ掛かった。
強引に中に引き寄せた。
「……痛ぅ、ひどいなぁ」
直感は正しかった。
瞬時に扉を閉めようとしたものの、足が挟み込まれていた。
そのまま空いた隙間から扉に手をかけられ、少しずつ開けられていく。
「あ――」
相手の身体の半分ほどが扉の内側に入った時には、朝香は力比べを諦め恐怖によりその場で尻もちをついていた。
「なんで、あなたが……」
「何を怖がっているの? もう大丈夫だからね」
何を言っているのか分からない。
尻もちをついて震えてしまった体は後退ることしかできなかった。
「先輩……」
じゃあなんであの人は捕まったのか。
あれで終わりではなかったのか。
「雨川先輩……」
すでに身体のほとんどが玄関の中に入り、目の前の唇が醜く歪んだ。
その狂気の宿った目で朝香は見下ろされる。
「助けて――」
朝香は震える口で精いっぱい助けを求めた。
その声はひどく小さく、とても外に聞こえるようなものではなかったが。
「助けて、雨川先輩!」
迫りくるその人物の肩を、誰かの手が掴んだのが見えた。
その手は侵入者を勢いよく後ろへ引っ張ったかと思うと、扉は閉まる。
朝香を一人残して、玄関には静寂が訪れた。
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